理学療法士である著者は、東京・府中市で訪問看護ステーションおよび居宅介護支援事業所を運営しながら、カフェや空きアパートを使ったコミュニティ事業を展開している。あそびを通じた表現活動を行うアトリエ、中高生のサードプレイス、菓子工房、銅版画工房などが半径50メートル内に集まる一帯の名は「たまれ」。最寄の多磨霊園駅と、人が「溜まる」をかけて名づけられた。
こうした活動を通して実現しようとしているのは、人と人との「弱いつながり」だと著者は言う。2011年の東日本大震災以降、とみに加速した人と人との「つながり」を絶対視する風潮への違和感からたどり着いた、「たまれ」という名の「場づくり」。その足跡を振り返りながら、医療と患者、医療と地域、人と人の「いい感じ」な関係を考察する。
#10 10分のスピーチが開いた扉:駅ナカスペース「武蔵野台商店」の物語
「社会は変えられないかもしれないけど、地域の空気なら変えられる」
200人の聴衆の前でこう言い放った僕は、その日、起業して初めて賞をもらった。
2016年10月、日本科学未来館で開催された「MEDプレゼン2016」というプレゼンテーションのイベントに登壇した。「MEDプレゼン」は2009年から毎年開催されていて「いのちの場から、社会を良くする」をコンセプトに、医療・福祉・介護の関係者だけではなく、教育機関、一般企業、市民など様々な立場の人たちが医療をより良くするために自身の考えについてのプレゼンテーションを行うイベントだ。
会場となる日本科学未来館の未来ホールは舞台をぐるっと囲むように階段形式の座席となっており、プレゼンターはその中央に敷かれた赤い丸絨毯の上で約10分間スポットライトを浴びる。
僕が登壇するきっかけになったのは前年のことである。「絶対に糟谷さんは見ておいた方が良い! あなたはいつかきっとあの場に立つ人だから一緒に行こう!」と友人から猛烈に誘われて、2015年に開催された同イベントに聴衆として参加した。会場が暗転し一人目のプレゼンターが赤い丸絨毯の上に立ったところでスポットライトが照らされプレゼンがはじまる。
「これだわ」
気づいたらプレゼンターの熱い想いや会場の雰囲気に魅了されている自分がいて、まんまと友人の思惑に乗せられてしまった。そして「(#9で書いた)ミッキーになりたい」という想いをMEDプレゼンの会場の雰囲気と重ねていた。
「ここに出たい」
僕という人間は本当に単純だ。
自薦プレゼンターとして
当時、MEDプレゼンに出るためには2つの方法があった。運営側から声をかけてもらうか公募によって選ばれるかである。会社を立ち上げたばかりの無名の僕には当然前者の選択肢はなく、登壇するためには応募して選ばれる必要があった。次回は参加すると心に決めていたが、いざ応募するとなると「落選したら恥ずかしいな」「会社を立ち上げたばかりだし、来年にしようかな」などと尻込みする自分もいた。
決め手となったのは、公募プレゼンターの中から審査員によって最優秀プレゼンター1名が選ばれるという表彰制度だ。プレゼンの機会を得られるだけでも僕らの取り組みや思い描く未来を知ってもらう絶好のきっかけになるが、表彰されたらその可能性は倍増する。日本科学未来館のあのホールでプレゼンしている姿や表彰されている姿、そしてその後、僕らの活動を見学に来てくれる人たちの姿を妄想しはじめたらワクワクとニヤニヤが止まらなくなった。繰り返すが、僕は本当に単純な人間である。
そんなキラキラしかない未来を妄想しながら選考書類を提出し、その2週間後くらいにプレゼンター当選の連絡がきた。内心ドキドキしていたので、ホッとしたというのが正直な気持ちだったと記憶している。当選の連絡と一緒に当日のスケジュールが添付されていて、どうやら僕はトップバッターらしいということがわかった。一瞬目を疑ったが、さほど気にはならなかった。本番の1カ月前のことである。
表彰式後に舞い込んだビッグチャンス
公募で選ばれた6人のプレゼンは午前中で終わり、休憩の後に行われる表彰式に向けて会場がザワザワしはじめる。その間に会場にいた何人かに声をかけてもらったり、Facebookでメッセージをもらったりした。
