理学療法士である著者は、東京・府中市で訪問看護ステーションおよび居宅介護支援事業所を運営しながら、カフェや空きアパートを使ったコミュニティ事業を展開している。あそびを通じた表現活動を行うアトリエ、中高生のサードプレイス、菓子工房、銅版画工房などが半径50メートル内に集まる一帯の名は「たまれ」。最寄の多磨霊園駅と、人が「溜まる」をかけて名づけられた。
こうした活動を通して実現しようとしているのは、人と人との「弱いつながり」だと著者は言う。2011年の東日本大震災以降、とみに加速した人と人との「つながり」を絶対視する風潮への違和感からたどり着いた、「たまれ」という名の「場づくり」。その足跡を振り返りながら、医療と患者、医療と地域、人と人の「いい感じ」な関係を考察する。

#12 「わかりあえない」からはじまるコミュニケーション

 庵野秀明が監督を務める『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメの中に加持リョウジという登場人物がいる。表層的には多面的な交友関係を持ちながら、冷静かつ知的で計算高い態度はたまに軽薄で皮肉めいたものがあるが、強い信念を持ち情に深い人物像に彼を推すファンは多い。

 「人は他人を完全に理解することはできない。自分自身だって怪しいもんさ。100%理解し合うのは不可能なんだよ。まっ、だからこそ人は自分を、他人を知ろうと努力する。 だから面白いんだな、人生は」

 第18話「命の選択」で彼は主人公の碇シンジにこう話す場面がある。この言葉は放映から28年経った今でも加持リョウジの名言として記憶されているが、当時15歳だった僕はこの言葉に少し違和感を持ちながらアニメを見ていた。「人と人はわかり合えるもので、それができないのは相手を思う気持ちが足りないからではないのか」なんてことを当時は本気で考えていた。まさに思春期と言える考え方だが、残念ながらその後もこの思考が変わらないまま大人になり、30代を迎え、そして起業してしまった。

住民と医療の懸け橋になる

 医療や福祉の視点を持つ訪問看護ステーションと、まちの視点を持つカフェを入り口としたコミュニティを運営することで、医療や福祉の専門職とまちで暮らす一住民としての両方の立場から、お互いの価値を覗き見ることができる場をつくりたい。そんな構想を描いてFLAT STAND(以下、フラスタ)をオープンさせたという話を#3で書いた。いまでこそ「医療や福祉の専門職として」「まちで暮らす一人の人として」この2つの立場を行き来しながら「医療」と「暮らし」のバランスをとりながら動いているが、起業した当時はとにかく必死で、自分たちの活動をわかってもらいたい一心だった。「医療」と「暮らし」のつながりをつくることばかりに目がいき、初めましての人がいると仲良くなるために共通の話題を探しまくったし、困っていそうな人がいると相手が求めているだろうとお節介を焼いたり、やたら相手との距離を縮めようとしていた。

通常営業時のフラスタ。誰かとおしゃべりしたい人だけでなく、ひとりでゆっくりしたい人も多く訪れる ©デリしげ

 「医療者と患者、医療と地域、この間にある壁をフラットにするには、自分たちから歩み寄って相手のことを理解しようすることが大事である。そうすれば相手も僕らのことをわかってくれるに違いない。その結果として、何かあった時に相談できる間柄になって、地域で暮らす人たちそれぞれが望む健康がつくれるのではないだろうか」

