
理学療法士である著者は、東京・府中市で訪問看護ステーションおよび居宅介護支援事業所を運営しながら、カフェや空きアパートを使ったコミュニティ事業を展開している。あそびを通じた表現活動を行うアトリエ、中高生のサードプレイス、菓子工房、銅版画工房などが半径50メートル内に集まる一帯の名は「たまれ」。最寄の多磨霊園駅と、人が「溜まる」をかけて名づけられた。
こうした活動を通して実現しようとしているのは、人と人との「弱いつながり」だと著者は言う。2011年の東日本大震災以降、とみに加速した人と人との「つながり」を絶対視する風潮への違和感からたどり着いた、「たまれ」という名の「場づくり」。その足跡を振り返りながら、医療と患者、医療と地域、人と人の「いい感じ」な関係を考察する。
#18(最終話) 「たゆたう」つながり :ただ、共にある関係
僕にとって、「つながり」は安心でもあり不安でもある。誰かとつながっている、それだけでほっとするけど、同時に見えない怖さもそっとついてくる。見えない不安と付き合いながら、それでも誰かや社会との「つながり」を保ち続けるには、どんなふるまいが必要なんだろう。
この問いに明確な答えがあるとは思わないし、もしかしたら、答えを出そうとすること自体が違うのかもしれない。それでも、この連載を書き進める中で、ぼんやりと「つながり」の輪郭のようなものが見えてきたように思う。
「つながり」は、何かを解決する手段や、孤独を埋めるための道具ではなくて、誰かと強く結びつくことでも、必ずしも何かを一緒にやることでもない。それは、目には見えないかもしれないけど確かにそこにあるもので、同じ空間や時間にただいるだけで「つながり」は生まれるものなのかもしれない。
「つながり」は、必ずしも役に立つとか、立たないとか、そういうことで測れるものではなくて、何も起こらなくてもただそこにいるという選択があっていいと思う。時と場合によって距離や時間、親密さは変わるもので、そういうプロセスの中で「いい感じ」な「つながり」がゆっくり育まれてくるのではないだろうか。そうして生まれた関係が、いつしか誰かの暮らしや社会の輪郭を少しずつ描きかえていき、それが巡り巡って僕らのまわりの空気を変えていく。僕はそう思っているし、願っている。
2023年9月から続けてきたこの連載も、今回で最終話となった。僕はこの間、ずっと「つながり」について考えてきた。「つながり」という言葉を目にするたびに無意識に反応してしまう。それは誰にとっての「つながり」なのか、本当にそれは必要な「つながり」なのか。そんなふうに勝手に思考が動いてしまい、自分の考え方に煩わしさを感じる時もあるくらいだった。
今回はあらためて僕にとっての「つながり」とは何かを整理してみたい。もしよければ、読んでくださっているあなたも、あなたにとっての「つながり」について少しだけ考える時間にして欲しい。
2014年にシンクハピネスを立ち上げたころ、僕は「医療と地域をつなぐ」ことを目標に、とにかくがむしゃらに動いていた。初めて出会う人とは共通点を見つけて距離を縮めようとし、困っていそうな人がいれば、相手の気持ちも確かめずに手を差し伸べていた。「つながりをつくれば、僕らが暮らす地域の医療や福祉における困りごとが減る」――そんなふうに強く信じていた僕は、いま振り返ると本当に独りよがりなやつだったと思う。
活動を続けていくなかで、「それってあなたの押し付けだよね?」という、胸に突き刺さるような問いを何度も受けた。その問いとひたすら向き合ううちに、少しずつ「つながり」という言葉に違和感を抱くようになっていった。
誰かにとって「つながらないこと」が必要な時もある。それに、そもそもその「つながり」は本当に求められているのか。そんな考え方を持てるようになった頃には、「つながり」という言葉を乱用していた過去の自分に、どこか気持ち悪さを感じていた。
