雪深いワーケーション先で、お酒を酌み交わしながら漏れ出た「私、お墓に入りたくないんです」という一言。非日常の中で生まれたその小さな違和感は、いつしか数千人を巻き込み、社会の“普通”を問い直す巨大な社会実験「Deathフェス」へと姿を変えた。
非営利型株式会社Polarisを創業し、ケアとワークの新しい関係性を探求してきた著者は、なぜ今「死」というテーマにたどり着いたのか。
本連載では、タブー視されがちな「死」を入り口に、私たちが無意識に受け入れてきた「当たり前」との摩擦や揺らぎ、そして人生の有限性を直視する中から見えてきた「成熟した〈選択〉」のあり方を、自身のキャリアや活動の軌跡とともにたどっていく。

第4回:その、「普通」って、なんですか?―― 違和感を「兆し」としてキャッチし、枠の外から問いを放つ

前回の最後に、予告してしまった。「私はそもそも、なぜこういうことをしているのか。若い頃からずっとあった、『その、「普通」って、なんですか?』という問いのお話をしよう」と。

さて、どこから話そう。

「なぜこういうことを?」と聞かれることは多い。Deathフェスで出会った人から、Polarisの頃から知っている人から、もっと外側にいる人から、それぞれ少しずつ違う文脈で。一つ一つ、返答はできる。

「オノリナがお墓に入りたくないって話をして」「有機還元葬のような新しい選択肢を実現するため」「生はだいぶ自由なのに死は不自由だなと気が付いて」「死はかならず誰にでも訪れるのに遠ざけられている多死社会日本が向き合うべき課題だから」とか、色々な理由は言える。ある。

でも、もう少し深いところを見ていくと、「何でだろうね、私も知りたくてやってる」という気持ちもわいてくるのだ。何かが、私の琴線に触れ、何かが反応し、動き出した。

それは何だろう?

振り返ってみると、子どもの頃からずっと、みんながあたりまえにやっていることにちょっとずれたところに引っかかってきた感覚がある。「ふつうってなによ」という、うまく言葉にならない違和感が、ずっとそこにあった。

「何でだろう?」って思うことが多かった。そして、納得できないことは、わりと譲らなかった。特に幼い頃の私は、孤高の幼児だったのだ。

そういう「あれ?」とか「もやもや」とかいう「ひっかかり」は、本当は誰の中にもあるはず。でも私はそれをうまく「そうだね」とできずにしつこく追いかける。その性質が、今いる場所まで連れてきたように思うのだ。

今回は昔話も含めて、そんな話をしてみようと思う。

そうなんだろうな、と受け止める子どもだった

私には、1歳5か月違いの姉がいる。

母から聞いた話によると、姉はとても手のかかる子だったらしい。母が姉を産んだのは21歳になって2週間ほどの頃。まだまだ若くて、経験もなく、第一子に力が入った結果、余計にそう感じたのだとは思うけれど。だから、たった1年5ヶ月後にもう1人増えることになり、母は「またあの大変な毎日が始まるのか」とちょっぴり憂鬱に思っていたらしい。

ところが私は、いつの間にかひとりで起きて、ベビーベッドの中で、自分の足を遊び相手に機嫌よく過ごしているような子だったそうで、拍子抜けしたと言っていた。「へえ、そうなんだ。でも全然あり得るな」と思いながら聞いた話だ。ちょっと手のかかる姉にしっかりものの妹。その違いは、姉妹がそれぞれ50代になった今も、さほど変わっていない。

ある時は、姉が私に「ねえ、これなんて読むの?」とカタカナを聞いてくる。私が「ああ、それはね」と教えてあげる。学年が2つ上の姉が、妹に文字を教えてもらっている。ふつうなら奇妙な場面かもしれないけれど、姉はプライドを傷つけられた様子もなく、私も「お姉ちゃんなのに」と馬鹿にすることもなく、両親もそれをほほえましく受け止めていた。これも母から聞いたエピソードだが、「全然あり得る」と思う。

