
商店街の衰退が叫ばれて久しい。郊外に進出した大型店との競合とそれに伴う中心市街地の空洞化、少子高齢化と人口減による商圏人口の減少、経営者の高齢化と後継者難など、その背後にある要因は日本の社会全体が直面している課題そのものだといえよう。商店街の活性化や再生に向けての模索が各地で続いているが、補助金を中心とした振興策には限界があり、商店街の役割や可能性そのものを見直す動きが広がっている。
そうした中、商店街支援とは無縁だったプレイヤーたちが、商店主や商店会とともに新たな可能性を掘り起こすケースが増えている。
マーケティングプランナーとして活動してきた著者もそのひとり。本連載では、商店街に飛び込んで異彩を放つプレイヤーを訪ね歩き、どんな化学反応から何が生み出されたのか、商店街の未来像を探る。
第9回 アートがつなぐ人と店:商店街に生まれた新たなグルーヴ 吉原中央カルチャーセンター 瀧瀬彩恵さん
東海道の宿場町「吉原」
目の前に富士山が広がるJR東海道線吉原駅からローカル線の岳南電車に乗り換えて5分、吉原本町駅の北を通る東海道沿いにアーケードが連なる吉原商店街が位置する。東海道五十三次の宿場町「吉原」としてかつては陸運や水運の拠点であり、富士参詣の宿駅として栄えてきた街だ。富士市は温暖な気候と豊富な地下水に恵まれ、古くから製紙業が盛んで「紙のまち」として成長した。その後、紙パルプのほか化学、電気機械産業などの多くの工場が集まった。1970年代後半から80年代には、近隣の工場で働き吉原商店街に出かけて買い物や飲食を楽しむ人たちで通りはにぎわったが、1990年代に入ると商店街にあった大型店のヤオハンが閉店し、前後して商店街でもシャッターを下ろす店が出始めた。
現在、吉原商店街振興組合に加盟する店は70軒ほどで、吉原本町通りを中心に飲食店や食料品店、衣料品、日用品、医療機関、銀行など多彩な店が集まっている。旧街道の商店街らしく、明治から続く老舗が残る。その一方で、若い世代が飲食店や雑貨店など新しい店を構え、新旧が入り混じる街だ。



2013(平成25)年に富士山まちづくり株式会社が設立され、吉原商店街界隈の遊休不動産の活用に向けた取り組みが始まった。2015(平成27)年には、商店街にある築50年ほどの空きビルがリノベーションされた「MARUICHI BLDG.1962(マルイチビル)」に。飲食店やコワーキングスペースが入居している。その後、商店街にゲストハウスなどもオープンし、若者が集まるようになった。

若者が吉原商店街に集まるきっかけのひとつが、商店街の中ほどにある立体駐車場「ほんいちパーキング」を3日間貸し切るイベントだった。若手の事業者がイベントを企画運営し、2013年から2015年まで毎年夏に開催。駐車スペースはそのまま出店者ブースになり、出店者がらせん状に並ぶミニ商店街のような空間になった。屋上にはプール、ステージ、ラジオブース、飲食系のブースも並んだ。夜は映画を大画面で楽しみ、3日間テントで滞在する人もいた。
参加者も運営者も「まちを楽しむ」おもしろさに気づき、「おもしろいことをやってみたい」という若者を受け入れる街の人たちの心情を育むきっかけになったのではないかと私は思う。
2021年秋に静岡県掛川市を遊びで訪れた、編集・執筆・翻訳を生業にする瀧瀬彩恵(たきせ・あやえ)さん(34歳)はひょんなきっかけから吉原商店街を知り、翌2022年には吉原商店街内で飲食店を営む田村逸兵さんと富士市吉原商店街を拠点に活動する文化芸術プラットフォーム「吉原中央カルチャーセンター(略してYCCC)」を立ち上げた。(田村さんは一身上の都合により、2024年9月に共同代表を退任)