「きっと君が選ばれる」「ダントツで良かったよ」
リップサービスもあるだろうなと思いつつも、内心はすごく嬉しかった。会社からも数人のスタッフが聴きにきてくれていて、その中に和田もいた。どんな話をしたか覚えていないが、舞台から会場を見た時にどこら辺に座っていたか、どんな表情をしていたかは8年経った今も断片的に覚えている。そのくらい心強かったし嬉しかった。
僕のプレゼンの概要はこうである。
「住民と医療介護の懸け橋になる」これが私のミッションです。私が暮らす街でも地域包括ケアシステム構築に向けて行政が動いていますが、住民にその声は届いていません。地域の端っこで『助けて』と発信しながらも誰にも気づかれずに辛い思いをしながら生活している人が沢山います。発信し続けて疲れてしまっている人もいるし、発信する事を諦めてしまっている人もいる。殆どが健康と要支援の境にいて、いずれは医療や介護が必要になるような方達です。こうしている間に”いま”困っている人たちはどんどん疲弊しています。声を拾う事すら出来ない現状で、果たして地域包括ケアシステムは成り立つのでしょうか。声を拾えるのはそこで暮らす住民とそこで働く医療介護の専門職であり、地域社会を変える事が出来るのも住民と医療介護の専門職です。私は在宅医療介護や食、農業、参加型ワークショップをツールとして、「住民と医療介護の懸け橋」になります。
(出典:「MEDプレゼン2016」パンフレット、主催:一般社団法人チーム医療フォーラム〈現在は「一般社団法人 みんなが みんなで 健康になる」〉)
プレゼン自体は緊張せずに楽しんでやれたという感想だ。この上なく良かったという訳ではないが、僕らしさは出ていたんじゃないかと思う。Youtubeに当時の映像が残っていて、いま見返しても楽しそうに喋っている。読者のみなさんが映像を見ることもあるかもしれないので裏話をしておくと、トップバッターで登場した僕が話をはじめた直後に機器トラブルが発生し、はじめからやり直しをしている。映像を見ると冒頭でやけにニヤついてるなと思うかもしれないが、これが原因だ。
お昼休憩が終わると最優秀プレゼンターの発表があり、僕の名前が呼ばれた。その瞬間、ちょっとしたどよめきと、たくさんの拍手に迎えられたのを記憶している。壇上に上がるのは恥ずかしかったけど、それよりも嬉しさの方が大きかった。興奮はしていたが受賞インタビューの時は冷静に会場にいる方の顔を見ていたと思う。プレゼンの時と一緒で、今でも何人かの知人がどこにいたかは何となく覚えている。
その後は会場内のたくさんの方におめでとうと言ってもらい、至る所で名刺交換をして、Facebookでは僕をタグ付けした投稿が一気に出た。僕が狙っていたのはまさにこれだ。MEDプレゼンに出た理由の1つは「知ってもらうため」であり、賞を取ることができればその宣伝効果は大きい。社会から見たら小さいかもしれないけれど、僕にとっては大きな打ち上げ花火をあげることに成功したので、ここからどのくらいの人たちと一緒に僕が思い描く未来をつくれるだろうかと、終わった時はそんなことばかり考えていた。
それは大方、思い描いていた通りになった。MEDプレゼンで賞をいただいたことの影響は大きく、僕らの取り組みを詳しく聞きたいという問い合わせがあったり、講演の依頼が続くようになる。
そして、イベントが終わり1カ月後くらいに和田からとんでもない内容の連絡がきた。
「フラスタ(FLAT STAND;#7参照)に京王電鉄の方が来てくれて今後の事業について話を聞きたいと言っている」
「嘘でしょ?」
京王電鉄との協働事業
「まだ構想段階で社内での承認はこれからなのですが、隣の武蔵野台駅で地域と協働の店舗を考えています。シンクハピネスさんが私たちと一緒に運営する可能性はありますか?」
お互い自己紹介をした後、京王電鉄さんからされた話はこんな内容だったと思う。
