商店街の衰退が叫ばれて久しい。郊外に進出した大型店との競合とそれに伴う中心市街地の空洞化、少子高齢化と人口減による商圏人口の減少、経営者の高齢化と後継者難など、その背後にある要因は日本の社会全体が直面している課題そのものだといえよう。商店街の活性化や再生に向けての模索が各地で続いているが、補助金を中心とした振興策には限界があり、商店街の役割や可能性そのものを見直す動きが広がっている。
そうした中、商店街支援とは無縁だったプレイヤーたちが、商店主や商店会とともに新たな可能性を掘り起こすケースが増えている。
マーケティングプランナーとして活動してきた著者もそのひとり。本連載では、商店街に飛び込んで異彩を放つプレイヤーを訪ね歩き、どんな化学反応から何が生み出されたのか、商店街の未来像を探る。
第8回 円頓寺商店街に奇跡が起きたわけ まちに寄り添う建築家 市原正人さん
江戸時代から続く商人街
高層ビルが立ち並ぶJR名古屋駅前から徒歩15分、駅と名古屋城との中間地点に昔ながらの下町情緒が漂う円頓寺(えんどうじ)商店街がある。関ヶ原の戦いで天下の実権を握った徳川家康が、1610 (慶長15)年に海陸の連絡に便利な那古野台地に築城を始めた。これに伴って清洲の士民が移り住み(清洲越し)、この地に商人街が生まれた。江戸初期に長久山圓頓寺(ちょうきゅうさんえんどんじ)の門前町として始まった商店街は、アーケードにいまは約30店舗が軒を連ねる。かつて、名古屋の三大商店街に数えられた円頓寺商店街は、明治から続く老舗店も点在する中に、個性的な新しい店舗も次々とオープンしていると話題の商店街だ。
近隣に暮らす人々の日常使いの商店街であり、名古屋城をはじめとする観光地にも近い。懐かしい雰囲気の円頓寺商店街を楽しもうと、いまは国内外から観光客も多く訪れる。朝は通勤や通学する人たちが通り、昼には商店街の中ほどにある金刀比羅神社にお参りをする訪日客や、店先のテーブルで涼んでいる浴衣姿の若い女性たちが佇む。夜にはアーケード下に並ぶテーブルで食事を楽しむサラリーマンや家族連れが集う。またたく星空のような照明に照らされて、アーケードを通り家路を急ぐ人々の足取りも軽く見える。
商店街から路地に入ると、四間道(しけみち)と呼ばれる古い街並みが残る。石垣の上に建つ土蔵群と軒を連ねる町家が通りに面して建ち並ぶ景観は、元文年間(1740年頃)に形成された。細い路地を入った古い民家の屋根の上には小さな社、尾張地方独特の「屋根神(やねがみ)」が祀られている。古民家を改修してできた飲食店が、のれんを下げて古い街並みの風情をいまも感じさせる。歩くだけで、街並みや建物、商店街の店先に、江戸から明治、現在まで受け継がれ変化を続ける営みが感じられる街だ。
名古屋駅を中心にマンションの建築が進み人口が増える一方、地域住民が商店街を利用する機会は減り、1980年代には商店街の店も減り始めた。2007年に商店街内外の人々が集まりボランティアグループ「那古野下町衆(なごやしたまちしゅう)」が生まれ、商店街再生へと一歩を踏み出した。活動の中心メンバーの一人が建築家の市原正人さん(62歳)だ。
人通りは少なくても商売が成り立つ
市原さんは、名古屋三大商店街の一つ、大曾根商店街近くに生まれ、いまはないアーケードの通りから路地裏までを走り回り育った。1990(平成2)年に設計事務所DERO(デロ)として独立し、当時は店舗や住宅の設計を請け負い大忙しだった。1996(平成8)年に、古民家改修の仕事で円頓寺商店街がある那古野(なごの)のまちに出会った。工事が始まると近くに住むおばあさんが毎日お茶を出してくれた縁で、元芸妓だったおばあさんが営む三味線と長唄の教室に通うことになる。師匠となったおばあさんは、稽古の後に市原さんら弟子たちを連れて卵サンドで有名な喫茶店「西アサヒ」やうどん屋など円頓寺商店街の店に連れて行ってくれた。円頓寺商店街があることは前から知っていたが、老舗の味や個性あふれる店主に魅力を感じて「何か面白そうだな」と思ったそうだ。師匠が他界した後も、市原さんは一人で商店街の店を一軒一軒訪れた。