東京を離れよう
瀧瀬さんは東京に生まれ、2-10歳はアメリカ、その後神奈川県横浜市で育ち、都内の美大に通い東京の広告制作会社で働いていたシティーガール。全国的に知名度が高い大企業や海外のアパレルブランド等の広告制作に関わる業界人だった。資本主義ど真ん中の世界で4年働き、独立してからは編集者、翻訳者、ライターとして、企画立案も含めた制作の仕事をしている。
コロナ禍では文化や芸術公演の自粛がはじまり、公演中止が相次いだ。付き合いのあるアーティストやデザイナーたちの仕事は大きな影響を受け、自分が携わった広告制作の仕事もふわふわと無くなった。
オリンピック競技をしている国立競技場のすぐ近くにある青山や表参道といった、きらびやかな場所には取材で訪れた海外のジャーナリストたちが集まる一方で、空き店舗がずらりと並んでいた。このちぐはぐな東京のあり様に衝撃を受けた。首都圏ではコロナ感染者数も増え、「いろいろな怒りの感情が世の中にあふれている」と感じ、瀧瀬さんは苦しかった。
一方、会社員時代に石川県珠洲市で2017(平成29)年に始まった奥能登国際芸術祭に仕事で関わった縁で、コロナ禍の最中に珠洲市を訪れると現地で再会した役所の方から「東京は大変だね」と声をかけられた。「東京が当たり前ではない」のか。「首都圏に居れば大丈夫だ」と思い過ごしてきたが、自分はなんと偏っている人間かと気づいた。そして、首都圏のシステムから離れた珠洲市で過ごした時間が魅力的だったことを思い出した。
瀧瀬さんが「東京から離れた方がいい」と思ったのは、2021年10月のことだ。
吉原商店街でアーティストインレジデンス?
会った人が首都圏以外の場所にいたら、その人がいる場所に行ってみようと瀧瀬さんは決めた。そんな時に掛川で田村さんに出会い、富士市吉原の話を聞いたのだ。
まず吉原という地名にびっくりした。そして、富士山の富士市なんだと驚いた。瀧瀬さんの母方が静岡出身で、親戚が住んでいたこともあり縁も感じた。2021年12月に思い立ち、はじめて富士市を訪れた。
新型コロナ対策のまん延防止等重点措置の最中で月曜だったこともあり、店の多くはシャッターを閉めていた。「元気がないな」と瀧瀬さんは感じたが、日本には同じように元気がない商店街の風景が大半だろうとも思った。一方、夜に商店街の中にある立体駐車場の屋上に上がり吉原の街を見渡すと、灯がともってキラキラしていた。人はちゃんと住んでいるし、マンションもある。シャッターが下りた商店街と周囲に人が住んでいる風景のアンバランスさに驚いた。
商店街を案内してもらいながら聞いた街の人の話がおもしろかった。それでも、「いまここで吉原に引っ越すというのは時期尚早。ちょっと待てよ」と思った瞬間に「アーティストインレジデンス(略してAIR)があったらいい」という話題が出た。
コロナ禍でリモートワークがしやすい環境になり、瀧瀬さんはパソコンがあればどこでも仕事ができた。でも、引っ越してリモートで働くだけではつまらない。自分が地元経済の巡りにいる口実をつくりたい。それは、仕事としてお金のやり取りをするだけでなく、自分が吉原にいるからできる……お金以外の価値も必要だった。
そんな時、ふとある風景が浮かんだ。
「突飛なモノを作っているアーティストが、街の中、ガラス張りの場所で天井から訳が分からないものを吊り下げる。それを美術館などに行く日常の習慣がない人たち……例えば商店街を歩くおじいちゃんおばあちゃんたちがアーティストの作品のところに行って普通に話をしている。アートのコンセプトがどうとか、そういう話ではない。『こういうのわかる?おもしろいねぇ』と、商店街の日常会話に落とし込める話題で盛り上がっている」
私がやりたいのはAIRかと、瀧瀬さんは気づいた。
吉原中央カルチャーセンターの誕生
それまでも、瀧瀬さんは広告制作の仕事でやりたいことをずっと試行錯誤をしていた。悔しい想いもしたし、うまくいかないこともあった。何より時間がかかるし、アイデアをカタチにすることは難しい。
瀧瀬さんの心の中に吉原が引っかかっていた頃、吉原で映画を上映する話が持ちあがり、ドキュメンタリー映画の制作者を紹介することになった。富士市に映画館はないが、母親の実家がある富士市の病院で生まれた制作者から「ぜひ富士市で上映したい」と働きかけがあり話は決まった。吉原に文化的な活動が必要とされていることを知った瀧瀬さんは「吉原でAIRをやろう」と心に決めた。2021年冬に描いた構想は、2022年2月に「吉原中央カルチャーセンター」として具体化することになる。
「吉原中央」という名称は、商店街にあるバスターミナル「吉原中央駅」にヒントを得た。バス停なのに「駅」という名がついている謎の場所。瀧瀬さんは、仰々しさもありながら、場所を持たない活動ゆえにあえて「中央」を名乗り、地域の人を巻き込む意味で、「カルチャーセンター」というあり方がいいと感じている。
知る人ぞ知るようなハイコンテクストな文化芸術が、噛み砕いた紹介をされる機会が少ないまま首都圏や玄人の間で完結してしまうのはもったいない。伝え方によって「アート文脈」ではなく「日常の範囲内にあるアイデア」として共有できる可能性があるはずだと、地方の芸術祭に関わってきた瀧瀬さんは考えた。「アート」と「ファッションや音楽などのカルチャー」も意外に分断されている。より愚直に、地域資源と絡んだ表現が生まれる機会を創出できないかという課題意識が、瀧瀬さんを突き動かした。
その年の4月には「人の文字や声から色を感じるアーティスト」を呼び、人の名前から絵を描いてもらう試みをした。参加者の絵が集まると「街の色」になる。6月には、街を歩き、外で踊り、短い映像を数多くSNSに投稿しているダンスユニット「アグネス吉井」を呼んだ。場所の特性によって振り付けられる踊りから、吉原商店街の場所の特性がおもしろく浮かび上がるのではないかと考えて、滞在制作をしてもらい、制作を通して発見した街のおもしろさをトークショーでシェアしてもらった。瀧瀬さんのつながりで写真家やアーティストを招いて、富士市内の富士山につながる道で富士山を感じるモチーフを写真に撮ってもらったこともある。