もちろん、生死に関わるような場面では、迷わず「つなぐ」判断が必要になることもある。でもそれは、その人が生を望んでいるという前提があればのことで、それを抜きにして「つなげばいい」とは簡単に言えなくなった。少しずつではあるけれど、自分の価値観が変わってきたことにようやく気づくようになった。
そのうちに、「たまれ」の関わりの中で生まれている関係性を、僕たちは「弱いつながり」と呼ぶようになっていった。この言葉を使いはじめたことで、新しく見えてきたことがある。たとえば、「弱いつながり」によって医療や福祉とまちのあいだにどのような関係が生まれているのか。また、自分自身にとって「弱いつながり」とはどのような状態なのか。そんなことを考えるようになり、僕のなかで「つながり」に意味づけをする必要がでてきた。「たまれ」で起きていることは、まちに暮らす人たちのヘルスケアにどのような影響をもたらしているのか、それをどう言葉にして、どんなふうに社会に説明すればいいのか。そんな問いを深めるために、僕は大学院へ進学することを決めた。
そこで僕は、自分なりに「つながり」と「弱いつながり」をこう定義してみた。
●つながり:個人、友人、住民、団体、企業等、それぞれが近づいたり、離れたりを繰り返す、流動的なもの
●弱いつながり:何となくお互いを知っているようなつかず離れずの関係にある2者が、必要な時に声をかけ合える関係が持続的に続いている状態
修士論文を書き上げた時、やっとの思いで搾り出したこれらの言葉は一定の納得感もあったが、あれから2年が経ったいまでは、これらは少し硬くて、手ざわり感がないように感じている。社会学に関心のある人に「弱いつながり」という言葉を使いながら「たまれ」における医療と暮らしの関わり方の話をすると、「それってグラノベッダーのweak tieの話だよね」と言われることがある。たしかに近しい面はあるが、僕が思う「弱いつながり」はもっと人間臭くて、綺麗ごとだけでは済まされないドロドロとしたものも含んだ生々しいものだと思っている。最近では自分なりの言葉をつくり、定義し直すのもアリなんじゃないかと思うようになってきた。

わかりあえなさをつなぐこと
久しぶりに文藝書が読みたくなり、前から気になっていた凪良ゆうさんの『流浪の月』(創元文芸文庫、2022年)を手に取った。2020年に本屋大賞を受賞した作品で、2023年には別の作品『汝、星のごとく』でも同じ賞を受賞していて、本屋で見るたびにカバーのデザインに惹かれていた。
物語は、小学5年生の更紗が、大学生の文と出会い、彼の部屋で数週間を共に過ごすところからはじまる。更紗は父親を亡くし、母親は恋人と家を出てしまったことで、叔母の家に引き取られたが、そこで安心できる場所を見つけることができなかった。ある雨の日に出会った文の静かで優しい佇まいに惹かれ、「うちに来る?」という彼の言葉に迷わずついていく。
文のアパートでの生活は、静かで、何も起こらない穏やかな日々だった。文は更紗に手を出すことも、命令することもなく、ただ一緒に時間を過ごしていた。しかし、社会はその関係を「誘拐事件」として扱い、ある日ふたりの暮らしは突然、断ち切られる。文は逮捕され、「少女を監禁していた加害者」とされ、更紗は「被害者」として保護される。更紗にとって、文との生活はようやく見つけた居場所だったが、社会によってその時間が「事件」として片づけられてしまったことに、彼女は深い喪失感を抱えることになる。
その後、ふたりが再会する15年後へと進み、社会から貼られた「加害者と被害者」というレッテルのあいだで揺れながら、それでも再び関わっていく姿に、僕は胸をえぐられるような気持ちで読み進めた。更紗と文の関係は、一般的な言葉で説明しようとすれば、うまく説明のつかない関係にある。社会からの見え方は「小児性愛者である誘拐犯」と「その被害者」として「気持ち悪い」関係と捉えられているが、「事実と真実は違う」と作品中で語られるように、2人の関係における真実はそうではない。
