雪深いワーケーション先で、お酒を酌み交わしながら漏れ出た「私、お墓に入りたくないんです」という一言。非日常の中で生まれたその小さな違和感は、いつしか数千人を巻き込み、社会の“普通”を問い直す巨大な社会実験「Deathフェス」へと姿を変えた。
非営利型株式会社Polarisを創業し、ケアとワークの新しい関係性を探求してきた著者は、なぜ今「死」というテーマにたどり着いたのか。
本連載では、タブー視されがちな「死」を入り口に、私たちが無意識に受け入れてきた「当たり前」との摩擦や揺らぎ、そして人生の有限性を直視する中から見えてきた「成熟した〈選択〉」のあり方を、自身のキャリアや活動の軌跡とともにたどっていく。

第1回:死というテーマが向こうからやってきた ―「お墓に入りたくない」から始まった社会実験

 2023年2月9日。長野県飯綱(いいづな)町の夜。人知れず、もしかしたら私たち自身さえも知らないところで、10年にわたる壮大な実験は、突然幕を開けた。

 「変なこと言ってもいいですか? 私、お墓に入りたくないんですよね」

 のちに一般社団法人デスフェスを、「共同代表」として共に立ち上げることになる小野梨奈(以下、オノリナ)が、ワインを片手に、そんなことを言い出した。

 「お墓に入りたくない」ーー。今までの人生で一度も聞いたことがないフレーズだ。

 「狭いスペースに閉じ込められたくないし、墓石の下に固定されてしまうのも嫌。死んだあとも自由でありたい」
「お墓は家父長制の象徴のようなものだとも思うので、それに縛られたくないという気持ちもある」
 そんなことを聞いていくと、なるほどという想いになってきた。

 私自身は漠然と「死んだら海に還りたい」と考えていたけれど、オノリナの話を聞いているうちに、自分自身にも同じ気持ちがあることに気が付いたからだ。

 私の精神が肉体から離れて自由になれるなら墓石の下には入りたくない。どうせなら大好きな海を自由に漂いたい。妄想好きな私は、普段から「思考は自由だけど、肉体は不自由だ」と思っているのだ。せっかく肉体から離れて自由になるのに、骨壺の中に?

 そして話はさらに続くーー。

「『コンポスト葬』って知ってますか?」

  「アメリカでは、人間を火葬しないで微生物で分解して堆肥にする『コンポスト葬(有機還元葬;以下、有機還元葬)』っていうサービスがあるんです。私も、お墓に入らないで、堆肥になって、地球に還りたいんですよね。でもまだ日本では実現できなくて…」

 「人間を? 堆肥にする…?」……これまた初めて聞く話だ。

 有機還元葬は、火葬のように大量の化石燃料を消費してCO2を排出することがない、環境にやさしい「エコな葬送」だ。アメリカでは、環境意識の高いZ世代を中心に「究極のサステナブルな選択」として支持を広げているらしい。

 オノリナは大学院で地球物理学を専攻していたキャリアがあり、子どものころから宇宙が大好きだったそうだ。もともとはロケットを使う宇宙葬がいいなと思っていたけれど、膨大なエネルギーを使って宇宙に行くのは地球にやさしくない。

 どうしたらいいんだと思っていたところで、この有機還元葬を知った。有機還元葬なら、最期の瞬間まで地球に負荷をかけないで済む。自分の死を「大地を育むエネルギー」として役立てられる。この地球の一部となって、地球の行く末を見続けられる。そう考えたのだ。

 私はソーシャルセクターに20年もいるのに、私たちの死が、環境問題とか地球の未来につながっているなんて、思ったこともなかった。死は、いつか誰にでも必ず訪れる共通のテーマであり、私たちが生きている社会に当たり前に存在していることなのに、一度も考えたことがない、手つかずのテーマがあったなんて!

 死はタブーだとか、死のことを考えるなんて不吉だとか、そんなことは一切頭に浮かばず、この「未知のアイデア」にワクワクし、「これ、やりたい!」と直感的に思ってしまったのだ。それに、「選択肢がないなら、創ればいい」というのは、私とオノリナをつなぐ重要なピースなのだ。

オノリナ[写真左]は、Deathフェスをやると決めてからいてもたってもいられなくなり、2023年6月シアトルに飛び、有機還元葬のサービスを提供しているスタートアップ3社を訪問。こちらは、有機還元葬を最初に提供しはじめたRecompose社の施設。
オノリナがまとめた3社の比較(2023年時点)。3つの施設をしっかり見学している日本人はオノリナだけではないだろうか。