京王電鉄の鉄道事業は新宿を起点とする京王線と、渋谷を起点とする井の頭線からなる。武蔵野台駅は新宿駅から約25分のところにある各駅電車しか停まらない駅で、1日22,002人(2023年、京王電鉄発表)が乗降する。当時の京王線の駅ナカといえば、どの駅を見てもチェーン店が並び、周囲の鉄道会社と比べると沿線の風景に面白味が感じられなかった。特に新宿駅から特急で約15分のところにある調布駅から西側はそれが顕著だった。武蔵野台駅の構内も書店が1軒あるだけで、駅周辺に気軽に立ち寄れるようなファストフード店やコーヒーチェーン店は1つもない。そのような現状に対し、駅ナカで地域の人たちと一緒に新しいビジネスモデルをつくることで、より住んでもらえる、より選んでもらえる沿線を目指し京王電鉄さんが動いた。
僕らに声をかけてくれた理由は、理念に共感してくれたことと、医療と暮らしという2つの軸で実際に活動をしていることを評価してくれたからと記憶している。特にフラスタが掲げるセカンドリビングというコンセプトは、京王電鉄さんが駅で実現したい場のイメージに近かった。京王電鉄さんがはじめに僕らに提案したコンセプトは3つあって、ちょっとだけ休憩できるカフェがあり、ちょっとだけ立ち寄って買い物ができる地域の食物販があり、ちょっとだけ参加できるイベントが開催されているというものだった。そして、このプロジェクトが実現した場合、シンクハピネスはこれら3つの機能を担うことになる。
まだ構想段階とはいえ、僕はかなりワクワクしていた。#3で書いた「しあわせのパン」の世界観を想像したときに、いずれ地域の鉄道と一緒に活動ができたら良いなと考えていて、活動を続けていれば、いつか京王電鉄さんの目に留まり声をかけてくれるのではないかと妄想をしていたことが、あまりにも早いタイミングでやってきたからだ。そんな僕を横目に和田はいつも通り冷静に状況を見ていた。フラスタの何倍もある規模の店舗を自分たちが担えるのか、シンクハピネスが京王電鉄さんと一緒に事業を行う目的をどこに置くのかなど、和田と議論を続けた。
「俺はやらない」
京王電鉄さんの社内でプロジェクトの承認が得られ、シンクハピネスが事業を担うことに決めたのは2017年3月のことである。実はこの後、肝心な店舗の責任者が決まらずオープン半年前まで空席のまま進むことになる。和田にやってもらいたかったが、彼の意志は「やらない」だった。事業を行うこと自体は賛成だったが、彼が店舗をマネジメントすることについてはギリギリまでやらない選択をしていた。事業の実施が決定した2017年3月はフラスタがオープンして1年も経っていなくて、フラスタがどうあるべきかを模索している中で新しい店舗のマネジメントをやれと言われても、そりゃできなかっただろうと思う。
今まであまり話をしてこなかったことだが、フラスタがオープンしてから3年間、和田は悩んでいた。シンクハピネスの目指す社会においてフラスタはどのような役割でいたら良いのか、そこに自分はどのような価値を見出せば良いのかということについてだ。当時、シンクハピネスの目指すものは何なのか、糟谷はどんなことを大切にして事業を行っているのかを繰り返し議論し、時にはぶつかることもあった。価値をつくり出せなかったら辞めるという話も本気でしていたくらいだ。今まで福祉用具の会社にいて自らも専門職として現場に出ていた人が、急にカフェを任されたのだから無理もない。
飲食について、和田はフラスタのグランドオープン前の数カ月で知人のお店数件を手伝いながら学び、あとは実践のなかで自分のスタイルをつくってきた。今でも「コーヒーを淹れたいわけでも、食事をつくりたいわけでもない」と言っているが、それでも彼が提供する食事やドリンクは美味しいと評判だ。また、たくさん集客することが目的ではなく、様々な仕掛けをつくり、個人の気づきや人と人との出会いのきっかけにするような場づくりは1年や2年では先が見えてこない。そんな状況の中、僕は彼に新しい店舗の話を持ちかけたのだ。
