雪深いワーケーション先で、お酒を酌み交わしながら漏れ出た「私、お墓に入りたくないんです」という一言。非日常の中で生まれたその小さな違和感は、いつしか数千人を巻き込み、社会の“普通”を問い直す巨大な社会実験「Deathフェス」へと姿を変えた。
非営利型株式会社Polarisを創業し、ケアとワークの新しい関係性を探求してきた著者は、なぜ今「死」というテーマにたどり着いたのか。
本連載では、タブー視されがちな「死」を入り口に、私たちが無意識に受け入れてきた「当たり前」との摩擦や揺らぎ、そして人生の有限性を直視する中から見えてきた「成熟した〈選択〉」のあり方を、自身のキャリアや活動の軌跡とともにたどっていく。

第7回(最終回):私たちの人生は、いつか必ず終わるけれど。

この連載「Deathフェス――死をひらき未来を照らす社会実験」も、今回で最終回を迎える。私はここまで、Deathフェスという場で何が起きたかを、現場のレポートとして書いてきた。けれど最終回で書きたいのは、その続きではない。

また、前回の終わりに私は、 「多くの人にとって、死は選べないものだ。それでも、死とどう向き合い、何を選び、何を選ばないかは、私たち一人ひとりに委ねられている。次回は、その選べなさの中で、私たちに何が選べるのか、という話をしたいと思う」 と予告をした。

けれど、いざ書こうとしたら、もっと手前のことを丁寧に、この場で読者のみなさんと一緒に考えてみたいという気持ちがわいてきた。予定を変えて、この最終回では、「終わり」というものについて、書いていきたいと思う。

前回の予告に縛られず、今ここに生じている自身の揺らぎや変化をそのまま開示すること。

それは、私がこれまでの活動やキャリアの中で最も大切にしてきた、そして連載の第4回でも触れた「思考停止の納得」を拒み、内なる違和感や揺らぎを「兆し」としてキャッチしようとする姿勢そのものでもある。予定通りにしっかりこなすことよりも、いま自分の胸の内にある「本当にそれでいいの?」という声に正直でありたい。その揺らぎごと、この最終章を読んでくれるあなたへの信頼として、ここに差し出したいと思う。

「終活」という新たなプレッシャー

日本で亡くなる人の数は、増え続けている。1990年に82万人だったのが、2024年には160万5298人。この30年ほどで、倍近くになった。しかも2025年の死亡数は、国の将来推計を7万人以上上回っていて、多死社会は見立てよりも5年ほど早く進んでいる。火葬場が足りない、という現実的な課題も、すでに生まれ始めているという。(出典:厚生労働省『人口動態統計』、日本経済新聞2026年7月2日)

そうした流れの中で、世の中にはすっかり「終活」という言葉が定着した。

遺言や相続、お墓、あるいは旅立ちの衣装や演出までを、「残された人たちが困らないように、しっかり選択して準備すること」が良しとされる空気がある。さらには、「自分らしさ」もプラスして、後悔のないように人生のエンディングをプロデュースすることが、現代の成熟した大人の「正しい選択」であるかのように語られる場面も見受けられる。

しかし、私はそこに、小さな引っかかりを感じてしまうのだ。 「自分で能動的に選ぶ」ことが良しとされ、できないことが問題であるかのような風潮。焦り、煽り、そして、無言の圧力となっていく構造。これは、かつて私が子育て支援の現場で感じていた、「望ましい妻」や「あるべき母」という、誰が作ったかもわからない像に近づこうとして消耗していた女性たちの姿に重なる話でもある。

もちろん、終活や手続きとしての準備は必要だ。Deathフェスでも、みんなが安心して最期まで過ごすために必要な情報は提供したいし、考える機会も設けている。

だけど、死さえも、完璧にプロデュースして選び取らねばならないという、新たな「普通」の物語に、私たちはまたしても回収され、縛られてしまうのは本末転倒だ。そうした手続き的な項目をいくらスマートに埋めていったとしても、私たちの奥底にある、死への漠然とした恐れや、大切な人と言葉にしきれずにいる関係性の問いが埋まることはない。

本当に必要なのは、スマートに「選ぶ技術」を磨くことではなく、その手前にある「いつか終わる」という厳然たる、コントロールできない事実を、ただそのまま受け入れる力なのではないかと思うのだ。

