
理学療法士である著者は、東京・府中市で訪問看護ステーションおよび居宅介護支援事業所を運営しながら、カフェや空きアパートを使ったコミュニティ事業を展開している。あそびを通じた表現活動を行うアトリエ、中高生のサードプレイス、菓子工房、銅版画工房などが半径50メートル内に集まる一帯の名は「たまれ」。最寄の多磨霊園駅と、人が「溜まる」をかけて名づけられた。
こうした活動を通して実現しようとしているのは、人と人との「弱いつながり」だと著者は言う。2011年の東日本大震災以降、とみに加速した人と人との「つながり」を絶対視する風潮への違和感からたどり着いた、「たまれ」という名の「場づくり」。その足跡を振り返りながら、医療と患者、医療と地域、人と人の「いい感じ」な関係を考察する。
#16 「弱いつながり」の本質:ゆるやかな関係から得られるもの、得られないもの
「近年、素敵な意味で使われることの多い「ゆるい繋がり」。
磯野真穂さん(@mahoisono)X投稿 https://x.com/mahoisono/status/1868948098590077122
でも言葉の綺麗さとは裏腹に、この言葉には「繋がり」に対する恐れがある。
でもやっぱり「繋がり」は欲しいから「ゆるく」繋がりたい。
「ゆるい繋がり」で得られるもの、得られないものはなんだろう。」
2024年の年の瀬。Xを見ていると人類学者の磯野真穂さんのポストが目に留まった。そのポストは僕の「つながり」への違和感に対して、やわらかく包むように肯定しながらも、心臓がえぐられるような感覚を覚えた。
磯野さんが「ゆるい繋がり」にどのような意味を持たせて使ったのかはわからないが、僕が思う「弱いつながり」に近い意味だとしたら、確かにそうだ。#15で書いたように、僕は「つながり」に対する恐れのようなものを感じている。「つながる」ことで楽しいことや嬉しいこともたくさんあるが、同じくらいの苦しみを伴うことでもある。それでも、僕は「つながり」が欲しい。
「弱いつながり」で得られるもの、得られないものはなんだろうか。
「『弱いつながり』が育む医療福祉と地域住民の『いい感じ』な関係」
僕が書いた修論のタイトルだ。はじめに先生に見せた時は、賛同はしてくれたものの、抽象的であるので工夫が必要だというアドバイスをもらったのを覚えている。
「弱いつながり」についてもう一度整理しておく。#15で、アメリカの社会学者マーク・グラノベッターがAmerican Journal of Sociologyで発表した学説「弱い紐帯の強さ」について触れたが、僕が思う「弱いつながり」はそれとは少し異なる意味である。連載の冒頭でも書いたように、グラノベッターの論文は社会ネットワーク研究で最も引用数が多いと言われているくらい、社会に大きなインパクトを与えている。このように彼の論文が広く知られているせいもあってか「弱いつながり」の話をすると「直接的なつながりではなく、友達の知り合いのような間接的なつながりがよいということだよね」と言われることが多い。
あながち間違っていないのだが、ではあなたが思う「直接的な『つながり』」や「間接的な『つながり』」ってなんだろうか、と逆に問うとほとんどの人は言葉に詰まる。おそらく多くの人が日常で使う「つながり」という言葉は、この程度のもので、さほど考えて使われていない。
研究者たちは「弱いつながり」についてどう思っているのかと、過去の文献などを調べてみると「『弱いつながり』が有名になり過ぎたとも言える」「微妙な知り合いをとにかく増やしておけばいいという誤解も見受けられる」と指摘しているものもあり、やはり「弱いつながり」が社会に広く知れ渡ったことで概念が形骸化しているのではないだろうか。
ドイツの言語学者ウヴェ・ペルクゼンが提唱する「プラスチック・ワード」という概念がある。特定の意味を持たず曖昧にしたまま広く使われ、社会における言説や意思決定に大きな影響を与える用語を指すが、日常語として使われる「つながり」もその1つだろう。耳触りの良い言葉として、深い意味を持たないまま社会に流通しているのが現状だ。また、松岡正剛はペルクゼンの「プラスチック・ワード」について、「意味が曖昧でありながら、いかにも新しい内容を伝えているかのように見せる乱用言語」と紹介していて、この乱用言語という表現はとても腑に落ちた。
