理学療法士である著者は、東京・府中市で訪問看護ステーションおよび居宅介護支援事業所を運営しながら、カフェや空きアパートを使ったコミュニティ事業を展開している。あそびを通じた表現活動を行うアトリエ、中高生のサードプレイス、菓子工房、銅版画工房などが半径50メートル内に集まる一帯の名は「たまれ」。最寄の多磨霊園駅と、人が「溜まる」をかけて名づけられた。
こうした活動を通して実現しようとしているのは、人と人との「弱いつながり」だと著者は言う。2011年の東日本大震災以降、とみに加速した人と人との「つながり」を絶対視する風潮への違和感からたどり着いた、「たまれ」という名の「場づくり」。その足跡を振り返りながら、医療と患者、医療と地域、人と人の「いい感じ」な関係を考察する。

#9 夢見る力:ウォルトの言葉が導いた人財と命の選択

  年に8回くらい夢の国に通っていた時期がある。当時お付き合いしていた方が年間パスを持つくらいディズニーが好きだったということもあるが、定期的にミッキーの動向を観察しにいくという目的があった。ちなみに、僕のお気に入りは「うきわまん」と「シンドバッド・ストーリーブック・ヴォヤッジ」「カリブの海賊」である。パーク内ではアトラクションに乗ることも好きなのだが、キャストさんの動きや建物の造りや配置を観察しながら、ぶらぶらするのが好きだ。なんとなく建物や植栽があるのではなくて、全てが計算しつくされて配置されているのがディズニーである。

  パレードやショーの時間はよりワクワク感が大きくなる。この時間、僕はミッキーに釘付けのゲストたちを見ていることが多い。ここだけ切り取ると「ん?」と思われてしまうと思うが、これには僕なりのちゃんとした理由がある。おそらくパレードやショーは1万人以上の人たちが見ていると思うが、ほぼ100%の人が笑顔になっているのだ。それぞれに色んな表情があって、1万人以上の笑顔がある場の雰囲気は鳥肌ものである。そして、魔法にかかったゲストたちは、帰りにたくさんのお土産を買うんだろうなーという、ちょっと冷静にビジネス的なことも考えながらパレードやショーを見ている。10年以上前に書いたメモには「ミッキーになりたい」と書いてあった。

 そんなミッキーの産みの親であるウォルト・ディズニーの有名な言葉がある。
 “If you can dream it, you can do it.”

  夢ばかり見すぎてしまって、おだやかではない日々が今も続いているけど、きっと大丈夫。願い続ければ、全てがうまくいくと信じてる。

ウォルト・ディズニー(1935年) ムーリス通信社, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Walt_Disney_1935.jpg

不自然な入社理由

  起業から2年が経ち退職者が続出する中(#8 参照)、それでも相変わらず夢を見続けていた僕は、ウォルトを信じて夢を言葉にして発信していた。そんな2016年の年末に看護師の採用についての問い合わせがあった。人材紹介会社経由ではなく、HPの問い合わせフォームからだ。看護師の常勤換算が訪問看護ステーションの運営基準を割ってしまうかもしれないという不安がある中で、開設当初から力を入れていたHPからの問い合わせはこの上なく嬉しかった。そして、この問い合わせがシンクハピネスを良い方向に変えていくことになる。

 問い合わせは38歳の男性看護師からで、都内でも有名な三次救急がある病院で救命救急に長年携わり、病棟ではリーダー的な立場にいるという。現LIC訪問看護リハビリステーション(以下、LIC)の管理者であり、シンクハピネスの取締役でもある黒沢勝彦である。

 郵送されてきた履歴書には学歴や職歴が丁寧に記載してあり、志望理由もよくある定型文ではなく自分の言葉で書かれていて、そこに彼の強い意志を感じた。僕にとっては願ってもない人財で、我慢し続けながら夢を発信してきた甲斐があったと思えるくらい心が踊った瞬間だった。しかし、どうしても気になる点が1つだけあって、彼は週4日の非常勤での勤務を希望していたのだ。志望理由から滲み出る彼の意志に対して非常勤という希望は、どこか不自然に思えて仕方なかった。

 採用面接で非常勤の理由を尋ねると「パートナーが育休から復職する関係で自分としても子どもに何かあった時にフレキシブルに動けるようにしたい」という回答が返ってきた。さらにLICを選んでくれた理由を尋ねたところ、彼の中での明確な選定基準を3つ教えてくれて、1つはHPを持っていて日々更新しているところ、2つ目は40代以下の代表が運営しているところ、3つ目は理念を掲げているところであるとのことだった。というのは、彼が目指す在宅看護があり、やりたいことが実現できる条件としてこの3つがあるところだと考えていたという。

