かつて日々のくらしに欠かせなかった箒は、電気掃除機の普及とともに需要が低迷し、全国各地の産地は壊滅状態に陥った。ところが近年、電気に頼りすぎないライフスタイルを志向する人、地域の伝統文化や地場産業に価値を見出す人が徐々に増え、職人が手編みした昔ながらの箒への関心が高まりつつある。
なかでも、神奈川県北部の愛川町では、一度途絶えた旧中津村の箒づくりを生業として復活させる取り組みが進む。その立役者として活躍し、伝統を受け継ぎながら作家性の高い作品も手がける筆者は、美術的アプローチにより社会にコミットするという信条の持ち主。いま注目のつくり手が、仕事を通して目指す“ものづくり”と社会の姿とは――。

第22回 「暮らし」と「ふつう」①

書き残しておきたいこと

 僕が何の気なしに箒を習いに行ったのは2007年。その年には下北沢の路上で実演販売をさせてもらったり、青山のスパイラルというスペースの公募展で賞を貰って展示をしたり。広島でのアートプロジェクトに参加させてもらって、滞在制作なんかもしていた。その後、クラフトフェアなどを始めとして、クラフトと呼ばれるジャンルに多く出品するようになった。ちょうど、そうやって作り始めた頃にクラフトブームと呼ばれるものが興り始めていて、その頃に人気だった「暮らし系」と呼ばれる雑誌にもよく呼ばれていた。

 もちろんその頃は、今ほどSNSが発達もしていなければ、ECサイトも充実していなかった。(むしろ、ちょっと怪しいとすら思われていた。)つまりは、かつてのテレビほどではないにしろ、まだまだ雑誌の力が強い時代だった。そんな時にたくさん取材を受けたものだから、そのブームの頃の雑誌には本当にお世話になった。2012年や2013年辺りは毎月のように、何かの雑誌やテレビに取材されていた。もちろんそれは、僕だけの話ではなくて、同じような作り手はたくさんいた。

 これはブームやバブルであって、長くは続かない。ちやほやされて調子に乗っているだけでは危ない、と多くの作り手は(多分)思っていて、やはりそれは現実だった。ブームがしぼむ頃にはSNSとECサイトの台頭と新型コロナウイルスというトリプルパンチですっかり潮目が変わってしまった。だからといって、取材やメディアに語った言葉は適当だった訳でもないし、そこで生まれた少なくない数の作り手は、今も人生を賭けて仕事に向き合っている。多くの人に忘れられてしまうとしても、これは文化の一形態だと思うし、手仕事の歴史の一部ではあると思うので、どこかに記しておきたいと、ずっと思っていた。

 当時たくさんあった雑誌の中で、(全然雑誌を手に取らない僕ですら)個人的に思い入れがあり、一番多く反響があり、影響が長く続いたのは『ku:nel』(クウネル)という雑誌だった。そして、僕たちのような作り手を取材した多くの雑誌は、「暮らし」や「ふつう」に焦点を当てていた。それらがどう生まれ、変化し、影響を残していったのか、ずっと調べたり考えたりし続けている。

スローガンのない「ふつう」

 「暮らし系ブーム」の話をすると、必ずと言っていいほど取り上げられるku:nel(以下クウネル)。しかしバックナンバーを調べてみても実のところ、誌面に「ふつう」「ていねいな暮らし」などの定番のワードは不思議なほど、出てこない。

 とはいえ2002年の創刊号は例外で、表紙に「 ここから始まる私の生活。」、目次も以下のようになっていて、暮らしに徹底してこだわっているようにも見える。

風の通る部屋:高橋みどりが考えるふつうの生活
北欧ワッショイ:岡尾美代子がストックホルム、ヘルシンキを旅して見つけた生活雑貨全プレゼント
麻を使う贅沢な日常:猪本典子がこの肌触りを大切にしている理由
ロンドンライフ:有元めぐみが暮らす、生活の舞台としての都市
「豊かな暮らしは自分の中にある」: 建築家・安藤忠雄に聞く
暮らしの数だけ幸せあり:クウネルくんのお宅訪問 

『ku:nel』創刊号、マガジンハウス、2002年4月

 ただ、かつて1982年に創刊され、「リセエンヌ」(フランスの女子高生)などのライフスタイルを発信して中高生に支持された雑誌『Olive』のように、コンセプトやフレーズを打ちだして提案する、という形は全く取られていなかった。淡々と、人々のことを紹介しており、政治性やメッセージを押し付ける文言は見当たらない。おそらく、読者も何かへのアンチテーゼのような考えは、意識上にはなかったはずだ。