いま、これを読んでくださっている、地域で「つながり」をつくるために日々活動している医療や福祉の専門職のみなさん、自治体、社会福祉協議会などの公的機関のみなさんに問いたい。「つながり」とは何か、どのように考え、それをどのように築こうとしているのかを教えて欲しい。単なる「プラスチック・ワード」として、深い意味を持たずにキャッチーな言葉として使っているわけではないことを説明できるだろうか。
弱い紐帯の強さ
グラノベッターの論文の「弱い紐帯の強さ」とは一体どのような状態なのか、ということをここで説明をしておこうと思う。少々、難しい話になるかもしれないが、なるべく簡単に書こうと思うので読んでもらいたい。
#15では、1973年にAmerican Journal of Sociologyで発表した学説「弱い紐帯の強さ」を簡単にまとめると「強い社会的なつながりを持つ人よりも、弱い社会的なつながりを持つ人の方が、自分にとって新規性のある情報をもたらしてくれる可能性が高い」「異なるコミュニティーを結ぶ『ブリッジ=橋』として役割を持っている」と書いた。
ここでいう「ブリッジ」とは、人と人との関わり合いの中で人と人を結ぶ線であり、この線が紐帯である。図1にXという集団とYという集団がAさんとBさんによって橋渡しされている様子を図式した(図1)。

集団Xと集団Yに所属するメンバーはそれぞれ違う情報を持っていて、AさんとBさんの間に紐帯ができることで、お互いの集団が持っている情報が入っていくことになる。この時、AさんはBさんやCさんと知り合いだが、BさんとCさんは知り合いではないという関係が「弱い紐帯」で、AさんとBさんの関係を「強い紐帯」だとグラノベッターは説明する。
こんな感じの説明で大丈夫かな。続けるね。
共通の知人Aさんを持つ、BさんとCさんという関係を図1に示したが、AさんとBさん、AさんとCさんの関係が親密なものであれば、BさんとCさんは知り合いになりやすい傾向になるとグラノベッターは言っていて、この関係を図式するとこうなる(図2)。

AさんとBさんの関係だけでは集団Xと集団Yの間での交流や情報のやり取りは生まれにくく、Aさんを介したBさんとCさんの関係という「弱い紐帯」によって集団間の関わりが生まれるとグラノベッターは説明している。だから「強い社会的なつながりを持つ人よりも、弱い社会的なつながりを持つ人の方が、自分にとって新規性のある情報をもたらしてくれる可能性が高い」という考え方が彼の学説だ。
僕の考える「弱いつながり」
繰り返すが、僕が思う「弱いつながり」はグラノベッターの「弱い紐帯の強さ」とは少し異なる意味で使っている。つながりの状態というよりも、つながりが「できるまで」と「できた後」のプロセスとして考えているのが「弱いつながり」である。もう一度「つながり」という言葉を整理しておくと、#15では「つながり」についてこのように定義した。
「個人、友人、住民、団体、企業等、それぞれが近づいたり、離れたりを繰り返す、流動的なもの」
つまり、僕がイメージする「つながり」とは常に動いていて、くっついたり離れたりを繰り返している動的なものであって静的な状態を表すものではない。#12で「生命とは“絶え間なく分解、再構築を繰り返す流れそのもの”であり、自らを破壊し続けることで生きている」という、生物学者である福岡伸一の「動的平衡」を紹介したが、「つながり」とはこのような状態であると僕は考える。
ちなみにOpenAI社の対話型AIサービスである「ChatGPT」に「つながり」とは何かを聞いてみると、このような答えが返ってきた。
「日本語では『つながり』は『つながる』という動詞に由来する名詞で、人や物事が関係を持つ状態やその結果を指します」
ChatGPTからの答えも名詞だったが、「その結果を示す」という返答にはChatGPT分かってるじゃん!と感心したところだ。