彼の「やらない」については一旦受け取った。だが、このプロジェクトを進める上で彼の視点は必須だったため、事業を構築するためのメンバーには入ってもらった。もちろん、進めていく上で彼の気持ちが変わっていくことは期待していたし彼にも伝えていた。
その後、武蔵野台駅プロジェクトの話は進み、店舗の設計デザインや飲食メニューなどは専門家に入ってもらい京王電鉄さんと一緒につくりはじめていた。コンセプトや店の名前なども同時に考えていて、こちらは店舗の設計デザインを担当してくれた株式会社SPEAC(以下、SPEAC)代表の林厚見さんがリードしてくれた。僕の頭の中にある言語化できないものたちを引っ張り出すためにブレストを重ね、なかなか具体的な言葉として出てこないことに迷惑をかけつつも、きっと糟谷の中には見えている世界があるのだろうと面白がって付き合ってくれた。
「医療と暮らしの境界線を曖昧にしたい」という根本的な考え方は変わらず、病院や診療所以外の場で、医者や看護師などの医療者とそこで暮らす住民が自然に出会った結果、必要があれば相談ができるような関係が生まれる。そんなきっかけづくりをどのようにつくるかが議論の中心にあった。夜になると医者が脂ギトギトの唐揚げを食べながら呑んだくれている姿を見てもらうことで「脂ギトギトの唐揚げ食べながら呑んでもいいんだ」という選択肢も持ってもらいたいとか、医療系のイベントが開かれている横では小上がりでプロ野球中継を見ているおっちゃん達がいて、いつの間にか医療系イベントの方に耳を傾けていたりとか、暮らしの中において健康にちょっとだけ向き合えるようなきっかけづくりをしたいねという話をしていた。
改めて考えてみると、このような実験的な場に投資をしようと決めた京王電鉄さんの姿勢は、鉄道がこれからのエリア価値を考える上で先駆的な取り組みであり、僕らにとってはこの上ない機会をもらえたのである。普通に考えれば、大手チェーンを入れた方が収支的にはうまくいく可能性が高いのに、だ。個人的な意見として書くが、伝統ある会社が今までやってきた資本主義的な考え方と全く逆のことをやろうとしているのだから、本当にすごいと思う。その分、僕らシンクハピネスはそれに応えなければいけない。具体的に話が進むほど、プレッシャーは大きくなっていった。
そんななか、ついに和田が武蔵野台のプロジェクトで店舗の責任者として動くことを決心した。どんな思いがあって関わることを決めたのか、当時の記憶をぼんやりとしか思い出せなかったので改めて和田に聞いてみることにした。
「(自分が関わると決めるまでの)フラスタがオープンして2年と数カ月の間、様々なカタチでフラスタに関わる人が増えてきて、みんなでフラスタをつくってきたよね。プロジェクトを行うためには、一旦それを止めてフラスタをお休みにする必要があったと思うんだけど、あの時はどんな思いでいたの?」
「いま思うと、積み重ねてきたものが見えてねえ奴にはわからんだろうがって思ってたかも。京王電鉄、SPEACとか関わるプレーヤーがたくさん議論をしていたけど、自分ごととしてとらえているようには思えなかった。空中戦に見えてたかな。ちょうど同じ時期に、LIC(LIC訪問看護リハビリステーション)に黒沢さんが入ったことで良い方向に向かっていたと思うけど(#9参照)、正直また同じこと繰り返すぞって思ってた。社内的な説明はどうするの?って。だからこそ自分の中で武蔵野台のプロジェクトをやる意味を落とし込まないとやれないって気持ちがあった。何度も言っているけど、そもそも飲食店をやりたいわけじゃないし」
大方、僕の記憶は間違っていなかったけど、こうやって改めて聞くと彼の自分と会社に対する責任は相当な覚悟の上に成り立っているとを感じる。さらに彼は続ける。
「規模感にビビっているってのも潜在的にはあっただろうね。一歩踏み出すためにかなり助走しないと飛び越えられない崖みたいなもんだから。それを間違えたら死ぬって思ってた。会社も自分も。そういうことを考えると事前の心構えみたいなのが必要だった。何かあった時に、自分の中で「だからやっているんだ!」って跳ね返せるものがないと、とてもじゃないけどできる規模じゃないって思ってた。あとは、自分よりももっと適任がいるって思っていたよ。マジで。だから、その人が見つかれば俺は辞めるって言ってたと思う」