「持って生まれたものが違うだけ」という感覚を、理屈ではなく体で知ったのは、たぶんあの頃だ。できることが多いからといって、えらいわけではない。できないことがあるからといって、劣っているわけでもない。ただ、違う。

親戚の集まりで、姉が大人たちと上手にコミュニケーションをとっている声を、階段の途中に座って聞いていた記憶がある。私は大人とそうやって話すのが苦手で、その場から離れたのだ。そして、「大人はきっと、お姉ちゃんみたいな子の方が可愛いだろうなあ」と思ったりしていた。でも、だからといって姉がうらやましいとか、自分がみじめだとかいう感情はなかった。ただ、そうなんだろうな、と思っていた。

この「そうなんだろうな」という受け止め方が、その後の私の基本的なスタンスになっていったような気がする。

姉妹それぞれの個性と能力を、それぞれに扱ってくれた両親に感謝。

孤高で、ちょっと悪目立ちしていた

小学生の頃、私はたぶん、ちょっと孤高で、ちょっと悪目立ちしていた。卒業文集には「絶対私立に行くと思っていたのに同じ中学で嬉しい」とか「もっと話してみたかったな」という言葉が並んでいて、「え、私、そんな風に思われていたんだ」と初めて気が付いたりした。6年間、あだ名や愛称で呼ばれた印象もない。でも私は、そういうことに無頓着だった。だから距離ができる。

運動が好きで活発な子ではあったけれど、人とのかかわりにおいてはあまり打ち解けない、内向的な子だった。変に大人びたところもあったので、正直、あの年頃の子どもたちと無理に仲良くしたいとも思っていなかったのかもしれない。特に女子のルールが苦手だった。「休み時間に一緒にトイレに行く」「手紙を交換する」みたいなことが、楽しそうと思えなかった。「たいして仲良くもないのに、なんで好きな子を教えないといけないの?」とかも謎だった。

「一緒だね!!」的な同調圧力が嫌だったのかもしれないし、「なぜ」が腑に落ちていなかったからかもしれない。たぶん両方だったと思う。真面目に「なんで?」と聞かれたって、相手も困るだろう。そこに大した理由なんてないんだから。

ただ、男子とは結構仲よく遊んでいた。先生に「上履き入れで男子を殴りながら追いかけないように」と言われるくらいには。「内側を見せ合う」ような様式がないところでは、のびのびできたのだと思う。

昔の担任の先生には、卒業式の日、握手をしながら「あなたは怖い生徒だったわ……卒業おめでとう」と涙ながらに送り出された。当時の私は子どものくせに、「先生は私を子どもだと思ってごまかして……!」みたいな怒りをぶつけることがあったからだ。大人の「ね、そういうことだから」という圧に屈しない、そういう子だったのです。

「それは嫌だ」で初めて選択する

高校では女子バレー部に入った。中学の頃からやっていて、そこそこ戦力になっていたと思う。バレーは大好きで、きつい練習も楽しかった。でも、高校2年の春、3年生の引退に合わせて退部を選択した。

問題は、「そういうことだから」が納得できなかったからだ。伝統的にやっているルールの一つに、先輩に呼ばれたらすぐ駆け寄り、かかとを上げて立ち、「おろしていいよ」と言われたら「失礼します」と言っておろす、というものがあった。さっきまで友達とニコニコ話していた先輩が、その時は急に怖い顔、低い声になる。

全然腑に落ちなかった。今の私なら、連帯のための儀式とか先輩としての威厳を見せるとか、そういう機能があるだろうことを理解できる。「私にはそういうのしないでいいよ」なんていう先輩もいたけれど(圧倒的に上手い先輩だった)、そういうことをあたりまえにやっている先輩には、ちょっと強い言い方をされたり、ちょっと突き飛ばされたり、「もっとプレーで先輩を立てろ」とか言われる。

こういう「あたりまえにかけていい圧」は、色々な場面で、「ちょっとした理不尽」という形で顔を出すのだ。そして、それを受ける後輩側にも、私は違和感を持っていた。「これをやっておけばいい」という感覚が、どうしてもなじめなかった。