MAW(マイクロアートワーケーション)
2022年11月には、住民主体のアートプロジェクト支援などを行っているアーツカウンシルしずおかのマイクロアートワーケーション(略してMAW)事業に応募し採択された。クリエイティブ人材――アーティストだけではなくキュレーターの方やアートに関わるプレイヤーを静岡県各所のホストが受け入れる。成果物は求められないが、滞在期間中にアーティストが滞在先で感じたことをブログなどで発信し、ホスト側もアーティストの滞在を通して感じたことの発信が求められた。MAWは「ミニマムなAIR」の仕組みなのだ。
AIRは、すでに地域資源として認識されている自然や文化遺産などにフォーカスを当て、そこに滞在することでの影響を期待してアーティストを招聘することが多い。一方MAWは、影響を受けそうなものがあるか分からない商店街なども含めて、いろいろな地域が「うちに来ていいよ」と手を挙げて、一定期間アーティストが地域に滞在をする。その間に制作をしなければならないというよりも、アーティストが地域の人と交流することが期待され、交流の様子をアーティストとホストの双方がブログで発信することだけが求められた。県内でいくつかのホストが手を挙げている中で、吉原にはちょっと変わったアーティストが来た。
その一人、現代美術分野で活躍し「芸術探検家」をうたっている野口竜平さんは、「この人は何をしている人です」とわかりやすい紹介に迷う個性的な方だった。そこで、瀧瀬さんがアーティストと地域の人との交流会やワークショップ、トークショーを企画し、活動の全容が参加していない人たちにも伝わるようにアーカイブをわかりやすくまとめた。その結果、アーツカウンシルしずおかから「MAWの仕上がりがすごいね」と評価をいただき、野口竜平さんの滞在制作をサポートする仕事に声をかけてもらえるようになった。
その野口竜平さんは、蛸の生態と人間社会の有り様から着想した竹製の装置「蛸みこし」を制作するアーティストだ。「あ~蛸みこし、あったね」といまだに街の人から話題に上がる。蛸の特性を調べる学者みたいなアーティストで、「吉原の街の人となりが、蛸にたとえられるよね」と話していた。ドローイングをしたり、パフォーマンスをしたり、地域の資源を拾い上げながら作品に反映した。交流の機会もあり、いまだに地域の人から「街の見方が変わった」という話を聞き、アーティストは「あの人いたよね」と地域に認識されている。




