かつて日々のくらしに欠かせなかった箒は、電気掃除機の普及とともに需要が低迷し、全国各地の産地は壊滅状態に陥った。ところが近年、電気に頼りすぎないライフスタイルを志向する人、地域の伝統文化や地場産業に価値を見出す人が徐々に増え、職人が手編みした昔ながらの箒への関心が高まりつつある。
なかでも、神奈川県北部の愛川町では、一度途絶えた旧中津村の箒づくりを生業として復活させる取り組みが進む。その立役者として活躍し、伝統を受け継ぎながら作家性の高い作品も手がける筆者は、美術的アプローチにより社会にコミットするという信条の持ち主。いま注目のつくり手が、仕事を通して目指す“ものづくり”と社会の姿とは――。
第24回(最終回) 身体と工芸
ものづくりをしている人で、身体の不調を訴える人は少なくない。工芸家は身体を動かしているように思われることもあるけれど、実はほとんど座りっぱなしであり、部屋の中にずっといるので根本的に運動不足だ。前屈みになって集中することも多いので、腰が悪い人は特に多い。手首や指の関節を痛めている人も少なくない。
日常的に運動をするというのは、作り手に限らず現代人の多くに必要とされているらしい。僕もどうして始めたのか忘れたけれど、大学をでて少し経った頃に気持ちが塞ぎがちな時期があって、10年以上前には、ちょこちょこジョギングなんかはやっていた。
運動には強度というものがあって、有酸素運動のような持続的な運動も必要だけれど、心臓や肺に適度に負荷を与えるような、強度の高い運動も必要だ。ジョギングはダッシュもできるし、走る時によく使うふくらはぎは第二の心臓とも言われているので、全身の血流がとても良くなる。調布に住んでいた頃、多摩川沿いを走るのも気持ちがよかった。時間は10分、15分でも充分なくらいなのだけれど、子どもが生まれて小さい時期は、その朝の10分を取るのも難しく、止めてしまった。特に北海道に引っ越すと、雪が積もるせいで冬には外で走れないし、すっかり運動から疎遠になった。なんにしても健康であることは必要なのだけれど、元々運動自体が好きな訳でもないので、どこかサークルに入ってみたりだとか、お金をかける気もない。それである時期から、自宅で筋トレを始めた。
器具や道具を使わずにできるのは、いわゆる自重トレーニングというもので、自身の重さを活用する方法。つまりは腕立て伏せや腹筋、スクワットなどの基本的な運動になる。もちろん、それだけでも健康維持には充分だ。けれど、健康維持も予防でしかなくて、何もないのが一番の成果という感じだと、いまいちモチベーションが上がらないので、何か目標が欲しくなる。そこで、自重トレーニングの中でも興味深く思ったのが、キャリステニクスだった。
一応、キャリステニクスの本を見ると、起源は古代ギリシャの戦士たちまで遡るという話だけれど、僕が読んだのは、アメリカの囚人が行なっている方式を記した本だった。
少し筋トレをし始めた人には分かるけれど(また、本格的なスポーツには全て共通するかもしれない)、本格的に振り切ったトレーニングは、ある時点で健康から遠ざかっていく。アスリートなんかも、常にケガと隣り合わせだ。筋トレに関しても、可能な限り最短の時間で筋肉を肥大させていく行為とは、最大限にトレーニングで筋繊維を破壊して、超回復という再生過程を繰り返すことになる。可能な限り筋繊維を破壊し、可能な限り回復するために睡眠を増やし、サプリなども併用して筋肥大に全ての目的を注ぎ、また筋肉の合成を妨げないために日々のストレスも減らしていく。極端な例では、タンパク源と糖質を適切に摂取していれば、胃の容量が勿体ないので野菜は取らずサプリだけでいい、ということを語るトレーニーもいた。また、スポーツマンなら知っていることだけれど、筋トレで上げられる重量と、実際に運動で扱える重さや速さは異なる。腕立て伏せでは腕立て伏せが上手くなるだけで、投球には投球を、パンチにはパンチの練習をして、技術や全身の筋肉との連動を経て初めて使える筋肉となる。
キャリステニクスの魅力的な点は、ひたすらな筋肥大より、可動域や自身の身体のコントロールを最大化する点にある。懸垂や、片足のスクワット、身体を地面と平行に浮かせるプランシェや倒立など、体操選手に近い動きが多いもので、プランシェや倒立をできる人が、箒を作るための筋肉を失なうことはないだろうと考えた。この頃は、身体を維持するための嗜みといったところで、手仕事と身体の関係は意識していなくて、身体能力が上がるという、あくまで健康維持で、漫然と運動をする、という以上のものにはなっていかなかった。
