
商店街の衰退が叫ばれて久しい。郊外に進出した大型店との競合とそれに伴う中心市街地の空洞化、少子高齢化と人口減による商圏人口の減少、経営者の高齢化と後継者難など、その背後にある要因は日本の社会全体が直面している課題そのものだといえよう。商店街の活性化や再生に向けての模索が各地で続いているが、補助金を中心とした振興策には限界があり、商店街の役割や可能性そのものを見直す動きが広がっている。
そうした中、商店街支援とは無縁だったプレイヤーたちが、商店主や商店会とともに新たな可能性を掘り起こすケースが増えている。
マーケティングプランナーとして活動してきた著者もそのひとり。本連載では、商店街に飛び込んで異彩を放つプレイヤーを訪ね歩き、どんな化学反応から何が生み出されたのか、商店街の未来像を探る。
第13回 危機からチャンスが生まれる ~尼崎市杭瀬中市場コミュニティの底力~ 株式会社地域環境計画研究所 代表 若狭健作さん
老舗と若い店が入り混じる杭瀬中市場
大阪の梅田から阪神電鉄で6駅、大阪府と兵庫県の県境の左門殿(さもんど)川を渡ると杭瀬駅がある。杭瀬は兵庫県尼崎市の南東部に位置し、地名の起こりは平安時代までさかのぼる。室町時代には農業や漁業が盛んで、水陸交通の要衝だった。
1905(明治38)年に阪神電鉄が開業し、杭瀬駅ができた。紡績工場や製鋼所などの工場ができると仕事を求めて多くの人が集まり杭瀬はにぎわうが、太平洋戦争の空襲でまちは一面の焼け野原に。ところが「尼崎市で最初に戦後復興を果たしたのは杭瀬の商店街」(クイセアクションプランより引用)。戦後はさらに工場が増え、杭瀬団地ができた。沖縄や奄美、鹿児島にルーツを持つ人や、その後はブラジルなど海外にルーツを持つ人など、多様な文化を持つ人がともに暮らすまちとして発展した。
杭瀬駅から徒歩6分の杭瀬中市場は、昭和を感じるアーケードが広がり、鮮魚店、精肉店、豆腐店、鶏肉専門店、惣菜店など生活に密着した専門店が残る。かつて国道2号線(阪神国道)を走る路面電車の停留場があった市場は、昭和の時代にまちで働く人たちの暮らしを支える商店街としてにぎわった。
1990年代に入るとバブル崩壊や1995年の阪神淡路大震災で、まちのにぎわいにかげりが見え、いまでは市場の店も最盛期の半分ほどになった。2021年に、杭瀬地域まちなか再生協議会がまとめた「クイセアクションプラン 杭瀬まちなか再生計画」によると、この20年で杭瀬地域の人口は2割減り、高齢者が3割を超えた。その約半数がひとり暮らしだ。
そんな杭瀬中市場には、平日の午前中から高齢の常連客や地元の人が訪れる。店先で店主と話が弾み、その横で「今度、こちらに転勤してきました」と近くの事業者が市場の店に挨拶をしてまわる姿。老舗の専門店の合間には、若者が店番をする古書店やコーヒー専門店、台湾レストランや日本語学校など他にない目新しい店がある。
実力派の老舗と若い店が入り交じった空間ではあちこちからにぎやかな会話が聞こえ、明るい雰囲気が感じられる。





杭瀬アクションクラブ誕生
前述の「クイセアクションプラン」づくりに関わったのが、市内に事務所を構え、まちづくり計画を手掛けるコンサルティング会社、株式会社地域環境計画研究所の代表を務める若狭健作さん(47歳)だ。
若狭さんは2004年から杭瀬地域の商店街の支援に関わりはじめた。
2010年に市場の販促を再考する勉強会をはじめた頃、市場は全店営業していてにぎやかだった。あれよあれよという間に10年程で店が歯抜けにシャッターを下ろし、空き店舗対策の相談を受けはじめた。そこから若狭さんと市場の関係は深くなる。
