作品や資料を静かに鑑賞する場所から、社会とつながる対話の場へ――。いま、ミュージアムの果たすべき役割が世界的な転換期を迎えています。気候変動や多様性の尊重といった地球規模・地域社会の課題に対し、展示やワークショップなどの活動を通じて問いを投げかける動きが加速し、市民を企画や対話に巻き込む「市民参加・協働型」の試みも広がっています。
資料を収集・保存し、知識を一方向的に提供する場所から、人々と共に未来を耕す「動的なハブ」へ。本連載では、社会課題に向き合い、地域と共に変容し続けるミュージアムの最前線とその可能性について、新進気鋭の研究者が掘り下げます。

第1話 越境のはじまり:連載のバックストーリー

越境するミュージアムと研究

 私は、大阪市立自然史博物館に外来研究員としての籍を置かせてもらい、普段は専門学校から大学院までの非常勤講師として仕事をしている研究者だ。学校の授業では、学芸員資格課程や社会教育主事養成課程の科目を主に担当している。専門は「博物館研究/博物館学(Museum Studies/ Museology)」という。「博物学」と間違われることもしばしばで、初めて聞く方が多いだろう。平たく言うと、ミュージアムという存在、仕組み、その活動を成り立たせる思想、活動に関わる人たちを研究対象にしている。

 研究の一端について具体的に知っていただくため、複数の例を紹介したい。読者のなかには混雑する展覧会を訪れて、お目当ての展示を見るのにひと苦労したことのある方がいらっしゃるかもしれない。そのような経験とも関連するのが、来館者が鑑賞する際の姿勢から「博物館疲労」の存在を明らかにした研究である。1910年代の研究ではあるが、展示の見やすさをテーマとする研究は現代にも引き継がれている。その他にも、最近では、ミュージアムの展示室で静寂が求められるのはなぜなのかを問う研究などもみられる。

 例に挙げた研究から推測していただけるかもしれないが、研究の先には具体的実践が視野に入ってくる。言い換えるならば、実践の「ための」学といってもいいだろう。だからこそ、誰に研究の成果を届けたいのかを意識しながら研究をすることが求められる。私の研究歴をふりかえっても、近年は自らが仕事で関わってきた実践――博物館での福祉的実践やハンセン病問題に対する「自分ごと」化など――を研究課題とすることが多い。

 博物館研究の特徴は、複数の専門領域を横断した視点、研究手法を用いることがある点だ。そのため、私も研究課題に応じて、教育学、哲学、心理学、社会学などを越境しながら研究に取り組んでいる。連載タイトルを「越境論」とした理由もここにある。ここまで書いてはみたものの、やはりイメージしづらい学問に違いないだろう。連載では、できるだけ研究の裏側をかみ砕いてお伝えしていく。

 「越境論」というタイトルをつけた理由は、もうひとつある。それは、ミュージアム自体が「越境」(境界を越える/超えること)を促す可能性をもっているからである。ここでいう境界とは、個人の価値観、役割、年齢、専門分野、国籍などを思い浮かべていただきたい。境界は、時としてそれぞれがもつ差異が原因となり、分断や衝突をもたらすこともある。他方で、相互の違いを認識しながらも、越境しながら共生していく道を探ろうとする選択もある。後者の道を選ぶために、ミュージアムに何ができるのだろうか。連載のなかでは私が経験した実践を含め、越境を促す具体的な活動を紹介してみたい。

 初回は遠回りになるかもしれないが、私がなぜ越境しながらミュージアムを研究するにいたったのか、その前史を綴ることで連載の幕開けとしたい。

 なお、連載でミュージアムという表記を用いるのは、その範囲を広くイメージして欲しいためである。法律(博物館法)の規定では、美術館や動物園、水族館が「博物館」に含まれることは一般に知られていない。ただし、「博物館実習」といったカリキュラム上で定められた用語などに関しては「博物館」の語を用いることにする。

都入りからの「落城」 

 東京で生まれ育った私がわざわざ京都にある大学に入ったのは、幼いころからの歴史好きが高じたものだった。日本史を専攻するならば、歴史的遺産がある土地に身を置きたいという単純明快な理由だ。「都入りだ」と意気盛んに入学してから気づいたのは、周りの同級生は想像以上に歴史研究/歴史学者について豊富な知識を持っていることだった。当時の私は著名な歴史学者の名前や研究テーマを挙げられても、初めて聞くことばかりだった。もし歴史学の研究者になりたいのであれば、彼/彼女たちを超えなければいけない。既に1回生で自分の進路希望が浅はかな考えであったという現実を受け入れざるを得ない状況に陥った。