死を遠ざけることで守ってきたもの

そもそも、私たちがこれまで死を暮らしの隅へと遠ざけてきたのは、単なる「タブー視による思考停止の結果」だったのだろうか?  私は、そうは思わない。 日本語には、死を直接口にすることを避け、相手を慮るために「旅立つ」「他界する」といった婉曲的な言い換えが多く存在している。

その場の平穏を守り、誰かを傷つけまいとする配慮。 そこには、死という重すぎる現実から日常の安定した暮らしを守るための、私たち日本人の、優しくて静かな「沈黙の知恵」があったのだと思う。

そこには、私たち日本人の感性も影響しているのかもしれない。私たちは暮らしの中でゆるやかに、神様仏様、八百万の神様のような存在を敬い、自然への畏敬の念を感じることができるという感性を持っている。言葉にすることで不吉な現実を引き寄せてしまうのではないかという「言霊」への恐れも、そういった感性によるものではないか。「死について話すなんて、縁起でもない」ということは、よく耳にするだろう。

沈黙することで、守ってきた文化や日常がある。 しかし、死の周辺についていえば、家庭内で自然と引き継がれてきた作法や地域のつながりは、核家族化などの影響を受けて失われつつある。暮らしから死の気配は完全に消え、私たちは死に触れる作法を失ってしまっているのだ。

そういった流れの中で今度は、「スマートに、きちんと選んで、自分で準備する」ことが求められてきているのだ。だけど、私たちは、そんなにテキパキと、自分の意志で死を選び取ることなんてできるのだろうか。

「選ぶ」と「選べない」のあいだで

Deathフェスの準備のさなか、あるカツギテのご家族が、突然倒れるという出来事があった。 幸いにしてその後持ち直されたのだが、「死を語るイベントに夢中になっていたから、こういうことを呼び込んでしまったのではないか……」という恐れを言葉にしていたと聞き、私は胸が締め付けられるようだった。

誠実に役割に向き合い、活動しているのに「死を呼び込む」ことなんて絶対ないし、むしろ、そうしていたからこそ、救われたんだよ!なんて思ったりもしたけれど、それこそが、人間がずっと抱えてきた、死という圧倒的な存在への「恐れ」の姿そのものなのだろう。

一般的には、重い話題で、周囲に心配や負担をかけないように気丈に振る舞うべきとされる話かもしれない。けれど、この場は、そうしなくていい場だ。不吉とされる死や、自分が抱えている恐れや戸惑いについても言葉にできる、受け止めあえる場なのだ。だからこそ、そのメンバーは遠慮なく、不安を仲間の前で口にすることができたのだろうし、 みんなも「大丈夫だった?」「安心して任せてくれていいけど、顔が見られてほっとしたよ」などと声をかけ、あたたかく包み込んだ。

当初予定していたシフトから外れざるを得なかった。けれど、完全にこの場所から離れて孤独になるのではなく、途中でちょっとだけ会場に戻ってきて、仲間と他愛のない会話を交わし、気を紛らわせたりしていた。

私は、この光景の中に、私たちが目指す「場」の姿を見た気がする。

自分の最期や大切な人の死を、完璧にコントロールして「能動的」に選ぶのでもない。 かといって、どうせ選べないからと諦めて、「受動的」になるのでもない。

「いつか終わる」という、どうしようもなく大きな「予感」の中に身を置き、揺らぎ、ときに立ち止まる。その揺らぎのなかに居合わせ、「今、怖いんだ」と語る仲間を受け止め、「そうなんだね」と温かく見守る。選ぶ、選ばない、という二者択一の枠組みの、もっと手前にあるもの。 言葉にできない不安や恐れを、一人で抱え込まずに、不器用なまま分かち合い、共に佇むこと。 それこそが、私たちがDeathフェスという社会実験を通じて、社会に取り戻したかった「私たちの死生観の風景」だったように思うのだ。

終わりとは、プツンと切れてしまうものではない

では、私たちがそれほどまでに恐れる人生の「終わり」とは、一体何なのだろう。私たちは、人生がそこでプツンと途切れて、自分が消滅してしまうように思うからこそ、死を怖いと感じてしまうのかもしれない。