商店会との話し合いで「商店会や町会など様々な組織はあるが、既存の組織で新しい動きをつくるのは難しい」と、2014年に杭瀬地区の事業者が中心となり「杭瀬アクションクラブ」が立ち上がった。参加資格は「杭瀬に関心がある人なら誰でもいい」。毎月集まり、屋号と「いま探しているもの」や「いまはまっていること」など自己紹介をしあう。「新しい店をオープンしたが消火器がない」という人がいれば、「消火器余っているからあげるわ」とか、「餃子の店がなくなったから、餃子が食べられへん」など、杭瀬に足りない店や施設をあげたり、ざっくばらんな情報交換をしたりする井戸端会議だ。10年かけてまちの人がゆるやかにつながる場ができた。
その頃、若狭さんは兵庫県が「まちなか再生事業」として商店街について地域の人が話し合い活動をはじめることへの支援を開始することを知った。県や国の商店街アドバイザーとして各地に派遣され、他地域での支援に入った経験から、杭瀬アクションクラブほど具体的な活動ができているところは少ないと感じていた若狭さんは、杭瀬地域として「まちなか再生事業」に応募することを提案。杭瀬アクションクラブが土台になり2020年に「杭瀬まちなか再生協議会」が設立され、5年間の再生計画「クイセアクションプラン 杭瀬まちなか再生計画」がまとまった。
地元不動産会社の協力で集約した一般に流通しない空き家や空き店舗などの杭瀬のストック物件をツアー形式でめぐる「ストック(お宝物件)ツアー」や「新規出店者の募集と支援」、新たなプレイヤーが参集できる場づくり、ゆるやかに連帯しながらプロジェクトを進める関係づくり、アーティストとコラボし地域で行う公園のリノベーション、こどもたちの居場所となる地域食堂、地域の大家さん的な役割を果たす家守プロジェクトなど、その内容は多岐にわたり、アクションプランの実行期間である5年間を今年終えたところだ。
アクションプランができたころ、若狭さんは空き店舗の活用について相談を受けた。「誰も借りひんから若狭さん借りいや」とけしかけられ、家賃は3万円でいいという。その気になった若狭さんは台湾旅行にはまっていたことから「これから台湾料理が流行るで~」と家族でDIYして店を改装。まぜそばと豆花(トウファ)を提供する「好吃食堂(ハオチーショクドウ)」を2020年に開店した。オープンしてすぐに雑誌に紹介され、「食材はすべて市場で調達できる」と市場の価値が再注目されたことが若狭さんにはなによりうれしかった。

若狭さんの台湾料理店「好吃食堂」では若いスタッフを雇い店を切り盛りしてもらったが、そのうち店を間借りして、カレーや日本酒の居酒屋など若者がレンタルキッチンとして使いはじめた。それを見ていたアクションクラブの人が、「若い子たくさん集まってるやん。台湾料理店の話を杭瀬の地主の集まりで話をしてほしい」と呼ばれて話をすることに。杭瀬も地価が下がってきたが、逆に新しいチャレンジがしやすくなる。「5年先まで貸す予定がない物件をアクションクラブに預けてくれへんか」と若狭さんが投げかけると、何軒かの店が手をあげた。「若狭さん、そこまで言うんやったらきれいにして家賃も安くするから、やりたい人を呼んできて」とそのうちの1軒、材木店の倉庫だった場所にいまは若い店主のパン屋が入っている。
アクションクラブで「無くなった店、ほしいな」という声を受けて、若狭さんは知り合い経由で若い女性店主のパン屋を呼んで、試しに空き店舗に入ってもらった。焼きたてのパンが好評で、いまでは地元の人気店になっている。
市場の火事
若い店主と空き店舗のマッチングが進みはじめたころ、若狭さんが紹介した店から火事が出た。4軒の店が燃え、一人なくなられた方も出てしまった。「火事になってしまった、えらいこっちゃ」と、尼崎市内の人や遠方からも多くの人が心配して駆けつけた。「義援金や」と募金箱に名前も告げずに15万円を入れてくれた人もいた。若狭さんは、歴史のあるこの地域への人々の想いを痛感した。