でも当時の私は、それを上手に伝えることもできなかったし、「それは嫌だ」という反発をぶつけて、せっかく「自分たちのチーム」として動けるようになるのに、退部を決意した。

一緒に頑張っていくべきタイミングで突然辞めることは波紋を呼び、裏切り者、と言われたり、才能があるのに辞めるなんて、控えの自分の気持ちがわかる?とも言われた。仲間だし、バレーも好きだし、葛藤もあった。でも、「そういうもの」に従うのは、ちょっとしたことだとしても、受け入れがたい。

朝練や放課後の練習、土日の試合などがなくなり、驚くほど毎日時間ができた。帰宅部の子で集まり、何をするでもなく、部活終わりの子たちを待つ。どうでもいい時間をすごしていく中で、私は徐々に感性が柔らかくなっていく。

葛藤の末に選択した「退部」だけど、その後の高校生活は、驚くほど楽しくなったし、今でもこの友人たちとは親しくしている。辞めることを決めるには、それ相当の理由が必要だと思いがちだけど、実はそうじゃない。「自分の中にある違和感」とか「譲れない何か」があるだけでも、十分なのかもしれない。

無敵だった私が、途中離脱を選ぶまで

高校時代に一皮むけて柔らかくなったことで、たぶん私はちょっと変われた。(のんちゃん、という愛称も手に入れた!)「彼氏」という、自分をさらけ出せる人ができたことで、観察者になりすぎず、相手に反応して感情を出せるようになってきたのだ。

今はあまり怒らない印象かもしれないけれど、20代のころの私は、もっとすぐ怒っていた。「絶対!!」と言い切ることができたし、いい意味での無知さや無自覚さもあったと思う。あの頃はなんか、無敵だった。配慮にかけていたり、視野も狭かったかもしれないけど、だからこそのピュアなパワー。そんな自分も嫌いじゃない。大切なひとつの時代だ。

なぜ「無敵」だったのか、振り返ってみると、関わる人たちがほぼ「仲のいい人」か「役割でしか関わらない人」だったからかもしれない。同じ前提や近しい価値観の中で生きていたから、変に気にすることなく「私」の感覚のままでぶつかることができた。

IT系の企業に就職して9年間、本当に楽しかった。一般職として入社したけれど、気がつけば総合職にまざってチームのリーダー的な動きをするようになっていた。立場とか役割ではなく「望美がやること」として受け止めてもらえる環境だったと思う。それは私だけでなく、派遣社員であっても、「その人」として受け止められた。多様な人が肩書きを超えてチームになれるということを体験した。これは、その後の私を支える、信念とも繋がる経験だ。「仕事が好き、仕事は善」と思えているのは、この会社で過ごした時間があまりに豊かで楽しかったからだ。

その後、社内で一般職から総合職への転換制度ができ、私はその第一号になった。

ところが、総合職になってから、今までみたいにただ楽しいと思えなくなってしまった。何かが変わってしまった。今までは「望美がやること」として見てもらえていたのに、「この役職、この年次に求められること」という目線を感じるようになった。システムに組み込まれていく、という感覚とでも言えばいいか。

上司たちは良い人たちだったし、仕事で任される領域が広がり、やりがいもあったはずだ。でも徐々に「この世界で生きていく」のは無理だな、と感じていくようになる。一般職の時はあんなに「総合職と同等に扱ってほしい」と思っていたのに、そうなった途端に、この会社でやりたいことや、達成したい目標が見えなくなっていくのだ。

それでも、外に勉強に出たり、異動希望を出したり、なんとか自分の中に着火できるものを探したけれど、なかなか見つけることができず、20代後半になり、結婚と出産を経て、ここでもまた離れる決意をする。

無敵だった私が選んだのは、第一子の育児休業から戻らないという選択、キャリアの途中離脱だった。

息子が1歳の誕生日を迎える前、3月末で退職。まさに「卒業」

違う文化圏への移行

話は少し前後するけれど、退職を決めるまでの1年のことを書いておきたい。育児休業に入ったことで、私の世界はずいぶん変わった。そしてその変化が、前の世界への違和感をもう耐えられないものにしていったのだと、今は思う。

