
理学療法士である著者は、東京・府中市で訪問看護ステーションおよび居宅介護支援事業所を運営しながら、カフェや空きアパートを使ったコミュニティ事業を展開している。あそびを通じた表現活動を行うアトリエ、中高生のサードプレイス、菓子工房、銅版画工房などが半径50メートル内に集まる一帯の名は「たまれ」。最寄の多磨霊園駅と、人が「溜まる」をかけて名づけられた。
こうした活動を通して実現しようとしているのは、人と人との「弱いつながり」だと著者は言う。2011年の東日本大震災以降、とみに加速した人と人との「つながり」を絶対視する風潮への違和感からたどり着いた、「たまれ」という名の「場づくり」。その足跡を振り返りながら、医療と患者、医療と地域、人と人の「いい感じ」な関係を考察する。
#17 同じ空気の中で暮らすということ:医療とまちの関わり方
「今社会に何が必要で何を立て直さないといけないのか、正解はなく、さまざまな見え方や感じ方をすり合わせていくしかない」
2016年11月6日の朝日新聞朝刊に掲載された、哲学者である鷲田清一のインタビュー記事の言葉だ。東日本大震災後、被災地である陸前高田市で住民と日常をともにしながら作品をつくりあげたアーティストやその卵たちがいた。彼らはアーティストとしてではなく、そば屋や写真屋として働きながら、住民の話をひたすら聞き、記録した。「『わからない』他者との出会いに自らを開くことを通じ『深いつながり』を築いた」と鷲田清一は言う。そして、彼らが備えていたのは、「あらかじめ共有するゴールはなくとも、ゆるやかだがもろくはかない人間関係を編み、ともに何かを作り上げていく技」であると、彼らと住民との間にある「つながり」を表現している。
鷲田が話題にした、アーティストやその卵たちの、住民との関わり方は#16で紹介した、FLAT STAND(フラスタ)におけるそれと似ている。特に僕が注目したいのは、「彼らはアーティストとしてではなく、そば屋や写真屋として働きながら、住民の話をひたすら聞き、記録した」というところだ。繰り返しになるが、僕らのフラスタや「たまれ」での活動も医療や福祉の専門職として住民の方たちとは関わっていない。例えば、「顔見知り」程度の関係の人たちからの僕の見え方は、おそらく「週1回フラスタでコーヒーを淹れている人」とか「たまにふらっと来るんだけど、なんだかフラスタの店員とは仲良さそうな人」とか、そんな感じだろう。初めて訪れる人で、ただコーヒーを飲みにきたとか、「たまれ」の誰かに会いにきたという人は会釈程度の挨拶で終わるか、僕が客としてフラスタにいる場合は何もしない。もし、次に会うことがあれば会釈くらいはするかもしれないし、何かのきっかけがあれば会話をするかもしれない。この繰り返しによって、僕らの「弱いつながり」はつくられていく。
では、僕らのような活動をしている医療や福祉の専門職の人たちは、住民とどのような関わりをしているのだろうか。今回は僕が実際にしたインタビューをもとに書いていこうと思う。
緩和ケアへの違和感
まず西智弘さんの活動を紹介しよう。川崎市の病院で抗がん剤治療を中心に緩和ケアチームや在宅診療に医師として関わる一方で、2017年に自らが立ち上げた一般社団法人プラスケアで代表理事を務め「暮らしの保健室」や「社会的処方研究所」の運営を中心に地域での活動に取り組んでいる。
西さんと知り合ったのは2018年で、僕が所属している一般社団法人CancerXの立ち上げメンバーとして一緒になり、その後も仲良くさせてもらっている。CancerXのことを簡単に説明すると、がんの社会課題に対し、さまざまな立場の人たちと一緒に取り組み、問題を解決していくためのプラットフォームづくりをしている団体だ。
彼が運営する「暮らしの保健室」というのは、訪問看護師である秋山正子氏が発起人となり2011年にはじまった取り組みで、西さんはこの活動を「病院にいくまででもないが、日常の中で健康や病気の相談を医療者にできる場所」であると説明する。まさに、フラスタや「たまれ」と同じような目的を持つ場である。西さんが、この活動をはじめた背景には、病院で「緩和ケア」の専門医として日々患者に向き合う中で感じる違和感があったという。