しかし、Deathフェスの現場や、これまでの連載で出会ってきたたくさんのエピソードは、別の見方を教えてくれる。

例えば、Deathフェス2026のオープニングアクト。アーティストの飯泉あやめさんによるパフォーマンス『祈りは、通過する。』は、明確な「はじまり」も「終わり」もない、なだらかに流れるプロセスだった。私たちはただただ、彼女の表現を通して、時がつみ重ね、紡いでいくものを、じっと見守っていた。いつからか始まり、そして終わっていく。

人生の終わりもまた同じように、なだらかなプロセスなのではないか? ある瞬間でプツンと切れて終わるものではなく、何かが始まり、終わり、別のものへと移り変わっていく、大いなるプロセスなのだという感覚を得た。

Deathフェス2026オープニングアクト『祈りは、通過する。』より。静かにパフォーマンスを見守る参加者たち(2026年4月11日)

他にも、連載の第2回で書いた、私の母「あーちゃん」の藤色のワンピースのエピソードがある。 母と、いつか旅立つ日の装いについて話していたとき、「せっかく長年洋裁をしてきたのだから、自分のエンディングドレスを作ったら?」と私が何気なく提案したとき、隣にいた娘が「あーちゃんといえば、藤色のあのワンピースじゃない? ハワイで着ていたやつ」と言い、息子が「たしかにー」と続いた。「やっぱりあれかなあ」と、3世代がワイワイと、最期の装いについて話せるなんて、なかなかないだろう。

大切な人の最期の日の話なのに、その場に流れていたのは、不安や恐れではなく、むしろあたたかで少しユーモラスな空気だった。

私たち家族の楽しかった記憶の中で「あーちゃん」は、藤色のワンピースを着ている。あの景色が、心の中にしっかりと思い浮かべられているのだ。

「人は二度死ぬ」という言葉がある。 一度目は、医学的・肉体的な終わりを迎えるとき。そして二度目は、家族や友人など、その人を知る人たちの記憶から、その存在が完全に消え去ってしまったときだという。

肉体がこの世界から消滅したとしても、その人が遺した習慣、何気なくかけてくれた言葉、記憶に焼きついている声や表情は、誰かの中でずっと生き続ける。 ハワイのあの楽しかった思い出とともに、母のまとう藤色は、私たちのこれからの人生にも、確かに連れていくことができるのだ。

Deathフェス2026の体験ブース「AWAI―コトノハ」では、この「肉体の終わり」と「関係性の無限さ」のあわいが、言葉ではなく身体的な手触りとして、来場者の方たちに体験されていた。

 一人用のウェルネス・瞑想体験ボックス「AWAI」の中に置かれた、どこにもつながらない黒電話。 そこに座った来場者たちが、受話器を耳に当て、今はもう届くはずのない大切な人に向かって、そっと話しかける。 「おじいちゃん、久しぶり」「あのね、私は今……」 声に出すことで、あるいは沈黙の中で、誰かに伝えたいわけではないけれど、自分一人ではどうしても抱えきれなかった想いが、その「つながらない電話」を通して放たれていく。

それは、客観的な事実としては「届くことのない声」だ。けれど、受話器を置いて部屋から出てきた来場者たちは、「確かに、なんかつながっている気がした」と、穏やかな表情で話してくれた。 生者と死者の境界線、有限と無限の境界線は、私たちが頭の中で線を引いているほど、明確に切り分けられるものではない。そのあわいの中で、私たちは今も、そしてこれからも、いなくなった大切な人と繋がり直しながら、共に生きていくことができる。

「AWAI-コトノハ」のブース内。つながらない電話と、ノートを設置。届かない言葉を放つ場として運営。

「脇が甘い」からこそ、残される余白とバトン

「お墓に入りたくない」。 長野県飯綱町の、しんしんと雪が降る夜、お酒を酌み交わしながらオノリナ(共同代表の小野梨奈)が漏らしたその小さな、極めて個人的な違和感から、すべては始まった。 もしあのとき、私たちが「お墓とはこういうものだから」と、既存の物語に思考停止の納得をしていたら、渋谷に5,000人以上が集うDeathフェスという社会実験が生まれることは、決してなかっただろう。

完璧な答えや、導入までの緻密な計画があったわけではない。ただ、「選択肢がないなら、自分たちの手で創ればいい」という、根拠のないワクワク感と、詰め切らない脇の甘さを抱えて、私たちは走り出した。