野口さん自身、人ときちんと関わる姿勢があった。アーティストを受け入れる仕組みを作っただけでは、実現しなかったことだ。「制作環境さえあればOK」という意図でAIRを行うと、ともするとアーティストが地域の方と接する機会がないままただ作品が作られてしまい、地域の人が置いてけぼりになってしまう。一個人として地域と交流し、場所を知る旅人のようなスタンスが必要ではないかと瀧瀬さんは考える。一個人として地域の人と関わり、場所を知る旅人のように関わり、地域の人を置いてけぼりにしないアーティストの存在――その想いをアーティストに汲んでいただいた上で企画したのが、2023年の「HELLO YOSHIWARA(ハローヨシワラ)~吉原商店街に出会おう!~2023」だ。吉原商店街店主たちの視点や発想を主役に、地元の皆さんと芸術家が一緒になり、4組の店主×芸術家がペアを組み、さまざまな視点を共有して、吉原商店街に〈出会い直す〉アートプロジェクトだ。その成果は2024年1月に吉原商店街を会場に成果展として地域の人たちに発表されている。
アーティストと店主が影響し合うHELLO YOSHIWARA(ハローヨシワラ)
HELLO YOSHIWARAの発端は、吉原を訪れたアーティストたちの「店主がおもしろい」という反応だった。外の人が来て、何かを起こして、一瞬で去っていくけれど、滞在中におもしろいことが起きている。それに触発されて「実は私もこんな考えを持っています」とか「僕はこんなことができます」と、商店街の店主から反応もあった。
地域の人を掘り起こそうと最初は思っていなかったが、やってみると人材の掘り起こしにつながっていた。そこでHELLO YOSHIWARAでは「店主を主役に」に舵を切った。一方で、店主が主役とは言うものの、実際制作に取り掛かるのはアーティストだ。どこまで店主さんがプロジェクトに積極的に関わってくれるかは未知数だけれど、協力してくれそうな店主にお願いをした結果、おもしろいことが起きた。
「地域の人とアーティストのちょうどいい共存」を目指した結果だと、瀧瀬さんは振り返る。店とアーティストが「おたがいに影響し合う」が、起きたことは組み合わせによって全く違った。
アーティストを凌駕するくらいの作品を、店主がつくってきた例もある。それは商店街でスパイス料理や焼き菓子を提供する〈色男とチャイコ〉店主の色男さん(2024年10月からは外部出店のみ営業)だ。色男さんの個人史にフォーカスしたイラストレーターNozomilkyway(ノゾミルキーウェイ)さんは、作品をちりばめた小部屋を展示会場につくり、関連する女性の絵の平面作品を街なかの窓やディスプレイ等に設置した。



裏通りでひっそりと何十年も営業している美容室は、丸窓が特徴的だ。美容室のインテリアも幾何学系の80年代デザインで、店主のセンスが素晴らしい。ノゾミルキーウェイさんの作品を店に展示する時には、「俺だったらこう展示する」と店主からもアイデアが飛び出した。
経営コンサルティングや自己啓発の郡司塾を開く広告制作会社の郡司淳史さんは、婦人服のセレクトショップ〈FOX〉店主の小林さんと関わった。小林さんは、吉原の路地裏風景を写真や映像を撮ることが好き。小林さんは、自身の「好き」や「美しい」を感じる吉原への偏愛が詰まった街歩きルートを提案し、郡司さんと「対象の潜在的な魅力を引き出す対話」を重ねた。小林さんの「撮影した写真をもとにしたコーディネート提案」が商店街で成果展として地域の人たちにお披露目された。

〈創作酒肴 雪月花〉という昭和レトロな居酒屋では、HELLO YOSHIWARAの参加依頼をしたことがきっかけで、「アーティストとコラボしてこんなことをするからみんなの思い出を頂戴」と、女将が常連さんから「昔、商店街に何があったか」という記憶を集め始めた。地図も店主の手描きだ。自分で何があったかを思い出し、一枚の地図には常連客が過ごした異なる時代の情報が混在している。2月には吉原商店街振興組合などが主催する大規模な「吉原まるごとマルシェ」があった。会場になった表通りにマップを設置して、女将がファシリテーターになって「思い出を描いてください」と来場者からも思い出を集めた。出来上がった思い出の地図は、雪月花で大切に保管している。