 もし、こんな考え方でフラスタや「たまれ」を運営し続けていたら、この連載も書いていないだろうし、場づくり関連の仕事や探究学習の仕事の話もきていないと思う。

 「お前は出会ってすぐに好きって告白するのか」

 「相手のタイミングや状況を考えて待つことが大事」

 すぐに相手との距離を縮めたくなる僕に、和田やシンクハピネスのスタッフは事あるごとにこんなことを言ってくる。多分2,3年は言われ続けたんじゃないかな。はじめは言われている意味がよくわかっていなかったんだけど、言われたことはなんでも試してみる性格の僕は「待つ」をしてみることにした。「待つ」って意外と難しくて、例えば1対1で話をしているときに沈黙が生まれると、僕はその沈黙が嫌で、それを埋めようと話をしてしまう傾向がある。これは、沈黙をつくったら相手に申し訳ないんじゃないかという思いからの行動だが、よく考えてみると自分の思いを相手に押し付けてることに少しずつ気づくようになった。相手は沈黙があっても気にしない人かもしれないし、その間に考えていることがあるかもしれない。それなのに僕は勝手に自分のイヤを「相手のため」と思い込んで話をし続けていたのかもしれない。

 僕が「待つ」をできない理由のほとんどは自分のイヤの解消のためであって、つまり自分が心地よい思いになるために、相手をイヤな思いにしたくないからと決めつけ、僕の思いを押し付けていたと思うようになった。

 理学療法士など医療や福祉の専門職にも同じことが言える。

「待つ」ことが苦手な医療や福祉の専門職

 医療や福祉の専門職も患者や利用者との距離をすぐに詰めたがる傾向があると思う。専門職の強みとして、初対面だったとしても相手の懐に入り込み、健康状態を覗き込み、家族関係や経済状況などプライベートなことまでも聞くことができる。もっというと、躊躇せずに身体に触れることさえできてしまう。

 医師は血液検査やレントゲン検査などのデータを見て、科学的根拠に基づいた診断を行い、科学的根拠に基づいた治療を提供する。理学療法士は歩き方などの動作や姿勢を見て、痛みや動きを阻害している原因をある程度推測した上でリハビリテーションを行う。看護師は健康状態や生活状況を聞き、疾患を予測した上で看護を行う。さらに、ホームヘルパーのような介護系の専門職は困っている様子を察知して、手を貸したり話を聞いたりする。これらは、それぞれの専門職が担う役割として必要とされているスキルである。

 ここで1つの例をあげるので、みんなにも考えてもらいたい。ホームヘルパーがひとり暮らしをしている方の自宅に定期的に訪問することになったとしよう。ケアの内容は主に掃除や洗濯など30分の生活援助である。事前にケアマネジャーから「◯◯さんはひとり暮らしで話し相手がいないから寂しい」という情報をもらっていたホームヘルパーは掃除や洗濯などを行いながら、利用者になるべく話しかけるように努めていた。すると突然、利用者からクレームが入る。クレームの内容は「一生懸命掃除や洗濯をしてくれるのはありがたいんだけど、来てもらっている30分間ずっと話しかけられるので疲れてしまう」というものだった。

 このようなクレームは実際に少なくない。事前情報で「寂しい」と聞いていたホームヘルパーは「だったら私が行く時くらいは話し相手になってあげたい」という思いで行動した結果クレームにつながるというケースだ。「寂しいなら話し相手になってあげよう」という考え方は素敵だけれど、ちょっと安易すぎる。なんで寂しいのか、その利用者にとって寂しいとはどのようなことなのかなどを掘り下げないまま、そこに入り込み、結果としてケアをする側の押し付けになっていたということは良くあることだ。残念ながら、このクレームに対して「あれだけ親身になってケアをしたのに、それを否定されるなんて変な利用者だ」と思うケアの提供者もいるということも加えておく。

 これはさっき書いた僕の考え方に近いもので、自分が誰かのためにケアをしたという満足を得るために、自分のケアの理想を相手に押し付けているとも言える。この場合、利用者が思う「寂しい」とホームヘルパーが思う「寂しい」は違うという見方が必要で、必ずしも物理的に近い距離にいることや、話しかけることだけが「寂しい」を埋める手段ではない。