まずは、「奥さん」「お母さん」という社会的な肩書をまとうことが増えた。今までは「私」しかなかったし、会社の所属は肩書に過ぎなかったけれど、「妻」「母」という役割の重さは大きい。「私」なんてなくなってしまうような気さえした。

そして、コミュニティというものに入ると、自分の人生の中に登場する「よく知らない人」の数が圧倒的に増える。好きとか嫌いとかでさえなく、たまたま一緒に過ごす、結果的に何か一緒にする、という人が増えた。そうやって、自分を取り巻く人がごっそりと変わり、今までと全く違う生活・文化になっていく。ほんの少し前なのに、あの時間にはもう二度と戻れないのだという喪失感をまといながらも、なんとか新しい世界に適応していった。

私の人生における最大のアップデートは「産後」であることは間違いないけれど、なぜそれが起きたのかをひも解くと、こんな風に、違う文化圏に移行したことが大きい。

多様な人たちがいると、当然ながら、多様な考え方や立場があり、それぞれを慮ると事態はとても複雑になる。自分の世界にいる人の種類がまだ少なかった頃は、そもそも多様な考えに触れることも少なかったし、出会ったとしても「何それ、知らない」で済ませることができた。でも、少しでも何かを共有してしまうと、「知らない」では済ますことができなくなるし、「なぜそう思ったのか、感じたのか」ということも知りたくなる。

「知っている/知らない」という理解のフレームには、実は、「知っていることを知っている」「知っていることを知らない」「知らないということを知っている」「知らないということを知らない」という種類があることを、この子育て期に身をもって感じていった。

私があたりまえにやっていたことが、他の人にとってはあたりまえではなかった。私が知らないということすら認識していないことがまだまだあった。

会社員として働いていた20代の私は「私、必要なものはもう持っています、わかっています。(だから余計なものは不要です)」と思っていたけれど、それはとても狭い世界の中のお話だった。全く違う文化圏に行ってみたら、理解が全然追いつかないことに出会い、沢山驚いたり戸惑ったりもしたんだけど、世界のグラデーションを知って、その豊かさと面白さに引き寄せられていった。

「世界はなんて、深くて広かったんだろう。そして私は、なんて狭い世界で生きていたんだろう」と気が付いてからは、「もうあの頃には決して戻れない」という喪失感は、「新しい世界をもっと自由に生きていいのだ」という爽快感や、未知への期待感へと変わっていった。

そこから私は、この新しい世界の中で色々な発見をしていく。どちらかというと人見知りで、関係性も深く・狭くだったけれど、たまたまその時居合わせた人たちとひととき過ごすことを、面白いと思えるようになった。仲のいい友達とはいえないけれど、顔を見て、ちょっと挨拶できる「顔見知り」が増えることの安心感も知った。子育て支援とは、小児科医や助産師、保育士など専門性を持つ人がやるものだと思っていたけれど、「当事者だからこそ気がつけることがあり、当事者同士がお互いさまで子育てに関わりあえる」ということも知った。気が付けば、一利用者で、ひとときのお手伝いと思っていた子育て支援のNPOの子連れボランティアになり、事務局になり、子育て支援者となり、最終的にはこの現場で8年間過ごした。

子育て支援グループamigoに行くとき、子どもたちと「次は何色の電車が来るかな!」とクイズをした世田谷線

「子育て支援者」としてのトレーニングは、それぞれの立場からの発言やものの見方を、「目の前のその人と私」の間に起きた瞬間的な出来事としてだけではなく、「なぜそう思うのか、そう感じるのか、その人はどんな環境にいるのか、何を前提とした関係性の中で生きているのか」ということまで引いて眺めたり、別の角度から捉えてみたり、急いで何か一つの答えを見つけようとしない姿勢をはぐくんでくれた。