「緩和ケア」という言葉をなんとなく聞いたことがある人もいると思うが、僕の感覚だと「死に近い状態である終末期におけるケア」というイメージを持っている人が多いのではないかと思う。がんと診断を受けた場合、主治医から次々に検査や治療のスケジュールが告げられ、気持ちの整理をする間もなく治療に入る人は少なくないだろう。そして、これ以上の治療方法がないと医師が判断した時に「緩和ケア」の専門医を紹介され、終末期を過ごす人も多いと西さんは話す。実際に、彼の患者や家族に「緩和ケア」はがんと診断された時からはじまるものと説明しても受け入れられないことが多く、彼はここに大きな課題を感じている。確かに、がんと言われ動揺している状況で「緩和ケア」の話をされても、受け入れられない状況というのは容易に想像できる。
このような経験から、日常の中で健康や病気の相談を医療者に相談ができる「暮らしの保健室」をはじめることになった。

医療の看板を掲げる「暮らしの保健室」
「暮らしの保健室」において、西さんが訪れる人とどのような関わり方をしているのかを聞いてみたところ、このような答えが返ってきた。
「医師として関わっているのではなく、医療の専門知識を持っている住民の一人として、話ができる場所である」
ここは僕らと似ている点である。会話を続けると、僕らと違うところが1点見つかった。それは「暮らしの保健室」には医師や臨床心理士などの専門職がいると掲げている点だ。西さんはこう続ける。
「FLAT STANDのような関わりが理想だが、暮らしの保健室という名前を付けないと医療者だと気づいてもらえない。医療者が居ると思って来てもらえた方がよいという感じがしている。でも、ここは悩んでいて、保健室というやり方だと、医療に寄り過ぎていて、FLAT STANDだと医療からは遠いので、その中間くらいがよいと思っている」
確かにそうだ。わかりやすい名前を掲げないと気づいてもらえない。フラスタをただ訪れただけでは、そこで何か健康についての相談ができる場所だなんて全く思わないだろう。いままさに困っている人を対象にするなら、医療という看板を掲げた方が良いのかもしれないが、「じゃあ病院とは何が違うの?」という疑問も出てくる。そんなことを考えていると、さらに彼は心の内を語ってくれた。
「今まで活動をやってきて気づいたことは、医者である僕が前面に出て、まちづくりをしようとすると失敗すること。そんな、自分の限界を知ることができた」
緩和ケア医としてだけでなく、一般社団法人の代表としても活躍し、国や地域に「社会的処方」という概念を推進している彼の口から、まさかこんな言葉が出てくるとは思わず、思わず声を上げて驚いたのを覚えている。どういうことかと尋ねると、彼はさらに興味深い話を聞かせてくれた。
基本的に「医者は問題解決したい人」。どういうことかというと、医師は病院の診察室では、患者の抱えている症状に対して、治療などで問題解決を行う。しかし、住民が生活している地域の場は問題解決をする場ではないため、医師が地域に出ていく時は、考え方を変える必要があるという。その人の抱えていることに対し時間をかけて一緒に見ていくことが必要で、問題解決ではなくて一緒に悩みながら話をしている時間が大切だと思う。
この話を聞いている時、僕は首がもげてしまうんじゃないかと思うほど頷いていた。僕が思うに、問題を解決したいと考えているのは、医師だけではない。医療や福祉の専門職の多くが、同じ思いを抱いているのではないだろうか。#12の「『待つ』ことが苦手な医療や福祉の専門職」という項でも触れたように、すぐに解決しようとする姿勢は、医療や福祉に関わる人にとって、ある意味では当然のことであり、それ自体を否定するものではない。
ただ、彼が言うように、どんな場でそれを行うのかは大事なポイントだと思う。病院の診察室なのか、施設の談話室なのか、まちの公民館なのか、カフェなのか――その場所によって、専門職の役割は変わってくるはずだ。患者の暮らしに目を向けずに、医療や福祉の専門的な視点だけでケアを進めてしまうと、かえって本人の苦しみを深めてしまうことがある。
先日、がん治療中の方と話をしていた時に「医療者の正論は聞きたくない」という話題になった。本人も自分の状況を理解しているからこそ、診察室で医療の専門用語を使った「指導」のような言葉を聞かされるのはつらい。それよりも、もっと自分の暮らしにある日常的な話を主治医から聞きたいのだと言っていた。例えば、「これは食べてもいいのか」「お風呂には毎日入ってもいいのか」「デートはしてもいいのか」――そんな、ごく当たり前の生活のこと。治療についてのことを丁寧に説明するのはとても大事なことである。これに加えて、診察室以外での本人の暮らしに目を向けて話をしてくれる医療者がいたら、それだけでも僕が患者の立場だったらその人のことを信頼すると思う。