 こうなると、自分の揺るぎないと思っていた選択にも迷いが生じ始めた。私は本当に歴史学を専門に研究したかったのだろうか。盆地特有の湿度が高く、体にまとわりつくような暑さにうなされながら、自分の進路を思案することになった。そこで思い出したのは、京都の大学への進学を考えるようになったきっかけだった。

 歴史本を読むだけでは飽き足らなくなっていた小学5年生の夏休み、私は家族旅行で古代の史跡が数多く残る奈良県明日香村を歩き回っていた。道中、村民だという男性から声をかけられた。私が歴史好きであることを知ったその人は、村内の史跡を嬉しそうに案内してくれた。小学校に歴史好きの友だちはおらず、ましてやその魅力を語り合える人は身近にいなかった。それだけに、明日香村での出会いは私に大きな影響を与えた。B5サイズのノートに綴った明日香村探検記録は、夏休みの自由研究になった。それを読んだ担任の先生は新聞への投稿を勧めてくれ、幸運にも掲載されることになった。

江戸川乱歩の「少年探偵団」シリーズと邪馬台国論争に夢中になっていた小学生時代(筆者提供)

 ここまではよくある小さな成功体験だが、思い返して気になったのは、私の知的好奇心をかきたててくれたのが歴史に詳しい一般市民であったことだ。大抵の歴史好きは著名な研究者の著作やマスメディアの映像などを見て、あこがれや探究心を抱くのではないだろうか。しかし、私は違った。そして、案内をしてくれた人が楽しそうに私の話に耳を傾け、一緒に史跡を巡ってくれたのは、なぜだったのだろうか。

石舞台古墳(奈良県明日香村)  stock.adobe.com

 疑問は解けないままだったが、大学生活の大半は文化と社会の結節点になりそうな場所を探すことに費やした。私が大学生であった時期はインターンシップ導入の草創期であり、その恩恵を受けた一人でもある。文化行政に関わる文部科学省、京都府内の自治体でのまちづくり、映画文化の発信を担う東映京都スタジオ(東映太秦映画村の当時の運営会社)といった学外でのインターンシップは、自分が何を学ぶ必要があるのかを少なからず教えてくれた。同時に、学校以外の世界を覗くことができた経験は、ひとつの領域を垂直的に極める道以外にも、領域を横断しながら大局観を持って課題に取り組む道があることも示してくれた。

 ただし、卒業後の進路を決めなければならない4回生になっても、一向に進展はなかった。就職氷河期で就職活動に苦労する同級生を横目に、就活サイトに登録もせず、かといって進学に向けたアクションも起こせない。私の前にも後にも道があるようには思えなくなっていた。

ミュージアム・ボランティアとの邂逅

 どうにもならない焦りを解消できないまま、夏休みを迎え、学芸員資格を取るために必修となるミュージアムでの館務実習に臨むことになった。思いがけないことに、この実習が私の進路を決める分岐点となった。

 館務実習の期間は各館によって異なるが、資料の取扱いや展示企画実習といった学芸員としての実務を身をもって知ることができる。もちろん学芸員の仕事は魅力的だったが、実習期間中、最も印象に残ったのがボランティアの人たちによる活動だった。実習館では、日本語のみならず多言語での展示解説をするボランティアの人たちが活躍をしていた。実際に活動をしている人たちの語りは、生き生きとしたものであり、懐かしい感覚を呼び起こしてくれた。懐かしいと感じたのは、明日香村での出会いを思い起こさせたからだ。ボランティアをし始めた人のなかには、先輩の展示解説に憧れを抱いたのが参加動機だと話してくれた人もいた。一方で、ボランティア活動を担当する学芸員からは、運営にかかる課題があることも率直に話していただいた。

 館務実習を終えた私は、ようやく自分が何を研究したいのかが見つかっていた。大学院でミュージアム・ボランティアを対象にした研究をすることにしたのだ。なぜ専門家ではない一般市民が知的好奇心を持って学び続けるのか。その鍵を解く手がかりがあるのではないかと直感した。小さな問いがいくつも生まれた。ボランティア活動の担い手はどのような動機を持っているのか。ボランティアを受け入れるミュージアムはどのような目的から、その活動を位置づけているのか。

 研究課題の次は、進学先を決めなければいけない。しかし、在籍する大学には自分の研究テーマでの指導を受け入れてもらえそうな先生は見つからなかった。そこで、文化経営や文化政策、市民活動論といった複数の専門領域を学べる大学院を探すなかで目に入ったのが、立教大学の21世紀社会デザイン研究科(現 社会デザイン研究科)だった。大学院で専門を変えることに若干の不安はあったが、幸いなことに無事入学をすることができた。