物事を構造的に理解していくことが身につき、その経験値を獲得していく中で「怒る」ことが少なくなった。摩擦を避けたいから我慢する、という回避行動ではなく、「摩擦はあるよね、そして傷ついたり傷つけたりするよね。でも、人が関わり合うってそういうことだもんね」というような少し達観にも似た感覚で。

異なる意見に出会った時に、もともと持っていた「でもまあ、そうなんだろうね」という感覚が自然と発動されるようになる。

人との距離感や関わり方の深さ・多様さは、本当にたくさんの気づきを与えてくれる。

私たちの中にある感情や感覚を味わえるようになったから、多様な他者とのかかわりを通して、違和感を感じとりやすくもなった。そして、その違和感を、ただ感情で味わうのではなく、少し引いて構造的に捉えられるようになったから、「それは嫌だ」で終わらずに、「私たちの問題」としてとらえられるようになっていった。

当事者であることを起点としながら、個人の問題にしない、という感覚は、こうやって育まれてきた大切な感覚だ。

「ママ」の2文字に回収されない

この感覚を磨いたのは、自分の子育て初期に導かれるように出会った、世田谷の子育て支援NPOでの時間がとても大きい。

最初は「地域とか、コミュニティとかほんとに苦手。ママ友とか絶対無理!」と思っていたのに、何も予定がない日常というのは意外とすぐ飽きるもので、同じ時期に育休を取っていた友人に連れられて出かけた先が、自分の人生を大きく動かしていくことになるとは、全く予想もしていなかった。

「一生働きたいからこそ、いったん辞めよう」と思ってはいたけれど、積極的に次の道を探していたわけではない。ただ、時間もあるし、子どもをダシに今までの自分ならやらなかったことをやってみてもいいかも、とぼんやり思っていただけだ。

それでも、いきなり柔軟にあれこれできるわけではない。「ベビーマッサージという子どものためになりそうなプログラムに参加する」という、成果が確実に得られる所からスタートし、主宰の方たちから「よかったら今度気軽におしゃべりできるサロンにもどうぞ」と誘われても、「ありがとうございます、ちょっと都合が悪いのでまたの機会に……」とお断りをしていた。

だって、「何も目的もなしにその場にいる」ということは、慣れてないととてつもなく難しいですよね?

それでも、何度断っても誘ってくれ、さすがに断り続けるのもな・・・と3度目くらいにようやく参加してみた。行ってみても、何かが劇的に変わったわけでもない。

思ったより居心地悪くなかったな、とか、おでかけ情報もらえたから今度息子と出かけてみるか、というくらいの感覚だったけれど、振り返って意味づけてみると、これは地殻変動くらい大きな出来事なのだ。

誰も知らない場所で、何をするでもなく過ごし、思ったより悪くないと思えること。

何回か行ってみたら、なんとなく知り合いが増えて、なんとなく知っていることが増えていく。新しく来た人に、「ここに名前書いて」とか「あのお茶は自由に飲んでいいらしいです」「なんか体にいいハーブティらしいですよ」とか言えるようになっていき、「どこからいらしたんですか?」とか「あのお店行きました?」とか話せるようになっていくのだ。

のちにこのNPOのスタッフとなり、あえて手伝ってもらったり足りない要素をつくることで、参加した人をお客さん扱いせず巻き込んでいくことが、「居場所と出番を得ていく」きっかけとなっているのだと聞き、なるほど……!と本当に納得した。まさにそうやって巻き込まれて、私の居場所と出番になったのだ。

脇が甘いから、かかわりしろができる。足りてないから、引き寄せる。

今までの私の人生には、そういう発想はなかった。私も最初はお客さん気分でいたし、脇が甘いことにちょっとイラついていた。

「プログラム開始時間になっても会場の準備中だなんて!」と、机を並べるのを手伝わされて思ったり、「手書きのファックスの送り状だなんてありえない! 参加者名簿も、手書きのノートだけ!? エクセルに入れたらいいのに!」とか、「ホームページ更新がされてなくて不安になる!」とか、当時IT企業勤めだったので、そういうことにちょっとプンプンしていた。