私のこれまでの人生と活動を支えてきた最大の動力は、この「脇の甘さ」と言っても過言ではない。

脇が甘いからこそ、他者の意見が入り込む余白があり、そこにかかわりしろが生まれるのだ。

子育て支援のNPO「amigo」の活動に私が巻き込まれていったとき、当時の私はIT企業で「システム化や効率化があたりまえ」の世界にいたため、スタッフ手書きのファックス送り状や、更新されないホームページ、手書きのノートだけの参加者名簿に、少々イラついたりもしていた。「なんてアナログなんだろ……!」と。 けれど、その「足りてなさ」と「脇の甘さ」があったからこそ、私はうずうずとしてしまい「パソコン使えるので手伝いますよ」と声をかけてしまい、うまいこと巻き込まれていったのだ。思ってもいなかった一歩を踏み出し、想像もしてなかった居場所と出番が得られてしまった。

もしamigoが、最初から完璧にシステム化されたスマートな組織であったなら、私は単なる「便利で快適なサービスの受け手」として関わり、そこを消費して通り過ぎていっただろう。 (後になって、実はあれは意図でありデザインであると知る。生身の人としてかかわることが苦手なお母さんたちを巻き込み、かかわりしろうみだすための脇の甘さだったのだ。そして、その衝撃が、私を20年以上この界隈につなぎとめている。)

足りないからこそ、引き寄せ、関わりあう中で、愛着や誇りがはぐくまれる。「私たちの場」となっていく。それぞれの経験や得意なことを、さらりと持ち寄って、共に場を編み上げていく。

父から手渡されていたもの

人生の終わりも、同じことが言えるのではないだろうか。

自分の死や最期を、完璧に能動的にコントロールし、後悔を1ミリも残さないようにスマートに選び切る。それも美しい生き様であろう。

けれど、すべてを完璧にデザインして「私のエンディングプランはこれですから、この通りに実行してください」と残された人に差し出すことは、実は、大切な人たちの「かかわりしろ」を、奪い去ってしまうことにはならないだろうか。

私の父が、ある日突然、前触れもなく旅立ってしまったあの日。 同居していた母が気づいたときには、父はすでに息を引き取っていた。日本では、自宅で亡くなっていることを発見すると「不審死」となり、警察事案となる。パトカーと救急車が来て、救急隊員による延命措置と、警察官による状況確認があわただしくとり行われる。急な知らせに飛んできた孫たちも、家の外の物々しさに驚き、近づくことができない。

警察署に移送され、検視を受けることになった父は、もう家に戻ってくることはできなかった。 「明朝までに葬儀社を決めて、お迎えに来てください」と言われ、何の準備もしていなかった私たち家族は、夜中に手探りで葬儀社を探し、なんとか手はずを整えた。

特に病気だったわけでもなく、いわゆる終活をしていなかった父。まさかそんなに早く、突然お別れの日が来るなんて思ってもいなかった私たち家族。当然のように、大混乱した。あの5日間は、ドタバタで、不器用な時間だった。

 けれど、Deathフェスの企画をする中で、私たち家族は、死についてオープンな姿勢を持っていた。混乱の中にあっても、私たちの人生は、いつか必ず終わるという、忘れがちな大前提を共有できていたから、共にいることができた。

「お父さんなら、きっとこう言うよね」「あの人だからこれは嫌がるはず」と、父と過ごした時間を思い返しながら、76年の人生や価値観に自然と寄り添うことができたと思う。

もし、父が一人ですべて手配し、完璧な指示書を残して旅立っていたなら、私たちはそれを実現することで精一杯になっていただろうし、しっかり役割をこなさなくてはと気丈にふるまっていたかもしれない。でも、なにもなかったおかげで、私たちは、一つ一つ手順を確認し、父の思いを探りながら、父とお別れをした。

きっと今頃、自分が一番びっくりしているかもしれないね、お父さんらしいね、なんて笑いながら。

具体的な指示ではなかったけれど、父から渡されていたものは、確実にそこにあった。

私は「しっかり備えよう」「後悔をなくそう」とはあまり思っていない。

完璧な終わりを目指さなくていい。ちょっと脇が甘く、未完のままで、思い通りにいかない後悔や割り切れなさを抱えたまま終わったとしても、残された人たちに「あの人は本当に最後まで不器用だったね」と笑い合い、語り合える余白ができるということを知っているからだ。