支配しない、期待しすぎない。ただ、同じ時間と空間に、そっと身を置く。そうしたあり方は僕がこれまで「弱いつながり」と読んできた関係にとても近いと感じた。
情報研究者であるドミニク・チェンさんの言葉で、彼の著書『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために』にこんな一節がある。
結局のところ、世界を『わかりあえるもの』と『わかりあえないもの』で分けようとするところに無理が生じるのだ。そもそも、コミュニケーションとは、わかり合うためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共にあることを受け容れるための技法である。
ドミニク・チェン(2022)『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために―』 新潮社
この言葉は、僕が#12で書いた『人と人はわかりあえないという前提のもと「いい感じ」をつくるための活動を行っている』にも通じる。わかりあえないからといって諦めるのではなくて、僕と誰か、僕らと誰か、医療や福祉と誰かの間にある差異を差異のままに受け止めてみる。わかりあえなさを抱えたまま、でも一緒にいる、あることを続けてみる。これは僕が語る「弱いつながり」のプロセスを具体的に表してくれたものだと感じた。
ここで、#16で書いた「弱いつながり」の生成プロセスに立ち戻ってみる。

「何となくお互いを知っているようなつかず離れずの関係にある2者が、必要な時に声をかけ合える関係が持続的に続いている状態」という「弱いつながり」を4つの要素に分けて図式した。時間の流れに沿って整理すると、まず①地域住民が誰もつながっていない状態からはじまり、②地域住民のAさん、Fさん、Gさんが何かしらのきっかけによって出会い顔見知りの関係が生まれる。さらに、③必要が生じた時にAさんとGさんは声をかけ合うようになり、④用が済めばまた日常の顔見知りの関係に戻っていくーーそんなつながりの流れだ。
ただ、このプロセスには悩ましい点もある。#16でも触れたが、僕の師匠である中村陽一さんからこんな指摘があった。
「弱いつながり」には「強いつながり≒強い紐帯」のような拘束性が薄いぶん、かえって「柔らかな強さ」がある。つまり、相手との距離や関係性に選択の余白があり、それによって③と④のあいだを自由に行き来できる柔軟性がある。
そのように、「弱いつながり」は関係性の硬直を避けることができるし、必要な時にだけそっと近づき、また自然に離れることもできる。けれども、その自由さがうまく機能するのは、あくまで当事者同士が同じ温度感を共有している場合に限られる。もし一方がより恒常的で親密な関係を求め、もう一方がそうではない場合、そのズレは関係をややこしくしてしまう――。
このような考え方を受けて、僕自身も改めて考えた。このズレは本人たちの意図しないところで、周囲の人々や社会からの見え方によって関係性を変えられてしまうこともある。AさんとGさんがどれだけ「弱いつながり」でありたいと願っていても、他者の目がそれを「強いつながり」と誤解すれば、外からの干渉を受けることがあるのも悩ましいところだ。
ヤマアラシのジレンマ
連載の一番初めで僕はバツ2であるという自己紹介をした。目を引かせたくて、そのような自己紹介をしたつもりは全くなくて、いつからかわからないけど、誰かと強くつながっていることが、僕にとっては怖くて、しんどいものになっていた。
それは、婚姻関係のように法的に定められた「つながり」だけでなく、「付き合っている」とか「親友」とか、世間的に強くイメージされている関係性にも言える。さらには「家族なんだから助け合って生きていくのは当たり前だよね」と言われる関係も、たぶんかなりしんどい。
「弱いつながり」の生成プロセスでいうところの③と④。ここでお互いが同じような温度感でいられるなら、関係は心地よいものになるのだろうけど、実際にはどちらかが親密さや恒常性を望んでいたり、あるいは社会からの見え方がその関係に意味を与えすぎたりすると、とたんに息苦しくなる。僕自身もそうしたズレを何度も経験してきた。