それでつい、「私、パソコン使えるから手伝いますよ」と言って、送り状のフォーマットを作ってみたり、名簿を持ち帰ってあっという間に200人分くらいデータを入力したり、ホームぺージを更新したり、メールの問い合わせ対応を手伝ったり、気が付けば立派な子連れスタッフになっていた。私にとってはあたりまえすぎるし、なんてことない作業なのに、ものすごく喜ばれ、褒められ、こんなことで重宝されるのか…と驚いた。そして、同じように、様々な職業の女性たちが、それぞれの経験をさらりと持ち寄り、子育て中は何もできないと思っていたのに、こんなにもできることが沢山あるのだと、心から感動した。

一番最初に代表と話したとき、彼女の名刺には「子育て支援コーディネーター」という肩書きが書いてあった。私は、「へえ、こういう役職があるんですね、初めて知りました」と言ったら、「まあ、勝手に名乗ってるだけだけどね!」と笑顔で返ってきた、あの衝撃。

それなりの規模の会社に勤めていた私は、肩書は会社が与えるもの、役職は組織が認定するものとずっと思っていたのに、違う世界がある。自分たちが決めて、自分たちの手で動かしていく。子育て中の自分たちが、支援の受け手だけになるのではなく、お互いの経験を持ち寄って、当事者同士が支え合い、担い手にもなり、循環していくのだ。

小さな活動ではあったけれど、私の人生を揺さぶる、ものすごく大きなインパクトだった。

そしてもうひとつ、この場所には大切な文化があった。お互いを下の名前で呼ぶのだ。「女性は名字が変わることもあるからさあ」なんて冗談交じりに言っていたけれど、そこには、「誰かのママじゃなく、一人の大人であるあなたと接したい」という尊重の姿勢があった。

「ママ友なんていらない、無理」と思っていた私だけど「たくさんの経験をしてきた、母となった多様な女性たち」がいるだけだとしり、私自身が「ママ」とひとくくりにし、偏ったものの見方をしていることに気がつかされた。

「ママさんたち」とくくってしまったら、決して感じ取ることができない豊かさが、そこにはあった。多様な人が集う地域・コミュニティという「場の面白さ」にどんどんひかれ、テーマは変わっても20年ずっと、そこに居続けている。

子どもたちの保育園、小学校の近くにある都立祖師谷公園。少年野球で毎週末通った場所

社会的な役割と、「私」の揺らぎ 

8年間の子育て支援の現場で、本当にたくさんの女性たちに出会った。

妻になること、母になること。新しい役割が増えること自体は悪いことじゃない。大変ではあるけれど、それは「私」が広がっていくことでもある。

問題は、その役割が「私」を押しつぶすときだ。「望ましい妻」「理想の母」という、誰が作ったかもわからない像に近づこうとして消耗していく人を、何度も見た。日本は子育て期の女性にたくさんのことを求めるし、真面目な人ほどそれをまじめに受け止めてしまう。役割が「私」になってしまうと、苦しくなる。

出産や育児をきっかけに離職した女性たちの「本当は働き続けたかったけど辞めた」という声に、私は何度も引っかかった。自分で選んでいるのに、選ばされている。その矛盾の正体を探っていくうちに、これは個人の弱さや迷いの問題ではなく、社会の構造の問題だということに気がついていく。

本来多様である人たちを「ママ」というたった2文字に押し込めてはいけない。母となった女性たちがいるだけだ、と思うようになったのは、この8年間があったからだ。

子育て支援グループamigoの仲間と。出会ってから16年。それぞれの道を進みながら再会した日に。(後列中央が筆者)

個人の問題ではなく、構造の問題だと気づく

こんな風に、たまたま行き着いた子育て支援のNPOを通して、私の仕事観と人生観は大幅にアップデートされた。

「社会が押し付ける価値の枠に収まらなくてもいい、仲間と一緒にその価値観の内側から突破していこう」という気概を得られたことは重要だ。

「一生働きたいからこそ、いったん辞めよう」と決めたけど、「いったん」の先には「再就職」があると思っていた。というか、それ以外のイメージを持っていなかった。

実際の私は、「いったん」の間に、子どもを2人産み、ゆるやかに仲間たちと過ごし、活動に参画し、事業や組織や会社を作ったりして、気が付けば次のキャリアに移行していた。