復興作業をしようと夜な夜な瓦礫の撤去がはじまった。市場と全く関係のない人が集まって、一生懸命掃除をした。そのうちの1軒が早く再開できそうな見込みが立ったとき、伊丹市で古書店を営む三皷由希子さんが「市場で本屋をしたい」と火事の前から話していたことを若狭さんは思い出した。どこまで本気かはわからなかったが、本屋をやるには本箱がいる。アクションクラブに参加している材木店の今井元一さんは「お金はないけれど、木ならあげれる。好きなだけ持って行き」と申し出た。アクションクラブのメンバーが材木を引き取りに行き、片付けられた空き店舗で本箱をつくった。折しもコロナ禍の最中だった。
みなで本箱をつくるのは楽しいし、本箱ができたら、本を並べたい。若狭さんは三皷さんに「本箱できたから、一回試しに本を並べてみたい」とお願いした。「本屋しようや。火事からの復興で本屋ができたらええやん」「市場はこれだけファンがおるし、応援してくれるよ」と口説き、この話から「二号店」という古書店がオープンした。
古書店を営むには在庫を抱える必要があるが、この店は狭い。それなら複数の古書店がそれぞれの店の「二号店」として運営し、それぞれからちょっとずつ家賃を貰えば店舗が運営できるんじゃないかと話はまとまった。
問題は店番だ。これは若狭さんたちが新しい仕組みを考えた。空き家の掃除や本箱を作った仲間が「本屋の店番くらいやったるわ」と言いはじめた。セールストークはいらないし、レジさえ打てれば何とかいけそうだ。米屋の奥さんが「そんなら家にロッキングチェアがあるから取りにおいで」と、古書店にロッキングチェア置かれた。店番は「ロッキンチェアーズ」と名付けられて、地域で市場や古書店に関心のある人を募った。
赤ちゃんがいても保育園に入れることができなかった母親は、「家で赤ちゃんと二人きりで過ごすよりも、二号店で一緒に店番をした方がいい」と手を挙げた。70代の女性は「店番したら友達呼べる」と、店番をしながら井戸端会議で盛り上がっている。いまでは年齢の違う123人がオープンチャットでつながりながら、店番として動いている。



天使の魔法をかけた公園
アクションクラブが関わり生まれた場所は他にもいくつかある。杭瀬中市場の近くにある杭瀬公園はとても荒れていたが、公園は行政が管理する公共のスペースなので、いきなり勝手に手をつけることはできない。現在、杭瀬まちなか再生協議会の会長を務める宮崎建設の宮﨑健一社長はクイセアクションプランについて話し合う時、公園の図面を手に入れて「こうなったらええんちゃうか?」とアイデアを描き込みはじめていた。おしゃれなパン店ができても、パンを食べるにはあまりにも殺風景過ぎる。映えるスポットつくられへんかなと、公園の目の前にある建物の壁に絵がかけないかという話が持ち上がる。
ビルはアクションクラブのメンバーである材木店が所有していて、「いかつい絵じゃなかったらいい」と許可をもらい、同じくメンバーであるアーティストのシェアアトリエを運営する方から「やさしい天使の絵を描くアーティスト」を紹介してもらった。建設会社の宮﨑さんは「足場要るやろ」と足場を提供し、材木店の今井さんが「警備したるわ」と手伝った。
ビルの壁に天使が描かれた翌年には、宮崎さんが市と交渉して協議会が公園を管理することになった。「そのかわり、公園をもっときれいにするから」とはじまったのが「OUR PARKプロジェクト」だ。衛生面でも問題が多かった砂場に芝生を植え、天使を描いたアーティストが公園の遊具にペイントして「天使の魔法」をかけた。プロジェクトの活動に関心を持った小学校からプロジェクトメンバーが授業に招かれ、こどもたちのアイデアが公園づくりに活きた。