 ところで、私が入学したのは、学部に属さない設立2年目の独立研究科だった。社会人大学院生が多く、明確な目的やキャリア設計を持って学びたい人たちの熱量にあてられるような毎日だった。しかし、元来の「我が道を行くしかない」気質の私は「わからないことを知りたい」一心で授業を受け続けた。加えて、年上の同級生たちはフラットな関係性のもとに、お互いの研究を育てていくような学びの場をつくろうとする人たちであった。だからこそ、人文科学から社会科学へと専攻を変えたことによる大変さよりも、むしろ知らなかった世界を知ることができる知的刺激がまさっていた。

 大学院の授業には実務家の先生が教壇に立つこともあり、フィールドワーク先を紹介していただくことも多かった。資生堂の名誉会長であった福原義春先生もそのお一人である。当時、福原先生は東京都写真美術館の館長として、同館の経営改革に取り組んでいらっしゃった。ミュージアムの研究を志す私にとって、福原先生への質問ができる授業の休み時間は至福のときだった。企業経営者でありながら、文化の創造や研究といった営為に対して敬意を持っていることが会話の端々から感じられた。

 あるとき、私がミュージアム・ボランティアについて研究していることを話すと、「それならば、うちの館で話をきいてみたらどうですか。担当者にも連絡をしておきます」と、すぐに聞き取り調査の依頼につなげてくださった。

 余談だが、福原先生は業務に関わる連絡は担当者宛のダイレクトのFAXを送信されることで知られていた。よもや館長からの依頼を断ることはできないであろう。調査に伺ったときは恐縮するばかりであったことを、今でも思い出す。ご自身がもつものを自覚的に惜しみなく後進に与えてくださる方であった。自分の研究の一端を、福原先生に支えていただいたことは人生の宝物のひとつだ。

東京都写真美術館  Caito – stock.adobe.com

 大学院(修士課程)は学部と違い、修学期間は基本的に2年間と定められている。計画的に研究を進めなければ、たちまち修士論文の提出が差し迫ってくる。少しずつ準備は進めていたが、大学からの研究奨学金を使って、首都圏の公立館40館を対象にボランティア活動に関する実態調査(アンケート調査)をすることにした。

 当時のミュージアム・ボランティアに関する議論の大半は、ボランティアは「導入すべき/したほうが良い」ものであるという認識を前提にしていた。そこで、調査では「なぜボランティアなのか」という受け入れ以前の動機・意義を明らかにしたいという目論見があった。また、ボランティアといっても人件費削減のための労働力、生涯学習の一環、ミュージアムが提供する教育事業(サービス)……というように、ボランティア活動に関わる利害関係者によって意図することには齟齬が生じているのではないかと推測していた。

 ありがたいことに、アンケート調査の回収率は80%あり、回答していただいた内容のなかにはミュージアム・ボランティアの特性を解き明かす糸口が含まれていた。あるアンケート用紙の裏面を見ると、書かれていたのは私へのメッセージであった。

博物館にはボランティアという言葉にはとどまらない、一般市民との豊かな活動の蓄積があります。ぜひそういった活動にも目を向けてみてはいかがでしょうか。

 のちにミュージアムに勤務するようになってから再認識したことであるが、ミュージアムには日々様々なアンケート調査が送られてくる。研究を目的とした大学生や大学院生、研究者からの調査依頼に応えることは労力を伴う。アンケートに限らず、展示室で唐突に複数の大学生に声をかけられ、「貴館のミュージアム・トークの課題は何ですか?」と同じ質問を繰り返し尋ねられたこともある。授業課題として出された質問(問い)を自分で考えること無しに、答えを効率よく引き出そうとするのは禁じ手である。

 民俗学者の宮本常一は1970年代に「調査地被害」という表現を用いて、調査のあり方について問題提起をしている。宮本の著作では、何のために、なぜ調べるのか、調べた成果がどうなるかもわからないといった調査の例が挙げられている。私もいまだに自分が行う調査が「調査地被害」を引き起こしていないかは、常に気にかかる。それだけに、研究の着眼点に対するアドバイスがさりげなく書き添えられていたことは、望外の喜びであった。その後も、実践の場で活動する人たちから学んでいることは数えきれないほどある。

 次回はアンケートの裏に書かれたメッセージを手がかりに、私がどのような研究へと舵取りをしていったのかについて書き綴っていこう。

◆今回の連載と関連するオススメの本

宮本常一・安渓遊地(2008)『調査されるという迷惑ーーフィールドに出る前に読んでおく本』みずのわ出版


記事をシェアする

第1話 越境のはじまり:連載のバックストーリー

by
関連記事