武蔵野台商店の開業へ
店舗の名前は「武蔵野台商店」に決まった。僕らとSPEACさんと京王電鉄さんで喧々諤諤の議論の末、やっと決まったという感じだ。武蔵野台における新しい”場”はフラスタが掲げているセカンドリビングとサードプレイスの間くらいのイメージで、お洒落感のある商業店舗ではないと捉えていた。「店」という名前を使うことで乗降客や住民にとってのハードルを下げ、道の駅と同じような意味で、駅における象徴的な場所として、無意識のうちに認識してもらえるようにならないかというねらいである。
店舗のデザインや飲食メニューも大方決まり、いよいよスタッフ募集の準備に入る。京王電鉄さんのプレスリリースのタイミングに合わせるとオープンに間に合わないという問題があり、具体的にどこで何をやるのかを明記しない状態で先にFacebookで募集をかけることにした。こんな怪しい募集要項で人がくるのかという不安もあったが、ありがたいことにすぐに20名くらいの問い合わせがあったのだ。正直これには驚いた。冗談まじりに「みんなどうかしてるんじゃないの?」と嬉しさを噛み締めながら和田と話をしていたのを覚えている。
これが何を意味するのかは、僕の和田もすぐに理解できた。フラスタやシンクハピネスが約3年半の間に積み重ねてきた信用がカタチになったんだと思う。今でもスタッフ同士で話をするが、僕らがやっていることはその瞬間に結果として返ってくることはなくて、1カ月後、半年後、1年後、もしかしたら5年後、10年後に返ってくるものかもしれない。「いま」どんな行動を選択するかが、目の前の人やその隣にいる人たちにとっての未来の「いい感じ」をつくることとつながっているのだ。まだまだはじめたばかりだったけど、スタッフ募集で返ってきた反応はちょっとだけ手応えを感じた瞬間となった。
武蔵野台商店は2019年2月15日に無事にグランドオープンを迎え、年齢は10代から60代までの18名のオープニングスタッフと一緒にスタートした。コンセプトを「小規模駅における地産地消の複合店舗」としプレスリリースも打ち出した。地産地消の取り組みとしては、運営とカフェをシンクハピネスが担い、武蔵野台駅から徒歩3分のところにある「モルゲンベカライ」というベーカリーのパンと、現在は「たまれ」に拠点を構える「jimono」という八百屋の府中市産を中心とした農産物の委託販売を行う形である。
営業時間は7時から22時までで、夜はアルコールの提供も行う。約200㎡ある店舗の中にはカウンター18席、テーブル18席、小上がり24席の計60席があり、畳が敷いてある小上がりは、赤ちゃんなど小さなお子さんがいる親子もくつろげるスペースになっている。飲食機能の他にもスペース貸も行い、小さなコンサート、ヨガ、勉強会、会議、時にはウェディングパーティーなどの利用もあった。
グランドオープン後は今まで経験したことのない忙しい日々が続くことになる。武蔵野台商店の営業時間は7時から22時で、駅ナカ施設のため休業日はない。社員は朝6時前に店を開けて、帰りは24時を過ぎる。もちろん、間に休憩はとっていたが、はじめの頃は店がうまく回っているか気になってしまい、休憩どころではなかった。スタッフが慣れてくるとバイトリーダーに朝のオープン準備をお願いしていたが、結局1日のほとんどの時間和田は店にいたし、僕も何もなければ店にいて仕事をしていた。ゼロから店をつくっていくというのはこういうことだと学んだが、とにかく忙しい日々だった。
少しずつお客さんが増え、お店でイベントをしたいという問い合わせも増えてきた。フラスタとは違って、何か新しいことをやるにしても京王電鉄さんの決裁をとってから行うという過程があるため、物事がスムーズに動かないことがほとんどだったが、担当の方は本当によくやってくれていた。もちろん、できないことはできないとはっきり言う。だが、少しでも可能性があることについては上申してくれる人だった。