たびたび登場する公園近くの材木店主、今井さんが作業所の端材を使い木工サークルをはじめると、材木店は小学生の居場所になった。小学生の女の子たちには「私たちの今井さん」と奪い合いになるそうだ。公園の芝生を使い、材木店今井さんと一緒にできることはないか?と考えて、「KUISE SPOON CLUB(クイセスプーンクラブ)」をはじめた。今井さんから材木の端材を購入し、公園で参加者がナイフでスプーンを削る。百貨店に出店して販売したり、今年は商店街に新しくできたあざらし洋品店で、でき上がったスプーンの展示会をした。
5年間アクションプランに沿って活動を続け、市場をはじめとする商店街や公園と関わり、新しい店やアクションプランの活動を支える事業者や地域住民の関係が育っていることが、いま杭瀬で起きていることだと若狭さんは語る。そしていまもアクションクラブの面々は毎月集まり話し合いを続けている。


狭いエリアでゆっくり変化する杭瀬の魅力
杭瀬地域まちなか再生協議会の宮﨑健一会長は、「尼崎全体のことをせえと言われたら荷が重かったが、半径300mほどで見届けられる広さの杭瀬は、自分の住む場所。そこが楽しくなって、ちょっと歩いても『これどうしようか~?』と立ち話ができる人がたくさんいるのが魅力」「平日も休日もみんなが過ごせる時間や場所をつくりたい」と語る。
一方、「行政が目指す再開発とは違うから、この楽しさを実績として報告しにくい」と宮﨑会長。確かに駅前エリアを中心に商業施設や緑の広場が整備されて交通の利便性や環境に配慮する、ある意味計画的な未来志向のまちづくりと比べると、杭瀬アクションクラブは異質に見えるのかもしれない。杭瀬の事業者や杭瀬に関心を持つ人のコミュニティが主体となり、時に立ち話をしたり義援金を募金箱に入れたりながら、ボトムアップで有機的に進むこの取り組みは「じんわり、じとーっと変わっていく」と宮﨑会長は語る。それはアクションクラブの働き掛けが事業者や住民の想いにじんわりとつながり、自発的な行動が持続的に起きつづけているからで、そこにこそ価値があると私は思う。
「新しい店もできたが、閉じる店も多いから、遠くから見るとゴソゴソしているだけやと思われるのかもしれない」と若狭さん。格好よくきれいに整ったまちもいいが、それはどこにでもありそうだ。お客の目で見れば、ゴソゴソと新陳代謝を続けながら自分も受け入れてくれる杭瀬、ここでしか買えないモノやコトがある杭瀬、人の関わりしろがある杭瀬は、子育て世代から高齢者まで生きている実感を取り戻す魅力になっているはずだ。それゆえ「杭瀬はなんかおもしろそうやと嗅ぎつけてきた」と何かをはじめたい若者たちも集まってくる。
鮮魚店や精肉店、豆腐店、乾物店など昭和から代々続く老舗が残る杭瀬中市場では事業承継も課題だが、家族以外が引き継ぐケースも出てきた。鶏肉専門店「鳥よし」の先代の社長が「もう店しめよう」と言った時、「それなら俺が継ぎたい」と同じ市場にある惣菜店の息子、石原将司さんが事業承継に名乗りを挙げた。事業を受け継いだ後に大相撲大阪場所のお弁当に焼鳥を納入しはじめた。

「まちの便利屋になったらあかん」
地域環境計画研究所は、先代の都市計画家である淺野弥三一氏が50年前に立ち上げた。行政と住民が二項対立ではなく、都市計画家が間に立ち橋渡しができたらいいと、淺野氏は住民側に立ちつつ、時には行政の理屈を住民に伝えながら、コーディネーター的な仕事をはじめた。淺野氏が特に活躍したのは、1991年の長崎県の雲仙普賢岳噴火災害の被災地復興や、尼崎公害訴訟の支援だ。1995年の阪神淡路大震災で9割以上の家屋が焼失した神戸市須磨区では、復興のための土地区画整理事業を住民とともに進めた。
若狭さんが地域環境計画研究所に入社したのは2001年だ。大学で都市計画を学び、学生として尼崎の調査に参加した。「ここ連れてったろう」「尼崎のことやって立派や」と尼崎の大人たちにかわいがられて、尼崎の人たちの役に立ちたいと就職を決めた。ちょうど会社が震災復興に関わりはじめた頃だ。