インタビューの最後に、西さんは自分たちの活動の限界についてこのような話をしてくれた。
「暮らしの保健室に医療という色がついてしまっていること。保健室と掲げると「健康の相談がないと行ってはいけない場所」と捉えられてしまう傾向がある。僕自身は保健室に来てコーヒーを飲みながら雑談するだけでもよいと考えているが、それが思うようにいかない。この先は医療という文脈を使わない関わり方を増やしていくことを目指したい」
コミュニティナースの取り組み
次に紹介するのは矢田明子さんだ。彼女は株式会社CNC 代表取締役を務め、「コミュニティナース」のコンセプトを実践していくための講座や研修を実施し、企業や自治体とともにその社会実装に取り組んでいる。さらに、一般社団法人 Community Nurse Laboratoryの代表理事として、これまでの実践から得た知識をより体系化し、より多くの人が「コミュニティナース」として活動できるよう支援している。
「コミュニティナース」と聞くと、看護師資格が必要な専門職のように思えるかもしれないが、実はそうではない。矢田さん自身がこの活動をはじめたとき、「日常的に人々の健康にお節介を焼く存在」を目指した。看護師でなくとも、誰もが地域で暮らす人たちの身近な存在となり、健康や安心を支えることができるというのが「コミュニティナース」の考え方だ。
この活動を始めた背景には、彼女自身の経験がある。26歳のとき、彼女は父の死に直面した。島根県雲南市で和菓子屋を営んでいた父は、普段は風邪ひとつひかない人だったが、ある日突然体調を崩し、膵臓がんと診断される。それからわずか数カ月で亡くなった。
当時、矢田さんはまだ医療の世界に足を踏み入れていなかったため、それまで医療の専門家に出会ったことがなかった。そんな彼女が「コミュニティナース」を世に広めるきっかけとなったのは、父を通して出会った病院の看護師だった。
「病院で出会った看護師が、父の痛みに対して小豆の温罨法を施してくれたり、痛みが出やすい部位を教えてくれたりしたんです。私たち家族はアイスノンを持ってくるくらいしかできなかったから、その姿がとても不思議に見えました」
それまで、看護師がそこまでの専門知識を持っていることを知らず、父の痛みや症状に対する看護師の的確な対応を目の当たりにし、健康に関する深い知識を持つ存在であることを実感したと矢田さんは話す。
「半年間、父はいろいろな症状が出ていたけど、本当は見過ごせない症状があったんじゃないかって思うようになりました。いざ、死にますよってなってから、こういう会話を看護師とするようになったけど、もっと前から父の病気に気づくきっかけを与えてくれるような、健康に詳しい人が商店街の中にいたらどうだっただろうって」
もし、父親が体調を崩しはじめたくらいの時期に、商店街などの身近なところに健康について専門的な知識を持つ人がいたら、もっと違う対応ができたのではないかと彼女は続けた。病院ではなく商店街のような暮らしの場で、父親のように健康についての相談が必要な時にそれを届けられるような人になりたい。そんな思いが、彼女を看護の道へと進ませることになる。
入学後、コミュニティナーシングという考え方に出会い、大学の仲間とともに「コミュニティナース見習い中」という名刺を持って活動をはじめることとなる。コミュニティナーシングとは、けがや病気を予防し、地域住民が健康的な生活を送り続けられるようサポートすることで、疾患や障がいを抱える人だけでなく、健康な人も対象となり、予防接種の実施や健康診断、生活指導などを行う考え方だ。
彼女は喫茶店でアルバイトをしながら、お店のスタッフとしてお客さんと何気ない会話を交わすことからはじめ、気づくと健康についての相談を受けることが増えたという。そのうち、「コミュニティナース見習い」がいることが店の付加価値になっていったと矢田さんは話す。
こうした経験が各地に広がっているコミュニティーナースという活動の原点となり、いまでは多くの「コミュニティナース」が商店街や公民館、駅やスーパーといった日常の場にいて、人々に声をかけ、健康相談をしたり、一緒に運動をしたりしている。「病院」という特別な場所ではなく、「暮らしの中」にいるからこそ、気軽に話せる存在になれるのだと思う。

看護師ではなく和菓子屋のあきちゃんとして