 『繋ぐ力 ideas for next Japan』(生活工芸プロジェクト、リトル・モア、2012年)の中で辻和美は

「(クウネルを)初めて読んだときには衝撃を受けましたね。今までの雑誌の中に私たちが見ていたのは、輝くようなまぶしい世界でした。でも、この雑誌は全然違う方向を向いていた」と語っている。

 これまでの雑誌の「特別」ではない何を目的に、どこを目指していたのか。

「どうやって、そんな雑誌が生まれたのでしょうか?」という問いに対して初代編集長の岡戸絹枝は「某インテリア会社から、雑誌を出したいとマガジンハウスに依頼があり、それに応える形で”インテリア本”として企画を始めました。だから、なぜ作った?と問われても、その”なぜ?”は私たちの中には、なかった」
「文字がたくさん入っているような雑誌がいいな、というイメージだけがありました」
「どういう雑誌にしよう、というビジョンがあったわけじゃなく、進めているうちに、こういう方向になってしまった」(同書)

などと、あっけらかんとした回答をしている。

 クウネルを中心としたメディアが、日常を大切にするという、価値観を育てていってくれた」という辻の質問に対しても

「そんな意識はないよねえ。読者のことを思ってないわけじゃないけれど、そんなマーケティングから始まったわけじゃないから」

など、無印良品の掲げた大きな使命や大義(後述)とは真逆を行くような、あまりに「素朴な」気持ちで作られていたかのように語っている。時代に取り残されそうなものをカジュアルな形でに取り上げることで読者の肩の力を抜いてしまうようにも感じられる。本当に「ふつう」ということを考えると、真っ当な形なのかもしれない。

個人史で浮き彫りにする「ふつう」

 『繋ぐ力』の中で、クウネルのアートディレクションをしていた有山達也が「読者にクウネル的と思われることを避けたかった」と述べている通り、次回予告すら存在しないクウネルは、毎号毎号、アンテナにかかるものを気まぐれに集めていたようにも見えるけれど、その枠組みは創刊号から全面リニューアルの76号まで驚くほど安定している。

・4~8程度の取材記事
・4人程度をピックアップした小特集
・[ごろりでゆるり](本・音楽・映画)
・[おうち仕事]
・[食いしんぼう](高橋みどりの伝言レシピ・お弁当)
・江國香織姉妹の往復書簡
・川上弘美の連載

などは12年間、変わらなかった。

 そして全体を通して、常に具体的で、個人に焦点を当てているということが指摘できる。

例えば、vol.3 「そろそろおでかけ」(2003年5月)の目次から引くと

・堀井和子さんちのデザイン・ルール
・岡尾美代子の10年もの
・田中美穂 苔と猫と古本と

vol.73「装いの花束。」は

・4人が着てきた服 おしゃれは続く
・いまの私、着たい服(6人の女性エッセイとともに紹介)
・パン粉と向き合い、50年 『のらくろ』のフライには、ツノがある。
・マダム・サンシャイン、ただいま元気を発電中!(1931年生まれ、ソーラークッカーで料理を作る活動を続ける、鳥居ヤス子さんの取材)
など。

 一貫して個人(外国の記事に関しては、概要的な記事も多かったけれど)を追いかけることは、その人の歴史や背景を表わすことになる。どんなに独創的な人や生き方であったとしても、何かから影響を受けている。その人なりの生き方、理由や必然性には、何かしらの文化の形、歴史と同化した思想が織り込まれている。そして、その人自身もその文化の一部として還元され、歴史化されていく。クウネルのサブタイトルである「ストーリーのあるモノと暮らし」という言葉も、その歴史性、一般性を指しているともとれるのではないだろうか。

 個人の具体性とは、ブランド・戦略・抽象化の真逆をいくものであって、文化を提案・誘導しようとするファッション的な大きい流れに突きつけた、人の形としての「ふつう」、そして、全能的とも言える思想や人間のエゴへの抵抗があったように思うのだ。地域、そして個人の湛える歴史や文化は、人の思いつきや計画よりも遥かに強く、しなやかで、美しい。そんなメッセージを感じる。極めて親しみやすく柔らかな形をとりながらも、クウネルの携えていた「ふつう」は、巨大な資本や支配に抵抗する力を常に湛えていたように思える。

「ふつう」以前の話

 クウネルと同時期に、ライフスタイル雑誌がいくつも創刊され「ふつうの暮らし」が注目されたのが2000年代だけれど、そもそも「ふつう」がトピックとなるということは、普通のことではない。皆が普通の状態ではなかったということも示しているだろう。でも、みんなが揃って異常なら、それが普通では?ということにもなるのだろうか。