 特に資格を得るための教育として「奉仕」の姿勢を学ぶ看護師や、お節介が好きでホームヘルパーになりましたという人にこのような事象が多い気がする。

一杯のコーヒーから生まれるコミュニケーション

 かくいう僕も理学療法士としても、一人の人としても、人とどのような距離感でいたら良いのかわからず迷っていた。さっきのホームヘルパーの例のように自分から距離を詰めすぎて事故を起こしたこともあるし、距離を取りすぎてしまい機会を逃したこともある。理学療法士という専門職としてだったら役割を与えられているので患者や利用者とそれなりにうまく距離を測れるが、フラスタにいる自分は何者でもない一人の人である。特にオープン後の1,2年はお客さんに話しかけまくったり、求めていないのにこちらから一方的に情報を提供したりしていて、その度に和田やシンクハピネスのスタッフから「答えを出しに行き過ぎだ」とか「もっと待つ姿勢が大事だ」とか言われてさらに迷子になっていた。何をしたら良いか分からなくて何もしない自分が怖かったんだと思う。

 そんな中、相手との関わり方のヒントをくれたのが#3で書いた『しあわせのパン』という映画である。監督と脚本は三島有紀子さんで、大泉洋さんと原田知世さんが主演を務めている。再度あらすじを書いておく。

北海道洞爺湖畔の静かな町・月浦に、りえさんと水縞くんの営むパンカフェ「マーニ」があった。実らぬ恋に未練する女性・香織、出ていった母への思慕から父親を避けるようになった少女・未久、生きる希望を失った老夫婦・史生とアヤ……さまざまな悩みを抱えた人たちが、「マーニ」を訪れる。彼らを優しく迎えるのは、りえさんと水縞くんが心を込めて作る温かなパンと手料理、そして一杯の珈琲だった。

ポプラ社「書籍の紹介」『しあわせのパン』 

 大泉さん演じる水縞くんと原田さん演じるりえさん夫婦とそこを訪れるお客さんたちの距離感や、答えをすぐに渡さずに、その人のペースに合わせ、時間をかけて行うコミュニケーションは、僕にとって実に魅力的に見えた。

 水縞くんとりえさんが抜群なコミュ力を持っているかというとそうではない。2人の性格を表現するなら、控えめ、思慮深い、優しい、穏やかといったところだろうか。そんな2人がどのようにお客さんやまちの人たちとコミュニケーションをとっているかというと、それは「パンやコーヒー、手料理を通じて」である。

 これを話すたびに驚かれるのだが、僕は人とコミュニケーションをとることがすごく苦手だ。相手が何を伝えたいのかどんなものやことを見ているのかを感じ取ろうと親身になればなるほど、コミュニケーションエラーが起こる。相手が発する言葉を理解しようと努めるが、たいてい自分とは全く違う意味だったりして空振りする。ホームヘルパーの例で書いた「寂しい」という言葉にもいろんな意味合いがあるし、350ml缶の形を僕は円柱と見るけど、人によっては長方形に見えたり、丸に見える人もいる。人によって価値観がこんなに違うのに、僕が見たい世界を伝えたり、相手が見たい世界を感じたりするのってすごく難しいって思っていた。だからこそ、自分から距離を詰めて興味を示したり、相手の話をたくさん聞くということをしてきたけど、どうやらそれでも難しいということを感じはじめていた。

 「答えを出しに行き過ぎだ」とか「もっと待つ姿勢が大事だ」と言われて人との距離の取り方について迷子になっていた頃、フラスタでのコミュニケーションの取り方として「一杯のコーヒーから生まれるコミュニケーション」ということを和田が言っているのを思い出した。最初聞いたときはうまくイメージできなかったが、『しあわせのパン』で水縞くんとりえさんがお客さんたちとの、パンや手料理、コーヒーを通じた関わりをしていたのを思い出し、なんとなくつながった。