これは、ここまで書いてきた暮らしと医療や福祉との関係にも通じる。困っている人が目の前にいたら、すぐに科学的根拠のある正しい手法を使ってなんとかしようとするのが専門職にとって当然なことであると思うし、僕たちはそれを学んできた。正しさが強ければ強いほど、かえって関係性がこじれてしまうこともある。たとえば、その関係が顔見知りだったとしたら、急に過剰な関わりをしてしまったり。でも、相手はその瞬間には解決を求めていないかもしれない。
僕がこういう話をするとき、いつも思い出すのが「ヤマアラシのジレンマ」だ。寒さから身を守るために、2匹のヤマアラシはお互いに体を寄せ合おうとするけれど、近づきすぎるとトゲでお互いを傷つけてしまう。だから彼らはお互いを傷つけずに暖をとるための「ちょうどいい距離」を探し続ける。
つながりって、たぶんそういうものだと思う。誰かと一緒にいたい。でも、近づきすぎると痛い。ぬくもりが欲しい、でも、傷つくのが怖い。それでも、僕(ら)は、やっぱり誰かとつながっていたい。社会や制度が言っているからではなくて、やっぱり、誰かと関わっていたいし誰かと生きていたいーー人間臭さってそういうものじゃないのかな。
すごく矛盾したことを書いているのはわかっている。でも、この矛盾をすぐに解こうとせずに、そのまま抱えたままでいることで、僕にとっての「いい感じ」な関係でいられるのかもしれない。
アンコントローラブルな「つながり」
僕の矛盾に対して、ひとつの見通しをくれた人がいる。NTT コミュニケーション科学基礎研究所の渡邊淳司さんだ。彼の「ウェルビーイング」についての考え方が、僕にはすごくしっくりきた。
「つながり」について色々調べてきた中で、様々な研究者の「ウェルビーイング」の定義にも触れてきた。たとえば、社会学者の坂倉杏介さんは「身体だけではなく、精神や社会生活などを含めた総合的な健康状態を指し、端的にいえば『心の豊かさ』を示す概念」と言い、幸福学の第一人者である前野隆司さんは「幸せ、健康、福祉などの複数の意味を持ち、医者は健康の意味で使い、福祉分野では福祉と訳される」と指摘した上で「自分の幸せを考えながら、みんなの幸せも同時に考えて、社会全体で持続的な幸せをめざす状態」としている。他にもウェルビーイングに関しての定義は多くあって、それぞれの分野で大事な視点になっているが、日本語としての意味が複数あり、定義やニュアンスが少しずつ違っていて、ある意味プラスティック・ワードっぽいなというところもある。
だからこそ、僕は「ウェルビーイング」を参考にしつつ、「いい感じ」という言葉を使ってきた。自分の「いい感じ」と相手の「いい感じ」と、またその周りにいる人たちの「いい感じ」など、それぞれの「いい感じ」は違って、あくまで個別の感覚である。だからこそコミュニケーションが大事だと僕は思う。
渡邊さんが「ウェルビーイング」を《ゆらぎ・ゆだね・ゆとり》という言葉で説明しているのを読んで「これだ」と思った。僕がこれまでうまく言葉にできなかった感覚を、3つの「ゆ」で整理してくれていたからだ。
以下は、渡邊淳司、ドミニク・チェク(2023)『ウェルビーイングのつくりかた 「わたし」と「わたしたち」をつなぐデザインガイド』(ビー・エヌ・エヌ、2023年)を引用しつつ、僕自身の見解を付け加えたものだ。
1.ゆらぎ
渡邊さんは「それぞれの人にとっての変化のタイミングで文脈が尊重され、変化できること自体に価値がある」と言う。これを僕なりに言い換えるなら、僕らはその日その日で考えていることが変わる。昨日は誰かといたいと思っていたけど、今日はひとりでいたいとか。昨日はお肉を食べたかったけど、今日は魚を食べたいとか。昨日は体調よかったけど、今日はちょっとしんどい、とか。そんな「ゆらぎ」が、いつも僕らの中にある。この差異は悪いことではなくて、差異があることが当たり前と言う姿勢が大事なんじゃないかなと思う。このように変化できること、変化があること自体に価値があると彼は言っている。