 曖昧な表現ができるのは日本語の利点でもあるけれど、「普通」を英語で考えるとnormal以外にも

average 平均
plane 無垢
usual 日常
common 共通 
neutral 中立
equality 平等

など、多くの意味を混ぜた表現として「ふつう」が流通しているように思える。

 逆さまに言えば、「ふつう」でないとは何かが決定的に欠落している、または、過剰な状態。それらを皆が感じていたから「ふつう」を素晴らしい!と感じることができたのではないか。

 そうであるなら、比較されて初めて受け入れられる言葉なので、暮らしに変革をもたらした(またはもたらそうとした)「ふつう」前史として、何かが過剰・欠乏していた時代があったはずだ。ものづくりのプレイヤーとして立ち回った僕たちだって、雑誌の記事みたいに「素敵な」暮らしだけを謳歌していた訳ではなくて、葛藤もあればメラメラと燃え上がる闘志も、泥臭さも携えて、必死に作ってきた。だから「ていねい」とか「ふつう」などの言葉だけにまとめられてしまうのは何か洗浄されてしまったような窮屈さもあったし、削ぎ落としてしまうものも少なくなかったんじゃないだろうか。そこにはもう少し、生々しいものやシリアスな願いもあったように思う。

equalityへの希求

 いわゆる「暮らし系」ブームの中で、クウネルの牽引力が絶大だったと感じるのは、僕だけではないと思う。だとすると、母胎となった、『an・an』(以下アンアン)が、その本質を探るための手掛かりになると思い、色々と遡って調べたことがあった。

 第4号まで、クウネルはアンアンの増刊だった。いまでは関係のないように見える両者だけれど、往時の刺激的・進歩的なアンアンには先述の「ふつう」に繋がる萌芽があると考えた。そしてそれはいわゆる暮らし系雑誌にみられたような、穏やかでふんわりとしたものでもなかった。

 1970年に生まれたアンアンは、フランスの女性誌『ELLE』の日本版として創刊された。70年代と言えば、ウーマン・リブ(1960年代後半から70年代前半にかけて、アメリカからスタートした女性解放運動)、先述の英訳の中で言えば、equality (または、あたり前の権利 rightsの方が近いかも知れない)を求め、男性中心的で封建的な意識や体制から女性を解放するために、ファッションや性に関するトピックも積極的に扱っていた。(とは言え、フェミニズム的な傾向は、年を経るにつれて弱まってくる。)

 19世紀に、女性がスポーツをするためにブルマーが作られた話が有名なように、女性の権利とファッションは縁が深い。主婦雑誌や洋裁誌などが主流の中、初期のアンアンはファミリーヌード、性の話題、時にはドラッグ(当時はヒッピー文化などを主とした、カウンターカルチャーの中で、精神の解放や意識の拡張、ユートピア思想を求めてマリファナやLSDなどが使われることがあった)など、自由や反体制的な強いメッセージを若い女性へ発信した、革新性の強い雑誌でもあった。女性の権利、主体性、それらを結びつけるファッション。しかしそこからは、「ふつう」「暮らし」を提案するファッションに直接は繋がらない。

 その政治性を、カジュアルな流行として換言する役割も担った、影響力の大きい雑誌として『Olive』(以下オリーブ)も挙げていいように思う。オリーブは1982年、アンアンと同じ平凡出版(現マガジンハウス)より出版された。

 初めは『POPEYE』増刊として出たオリーブも、若い女性を中心に、大きな影響を与えた雑誌だったと言われる。初期は、アメリカ、ハワイなど、海外の新しい価値観を積極的に紹介していた。これからはこれ!これがおしゃれ!と、既存のイメージを刷新するファッションや生活道具、ライフスタイルや志向を打ち出した。やがて1980年代前半には「CanCan」「ViVi」「JJ」など赤文字系雑誌(題字が全て赤いことからそういわれる)と呼ばれる女性向けファッション誌も揃い踏みするけれど、それらとは明らかに違う傾向のものだった。

ordinalyへの抵抗

赤文字系雑誌を読む女子大生と、初期『オリーブ』が読者として想定する女子大生とは、全くタイプが違っていました。赤文字系雑誌を読む女子大生は、ファッションであれサークル選びであれ、全ての行動をとる時に判断基準としたのが「男ウケするか否か」。対して『オリーブ』が求めたのは、「男にウケるか」でなく、「自分が興味を持てるか」「個性的か」といった判断基準で行動する女子大生。初期『オリーブ』とはすなわち、赤文字系雑誌へのアンチテーゼとして、存在していたところがあります。