「私たちは『つながり』をつくります」と謳って活動している人たちがいる。何らかの過程を経て「つながり」をつくるというならまだ良いが、いきなり「つながり」をつくります、はあまりにも暴力的過ぎやしないかと思うことがある。このような例えが良いかどうか分からないが、いきなり「つながり」をつくるという行為は、ここ最近取り沙汰されている不同意性交と何ら変わらないくらい罪深いことだと僕は感じている。
では、僕が考える「弱いつながり」とは何か。僕は研究において、「弱いつながり」を「何となくお互いを知っているようなつかず離れずの関係にある2者が、必要な時に声をかけ合える関係が持続的に続いている状態」と定義した。文字だと分かりづらいと思うので、これも図にして説明しよう(図3)。

こうやって図式してみると、これって当たり前のプロセスだよね、って思う人がほとんどだと思う。この図は僕が大学院修士課程2年の時に苦労して捻り出したものなのだが、いざ完成したものを改めてみた時、至極当たり前のことを書いている自分に拍子抜けしたくらいだ。
再度説明しておくと、この図は「何となくお互いを知っているようなつかず離れずの関係にある2者が、必要な時に声をかけ合える関係が持続的に続いている状態」という「弱いつながり」を図式したものである。この状態は下記の4つの要素から成り立っている。
①誰もつながっていない
②出会う
③医療等が必要な時に声をかけあう
④日常の顔見知りの状態に戻る
この図を説明しておくと、真ん中の右に向かう矢印の横線は左から右へ流れる時間軸としている。①は地域住民が誰もつながっていない状態を示し、②は地域住民のAさん、Fさん、Gさんが何かしらのきっかけによって出会い、顔見知りの関係が生まれる様子を示した。③、④は顔見知りの関係であるAさんとGさんが、何か必要が生じた時にお互いに声をかけられる関係であることを示し、用事が済めば、また日常の顔見知りの関係に戻るということを示した。
僕が「弱いつながり」で強調したいのは②のプロセスを踏んでいるか、というところだ。#15で「いい感じ」のところで書いたように僕らが暮らしているまちにはさまざまな背景を持つ人が暮らしている。暮らしている人だけではなく、そこに訪れる人もいれば、どこかに行く途中に通り過ぎるだけの人もいるだろう。このようなさまざまな人たちの「つながり」をつくろうとする時に、いきなり③のような「必要な時に声をかけあえる関係」をつくろうとすることは、あなた自身の正しさの押し付けになる危険を持つことは考えなくてはいけない。
僕が考える「弱いつながり」を大学院時代の修士論文主査であり、僕にとっては社会デザインの師匠でもある中村陽一さんに見てもらったところ、面白いコメントをいただいたので紹介する。
《「弱いつながり」には「強いつながり≒強い紐帯」のような拘束性が薄いところに、かえって「柔らかな強さ」ー選択性が生じる余白があるということだと思っており、それは図3における③と④の移動が比較的自由に行える可能性があるということでもありそう。ただし、これは相互にそう思える場合はよいが、どちらかが、もっと恒常的だったり親密だったりする関係性を求めているときには、ちょっとややこしいことになる可能性もある。》
この視点は僕にとっては新しい気づきだった。というより、僕が心の中でモヤモヤしていたことを「ややこしいこと」という言葉でこれ以上ないほど適切に言語化してもらった感覚だ。たしかに、誰かとの関係性において、お互いがこのような「弱いつながり」を良しとする考え方を持っていればよいが、どちらかがもっと近づきたいという思いや、たまにではなく常に近くにいて欲しいというような考え方を持っていたら、中村氏のいうように、まさに「ややこしいことに」なる。冒頭で書いた、「つながる」ことで楽しいことや嬉しいこともたくさんあるが、同じくらいの苦しみを伴うことでもある、というのはまさにこういうことである。
きっかけこそが大事