2.ゆだね
「多様な対象(AIも含む)と、ゆだねあう中で生まれる価値」であり「自律と他律のバランスの中で、自分にとって心地よいところを探ることに価値がある」と渡邊さんは言っている。
人はおそらく一人では生きていけなくて、仕事も家庭も、地域も、誰かとの関係の中で成り立っていると思う。渡邊さんの言葉を僕なりに言い換えると「誰かとの関わりの中で、自分と相手にとって心地よいところを探り合う」という感じだろうか。繰り返しになるが、自分の考えと相手の考えは100%合致することはなくて、たとえば医療の場面だったら、医療の「正しさ」を患者や家族に押し付けてしまいがちだ。でも、その「正しさ」がいま目の前にいる人にとって本当に必要なのか、心地いいかどうかは別の話である。「正しさ」よりも先に、目の前にいる人は、どう生きたいのか、どう暮らしたいのか、何が好きで何が嫌いなんだろうかを探った上で、自分の考えを選択肢の1つとしてどうぞと差し出すーーそんな考え方が大事なんだろうなと思う。
フラスタでの関わりも、まさにそれに近い。誰かと誰かの間に、コーヒーとか、イベントとか、ちょっとした出来事を置くことで、直接的な関わりではなく、何かを介して関わる場をつくっている。これは渡邊さんのいう「ゆだねる」という関係の一つなんじゃないかと思っている。
3.ゆとり
そして、3つ目は「ゆとり」。渡邊さんが言っていたのは「目的を意識化せずにゆとりからの可能性を楽しむ」という考え方だ。
訪問看護の現場で看護師として患者と関わる時って、その患者の目標や目的を達成するためにケアに入ると思う。例えば、「沖縄に行きたい」っていう希望があったとき、その言葉をどう扱うかで全然違う。すぐに「じゃあ飛行機の手配をして、付き添いは誰で、宿はここで……」って進めるのも一つだけど、「なんで沖縄に行きたいと思ったんだろう?」「誰と行きたいのかな?」「もしかして、本当は行きたいわけじゃないのかも?」みたいなあいだの話を僕は大切にしたい。つまり、答えではなくて、その答えが生まれるまでのプロセスにこそ、大切なことがあるということだ。
この視点は、連載の中でも何度も触れてきた「医療者の正しさ」にもつながっている。僕たち医療や福祉の専門職の多くは、「目の前に困ってる人がいるなら、すぐに解決してあげなきゃ」って思うクセがついてるし、たくさんの「科学的に正しい選択肢」を持ってる。でも、それってあくまでも医療というフィールドでの正しさであって、その人の人生の中での正しさとは限らない。だからこそ、「ゆらぎ」の視点が大事になるし、そして「ゆとり」を持って関われることが、その人にとっての、その瞬間における答えを一緒に見つけていく上で欠かせないんだと思う。
僕たちがやっている「たまれ」もまさにそうで、「つながる」ことを目的にしているわけではない。コーヒーを飲んだり、味噌づくりをしたり、イベントを開いたり、ただそこにいていいよという時間や空間をつくったり。そんな、偶然や寄り道、余白みたいなものを大事にしていると、結果として関係が育まれていく。そんなプロセスを楽しめること、それこそが「アンコントローラブルなつながり」なのかもしれない。「目的を意識しすぎず、ゆとりからの可能性を楽しもうぜ」みたいな感じかな。
「たゆたう」つながり
「弱いつながり」の生成プロセスでは、①から④までの段階を通じて関係性が育まれていくと書いた。①誰ともつながっていない状態から、②顔見知りが生まれ、③必要なときに声をかけ合える関係になり、④また日常の顔見知りへと戻るーーその流れの中で、③と④のあいだにある曖昧で流動的な関わりを、僕はずっと言語化できずにいた。「ややこしいことになる可能性がある」と指摘されたその部分だ。