少し話が変わって運動の話ではないけれど、腰痛対策だけは、座り仕事の人間にとってはマストで、この辺りは(少なくとも現段階では)完全に克服できる方法を見つけられたと個人的に思っている。大切なことは、痛みの前、違和感を感じた時点で即座に姿勢を修正し、背骨の最適なS字を維持する。基本的には、1日中身体を支えられる筋肉が身に付いていれば、背骨や腰に負荷は掛からないはずだ。
日常生活でも屈む時は背中を丸めず、背筋と腹筋両方を使い、筋肉で支え、背骨の根本から曲げる。後に述べる空手では基本的な技法だけれど、腹圧を高めることも、背骨に負荷をかけずに上体を支えるために有効だ。腹式呼吸や、胴体のインナーマッスルに力を入れながら呼吸をする、ドローイングというトレーニング兼呼吸法も、腹圧上昇には効果的で、背骨の歪みを押し返したりもできるので、違和感を感じたら、まずは腹式呼吸をして治している。普段から、落ちているものを拾うときなども、息を吸って腹圧で背骨を護りながら屈む癖が身に付いた。ほとんど、天然のコルセットに近い気がする。(とはいえ、腹圧を高める位置やドローイングに力を入れる筋肉の箇所など、言葉にしづらいところも多く、またあくまで独学なので多くは語りません。事例の1つとして、試してみて戴けたらと思います。また、球技など、瞬間的に高負荷がかかるスポーツなどでは対応しきれないので、座り仕事など持続的で徐々にかかる弱い負荷に限るとも思います。)
しばらく自重トレーニングを続けている折、たまたま子どもに付きそったのがきっかけで、数年前から少林寺拳法を習い始めた。柔道や相撲、空手、様々な武道があるけれど、少林寺拳法は禅宗がベースになっており、思想がソリッドに打ち出されている面が特徴かと思う。そもそもは、戦後の混乱の中にある日本の姿をみて、人々の心身を養い、平和で豊かな復興を目指すため、開祖の宗道臣が開いたのが、少林寺拳法だった。
例えば、少林寺拳法の中で語られる代表的な四字熟語の中に、「拳禅一如」、「力愛不二」というものがある。これらはいかにも禅宗らしい言葉なのだけれど、要は拳と禅の心は1つのものである、力と愛は同一のものである、という教えだ。
拳と禅、力と愛、一見相反する対立を解消する思想は仏教の基本的な考え方で、「不二」は柳宗悦も多く用いていた。また、陽明学における「知行合一」など、東洋では珍しくない考え方のようにも思う。
よく「文武両道」などともいって、学問と武道両方を修めるのが良いとされるけれど、極端な話、武道を嗜めば箒を作るのが上手くなるのか? と言われるとピンとこないところがあって、どういう考え方なんだろう、ということは以前から気になっていた。
武道と工芸、共通点がないこともない。例えば「型」。工芸にも武道にも型が多くある。伝統的な方法というものは、先人の集合知と自然淘汰の結晶であるので、突きや蹴り一つとっても、ある程度までの最適解が得られるのが型だと思う。何の前知識も、資料もなく、そこいらにある草を束ねて現在あるような箒を作るのは一生かかっても不可能だろう。同様に、突き、極め、投げを体系化して精度の高いものに仕上げることは、やはり人1人の一生では限界がある。古代中国で必要な教養とされていた六芸は、礼・楽・射・御・書・数(礼儀、音楽、弓、乗馬、書道、算術)とされていた。算術だけ、弓道だけでは、身分の高い者にとって、教養があるとは言えなかった。そういう文化だった、当時の戦のある社会を治めるために必要な技術であった、といえばそれまでなのだけれど、もう少し根拠がある気がして、ずっと気にかけていた。それを少林寺について学ぶ中で、掘り下げていけばどこかで接続できるのでは、という考えにも至ったのだった。
その他にも、南郷継正の『武道の理論』(三一書房、1972年)という本の中で使われていた、「技を作り出す」という言葉にも、共感を覚えていた。創作とは、空手の新技を開発する、という意味ではなく、技を習得するという、通常の人体の動きではあり得ない突きや蹴りという動きを特化させていくことだ。それは身体の新たな領域を開拓することとなるので、身体にとっては「技を作り出す」ことになる。スポーツなどにも言えるのだろうけれど、突き一つにしても、体重移動や脚の踏み込み、腰の回転、肩の回転、肘、肩の力を連動させて、一点に集約した力を放つことで、威力を出すため、1つの動作にしても長い修練が必要となる。工芸においても、通常では使わない身体の動きや力、神経を使う仕事であるので、技術を血肉化することは「技を作り出す」ことである、という感覚はすごく分かる話でもある。