商店街の通りには人も歩いていないが、店にはちゃんと客が入り商売が成り立っている。通りを人が歩いていなくても、商売はやっていけている。市原さんは人通りがあって商売が成り立つと思っていたが、思い描いた商店街のありようとは違い衝撃を受けた。
当時の市原さんは、色付き眼鏡の風貌で1998(平成10)年から仲間たちと七夕祭りの飾りつけを手伝ってきた。お店をまわって「この商店街はこうなったらいい」「こんなに人通りが少ないなら、イベントをどんどんやればいい」と言っていて、面倒くさい奴だったと市原さんは振り返る。店主もその時はお客さんだから「そうだよね」と言ってくれたが、あしらわれている感じもあった。
その後自身で商店街に店を持った後に同じ話をすると、店主たちは真剣に聞いてくれた。拠点があるかどうかで、もともとの住民や商売をしている人からの見られ方が違ってきたという。
那古野下町衆とナゴノダナバンク
円頓時商店街がある那古野エリア(円頓寺商店街に加え円頓寺本町商店街も含まれる)には、1965(昭和40)年には700軒を超える店があったが、2006(平成19)年には177軒まで減った。店主だけでまちのことまでを考えるのは無理があるかも知れないと、商店主に大学やコンサルタント、市原さんのような建築家が加わり、「みんなで円頓寺界隈を活性化させよう」と地域主体のまちづくり団体「那古野下町衆(那古衆)」を発足させた。
那古衆の取り組みは3つある。定期開催のイベントを創出する「イベント」、歴史的な街並みを保存する「街並みルール」、街の特徴づけや魅力向上を図る「空き家空き店舗対策」だ。2009(平成21)年に「空き店舗対策チーム」ができ、市原さんがリーダーになった。
空き店舗対策チームが最初に着手したのが「空き家バンク」だが苦戦した。空き家を調査して家主に貸す意思を確認して回ったが、2階を住宅として使用している、物置や倉庫として使っているなど簡単には貸せない状況だった。家主に「で、何に使うの?」と問われても、具体的な話ができず会話が途絶える。結局、貸出可能な空き家リストは増えず、半年で空き家バンクを断念することになった。
月に一度の那古衆会議で空き店舗の活用を話し合っているうちに、物件が取り壊されてしまうこともあった。そこで「スピードを持って、具体的な提案ができるチーム」を独立させてもらい、「ナゴノダナバンク」をスタートさせた。所有者が貸し出す判断がしやすいように、ナゴノダナバンクでは「どんな事業者が、どのように店を使い(図面)、どんな商売をして、家賃はいくらか」をまとめ、一発勝負で提案に臨んだ。プランには、「新しい店が老舗の邪魔にならない」ように、「名古屋駅を飛び越えても来たいと思う店である」ことに留意した。「ここに来ないと出会えない物、味、空間、人を備えた店」を提案するということだ。もう一度商店街に人を呼び寄せるには、どれだけ魅力的な店なのか、内容と店主に力がある店が大切だと考えた。
市原さんは、提案を熱く語るのではなく、おだやかでフラットにビジョンを語り、家主からの質問にも丁寧に答えた。提案をしても、最後にリスクをとるのは大家。お金の負担もあるから、逃げ道は必ず残すことにも気を配った。
とはいえ、最初から空き店舗に店が集まったわけではない。ナゴノダナバンクで最初に手掛けた店は、2010(平成22)年に成立した市原さん自身の店だ。商店街のほぼ真ん中にある大切な場所で、「変な人が店をやるようになったら嫌だな」と思い、自分で店を買った。成功事例を見せないと理解者は得られない。自分も商店街の一員としてリスクを負い、再生に努力したいと思った。
オープンしたアートやアパレルを扱う「galerie P+EN(ギャルリーペン)」は、広告のスタイリストでご自身のブランドを持っていた市原さんの奥様、市原千里さんが切り盛りする。レトロな商店街から一歩店に入ると、私が訪れた日にはフランス人アーティストの家族をテーマにしたアート作品が並ぶ展示会が開かれていた。おしゃれだけどフレンドリーでほっとする店内は、不思議と円頓寺商店街に漂う空気感とも調和していた。