 もしかしたらすぐに辞めてしまうかもしれないし、何か裏に意図があるかもしれない。そんなリスクも考えたが、それ以上に彼の明確な意志に惹かれ、LICの即戦力になることと、彼の経験はLICにプラスの効果を与えてくれるだろうこと、そして、いずれ常勤になってもらいたいという希望をもって彼の採用を決めた。この採用には個人的な理由もあった。彼だったら母の筋萎縮性側索硬化症(以下、ALS)という特殊な病気における看護を任せられると思ったからだ。

進行する母の症状

 2015年10月23日に筋萎縮性側索硬化症(以下、ALS)と診断された母のその後について触れていなかったので、経過を書いておく。少し長くなるが母が動けていた頃の記録としては最後になるので読んで欲しい。

 ALSと診断された母は翌日に退院し、進行を緩やかにするための治療をしながら、少しずつ言うことを聞かなくなってくる身体と付き合って暮らしていた。

「前よりも脚がだるいかな。脚をひきずっちゃうね。朝に柿の葉っぱを掃いているんだけど、ものすごい量なので休み休みやっている。できる時はやるし、やりたくない時はやらないようにしている。それ以外は変わらないから大丈夫。心配いらないからね」

 ほぼ毎日やり取りしていたメールでは、こんな感じにその日の身体や気持ちの状態を報告してくれる。すごく嬉しいことだけど、僕の心境は少し複雑だ。

 専門職の立場としては、生活する上でやりづらくなってきた動作などが分かれば、未来に向けて何かしらの対応ができる。例えば、足に力が入りづらくなってきたなら、転ぶことを想定して早めに杖や歩行器を試すことや、トイレに間に合わないことを想定して、夜はポータブルトイレを使うようにするなどである。できないことがどんどん増えていく中で、失敗する経験は最小限にしたいというのが理学療法士としての姿勢である。一方、息子の立場としては、奇跡が起きて進行が止まることを祈るばかりだ。今後、徐々に歩けなくなる、食べられなくなる、喋れなくなる、呼吸ができなくなるという前提で母に話をする時はなんとも言えない気持ちになる。

 仕事が早く終わる時は実家に寄って一緒に夕飯を食べるようにしていた。ある日、ふと母に目をやると、味噌汁を飲み込みづらそうにしていた。仕事がら母の喉のあたりや首の筋肉の動きに目がいってしまうが、あんまり見ないようにした。「大丈夫?」と聞くと「大丈夫だよ」と答えたが、母の表情が一瞬曇るのがわかった。

 母の症状がどのように進行して、何ができなくなってくるかの予測はついていた。母の食べている姿や歩いている姿、話をしている姿を少しでも長く見ていたかったから、どうしても専門職の視点で話をしてしまう。ただ、それをすることは母の気持ちを優先せずに、こっちの気持ちを押し付けることにもなる。息子として、専門職として、どちらで接することが母のしあわせなのかを、この時期くらいから考えるようになった。

「カフェのオープン記念のお祝い、何がいいかな?」

 相変わらず母は自分の体調よりも誰かのことを考えている。FLAT STAND(以下、フラスタ)のグランドオープンが6月4日に決まったことを母に伝えたのは4月くらいだったと思う。グランドオープン前にフラスタに来てもらい中を見てもらいたかったけど、思っていた以上に進行が早い母の症状を考えると間に合わないかもという不安もあった。結局、少し早めだったがオープンの3週間前くらいにドリンクの試飲をしてもらう口実でフラスタに招待することができた。

 母は杖をつけば平地は歩けていたが一人で2階に上がるのは難しく、僕が後ろからお尻を押してなんとか上がることができた。和田が淹れたカフェオレを妹と飲んでいる時の写真を載せておく。(すでに姿勢を保つための筋力をうまく使うことができなくなっていたので、姿勢があまり良くない。)母が2階に上がったのはこの時が最初で最後となった。

フラスタの2階でカフェオレを飲む母と妹

 3カ月後、話すことがほぼ出来なくなる。食事もうまく食べられなくなり、水分も上手く飲めなくなっていたが、なぜか和田が淹れたカフェオレだけは飲んでいた。筆談でコミュニケーションをとっていた母のこんなメッセージが残っていた。あいつはどんな魔法をかけたんだ。