「つながり」をつくりたいなら、出会い方をどのようにするかは時間をかけて考えた方がよい。数年後を考えた場やまちのコミュニケーションを考えるなら、僕らのような「弱いつながり」という考え方が良いかもしれないし、いまこの瞬間に困っている人をサポートするなら、やや強引なつながり方が必要な時もある。例えば、生死に関わるような状態であれば、速やかに医療などにつながる方法を考えなければいけない場合もあるだろう。もっとも、その人が生を望んでいるという前提があればだが。
ここで、僕らが運営するFLAT STAND(以下、フラスタ)における「弱いつながり」を紹介しよう。繰り返しになるところもあるが「弱いつながり」をつくる要素としてとても大事にしているところなので、以前読んでくださった方も初めての方も読んでもらえたらと思う。
#12でも書いたが、フラスタでは僕らからお客さんに話しかけることは滅多にない。フラスタが医療や福祉と暮らしの接点となり、何かあったら相談できるような場にしたいと目的を掲げているにもかかわらずだ。
フラスタを訪れる方との話が生まれる瞬間は、提供しているコーヒーについて聞かれた時や本棚にあるさまざま分野の本について聞かれた時、店内にカフェとは関係のないような、訪問看護ステーションのリーフレットやヘルプマークなどが置いてあって、それらについて聞かれた時である。医療や福祉などの相談を受けたいなら「医療相談何でも受けます」的な看板を出せば良いのにと思う人もいると思うが、それだけはしたくなかった。

フラスタを訪れる人になったとして想像してもらいたいのだが、フラスタに入ってコーヒーなどの注文を受ける前に「今日はどうされたんですか?」「何に困ってここに来たんですか?」と店員から話しかけられたらどうだろうか? ちょっと極端すぎるシチュエーションかもしれないが、実際にこのようなコミュニケーションをとっているところもある。ただコーヒーを飲みにきただけの人、人との待ち合わせでたまたまきた人、噂で医療や福祉関係の人がやっているカフェと聞いてきた人など、訪れる人の背景はさまざまだ。「一人でも健康について困っている人を減らしたいんだ!」という思いは素晴らしいけど、いきなり答えを求めることは、暴力となんら変わらないことだと思う。
「いまは話しかけて欲しくなかったのにな」「いまはその情報はいらない」「ちょっと距離が近い」「ただコーヒーを飲みにきただけ」など訪れる人の目的はさまざまである。コーヒーを飲んでいる時に目に留まった医療系の本、お菓子を食べている時にたまたま聞こえてきた医療の話、本を読んでいるときにたまたま隣に座ったお節介おばちゃんがフラスタが医療や福祉の専門職が運営しているカフェだと話しかけるなど、コーヒーや本などのモノや、イベントなどのコトを人と人との間に置いて出会いのきっかけをつくっているのがフラスタや「たまれ」である。
そして、ここで大事にして欲しいのが、人の暮らしは日々変化しているということだ。昨日はこの距離感で良かったのに、昨日と一緒のつもりで接したらちょっと違ったなんて経験がある人もいるだろう。食べたいものや、会いたい人、着たい服などが日々変わったり、その日によって喜怒哀楽の感情も違う。一人でいたい時もあれば、誰かと一緒にいたい時だってある。だからこそ、あなたが求めているような答えに導きたいなら、出会い方やきっかけづくりを考えることがすごく大事なことである。
誰かの感情に向き合うためのきっかけづくりとして、僕らはコーヒーや本などのモノや、イベントなどのコトを出会いのきっかけにしている。話しかけちゃえば簡単なのはわかっているけど、僕らはその人の暮らしやタイミングは大事にしたい。
人に向き合うのって本当に大変なことで、言葉を選ばずに言うとすごく面倒な作業だ。でも、ここを丁寧にやらないと、僕やあなたは容易に暴力的な「つながり」を生む。#15の終わりに「つながり」をつくるには覚悟が必要だと言うのはこういうことである。
今回は「弱いつながり」という言葉の整理をした。次回は、この「弱いつながり」が、僕らの暮らしている社会にどのような影響を与えているのかを、医療や福祉の分野で地域活動をしている人たちの活動を例にして書こうと思う。