 死という、究極の「選べなさ」を前にしたとき、私たちは選ぼうとする気力を失ってしまうかもしれない。でも、すべてを自分でコントロールすることに躍起にならず、信頼する誰かに、その脇の甘さごと「委ねて、託す」ことができたら、それはそれでアリだ。

以前、「自分の終わりをコントロールしすぎることにつながるなら、死のことを考えすぎない方がいい」という話を聞いて、なるほどと思ったことがある。けれど、それ以上に納得したのは、大阪で聞いたこんな言葉だった。

「エンディングノートの最後に、『ま、知らんけど』って書いておけばいいのよ」

これには、心底うなずいてしまった。あれだけ考えて、書いて、伝えて、その最後に「ま、知らんけど」と付け加えられること。それが、「委ねて、託す」ということの、いちばんカジュアルで、いちばん的確な言い方なのだと思う。

今ここにある日常の愛おしさを味わい、不完全なままのバトンをただそこに、ポンとおいていくことも、1つの選択だろう。

10年、そしてその先への「静かな革命」

Deathフェスを立ち上げるとき、私たちは最初から「まずは10年かけてやっていこう」と決めていた。死生観という、社会の最も奥深くにある、暮らしのOSのようなものをアップデートするには、それくらいの時間軸が絶対に必要だと確信していたからだ。

3年前となる初年度、渋谷ヒカリエの会場で感じた「想像をこえて、想像通り」のあの景色を見たときに感じた感覚と、3年目を終えた今、私の中にある感覚は、少し違っている。

 これまでの3年間は、頭の中にある妄想や生煮えのアイデアを、なんとか場として立ち上げるフェーズだった。 しかし今、目の前で起きているのは、単なるイベントの継続ではない。多様な立場の人たちや、カツギテとして自発的に集まってくれた仲間たちによるリアルな世界での「共創」だ。 

脳内の妄想段階を超え、現実世界の中で、持ち寄られたピースが組みあがり、具現化していくフェーズに入ったという手ごたえを感じている。

3年間の社会実験が社会にもたらした最大の成果は、のべ10,000人を超える来場者数や、沢山の取材といった数字だけではない。 私たちの個人的な妄想から始まった生煮えの問いが、様々な業界や領域と「接続する」ことで、社会の仕組みそのものをリデザインする触媒となり始めていること、それこそが真の成果なのだ。

早稲田大学で開催された国際的な学会「IAPDD(死と死にゆくことの哲学のための国際学会) 2026」において、Deathフェスが「Public Thanatology(公共的死生学)」や「Practical Death Literacy(実践的デス・リテラシー)」の具現化プロセスとして発表する機会を得た。沢山の応募の中から、選ばれての発表だ。一過性の市民イベントを超えた学術的・社会的な意義を検討し始めたことも、大きな一歩である。

英語でのプレゼンテーションを終えて。(左は一般社団法人デスフェス理事 浦出美緒)

Deathフェス2026が終わってから、お問い合わせの数が飛躍的に増えた。

「ACP(アドバンス・ケア・プランニング)を地域に広げたいので、一緒にやれないか」という自治体。「よく生きる(well-being)だけでなく、よく死ぬ(well-dying)ことも併せて考えたい」という医療の現場。「生涯の安心の中に、きちんと死も含めていきたい」という保険業界。「生きているうちからの接点をつくり、亡くなったあとも続く関係性を、新しい出会い方から一緒に考えてほしい」という、宗教施設や葬送、霊園の事業者。ヘルステックの中に「デステック」をどう接続するか、という相談まで来るようになった。

立場も業種もばらばらで、抱えている事情もそれぞれに違う。それでも、どの声の底にも、同じ願いが流れているように感じた。死を生から切り離さず、生きているうちからもっと触れられるようにしたいという願いだ。

死というテーマを前にすると、行政も医療も、どうしても活動が狭く、硬くなってしまう。Deathフェスのポップでオープンなあり方が、その硬さに風を通せるかもしれない——そう期待してもらえるようになったのだと思う。