濱田庄司が残した有名な言葉の中に「15秒プラス60年」がある。大きな焼き物の釉掛けを15秒で終わらせることは勿体ないのでは、と言われた時に返した言葉で、その15秒に60年の年季が結晶されている、という意味だ。正に武芸においても、何年、何十年の修練が1つの挙動に集約される点では相違ないように思う。
ただ、工芸と武道の身体性が同じものだと考える人なんてほとんどいないことは僕にも分かる。当たり前のようなことだけれど、最も大きな違いは、武芸は身体が直接起こす作用が目的で、工芸は実際に残る物が作用を仲介する、そしてその身体性は痕跡として残ったものでしかないことだ。工芸ではプロセスや、素材、技法が可視化され、証拠として残り続ける。それは、鑑賞や批評の対象とすることが容易で、売買もできることから、価値や評価も変化しやすいということでもある。またもう一つ大きな点は、所有できるというところだろう。道具は、持ち主に貢献するけれど、武道は試合相手や本人の修練になったり、鑑賞の対象にはなっても、実体はどこまでいっても、武道家本人の中にしか残らない。だから、僕のようにものづくりをメッセージだと考える人間からすれば、ものづくりは効率がいいと考える。そして、武芸の方が純粋だとも思うのだ。何かのメッセージを人に届ける、例えば手紙が手元に到着すれば、その言葉は届いたことになるかも知れないけれど、その言葉が真に理解され、受け手の心身と一体になるほど染みて、血肉化されるまでは果てしなく遠い。人の言葉を真髄まで理解することはそうそうできることではない。
武芸にもコンセプトや伝えている理念や意義があるけれど、それが先達から修練者に届くのは、その意志や理念が体得された時でしかない。さらに言えば、その理念や実体を磨き続けるのが武道でもあるので、そこにある言葉を更に考え続けるのが武道なのだと思う。最近は、映画や本も省略して鑑賞するのが流行っているようだけれど、どこまでも遠く、アナログで、一番深い所にあるのな武道であると考えた時、どうにも手に届かない、憧れを感じていたのだった。道具という、最も即物的なところと、体得にのみ実体があるという観念的で実際的な二者は、一番遠い場所にある。故に、その両端から進んでいけば、一番広く、深い場所が見えるのではないかという考えは、詩に関心を持ったこととも、すごく似ていた。
少林寺拳法は(もちろん他の武道もそうなのかも知れないけれど)とてもよく体系化された武道であるので、様々な教義や方法が読本には示されている。その中でも、象徴的かつ、重要なものの一つに「守主攻従」という考え方がある。少林寺拳法は人を守り、助けるための技術であるので、無闇に攻撃をすることはない。まずは攻撃を受け、完全に防いだ後に反撃、可能な限り傷つけず、制圧をするというのが基本姿勢になっている。
そんな拳法の技術の中で初期に習う、重要な技の一つに「鉤手(かぎて)」というものがある。それは、一見珍しい体勢ではない。分かりやすく例えるならば、仁王像の引いている方の下の手、手のひらをこちらに向けている手の手首を返す形、ほぼそのままのものである。これは手首を相手に掴まれた時に即座に取る構えで、腰に付けるように手を引くことで力をかけやすくなり、相手の体制を崩し、また手のひらを返すことで掴んできた手を解く「小手抜き」などに展開することができる(有段者になるほど、相手の手を抜いてからのバリエーションも多くなる)。やはり重要なのは、一度掴ませることだろう。先に手は出さない。相手に掴ませ、その上で自らを守り、形勢を逆転し、速やかに制圧して争いを収める平和の拳法の思想が、このクッと返す手のひら一つに表れている気がする。手首の動作一つに実践と、思想と、世界への向き合い方が込められているように思える。
一、我等は、愛民愛郷の精神に則り、世界の平和と福祉に貢献せんことを期す。
少林寺拳法『教典』より
一、我等は、正義を愛し、人道を重んじ、礼儀を正し、平和を守る真の勇者たることを期す。
一、我等は、法を修め、身心を練磨し、同志相親しみ、相援け、相譲り、協力一致して理想境建設に邁進す。
相手を破壊せず、自らと他者を護り、攻撃する相手にはあくまで制圧することを旨とした少林寺拳法の教典は、驚くほど理想的で、夢物語にすらみえるのだけれど、これらを目標に多くの人が修練をし、技術を進化させてきたことには、感動を覚える。