矢田さんに地域での「つながり」についてどのように考えているかを尋ねた。
「普段は「つながり」ということは意識せずに地域の方たちと関わっている。人間関係は濃淡があるという前提があるので、強い方が良いとか弱い方が良いということではなく、必要に応じて違うと思う。普段は心地よいゆるい付き合いがあり、必要時に深くなるとか」
「つながり」については特に意識していないと話す矢田さん。その言葉を聞きながら、「ほんとかなぁ」と半信半疑だったが、続く話を聞いているうちに、僕は思わず前のめりになった。彼女は「地域の方との関わりに濃淡をつけ、必要な時に声をかけられるような関係を続けている」と語った。
さらに、これまでの活動の中で特に印象に残っていることを尋ねると、彼女はとても興味深いエピソードを語ってくれた。喫茶店で「コミュニティナース見習い」として働いていたという話はすでに触れたが、同じ時期に大学で学んだ知識を活かし、まちで暮らす人たちに健康診断を受けているかなどの声かけをする活動も行っていた。その際、ある方からこんな言葉をかけられたという。
「今まで通りのあきちゃんでいてくれた方がよっぽどここに馴染む。そんな声かけしていたら、付き合いにくくなる人もいるだろうから、今まで通りのあきちゃんでいてくれた方がみんな相談するし、十分やっていける」
西さんの話にもあったが、地域との関わりを持つために、医療者として活動するのか、医療者を語らずに活動するのか、多くの人が悩んでいることだと思う。おそらく、行政や企業など医療や福祉以外の領域で同じような悩みを抱えている人も多いのではないだろうか。西さんがいうように、医療者がまちに出て、地域で暮らす人と一緒に交流の場をつくったり、まちづくりに参加したりする時は、診察室と同じような考え方ではうまくいかないだろう。でも、たしかに、いまこの瞬間に困っている人はいる。医療保険や介護保険などの社会保障制度では対応できないと言われ、そういうもんだから仕方ないと、声を出すのを止めてしまっている人もいるだろう。
医療者としてまちに何かを届けたいという思いがあるなら、医療者ではなくそこで暮らす一人の人として、時間をかけて関わりをつくっていきたい。#16で書いたような「弱いつながり」という考え方を持つことで「何となくお互いを知っているようなつかず離れずの関係にある2者が、必要な時に声をかけ合える関係が持続的に続いている状態」がつくれるはずだ。このような関係をつくるには、まずは届けたいものとは直接関係ないことで、まちの人たちとの接点をつくることが大事ではないかと思う。
例えば、僕らの活動で考えると、フラスタのコーヒーや「たまれ」で行われるイベントだ。矢田さんの場合は、看護師としての彼女ではなく「今まで通りのあきちゃん」で、西さんの言葉を借りるなら「医者を前面に出さない」ような関わり方である。
その土地で暮らすということ
冒頭で東日本大震災後、被災地で住民と日常をともにしながら作品をつくりあげたアーティストやその卵たちのことを紹介した。彼らはアーティストとしてではなく、そば屋や写真屋として働きながら、「わからない」他者との出会いの中で、自らを開き被災地の住民と「深いつながり」を築きあげ、その結果として、作品を作り上げている。鷲田清一は、この関わりを「ゆるやかだがもろくはかない人間関係を編み」と表現した。
鷲田が取り上げたのは小森はるかさんと瀬尾夏美さんの2人による『波のした、土の上』という映像作品で、東日本大震災後の被災地の記憶や風景を記録し、人々の語りを通して復興のプロセスを捉える試みとして制作され、2014年に発表された作品だ。
住民と日常をともにしながら作品をつくりあげた様子を2人はこのように語っている。
私たちは東京の大学院生だった2011年4月に初めて東北の沿岸部を訪れ、地域の人たちに助けられていく体験を通して、「ここに生きている人たちの声を誰かに届けたい」と考えるようになりました。そこで、時間や距離を越えて声を届ける方法として、「記録」に向き合い始めます。 2012年春には岩手県の沿岸に位置する陸前高田市に拠点を移し、その土地のなかで暮らすことを選びました。
私たちはただただ、日々変わっていく風景を目の当たりにしながら、陸前高田の人びとに話を聞かせてもらいながら、4年間の移り変わりの傍らに身を置き続けました。私たちの作品は、この土地と、この土地に生きる人びとの声を拾おうとする一連の行為の集積と言えるかもしれません。同時にそれらが土地の記録の一部となり、声を届ける媒体になろうとする「表現」のひとつの形になるように、と考えています。