HELLO YOSHIWARA 2023でアーティストとの出会いで起こった動きをこの先にどうつなげるか、瀧瀬さんは考えた。今度は店主自身が実現したい作品づくりを主軸にしよう。そこで今年のHELLO YOSHIWARA 2024は「~吉原商店街を演じよう!~」と題し、〈色男とチャイコ〉店主の色男さんを迎え ”あの頃・あの場所”にまつわる吉原商店街の思い出を寄せ集め重ねあわせたラジオドラマを制作している。
2023年に『自分にとってのリアルは誰かにとってのフィクション』と題し、吉原商店街での個人史をたどる街案内ツアーを考案した色男さんだが、小説のように色濃い世界観のある「ツアー台本」も作成している。4か月後に開催された成果展では、ツアー台本を疾走感あふれる自伝的短編小説に昇華。ラジオドラマ制作は「自分が書いた文章をベースにしたラジオドラマを作りたい」という色男さんの夢を叶えるものだ。サポーターとして、渡辺喜子さん(映像監督・俳優)と加藤剛史さん(劇作家・演出家)が加わり、富士見高校演劇部の高校生や市民が演者として参画している。
個人の愛着や意志を醸成する種を蒔く
2024年8月に高校生や地元の大人などの異世代が入り混じり、2000年前後に吉原商店街で学生だった色男さんのエピソードをもとに構想されたラジオドラマの収録が行われた。高校生たちは自分が経験していない20年以上も昔の街の記憶に想いを馳せた。それぞれに台本を読み、役になりきることで、世代を超えて2000年前後の吉原商店街にタイムスリップ。「(収録に参加して、自分は生まれていない)当時の風景が見えてくる」と最後に語った高校生の言葉が印象的だ。いまある街の風景だけでは伝わらない、生き生きとした暮らしの息遣いが高校生にも感じられたのではないだろうか。


「振り返って『よかったね』と思い出で終わるだけでなく、短期間のうちに合理的な結果にどうつながるかということだけでもなく、限りなくソフトなカルチャーや広義の表現――それは決して高尚なものである必要はなく、もっと柔らかくみんなの中にある『表現の種』――を捉えながらアウトプットと俯瞰を重ねるのがYCCCの役割。このサイクルを長期的に重ねた先にやっと見えてくるものがあるのかもしれない」と瀧瀬さんは語る。「さまざまな個人にアクセスをして、個人の総体としての『街』が認識される導線をつくることが出来たらうれしい」と、企画や編集をしてアーカイブを残すところに瀧瀬さんの職能が注がれている。イベントでは、SNSで即時的な発信がなされるが、全体としてどういうことだったかを振り返り、俯瞰して見て残すことがなかなかできない。アーカイブを積み重ねて、見えてくることが変わってくると瀧瀬さんは考えるのだ。
自分の中にある表現の種に気づいた時、内発的動機を刺激する振動(バイブレーション)が人の自由な動きを生む。場をともにした個々の動きが共振して、予定調和を超えた新たなうねり(グルーヴ)が起こるのだと私は実感する。また、アーティストや地域の人々、商店主という立場を超えて人と出会い、街と出会い、ドキドキわくわくしながら、街に秘められた可能性を感じる新しい自分とも出会う。時を経て、人が入れ替わっても、街や人の奥底に流れるささやかなうねりは止まらない。
アートは思いもよらない方向から、五感を通して人に気づきを与える。気づいた自分にハッとしながら心の壁が消え、いつかそれぞれのタイミングで現れて「吉原はおもしろい」という街への愛着や「私はここでこれがしたい」という自分の意志を呼び起こす種になる。
商店街は、商売で地域経済を回す経済的な視点と、自分らしく日常の暮らしを楽しみ、あるいは自ら生み出す創造がバランスを保ちながら実現できる場所だ。個性際立つ店が並ぶ吉原商店街に瀧瀬さんが踏み出し、アートが新たな刺激をもたらして、店主や地域の人々に新しい視座が生まれ、じわじわとそれぞれの内側から動き出している。それぞれの感性を発揮することをゆるし合う寛容さが商売をしたい若い世代を引き寄せ、足元から入れ代わり立ち代わり起こる若い世代のチャレンジが老舗の店にも刺激を与える。経済と創造が富士山の裾野で、絶妙なバランスで廻り始めている。