そんなとき、渡邊淳司さんの「ゆらぎ」「ゆだね」「ゆとり」という考え方や、『流浪の月』の更紗と文の「理解することよりも、ただ共にある」ことを大切にする関係、そしてドミニク・チェンさんが語る「わかりあえなさを受け止めて共にある技法」といった言葉たちに触れていく中で、僕の中で浮かび上がってきた言葉がある。それが「たゆたう」だ。
「小舟がたゆたう」とか「雲がたゆたう」というように使われるこの言葉には、「ゆらゆらと揺れ動いて定まらない」とか「気持ちが定まらずためらう」という意味がある。物理的にゆらゆら漂う様や心理的に揺れている様子を表すらしい。ちなみに漢字にすると「揺蕩う」と書き、「揺」はゆれる、「蕩」はとろける、ただようという意味があり「ゆらゆらとただよう」とか「あてもなく漂う」みたいなニュアンスが合わさっているようだ。僕なりにこの言葉に意味付けをするなら、「はっきりとした目的や方向を持たずに、それでも何かとともにそこにある状態」と表現できるかもしれない。
たとえば、僕が水の中でたゆたっていれば、近くにいる人には大きな波で、遠くにいる人には小さな波で「ここにいるよ」と伝わるだろう。近づきたい時は、相手によって近づき方を変える。一緒に遊びたい人だったら大きな波を立てて近づくだろうし、そっとしておいて欲しい人だったら波を立てないよう静かに近づく。波が心地よくない人は自然に離れていくかもしれない。「たゆたう」ということは、誰かとの距離やタイミングを図りながら、同じ時間や空間に身を置くことだと思う。
これまで触れてきた「ゆらぎ」「ゆだね」「ゆとり」「ただそこにある」「つながり」「弱いつながり」。僕なりにこれらに意味付けをしてきたことで、「たゆたう」という言葉で表現できた気がする。
「わかりあう」とか「理解する」とか「解決する」ことを目指すのではなくて、ただ同じ時間と空間に身を置きながら、無理に重ね合わせることなく、ただそこにいること。そこには目には見えないかもしれないけど、確かに「つながり」がある。そんな「たゆたう」ようなつながりが、「弱いつながり」の生成プロセスの中でこそ、生まれてくるのではないかと思う。
この連載では「弱いつながり」という言葉を手がかりにしながら、暮らしと医療・福祉のあいだにどんな関わりがあれば「いい感じ」な関係になるのかを探ってきた。繰り返すが僕にとっての「いい感じ」とは、それぞれが望む暮らしの実現である。
ずっと探していた「つながり」は、強すぎず、でも切れているわけでもなくて、境界線があるようで曖昧でもある。そんな不安定だけど心地よいあり方だったのかもしれない。
暮らしと医療・福祉の関係も、きっとそういうものなんだと思う。医療や福祉には科学的根拠に基づいた「正しさ」があるし、暮らしの中には人それぞれのこうありたいという「正しさ」がある。それぞれの輪郭は明確にあるけど、その境界線はどちらかの「正しさ」で無理に壊すものではなく、必要な時に行き来できる曖昧さがあればいい。お互いの輪郭を保ちながら、その曖昧さを許容しながら一緒にあることで「いい感じ」は育まれていくのだと思う。
僕自身も、たぶん誰のものにもなりたくなくて、どこかに強く所属したいわけでもない。でも、誰かとは関わっていたいし、たゆたいながら「自分でいる」ということを大切にしたい。そんな気持ちを、ようやく少しずつ言葉にできるようになってきた気がする。
医療や福祉は「何かをしてあげる」ことや「問題を解決する」ことに価値が置かれがちだけど、その手前にある誰かと「たゆたう」時間やプロセスにこそ、大切なものがあるのではないだろうか。遠回りをしたり、寄り道をしたり、迷ったりしながら育まれる誰かとの「たゆたう」関係が、僕とあなた、あなたと誰か、医療と患者、医療と地域とのあいだにある、それぞれの「いい感じ」な関係をつくっていく。 (了)

※1年半余りにわたりご愛読いただき、誠にありがとうございました。 本連載は加筆修正の上、書き下ろしを加えて、弊社より2025年9月頃、書籍として刊行する予定です。どうぞご期待ください。