その後、2010(平成22)年4月にスペインバル「BAR DUFI (バル ドゥフィ)」がオープンし、2012(平成24)年12月には蔵を改修した創作懐石料理「満愛貴 (まあき)」、2013(平成25)年2月に古い木造賃貸アパートを改修し北欧雑貨やワッフル、鍼灸院などが入居する「円頓寺アパートメント」、同年8月に江戸時代に建てられた米蔵を改修した日本酒バー「圓谷(まるたに)」がオープンした。
ギャルリーペンとバル ドゥフィがオープンしたころから、「円頓寺商店街におもしろい店が出来ている」とメディアに取り上げられて話題になった。2店とも繁盛店になり、それに伴い円頓寺商店街も注目を集めはじめた。
2013(平成25)年、三味線の師匠に連れて行かれた老舗喫茶店「西アサヒ」が閉じるという話を聞いた市原さんは、インバウンドの旅行代理店をしていたオーナーに出会い、1階をカフェに、2階をゲストハウスに改修した。2015(平成27)年4月にはナゴノダナバンク11軒目の「喫茶、食堂、民宿。なごのや」(2018年3月まで店名は「喫茶、食堂、民宿。西アサヒ」)がオープンした。訪日外国人に加えて20代30代の若者も宿泊し、リピーターも多い。宿泊した私が女性専用のドミトリーに寝転がると、隣からフランス語と思しき女の子の楽し気なおしゃべりが聞こえて心地よかった。カフェには若い世代が集まりにぎやかで、老舗喫茶店「西アサヒ」時代から有名な卵サンドを目当てに訪れる客も多い。なごのやは、地域の人や訪日客をつなぐ円頓寺商店街の顔のような存在になっている。
たどり着いた4つのテーマ
市原さんが円頓寺商店街に関わり始めて20年以上が経つ。年に2~3軒のペースで新しい店が増えて、この12年で円頓寺界隈には40店の誘致ができた。円頓寺商店街の老舗は、時代に合わせ少しずつ経営を変え生き残ってきた。景観を一気に変えて、お客が去った商店街もある。地域に残る風景を残しながら、少しずつ新しさを盛り込む……商店街が衰退した過程の逆をたどることが必要だと感じている。
いままでの取り組みを振り返ると、「商店街の再生やまちづくりに4つのテーマが見えてきた」と市原さん。①地域の魅力と課題を掘り起こす②ブレーンをつくる③魅力あるイベントをつくる④地域や空き家に必要なコンテンツをつくることだ。
まず、①地域の魅力と課題の掘り起こしでは、地域の店に通ったり、地域のイベントに参加したり、いろんなアプローチで地域の魅力と課題を知る。市原さんの例で言えば、2003(平成15)年くらいから円頓寺商店街の店に週に一度、多いときは毎日、仲間たちと出かけた。そこで、魅力が際立つ店に出会った。長く愛される老舗の存在や、商店街の名物料理や名物店主がいる店の魅力。いまも残る歴史的町並みや地域の祭。歴史ある商店街だが、愛された店も商店街も高齢化しているのが課題だった。そこで、再生には老舗になりうる魅力を持った店を増やせばいいと考えた。時間をかけて懐に飛び込み、いろんな人の視点からまちの魅力と課題に気づいていくことが、その後の取り組みを進める原点になっている。
次に②ブレーンをつくることだ。これは名古屋で生まれ育ち、趣味や建築という仕事を通して積み重ねた人間関係を指していて、若いころからの市原さんのつながりが活きている。魅力的な店の主にはカリスマ性がある。逸材をまちにつなぐためにも、信頼できるブレーンの存在は欠かせない。名古屋以外の地域にも依頼を受けて商店街支援に関わっているが、その地域に根づいて活躍している人たちと出会う。いずれも、「人と人をつなぐ」ことが大切なのだ。
オーナーの立場で考えれば、信頼できて地元でいい商売をしてくれそうな事業者や、地元を良く知っている建築家、長くフォローしてくれる施工業者に出会えることが重要だが、オーナーが三者を集めるには荷が重く、そこに課題がある。
新しい事業者の立場に立てば、お店を開いても商店街や地域のルールがわからずに店は始まる。商店街には、賦課金がいる、アーケード費用が掛かる、祭りがあって協力しないといけない……商店街以外にも地域には見えないルールや風習がある。仲立ちしアフターフォローする役割が必要で、市原さんたちナゴノダナバンクはボランティアとして「人と人をつなぐ役目」をやっている。