自分らしく、しなやかな選択を

 私とオノリナの出会いは、今から20年近く前と、かなり古い。当時の私は、世田谷の子育て支援NPOのスタッフで、彼女はそこに通っている「産後のお母さん」だった。

 たまたま出産した助産院が同じということや、子育て中の私たちだからこその「多様で柔軟な働き方」をつくりたいという思いに共感しあい、「スタッフと参加者」という関係性を超え、20年近くゆるくつながり続けてきた。

 女性のキャリア形成は、出産や子育てというライフイベントの影響を強く受ける。今までの自分が選んできた道を、中断せざるをえないこともある。その中でも、自分らしく、納得のいく選択をしたい。変化をしなやかに受け止めながらも、自分らしさを貫きたい――。それが私たちの共通項だった。

 そんな彼女と、ひょんなことから、当時、事業責任者として担当していた非営利型株式会社Polarisのワーケーション企画に一緒に行くことになり、たまたま、プログラム本編より1日早く「前乗り」をして冬のリゾートを楽しむことになった。美味しいお酒とお料理、心地よい疲労感と、とりとめのない話。ほんのりと酔いもあった。

  SNS等を通して、近況は何となく把握しているけれど、会ってゆっくり話すのは久しぶり。むしろ初めてという絶妙な距離感ではあったけれど、「内省」をテーマにしたリトリートプログラムでもあり、自分の人生や選択について話す時間も多かった。だからこそ、できた話なのかもしれない。いつもの環境、いつもの話題、いつもの交友関係じゃないからこそ、出てくるものもある。

 「でも、実際どうやったらいいんだろうね?」

 「ないなら創ればいい!」といっても、自分が望むはたらき方をデザインすることと、見たことも聞いたこともない「有機還元葬」を日本に導入する難しさのレベルは、全然違うことは想像にたやすい。どうしたら、望む選択肢を実現できるんだろう?

 現在の日本は「99.9%が火葬」であり、事実上他の選択肢は存在していない。また、日本には「骨上げ」と呼ばれる独自の慣習があり、「遺骨はあって当たり前」なもの。人間を有機物として分解して土に還すということに、抵抗感を抱く人も多いだろう。

 そういった心理的・慣習的なものもあれば、「法律的な問題」もあって、有機還元葬には「墓埋法(正式名称:墓地、埋葬等に関する法律)」や「刑法」が関わってくる。アメリカでも法改正まで10年かかっているらしいから、日本でもきっと、長い道のりになるだろう。

Deathフェス爆誕!

 そこで私たちは、思いつく。まずやるべきは「Deathフェスだ!」と。

 「いきなり法律を変えるのはかなり難しいだろうし、選択肢を知ってもらわないといけない。それ、いいなと思ってくれる人とか、まず、”私は〇〇派”って言える人を増やしたらいいんじゃない?」
「4月14日を”よい死の日”とかいって、みんなで生と死について考える日にしてさ、毎年4月14日に”Deathフェス”とかやるのはどう?」
「こういう新しいことをやるなら渋谷だな。多様性を掲げているまちだし」
「そんなことをやっていけば、いつか有機還元葬を実現できるんじゃない?」

 念のため、翌年のカレンダーを調べてみたら、4月14日は日曜日。

「これはもう、来年やるしかないね!」

「お墓に入りたくないんです」という私的なつぶやきから、ほんの数十分の間に、「2024年4月14日に渋谷でDeathフェスをやる!」ことまでが一気に決まったのだった。

 死について何かやりたいとか、その瞬間まで、そんなことは1ミリも考えていなかったのに。

いつもと違う雪景色の中で。 
Deathフェスのアイデアは、こんな感じでうまれました。

伏線回収

 確かに私たちは、「Deathフェスやろう」なんて1ミリも考えていなかったけれど、「私たちに与えられた役割なのかもしれない」という根拠のない小さな確信があった。なぜかというと、2011年3月11日、東日本大震災が発生したまさにあの瞬間、偶然同じ場所に居合わせていたからだ。

 その日私たちは、六本木ヒルズで開催された、グラミン銀行創設者であるムハマド・ユヌス博士のソーシャルビジネスワークショップに参加していた。待ち合わせたわけでもなく、本当に偶然に居合わせ、「久しぶり!来てたんだね!」なんて話していたら、その午後にあの激しい揺れが発生。