酒井順子『オリーブの罠』講談社、2014年

と、かつて『オリーブ』に連載を持ち、熱狂的なオリーブ少女でもあった酒井順子は述懐している。

 この言葉を鵜呑みにすれば、価値観を男性や他人に任せるのではなく、自身で勝ち取ろうとした意味は大きい。そしておそらく、暮らし系ブームが打ち出した「ふつう」以前には、反抗する対象としての「当たり前」、「普通」があったのではないか。古臭い(と当時思われていた昔ながらの道具や、明らかに安物のジャージ、スーパーで買う洋服など)に対して「これからはこれがおしゃれ!」「こうやってこだわるべき!」という貴重な情報源、ファッション誌の指示に近いような提案は、それ以前の通常(=野暮)としてのordinaryや、古い考えへの対抗であり、革新的だったのだろう。そのように少女達に意見や主体性、イニシアチブを獲得させる流れは、古い家父長制の強い空気や、封建的なイエの中に閉じ込められた女性像への対抗があったのではないか。すなわち、現在であれば当然の権利であると(考えられてはいる)自由や主体性を女性が持つことができる時代への前段階であったようにも思える。

 また、後述する無印良品や、ファストファッションもなかった当時、おしゃれな服はデザイナーによるブランドものだった。

安いものは必ずダサく、そして家電から服まで、安いものにはなぜか、変な花模様とかがついていたのです。

酒井順子『オリーブの罠』講談社、2014年

 そんな気持ちを打破するように、若い女性に向けた、若い女性による文化を生み出す流れが生まれる。例えば、オリーブ少女にとって重要だった「リセエンヌ」という言葉も興味深い。

昭和の高度経済成長期には暮らしのありようが大きく変化した。家電製品の普及もその一つで、花柄の魔法瓶や炊飯器が食卓を彩った。

equalityとリセエンヌ

 リセエンヌとは、そもそも、フランスの女子高校生のことだ。ウーマン・リブやドラッグ、レズビアン特集など、当時で言えば過激で反体制的だったアンアンでは、1971年に「フランスの高校生 五月革命以後彼らは変わった そのオドロクべき変ボウぶりを探る」としてリセエンヌを紹介している。五月革命とは「自由・平等・セクシャリティ」をスローガンにした、フランスの若者達によるストライキで、ファッションや文化に大きな変化を起こした。

1968年のパリ。壁一面に張られた政治的主張のポスター。なにより多様でカラフルでポップだった。五月革命のヴィジュアルはゴダールとポスターの色彩で彩られる。 Robert Schediwy, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, ウィキメディア・コモンズ経由で

 そして、12年後の1983年、オリーブ35号の表紙には「オリーブ少女はリセエンヌを真似しよう!」という文字が踊り、突然の特集が組まれた。

「さりげなくおしゃれで、いい感じ。どことなくかわいくて、夢がありそう」
「いまから7,8年前のこと。『オリーブ』のお姉さん雑誌『アンアン』で、何度となくリセエンヌのライフスタイルやファッションを特集していました」
「1968年の五月革命で、生徒たちは様々な自由を獲得しました」

酒井順子『オリーブの罠』(講談社、2014年)による、『アンアン』からの引用

 今からすれば、かなり強引な話にも見えなくないが、そこではかわいい!を基準としながらも、根底には少女達のequality(平等)への主張も、潜んでいたのではないか。そしてリセエンヌと共に、2010年代の暮らし系ブームの源流にあるような、古着や小物の紹介も始まった。

かわいい雑貨と反体制

 当時の「かわいい」「おしゃれ」への志向は、雑貨への広がりもみせた。70年代を起点にして、90年頃まで続いた雑貨ブームだ。文化屋雑貨店、ソニープラザなど、輸入物を中心に、雑貨屋と呼ばれる店舗が多く登場し、オリーブのなかでもしばしばとりあげられていた。

 オリーブやアンアンの中ではしばしば「チープなもの」として賞賛される雑貨、文化屋雑貨店などの雑貨を、『すべての雑貨』(三品輝起、夏葉社、2017年)の中では、「キッチュ」とも定義している。『雑貨のすべて』(瀧清子、主婦の友社、1993年)の中では、役に立つ「ツール」に対して、役に立たない「ガジェット」という分け方をしている。キッチュは、元々俗悪なもの、という意味だけれど、敢えて、ガラクタの魅力を提示するような反語的な価値観が、文化屋雑貨店を始め、当時の雑貨ブームには感じられる。現在作られているクラフトと一括りにはできないけれども、どこかヨーロッパなど、海外への憧憬を感じることもある。(欧米への憧れは、工芸に限らず、文化的な問題かもしれない。)

 また、当時は見向きもされていなかった雑巾や板切れなどを選び、価値あるものとして売り出した古道具坂田の開業時期ともそれらは重なる。

(②に続く;2024年8月2日公開予定)


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第22回 「暮らし」と「ふつう」①

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