さらに、③魅力あるイベントつくることが大事だと市原さんは考える。円頓寺商店街は1956(昭和31)年から続く七夕祭りが有名だ。魅力あるイベントは、円頓寺商店街の存在を地域の人々に知らしめ、新たな事業者と商店街をつなぎ、商売が生まれるきっかけにもなる。商店街の賛同を得るためには、イベントへの集客力や個店の売り上げへの貢献も大切だ。地域の人たちが誇りに思い続いていくような新たなイベントをつくろうと、那古衆で考え始めた。
夏が近づくと、お客さんが「そろそろ七夕だねぇ」と店主に声をかける。一過性のイベントだったら「そろそろ〇〇だね」とは言われない。「そろそろ〇〇だね」と言われるような地域のイベントをどうやったら作れるか? を考えた。集客力はもちろん、商店街の店の売り上げも七夕祭りを超えたら、効果はわかりやすい。そんな思いから、2013(平成25)年に「パリ祭」が始まった。
パリ祭をやりたいと言ったのは、パリ好きなスペインバルのオーナーだ。それならば、地元の誇りやプライドを持てるような祭りを、市原さんは作りたいと思った。ただ楽しむだけではそれはできない。パリ祭をやるなら「本物をつくろう」と、1年半かけて準備した。「徐々にイベントが盛り上げればいい」という考え方もあるが、徐々にだと協力が集まずに盛り上がらない。最初の盛り上がりが重要だった。
出店者募集するときに、出店者には「本物のイベント」として認識してほしかった。フランスと言えば、エールフランス、シトローエン、フランス大使館と誰もが分かりやすいところに出店や協賛を最初に依頼。名古屋でフランス料理、フランス雑貨と言えばこの店という、予約も取れないようなお店に出店依頼をして、参加を取り付けた。
こういうところが後援してくれる、そんなパリ祭にあなたも出店してみませんか? と出店要請すると、出てみたいという店が集まった。
商店街では、例えばお寿司屋さんに、パリにちなんだ商品を……と言ってもなかなか考えられない。そこで、「マグロとイカとアジでトリコロールの握りをその時だけセットで出して欲しい、そういうことでいいんだ」と、参加できるイメージを伝えた。話を聞いた呉服屋さんは、エッフェル塔の帯をつくった。少しでも1回目から参加してもらうように商店街の店にもお願いをしてまわった。
1年半をかけて準備したパリ祭は、当日大盛況だった。円頓寺商店街だけで開催していたが、隣の円頓寺本町商店街にも人が流れ、それでも店には入りきれずに名古屋駅の店まで人が流れるほど、ものすごい人だった。お昼に夜の仕込み分も使い切り、夜はこの辺りの店はほとんど営業できなかったという。次の日に、「人気のコロッケも七夕祭りの倍は売れて、すごかったね」とお肉屋さんに言われ、市原さんは成功を実感した。
はじめてのパリ祭が成功を収めた2年後に、アーケード改修をして商店街がきれいになった。パリ祭のイメージから「円頓寺でイベントをやると集客できる」と思ってもらえ、商店街以外の人たちも「何かイベントできないかな」とイベントをやりたがるようになっている。イベントは、円頓寺商店街という場の価値を多くの人に知らせる役割も果たした。
最後に、④空き家に必要なコンテンツ作りを行い、地域の空き家や空き店舗に新しい店を呼び込むことだ。
古い建物を見てきた市原さんは、建物の歴史に愛着を感じている。柱の傷もその家で暮らしてきた人の人生で、簡単には壊せない。どんな風になっていても、もう一度光を当てたいと思うのだ。建築家はアーティストではなく、依頼主の想いを汲んで作る仕事だ。その人と建物の歴史はとても大切で、家主の想いに共感し寄り添うことから始まる。
空き家や空き店舗に新しい事業者を呼び込むために、「そこは、もともとどういう店でどういう人が住んでいたか?」場所の履歴が重要だ。店舗があった近隣の状況や、住まいがある場所なのか? お店が並んでいた場所なのか? もともと商売をやっていた方なのか? ご近所とどういう付き合いをされていたか? 新しく店をやる側から見れば、関係ないのでは? と思うが、新しい店が出来ても、住民はもとの店の雰囲気をかぶせて見てしまう。
昔のお店の面影が残る那古野ハウスという建物にボルダリングジムが入った。スタジオの前におばちゃんたちが立ち止まり、「何をやっているのかしら」「昔はここの2階がピアノ教室で子どもたちが通っていたわ」と話をする姿がある。長い間親しまれてきた景色を残していくことで、世代を超えて変化する下町の風景を生み出しているのだ。