 窓の外には遠く、お台場方面から黒煙があがっているのが見え、大変なことが起きているということはすぐに分かった。ワークショップは中止となり、オノリナとともに帰宅することに。エレベーターは使えなかったので、「またあの激しい揺れがきたらどうしよう」と不安になりながら、階段を降りて外に出る。

 六本木通りは避難している人であふれていて、首都高速のすぐわきを歩いていると、阪神淡路大震災のあの景色が頭をよぎる。オノリナは当時、第二子妊娠中だったので「とにかくこの妊婦を無事に家に帰さなくては…」という使命感のようなものさえあった。幸いなことに途中から公共交通機関も動きだし、「気をつけて帰ってね」と別れてお互い無事帰宅した。

 「今日と同じ明日は来ないかもしれない」「別れは突然にやってくることもある」ということを強く実感することになるあの日に、私たちが偶然一緒にいたことは、振り返ると意味深い。あの日から12年たって、死に関するテーマをやることになった。無自覚だったけど、これはもう伏線回収なのかもしれない。

 そして私たちは、「Deathフェス」に向けて一気に走り出したのだった。

 「やろうよ!」は、そんなに多く実現しない

 とりとめのない雑談から「いいね!やろうよ!」と盛り上がることは、比較的よくあることだけど、実際に「やる」段階まで行くものは、そう多くはない。

 でも、東京に戻ってすぐ、オノリナは企画書をまとめてきた。私たちは、その企画書を手に、話を聞いてくれそうな人に会いに行った。
「いきなり個別のサービス(有機還元葬)立ち上げを目的にするより、ムーブメントを作るようなやり方の方がいいかもしれないね」というアドバイスを受け、「よし、やっぱりDeathフェスをやろう!」と決めることができた。まだふわふわとしたアイデアに過ぎなかったDeathフェスの輪郭が、徐々にくっきりしていく。

 さあ、渋谷でDeathフェスをやって、死のムーブメントを起こすには、どうしたらいいだろう?

  実現したいことはあるけどやり方がわからないしリソースもない。こういうことは、「どこか」か「誰か」につながって、わらしべ長者的にご縁をたどって動かしていく方がいい。20年、NPOやソーシャルベンチャーで事業をしてきた経験を活かし、まずチェックしたのはNPO法人ETIC.。1993年の創業から一貫してソーシャルセクターの支援や起業家精神を持つ人を支援している中間支援組織で、私も非営利型株式会社Polarisの経営者として、色々お世話になったことがある。

 ETIC.のサポートプログラムで、何かこの先につながるようなものないかな……と探してみたら、まさに今の私たちのためにあるようなプログラム「Beyonders」を発見!「生煮えのアイデア」を持つプロジェクトオーナーを募集しているタイミングだった。 

《Beyondersとは、社会課題解決に取り組む「名もなき挑戦」に対して、友人の起業を手伝うように、共感したら組織を越えて、気軽に仲間になれる約3か月のプロジェクト参画のしくみです。》NPO法人ETIC.のサイトより

  「これだ!」と、すぐにウェブサイトから資料をダウンロードしたら、たまたま旧知の方が事務局を務めていて、「望美さん、何かやるんですか? 打ち合わせしましょう!」と連絡をくれ、とんとん拍子にプロジェクトオーナーとしての参画が決定。「Deathフェス! 死のウェルビーイング! 面白いと思います!」と言っていただいたことは、大きな自信となった。

「Beyonders」プログラムには Deathフェスの前身となる「Sustainable Endingプロジェクト」として参加。その期最大、11名のプロボノが集まる、大注目プロジェクトだったことで、「このテーマは思ったよりもピンとくる人が多いテーマなんだ」ということを実感した。

 葬送の関係者でもない。グリーフケアや死生学などを学んでいるわけでもない。「門外漢」の私たちだからこそできるやり方を選ぼうというスタンスで、課題意識や思いを持ちよりながら、Deathフェスの骨格を3か月かけてつくっていった。

「Sustainable Endingプロジェクト」のキックオフ。 2023年6月
キックオフ資料より。当時からほぼ今と変わらないトーン。
メンバーで話しながらつくった「ですまっぷ」。もともとは「業界カオスマップ」を作ろうとしていたけれど、既存のサービスによりすぎてしまうので、エンディングに関する課題整理に切り替えてマップ化。このときの対話が、Deathフェスの広がりや深さを支える軸となっている。