それでも集客には苦労した。改札を出てすぐ目の前が店なので、多くの人が立ち寄るだろうと考えていたが、通勤や通学で立ち寄る人は思った以上に少なかった。店の名前を決める時にハードルを低くするという話を書いたが、何かしら入るきっかけづくりをしないとお客さんは増えないかもしれないと思った。
場づくりというのは時間をかけて行うものだ。しかし、そこに経済が伴わないと事業として意味のないものとされてしまう。「道徳なき経済は罪悪であり、経済なき道徳は寝言である」とは二宮尊徳の言葉だが、よく言ったものである。売上を上げるための策としては、より多くのイベントを開催したり、メニューを変えてみたり、物販をお願いしていた地元のパン屋さんや八百屋さんの商品を増やしてみたり、数字に直結することを行うのも大事だ。しかし、武蔵野台商店をみんなで一緒につくる場にするためにはそれだけでは不十分である。
お客さんへの声かけや距離感、レイアウト、小物、照明の明るさ、店内表示など、パッと見では気づかないところで少しの変化を重ねていくことが大事だと学んだ。店内を整頓するとか綺麗にするとかそういう所だけではなくて、そこに雑多や混沌を不快でない範囲で混ぜていく。
人の暮らしは綺麗で整頓されたものだけでは語れない。誰かに嘘をついてしまった、自分が言った一言で誰かを傷つけた、部屋が片付けられない、学校に行きたくないなど、人には知ってほしくないこともあると思う。武蔵野台商店は駅の中にある日常の場だからこそ、非日常ではなくて、日常を感じられる場づくりをしていた。僕らだけで場づくりをやってしまうと、訪れる人にとっては非日常の空間になってしまう。だから、声をかけてもらったり、ちょっと気づいてもらえるような余白を入れたりして、みんなでつくる場にしていた。
そんなちょっとした変化を重ねていくと、内にも外にも変化が見えてくる。20人近くいるスタッフはそれぞれの役割を持って動くようになったり、今までこなかったような年齢の方が来てくれたり、夜の時間帯に人が集まるようになったり。結果として売上にも変化が見られるようになる。
「いい感じ」になってきたね。和田ともそんな話をしていた。
「特別措置法第32条に基づき、緊急事態宣言を発出することといたします」
2020年4月7日、安倍晋三首相(当時)が行った緊急事態宣言によって事態は一変することになる。
緊急事態宣言から1カ月後、残念ながら2020年5月31日に武蔵野台商店を閉店することが決まった。1年3カ月というわずかな期間だった。この閉店は決してコロナのせいにしてはいけないと今でも思う。僕が、シンクハピネスが、お店を経営していくための経験や知識が圧倒的に足りなかった。お金の回し方にしても、人のマネジメントしても、企業とのやり取りにしても、経験と知識が足りなかった。理由はこれに尽きる。
閉店を憂いている場合ではない。月末にはたくさんの方の雇用を奪うことになるのだ。しかも突然に。「コロナの影響で事業が継続できなくなりました。ごめんなさい。雇用は○○日までで、補償は○○です。以上」というわけにはいかない。早急にスタッフの対応とどのように店じまいするかの検討をしていく必要があった。
一方、訪問看護や居宅介護支援事業は感染者の対応に追われはじめる。シンクハピネスとして事業をどのように続けていくか、感染者対応をどのように行っていくかの判断を早急にしなければいけなかった。府中市内では感染防御資源が不足し医療や介護のサービス提供を止めざるを得ない事業所が出始め、在宅医療や福祉の崩壊の危機が迫っていたのだ。
僕らはこの状況を打開するために、府中市内の在宅医療福祉の専門家が有志で集まり、情報交換と課題の把握、その課題解決に向けて、医療や行政、企業、市民などの立場に関係なく、みんなで動くための任意団体を立ち上げることにした。
「社会は変えられないかもしれないけど、地域の空気なら変えられる」
こうやって叫び続けながらコミュニティ運営を行ってきたことが、この危機的な状況で役立つかもしれない。そう直感していた。