 フラスタでは僕らからお客さんに話しかけることは滅多にない。話が生まれる瞬間は、「コーヒー美味しいですね。どこの豆を使っているんですか」「本がたくさん置いてありますが誰がセレクトしているんですか」などコーヒーや本などフラスタにあるモノやイベントなどのコトに反応してくださった時だ。他にもシンクハピネスが運営する訪問看護ステーションのリーフレットを置いていたり、ディスプレイとして置いてあるヘルプマークがあったり、福祉施設でつくられたクッキーや小物を販売していたりと、様々なコミュニケーションを誘発するためのきっかけを散りばめている。ヘルプマークの説明を加えておくと、東京都福祉保健局により2012年に作成されたピクトグラムで、内部障害や難病を持つ方や妊娠初期の方など援助や配慮を必要としていることが外見では分からない人々が、周りに配慮を必要なことを知らせることで援助を得やすくなるよう作成されたものである。

店内にはコミュニケーションのきっかけになるモノが散りばめられている。右上の赤いタグがヘルプマーク ©デリしげ

 人と人が直接コミュニケーションを取ろうとすると、そこには齟齬が生じることが多いと思う。僕はコミュニケーションが苦手と書いたが、実は表面的なコミュニケーションは得意な方で、関わりが深くなればなるほど難しいと感じるタイプだ。「いまは話しかけて欲しくなかったのにな」「いまはその情報はいらない」「ちょっと距離が近い」「もう少し話しかけてくれてもいいのに」など、人によって思うことは様々ある。さらに厄介なのは、人の暮らしは日々変化するということだ。昨日はこの距離感で良かったのに、今日はちょっと違うなんてことがある。食べたいものや、会いたい人、着たい服などが日々変わったり、その日によって喜怒哀楽の感情も違う。一人でいたい時もあれば、誰かといたい時もある。こんなことを考えていたら、コミュニケーションなんてうまくとれる訳がないのだが、僕らが目指す社会をつくるためにはフラスタや「たまれ」でのコミュニケーションのきっかけづくりは必須だ。

 そんな感情にちょっとだけ向き合うための仕掛けとして、僕らはコーヒーや本などのモノや、イベントなどのコトを人と人との間に置いてコミュニケーションのきっかけにしている。お客さんもスタッフも気づかないような仕掛けを至る所に散りばめる。気づかないなら意味ないじゃんと思う人もいると思うが、そのくらい主張しない方がちょうど良い。日々変化する暮らしの中で、その時に気づくモノやコトがその人にとって必要な情報である。このように暮らしの動線上に気づかないような種まきを地道にしていくことが、僕らのコミュニケーションのやり方だ。

店内にある「図書館まちあわせ」。 本を通じて人との関わりが生まれる ©デリしげ

 話しかけちゃえば簡単なのはわかっているけど、僕らはその人の暮らしやタイミングは大事にしたい。このような関わり方をしているせいか、フラスタは半年ぶり、1年ぶり、3年ぶり、下手したら5年ぶりにふとやってくる人が多い。「あの時聞いた医療のことを思い出して相談しに来た」「ふとフラスタに置いてある本が気になって、もしかしたらここにくれば悩みが解決されるんじゃないかと思った」などという人が本当に多い。すごく面倒臭いコミュニケーションだけど、これをコツコツとやることが「医療」と「暮らし」の関わりをつくるためには大事だと感じている。

 

 いまでこそ、このように言葉にすることができるが、フラスタをはじめて3年くらいは試行錯誤しながらやっていて、「医療」と「暮らし」の間でどのようなコミュニケーションの取り方をすれば良いのだろうかとすごく悩んでいた。

 加持リョウジの「人と人は100%理解するのは不可能だからこそ他人を知ろうと努力する。だから人生は面白い」という言葉にずっと違和感を持ち続けてきたが、相手のことがわからないからこそ丁寧なコミュニケーションをとることが大事だと腑に落ちてからは、そこで生じる齟齬も楽しめるようになってきた気がする。

 様々なモノやコトを通じて見えてきた僕らの「つながり」は、いつからか「ゆるいつながり」と言われはじめ、僕はこれを「弱いつながり」とした。では、フラスタや「たまれ」は具体的にどのようなモノやコトを起こしてきたのか。次回は僕らの「つながり方」について書こうと思う。


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#12 「わかりあえない」からはじまるコミュニケーション

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