日常の暮らしが残る商店街に
商店街のあり方を考える時、「どんな暮らしができる商店街を目指すのか」が大事だと市原さんは語る。円頓寺商店街では、地域の人の日常の暮らしや生業がちゃんと残っていることが大切だった。商店街には下町の日常が残っている。同時に生業を営みながら生活をしている人たちがいる。店と生活が一体になる多様性がある街が、魅力ある街なのだ。
また、円頓寺商店街が活性化したことで、商店街界隈のエリアを面的にどうしていくかも大事になってきた。古い街並みを活かして、空き家を活用した店もここ数年で増えた。一方で、住んでいる人たちは、店ばかりになってしまうことを危惧している。どんどん店が出来ていくと、受け継いできた暮らしの魅力が無くなり住みにくくもなる。
景観を守るために住民主導で、四間道の町並み保存や景観形成基準をまとめる動きも生まれた。「こういった建物は作りません」「リノベーションするにしても外観はこういう風にしてください」と、数年前から地元発で進み、2020(令和元)年に名古屋市で「四間道地区景観形成基準」の運用が始まっている。このエリアは商業地域だから容積率400%、景観条例や地区計画がかかると不動産の価値は好きにやれない分若干下がる。にもかかわらず、街を守りたいと多くの人たちが賛同して参加している。
市原さんたちが商店街に関わり始めた頃は、この街に住む人は少なく減っていてお店も減っていた。取り残された感じで、住んでいる人たちも商売をしている人たちも元気がなかった。街の人たちが景観を守りたいと言うことは、ある意味元気を取り戻していることの表れだ。それはすごくよかったなと市原さんは思っている。今後継続的に取り組みを進めていけるか否かは、この街の将来を占う意味でとても大切なことだ。
長期視点で利益を考える
目先の儲けだけではなく、最終的には自分の利益になって戻ってくるということをちゃんと理解できているかどうか? それを想像できる人たちが最終的には残っていくのだと市原さんは語った。すぐ明日利益が欲しいのか、あるいはやってきたことを自分の心に利益として残し、50年後に「あの人がこういうことをやったからこういう街になったんだよね」と語られることなのか。後者は名誉と言い換えてもよさそうだが、「生業や暮らしを味わう自分自身の価値」でもある。得られる価値は、お金や形としては見えにくい。だが、「いつかは自分のところに利益として帰ってくると理解している人が、いま街に残っているという実感がある」と市原さんは言う。
各地で進む街の再開発では、ビルの建て替えを機に高層マンションが検討されるケースが多い。通勤至便な立地の高層マンションは、人気で高い値で売れる。一方で、日本は人口減少を迎えている。高層マンションが老朽化した後の維持管理や、建て替え時に住民の合意が得られるかなどの潜在する課題もある。再開発でまちがきれいになると、住民も一瞬うれしい。収益性を考えれば開発事業者が高層化を検討することは理解できるし、不動産価値を高めて新住民を呼び込み税収があげたい行政にも、大規模な再開発は魅力的なのかもしれないとも思う。
しかし、人口は減少して高齢者が増え、所得の向上も安易に期待できない。高価な高層マンションに暮らすことができる人は、これからどれだけ増えるのだろう。再開発できれいになった街に住んでも地縁がなく、所得が減少すればその後の暮らしに大きなリスクを抱えることにならないだろうか。
商店街の空いた建物を活かし、風景に残存する愛着とともにほどよく再生することは、長い目でみれば経済的にも暮らす人の視点でも合理的だと私は思う。「ニーズや時代の変化に合わせて必要な方法が取れるように、柔軟性のある開発が一番いいんじゃないかと思っている」と市原さんは語る。
50年後に私は生きていない可能性が高いが、50年後にも多様な人々が愛着を持ち、商店街での暮らしや生業を楽しみ、利他的なまちづくりが続いてほしいと願う。円頓寺商店街のように、馴染みある風景と人情を感じながら、時間をかけて新しい店が生まれ、ゆっくりと変わる……「生きている商店街」があることは、後世の人々に豊かな日常を手渡す希望なのだ。