もちろん、武芸に優劣はないはずで、あらゆる武道や格闘術を見渡してみると、同じ素手における格闘にも無数のバリエーションがある。(中国拳法だけでも、数百種類あると言われる。少林寺は、色々なものを開祖が中国で学んできて総体化したものだけれど、義和門拳というものの影響が大きいらしい。)
中には一撃必殺を旨とするものも少なくないし、急所や相手の破壊を目的とするものから、競技化したもの、スポーツマンシップを重視するものもある。例えば明治以降、実際に刀で戦うことはなくなったから、その精神面や競技としても発達させていくため、現代の剣道のルールができた訳だし、柔術や柔道も同様に変化して、分かれていった。空手には、防具を付け、撃ち抜かないことをルールとした伝統空手や、頭部への突きを除外して全力で打撃を当てるフルコンタクト空手など、様々な派生がある。そしてそれぞれが、流派や思想にそって突きや受け、投げや極めなどの形を選択し、最適な形の中で先鋭化させていく。つまりは、武道をどう捉え、どう提案し、進化させていくか。文化観や理想とする世界観が求められているのだと思う。ちなみに少林寺では、一撃必殺の対極、「不殺活人」を掲げている。そういう意味で、自らが強くなるだけではなく、人を活かし、救い、平和な世界を目指す文化観というのは、個人的に肌が合った。「自他共楽」ともいって、自らも、他者も幸せになることを願って、修練を重ねていくことは、単純に心地良い。
「不殺活人」、「自他共楽」の思想は、工芸にも通じる気がした。思想に基づいた戦い方を選択し、先鋭化させていくことと同様に、道具も美しい道具、堅牢な道具、身近な道具など、道具観や暮らしの形を、様々な工程やプロセスの中に選択し、織り込んでいくことが、道具の進化であるように思う。文武であろうと六芸であろうと、人が幸せになり、豊かになる世界観を根底に携え、肥沃に、質を高めていくことが、文化的であるということなのだと考えた。おそらく、世界観や人間観の出来上がった人というものは、書を書かせても弓を射らせても、統一された思想に基づいて実践、内面化をしているのではないか。突きや蹴り、投げや絞めなどでも、的確な位置に、最適な角度と方向に向かって力が掛かるよう、全身の筋肉を連動させて、点に集約させていく。それはおそらく思想的な面でもそうで、極力大きな視点で現象を捉え、集約し、一点に的確に出力していくことは、武道に限らずスポーツ、手仕事にも言えるように思えた。
そういった手仕事をする上で、また、仕事で何かを表わし、何かを変えていく時に具体的な要となっているものはなんだろうか。武道ではないので動作自体に型のようなものはないけれど、やはり箒を編み込む際には、鉤手のように手首をくいっと動かす。指先から場合によっては足、昔の職人は歯まで使って編むのが箒だけれど、使えないよう固定されて一番困るのは、手首であるように思う。そして、力のかかり方や角度や位置を調整し、作業を進めていく。
おそらく、あらゆる自然素材を使った手仕事で重要になる基本的なスタンスは、自然に抗わないこと。声を聞き、理解し、その力を最大限に活かされる形に落とし込んでいく。そして余すことなく使い、また人間を通して自然に還していく。ものづくりとは、その営みの繰り返しでしかないのだと思う。武芸にも、そんなことが言えるのではないだろうか。
手首を返す程度の細かな動作は大きなことではない。しかし、それらが世界への姿勢を示し、受容し、次の行動への起点となる。着実な営みと選択は一つ一つ、僕が日々手首をくりくりと動かしていく中で現実になっていく。そうして、世界も少しずつ変わっていく。大きなことはできなくても、その理想を信じなくては、何も始まらないだろう。自分なりに考えて実践してきた、手首をくいっと返すだけのような小さな行動の試み、世界への態度のあり方を箒を作る中で形にしていきたいと、思いを強くした。
そんなことで世界はほとんど変わらないかもしれない、けれど、何もしなければ何も変わらない。そして、その小さな変化の無数の積み重ねが、僕たちの立っている歴史の先端なのだと思う。(了)
※本連載は今回で最終回となります。約2年間にわたりご愛読いただき、誠にありがとうございました。 なお、本連載は書き下ろしを加えて2025年春頃、弊社より書籍として刊行する予定です。どうぞご期待ください。