「子育てはハンディじゃなく、キャリア!」を掲げて、子育て中の女性たちだからこそできる役割、提供できる価値を探究する事業を立ち上げた。「子どものいる暮らしの中ではたらく」ということは、自分の意思でコントロールすることがむずかしく、常に不自由さが付きまとう。

なのに、私は、心から「自由さ」を感じてもいたのだ。不自由の中にありながら、自分たちの手で選択肢をつくることができる、自分で選べるのだ。「それこそ自由だ」と思えるようになったのは、NPOの現場だったからに他ならない。

既存のシステムの中からこぼれ落ちてしまうもの、見過ごされてしまうものをすくいあげることができるのは、ソーシャルセクターが持つ最大の力だ。NPOにいた8年間、私たちは大切な物が何なのかを確認しながら、あきらめずにすむ方法を模索し、少しずつ実感し、納得しながら進んでくることができた。

それはとても、幸運なことだろう。

しかし同時に、子育て中の女性たちの、選択に関する問題の根深さも強く感じていた。

出産や育児をきっかけに離職した女性たちの「本当は働き続けたかったけど辞めた」という声に、私は何度も引っかかった。もちろん、自分も同じ立場だから、「そうだよね、わかる」と共感して処理することもできる。

でも、立ち止まって考えてみると、そう簡単に「だよね」と処理することはできなくなってしまった。

多くの場合は、無理やり辞めさせられたわけでなく、「自分で選んで」仕事から離れているはずだ。自分が望んでそうしたのだ。「そうすることが、一番いい」と思って、それを選んだはずだ。

でも、「本当は続けたかったけど」と枕詞のように言う人がたくさんいるのはなぜなのだろう?

「自分で選んだ」はずなのに「本当は違った」と感じる。この矛盾の正体を探っていくうちに、私は気がついていく。これは個人の弱さや迷いの問題ではない。「子どもが小さい時はお母さんが近くにいた方がいい」という価値規範が、「別の選択をしたいのに、この選択をするしかない」という社会的な圧力と、自ら選択させる構造をつくっているのだ。自分で選んでいるのに、選ばされている。これは、個人と社会の関係性の話だ。

一人一人の選択における迷いや葛藤の背後には、きっと、いつか誰かが作った「望ましい/それらしい物語」がある。その物語の声が大きくなりすぎると、いつか自分の声が聞こえなくなり、「だって、そうでしょ」というように「思考停止の納得」につながってしまうのではないか。

私たちは、自分の物語を生きているはずなのに。

その、「普通」って、なんですか?

「その、『普通』って、なんですか?」

この問いは、誰かに向けているようで、実は自分に向けている問いでもある。

既存の物語が、私の物語の主導権を奪いに来たとき、違和感が発動する。「なんかヤダ」とか「もやっとする」とか。そこで、私と誰かの物語の境目が見えてくる。「こういうものだから」という言葉に出会うたびに、私の中の何かが反応する。それは本当なの?それは誰が決めたの?誰のための「普通」なの?

時に、「誰かの物語」が、私たちの物語に置き換わってしまう。違和感をなかったことにしているうちに、いつの間にか自分の声が聞こえなくなっていく。

だから、その違和感を手放さないでいたい。押し付けられた枠の外に出る問いを、放ち続けたい。

自分の声を聞き続けることは、思ったより難しい。でも、違和感が発動した瞬間こそが、何かの兆しなのかもしれない。

Deathフェスで試みているのも、そういうことなのだと思う。死をめぐる「こういうものだから」という物語を、もう少し自由にしていくこと。社会の中で語られていない物語を、少しずつ取り戻していくこと。

次回は、「Deathフェス」という場所で、どんな物語の交差が起きているのか、見ていきたいと思う。


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第4回:その、「普通」って、なんですか?―― 違和感を「兆し」としてキャッチし、枠の外から問いを放つ

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