これらの問い合わせは、連綿と続いてきた生と死の現場が、現代の感性に寄り添い、変化しようとし始めている、静かな胎動そのものである。

これらは決して、誰か一人のカリスマが作ったものではない。 死という、あまりにフラットで、誰もが当事者であるテーマを前に、それぞれの想いやリソース、そして問いを「持ち寄る」ことで生まれた、私たちの力だ。

この社会のOSのアップデートを、10年という時間軸の中でどうデザインし、追いかけていくべきか。 事業を推進するメンバーとともに、Deathフェス2026の企画で忙殺される前に、「Deathフェスを続けていくことで何をしたいのか」ということに立ち返る機会を持ち、その中で私は「 社会にどんな変化を起こしたいか」を解きほぐすための、問いをいくつか設定した。

(Deathフェス2026企画会議資料より)

起きてほしい変化が起きた後の日常を想像する

私はこんな会話を思い描いてみた。

「なんだろうね? きっとすごく悲しいのは変わらないんだろうけど、ただ悲しいだけじゃないような感じかなあ」「今だとまだ、そもそもそんな重い話なかなかしにくいよね? でもDeathフェスとかにいくと、遠慮なく重い話できる空気があるよね」「亡くなった人ともつながっているっていう実感があるとか、存在が感じられてる安心感があるとか?」「『こんなお葬式やったんだー』『へえーー! 行きたかったなあ』とか?」「普通こんな話しないもんねw」

普通は、しない。でも、それが普通(あたりまえ)になる世界。

これは、現時点で誰かが語ったリアルな言葉ではない。私の、私たちの、まだ見ぬ未来の「妄想」にすぎない。 けれど、いざ未来に向かって歩き出すとき、このくらい具体的で体温が感じられるようなレベルまで未来の解像度を高めることができれば、私たちは「答えのない不確実さ」を抱えながらも、その先へと迷わずに進んでいくことができるはずだ。

「死がタブー視されなくなった社会」を一足先に見せられる場。それこそが、Deathフェスなのだと思う。 そこにあるのは、言葉による説得や、手続きとしての理解ではない。

 いつか訪れる未来への「予感」であり、他者や故人との関係性を手元に取り戻す「実感」であり、肌で感じる生と死のあわいの「体感」そのものなのだ。

その景色は、一足飛びにはやってこない。 けれど、この3年間でのべ10,000人を超える人たちが場をカツギ、訪れ、揺らぎながらも持ち寄ってくれた「予感、実感、体感」の積み重ねは、ひたひたと、確実に私たちの日常を動かし始めている。

それは、大声で叫んで制度をひっくり返すような、分かりやすい革命ではない。 一人ひとりが棺桶に入ってみる。 届かない黒電話を握って、そっと話しかけてみる。Deathスナックの隣の席で出会った見知らぬ誰かと、ぽつりぽつりと生と死について話してみる。

それら、小さく、静かで、不完全な語り合いの積み重ねが、社会の景色を変えていくはずだ。

かつて、各地の母親たちが始めた、本当にささやかな「自分たちのための居場所」が、10年、20年の歳月をかけて、制度化され、子育てひろばとして広がった。当事者たちが願った「こうなったらいいのにね」という妄想が、様々な人が関わりあうことで形になり、国のインフラや社会のあたりまえになっていくのを、私はあの、世田谷の子育て支援の現場で見てきたのだ。

 だからこそ、私は確信している。私たちの小さな妄想から始まったこの社会実験の先には、死をタブーとせず、あたりまえに暮らしの中に死が、そして生がある風景が見えてくることを。

私たちの人生は、いつか必ず終わる。死は選べない。 けれど、その「選べなさ」という大いなるプロセスの中に身を置きながら、私たちは、揺らぎ、話し、託し、分かち合うことを、今ここから選ぶことができる。

まずは、近くにいる誰かと、あなたの「脇の甘い、愛おしき生と死の物語」を、少しだけ話してみることから始めてみませんか ?

どこかで、私もそのお話に加われたらうれしいです。

(連載「Deathフェス――死をひらき未来を照らす社会実験」了)

※ご愛読いただき、誠にありがとうございました。 本連載は加筆修正の上、書き下ろしを加えて、弊社より2026年春頃、書籍として刊行する予定です。どうぞご期待ください。


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第7回(最終回):私たちの人生は、いつか必ず終わるけれど。

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