尼崎の公害訴訟が1999年に和解に至り、2001年に和解金を使った地域再生の団体を立ち上げることになった。若狭さんはその運営を任され、尼崎南部再生研究室がスタートした。入社当初から、地域環境計画研究所と尼崎南部再生研究室(あまけん)の二足のわらじをはきながらキャリアを積むことになった。
研究室では、「南部再生」という「尼崎南部地域活性化のための情報誌」を季刊のフリーペーパーとしてつくりはじめた。2001年に創刊し現在67号まで続いているが、毎回尼崎南部の歴史や文化を「さまざまな切り口で、南部にまつわるアレコレをおもしろおかしく、ちょっとマジメに」伝えている。当初は和解金を資金として制作していたが、現在は寄付を集めてボランティアで制作している。取材と称して尼崎をまわると、支援をもらえたりもする。
南部再生を発行し1、2年が経つ頃に、阪神尼崎駅の尼崎中央商店街から商店街の事業を任せられた。「ボランティアとは言わん。君たちも若いから仕事せなあかん。仕事として事業をお願いしたい」と依頼されたのが、2003年からはじまる「メイドインアマガサキ」の事業だ。「尼崎ならではの製品、商品、お店、はたまた人まで、地元の人たちが思わず自慢したくなるご当地のプロダクト」を「メイドインアマガサキ」として認証し、2005年にはアンテナショップも運営するようになった(アンテナショップは2019年にあまがさき観光案内所に引き継がれ現在は閉店)。当時の商店街事務局長から「まちの便利屋さんになったらあかんぞ。ちゃんと対価を求めろ。いいものをやればちゃんとお金を払うから」と言われた若狭さんは、「最初はお金になるかどうかわからない。だから、おもしろければやる。そこは線を引いた」と語る。
尼崎で活動をはじめ10年ほどたったころ、尼崎市役所から市の事業パートナーとしてプロポーサルに参加してみないかと声が掛かった。他地域からやってくるコンサルタントよりも、尼崎に根を張る若狭さんたちが着実な仕事をしてくれるという市役所職員の期待があったのかもしれないと若狭さんは振り返る。「みんなの尼崎大学」というコミュニティカレッジ事業や、「AMANISM(アマニスム)」という尼崎市の定住転入支援促進のためのプロモーションサイトを約10年間、運営に関わっている。

コミュニティの底力を発掘してつなげる専門家のあり方
杭瀬中市場は、自立した商売人の矜持が時代を経てもお客様を惹きつけ、若い世代と一緒に市場をもり立てようとする懐深さが世代交代を後押ししていると私は痛感する。戦後の復興そして火災と、杭瀬中市場はいくつもの困難にさいなまれてきたが、そのたびに地域の事業者や住民は「自分たちで立ち上がる」強さと「行動する人への尊敬と応援」、なにより「まちを想う人への信頼」を発揮して新しい人を呼び込んできたのだ。
その市場で、若狭さんはある時はまちの魅力を発信するプラットフォームをユニークな形で立ち上げ、またある時は杭瀬で何かをはじめたい若者と市場をつなぎ、自身も店をオープンする。まちづくりを俯瞰で捉え、まちの歴史や課題、魅力を掘り下げ把握する専門家としての視点を持ちながら、現場の喜びや苦労を実感し、行政とも渡り合う。専門家としてプレイヤーとして杭瀬のまちに関わる若狭さんの存在が、地域主体の持続的な再生を波のように起こし続け、「楽しくおもしろい」道のりに変えているのだと私は思う。
「大きな花火は上げられないけれど、いつも小さな線香花火がパチパチいってる」と宮崎会長は自嘲気味に語ったが、線香花火をやってみたい人が入れ替わり立ち代わり現れ、それを見たい人が集まって、自分もやる側に回ってみようという人が現れる。
誰かにやらされているわけではなく、自律した自由があるのが杭瀬というまちだ。
それこそが「生きているまち」の姿だと私は確信した。