渋谷から、新しい問いを放つ

 並行して、8月から「SHIBUYA QWS」(以下、QWS)に入居し、プロジェクトメンバーとして活動を開始。QWSは、「自らの問いに出会い、磨き、放つことで社会を変えていく力を創造する」ということを掲げる共創の拠点だ。私たちは、飯綱のあの夜に重なる問い「お墓に入りたいですか?」を掲げ、Deathフェス実現に向けたアイデアのブラッシュアップに取り組み始めた。

 10月には「未知の価値に挑戦するプロジェクト|QWS チャレンジ」にもエントリーし、ハヤカワ五味さん、為末大さんの2名の投票により無事採択。3か月の集中支援を受ける機会を得た。為末大さんにはDeathフェスでの登壇をお引き受けいただいたり、たくさんの壁打ちやアイデアに対するフィードバックを受けたり、渋谷ヒカリエを借りられることが決まったり、QWSとの連携のおかげで、一気にDeathフェスが具体化していくことになる。

多くの人にDeathフェスを知ってもらうために、QWSで開催されるピッチイベントにも登壇。 
2023年10月からは毎月1回QWSで「カウントダウンイベント」を開催。死というテーマへの関心度合いを測ったり、協力・応援してくれる人たちに出会う機会として、合計6回実施。

「死の当事者」は誰かー死をポップに扱う理由

 動き出してみれば、「Deathフェス!?  何それ!」と、面白がってもらえることが多くて、全体としてはとてもポジティブな風が吹いていたけれど、もちろん、ネガティブな反応がなかったわけではない。

 宗教家に、「よい死の日というけれど、そもそも死にはよいも悪いもない」とぴしゃりと言われてドキッとしたこともあるし、「君たちは一体どこまで死のことを考え抜いたんだ!」なんて語気荒く言われることもあった。「専門家でもないのに」「当事者でもないのに」という反応をする人もいた。

 私たちは、「余命宣告」されているわけでもないし、「難病」を抱えていたり、「深い悲しみや喪失感」を抱いているわけでもない。「差し迫った命の危機」に直面してない、「安全な場所から死を語る人たち」だということだ。「リアリティがない」から「Deathフェスなんて能天気なこと」を言えるんだ、といわれたこともある。

 でも、私たちの世界は、致死率100%である。いつか誰にでも必ず死は訪れる。だから私たちは誰もが死の当事者である。そう思っているけれど、そうじゃないの?

 こうした「死と日常の距離感」だって、一つのリアリティじゃないか。突きつけられたり、問いかけられたりするたびに、これではみんなが当たり前のように死の話ができるわけない、という課題が浮き彫りになる。

 そんな私たちだってこの活動をしていなければ、「やっぱり死のことは軽々しく語ってはいけないのだ」と思ってしまっていただろうし、「当事者でもないのにすみません」と謝ってしまうことだってあるかもしれない。

 だからこそ、死をもっと身近にしなくては。この距離感で「死というテーマ」に関わることができる人を増やすのだ。自分たちがやるべきことが見えてきた。

 そんな「能天気」な私に、ある日突然、父が前触れもなく逝ってしまうという出来事が起きた。はれて「当事者の仲間入り」である。

 同居していた母が気が付いた時には、もう父は旅立ってしまっていた。日本では、自宅で亡くなっていることを発見すると「不審死」となり、警察事案となる。パトカーと救急車が来て、救急隊員による延命措置と、警察官による状況確認があわただしくとり行われる。事件性がないかを確認するために何回も同じことを質問され、母は気持ちを削られていく。長年連れ添った夫が、急に旅立ってしまった事実を受け止めるだけでも大変なのに。

 急な知らせに飛んできた孫たちも、家の外には救急車とパトカーが停車し、近所の人たちが心配そうに見守っていて、家の中に目を向けると、何人もの救急隊員と警察官がいる。その物々しさに驚き、ずっと身近な存在だった祖父に近づくことができない。そして父は、警察署に移送され、検視を受けることになった。もう家には戻ってこない。

  「明朝までには葬儀社を決めて引き取りに来てください」と言われ、母と姉と私の3人で相談しながら、夜中に葬儀社の手配をした。突然の出来事から5日で、父は空に還っていった。

 こんな風にある日突然、別れは来るのだ。準備をしていても、していなくても、別れはやってくる。

 私たちは、Deathフェスの準備を通して、死や葬儀について少し知識を得ていたし、家族で話すことに抵抗感がなくなっていたから、「お父さんならきっとこういうだろう」と考え、いらないものは断り、必要だと思うものは自分たちで手配した。結果、父らしく・私たちらしく送ることができたと思う。