デザイン・クリエイティブセンター神戸『小森はるか+瀬尾夏美 巡回展 波のした、土のうえ in 神戸』http://kiito.jp/schedule/exhibition/articles/22696/
私たちはただただ、日々変わっていく風景を目の当たりにしながら、陸前高田の人びとに話を聞かせてもらいながら、4年間の移り変わりの傍らに身を置き続けました。私たちの作品は、この土地と、この土地に生きる人びとの声を拾おうとする一連の行為の集積と言えるかもしれません。同時にそれらが土地の記録の一部となり、声を届ける媒体になろうとする「表現」のひとつの形になるように、と考えています。
「糟谷さんは今の活動を広げることはしないんですか?今後、府中市以外のところで、同じような活動をするとか」
近頃はこんな質問をされることが多くなってきた。僕は決まって「いまはできない」と答える。「弱いつながり」という考え方を持って、そこで暮らす人たちと関わりをつくっていくならば、その土地に暮らす必要があるというのが僕の考えだ。実際に部屋を借りて住まなくとも、毎日そこに通い日々変わるまちの様子を肌で感じ、人と関わりあうことは必須だ。相手にとって何者かわからない僕は、どのようにまちに溶け込むことができるだろうか、巻き込まれることができるだろうか。その土地に身を置き続けながらこんなことを考え動くだろう。
#15で「つなぐ役」の話をした。普段はほとんど関わりがないのに困っている時だけ登場して、医療者の視点だけで「課題を抱えている人」と判断し、相手の置かれている状況やタイミングを考えずにグイグイ入っていくという話だ。たしかに、いま困っている人の問題は解決するかもしれない。でも、その後に困りごとができた時に、その人たちはどこを頼るのだろうか。
小森はるかさんは後のインタビューで陸前高田市での活動を振り返り、「住んでからは、人との関係性は変わったか?」という質問に対してこのような話をしている。
全然違いました。やはり同じ空気の中で、「明日会えなくてもまた会えるかもしれない」という距離感で一緒に暮らしていると、「会わなくても近くにいる」という感じになるんです。小さい町なので少しずつ関係が広がって、自然と知り合う人が増えていきました。あたかも自分たちが町の一員かのように「仮置き」させてもらってた感じです。
REALTOKYO CINEMA『Interview 001 小森はるかさん(『息の跡』監督・撮影・編集)』https://realtokyocinema.hatenadiary.com/entry/2017/03/19/193756
地域との関わりを持つとき、医療者として活動するのか、それとも医療者という立場を前面に出さずに活動するのか。この選択は重要だ。医療者という旗を掲げれば、もしかすると、いまこの瞬間に困っている人がその旗を見つけ、尋ねてくるかもしれない。一方で、旗を掲げなければ、その人と出会うのは「いつか」の未来になるかもしれない。もっと言うと、旗を掲げてもさまざまな理由でそこに行けない人もいることは見過ごしてはいけない。移動手段の問題もあるだろうし、誰かに知られたくないという人もいるだろう。
「目の前で困っている人を救いたい」――多くの医療や福祉の専門職が、こうした強い想いを持っていることだろう。その気持ちはよくわかる。しかし、「困っている」と強く想像しているのは専門職の側であり、当の本人は、医療や福祉では直接解決できない別の問題に直面していることも少なくない。だからこそ、僕らは、その「いつか」が来たときに、目の前の人へ最善のケアを提供できるよう医療や福祉の専門職として研鑽を積み続ける。
同時に、僕自身も小森さんの言う「同じ空気の中で、たとえ明日会えなくても、またいつか会えるかもしれない」という距離感で暮らしている。医療や福祉の専門職が考えるほど、人々の暮らしは医療や福祉を中心に成り立っているわけではない。僕らの日常は、衣食住を基盤とした子育てや介護、人間関係、お金の悩みなど、複雑で生々しい人間模様が渦巻いている。
鷲田が言うように、僕らの暮らしに正解はない。医療や福祉の専門職として、そこで暮らす一人の人として、同じ空気の中で暮らし、さまざまな見え方や感じ方をすり合わせながら、それぞれの「いい感じ」とは何かを考える必要がある。