 もし私たちが何も知らないままあの日を迎えていたら、どれだけ心細かっただろうか。混乱し、慌て、何をどうしたらいいのか分からなかっただろう。Deathフェスをやっていてよかったね、と家族で何度口にしたかわからない。

  「直接的な当事者になってから」じゃ、遅いのだ。ほんのちょっとだけでも、このテーマに触れておくことがどれだけ助けになるか。私たち家族はそれを身をもって実感した。

 もっと広く、色々な人に、死というテーマを身近に感じてもらおう。そのために、入り口はオープンな方がいい。怒られたり、諭されたり、詰め寄られたりしない。知らない、わからないと言っていい。どんな意見でも許される。何を話しても、何を聞いてもいい場にしよう。

  「Deathフェスなんて不謹慎だ」と言われてしまうようなことがあったとしても、私たちは大丈夫だ。父がお別れの経験を通して、ゆるぎない価値を教えてくれたから。

 死というタブーを乗り越えるために、誰でも安心して話すことができる場を創ることが、私たちの最大の役割だ。その姿勢を表現するために「死をポップに」扱おう。

2024年1月、災害と事故。本当にいま、やるべきか?

 様々な人の協力を得て、企画が前に進み始めていた2024年1月。 Deathフェスを開催していいのか大きく揺らぐ出来事が発生した。 1月1日の能登半島地震と、1月2日の羽田空港地上衝突事故だ。

  新年早々の痛ましい災害と事故は、日本中に大きな悲しみや動揺を与え、私たちも、「『死をポップに』とか言っていいのか」「本当に今やるべきなのか」「『門外漢』の私たちがやっていいのか?」という問いに向き合わざるをえない状況となった。

 チームで慎重に検討した結果、「今だからこそ、Deathフェスをやろう。社会で命に向き合おう」という覚悟を決めることができた

 日本中に、不安を感じたり、気持ちが揺らいでいる人がたくさんいるはずだ。そんな今こそ、私たちだからできることを、私たちらしいやり方でやっていく。今まで通り、ポップに、誠実に。

 そう決めて、再始動となった。

死というテーマに出会い直す祭典~Deathフェス2024、開幕!

 アイデアが浮かんだあの日から、1年2か月後にDeathフェス2024が開幕した。企画はギリギリまで決められないし、資金も集まってないし、主要メンバーも一人事情があって離れることになった。心も体も余裕がなくて、プレッシャーからか、3月はほとんどの週末、謎の高熱を出す有様。こっそりと、「こわい、本当にやってしまっていいのか、できるのか」と弱音を吐いたり、本当に苦しかった。

 でも、その窮状を見かねて「カツギテ」として参画してくれるメンバーが増え、何とか当日を迎えることができた。みんなには感謝しかありません‥!

これがなかったらどうなっていたのか…

「想像をこえて、想像通り」

 当日を迎えることに必死すぎて、人が来てくれなかったらどうしようという心配を抱くことなく迎えた初日は、オープニングセッションから、超満員。普段は地域の福祉の現場でお話をされている方は「いつもの客層と違いすぎるよ。自分の話を聞きたい人なんてきっと少ないだろうし、盛り上がらないよ」なんておっしゃっていたけれど、ふたを開けたら満員御礼。みなさんすごく真剣に聞いてくれるし、いい意味で想像を裏切られた様子。

 6日間、その「いい意味の裏切り」が続き、「死をテーマにしたイベントに、こんなにも人が来るのか」と驚くほど、来場者が途切れることはなかった。おそるおそる始めた「Deathフェス」も、終わってみたら2000人を超える来場者数。

 たくさんのセッションに参加して「死って、こんなに幅広いんだ!」と驚いてくれた方。嬉しそうに、エンディングドレスを着てポーズを取ったり、棺桶に入ったりした方。Deathスナックでは、楽しそうな笑い声が聞こえていたと思ったら、急に静かになり、抱えていた苦しみや悲しみがあふれ出している瞬間もあった。

 エンディング業界の方が、「こんなにカラフルで、こんなに笑顔があふれている現場は初めて。楽しかったです!」と言ってくださったことも、とても嬉しかった。

 それは「想像をこえて、想像通り」の世界。 きっと、私たちが見たかった景色は、こういうものだったのだ。

 *ぜひダイジェストムービーで雰囲気をご覧ください。

 Deathフェス2024|ダイジェストムービー

ロゴがおしゃれで来ました、と言ってくれた人も。
渋谷ヒカリエで、死のフェス!というインパクトも強かった。

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第1回:死というテーマが向こうからやってきた ―「お墓に入りたくない」から始まった社会実験

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