筆談ボードに記された母のメッセージ。実際に飲んでいたのはカフェオレ

 話すことが出来なくなった母は、その後みるみる症状が進行し、治療のために入院をすることもあった。病棟内は車いすを漕いで移動していたが、すでに上肢もうまく使えなくなっていたのでなかなか前に進まない。それでも、僕が見舞いに行くと必ず病室から出てきて談話室まで移動する。上体を真っ直ぐに起こす力も弱くなり、前屈みになりながら車いすを一生懸命漕いでいる姿は今でも忘れられない。そんな時でも母は笑っていた。

 談話室では甘いもの好きな母に、毎回食べやすいプリンやアイスなどを買っていき一緒に食べていた。いつもコンビニで買ったものばかりだったので、今思うともうちょっとお高めなスイーツを買っていけばよかったと後悔している。その1カ月後に母の胃にはチューブが取り付けられた。

深夜の救急搬送

 深夜1時に僕のスマホが鳴った。妹の名前がディスプレイに表示されていて、おそらく母のことだろうという予想は容易についた。

「お母さんの酸素飽和度が70%で今から救急車を呼ぶ」

 胃ろうを造った後からLICによる訪問看護と訪問診療の介入がはじまっていたので、夜間の緊急コールをして看護師と医師がすでに到着していた。看護師に電話を代わってもらい、母の状態を聞くと苦しそうにしているが意識はあるという。この時、僕は会社の経営チームの合宿のため箱根にいた。和田も一緒だった。

 妹からの電話を切って、一瞬どうしようかと迷ったが和田の一言で我に返った。

「行かなきゃ」

 着替えている間に和田がホテルのフロントに行きタクシーを手配してくれた。深夜1時の箱根はすぐにタクシーを捕まえるのが難しく、何軒か電話してやっと捕まった。到着は20分から30分後だという。僕は部屋でフロントからの連絡を待った。こういう時は本当に時間が経つのが遅い。何度時計を確認したことか。和田は何事もなかったかのようにビールを飲んで冗談を言っている。こういう彼の配慮が僕は好きだ。30分後やっとフロントからの連絡があり、タクシーで東京に向かった。

「東京の府中市までお願いします」
「なるべく飛ばしますね」

 タクシーの運転手さんに状況は伝えていないが、こんな時間に箱根から東京に向かう客の事情を察してくれたのだろう。急ぎたいんだけど着くのも怖い。そんなよくわからない心境になって色々と考えていたらいつの間にかウトウトしていた。妹からの着信で目が覚めて、ドキドキしながら出ると病院が決まったという連絡だった。母の容態はというと救急車に乗って酸素6ℓを入れたら呼吸が落ち着いたらしい。ひとまずホッとしたが、すぐに次の不安が出てきた。

 「母に呼吸をさせている筋肉もそろそろ限界かな……」

 以前から母は人工呼吸器はつけないと言ってきた。つまり、自然に死を待つということである。酸素で呼吸は落ち着いたけど、母の呼吸するための筋肉はそう長くはもたないと思う。タクシーの運転手さんに病院名を伝えると、僕は手元のスマホで「ALS 人工呼吸器」とGoogleで検索してみたが、気持ち悪くなりそうなのですぐ止めた。

 病院には3時前に到着した。ER(救急外来)に入るとちょうど妹が診察室から出てきた。泣いている。自分が作った料理が原因でこうなってしまったと言っている。この頃の母はなめらかなペーストやミキサー食でないと飲み込めなくなっていたため、妹が時間をかけて母が食べられる形状に調理していた。

「糟谷さんどうぞ」

 診察室に呼ばれると医師からは病状の説明があり入院と告げられた。病棟に移りさらに1時間ほど待った。再び医師に呼ばれて面談室で話を聞くと、やはり誤嚥性肺炎の可能性が高く、これからの発熱に備えて1,2週間入院してくださいとのことだった。

 先を考えると不安が大きいが、妹のことを考えると安心した。ずっとそばでケアをしていたので、少し休ませたかったというのが兄の本音だ。母にとっては不本意かもしれないけど、ちょっとだけ我慢してね。

母の決断

 母の呼吸の力は思っていた以上に弱っていて、1,2週間で退院と言われていたが延びていた。救急搬送されてから3週後、医師との面談の際にそれは告げられた。

「いよいよ自力での呼吸が厳しくなってきています。人工呼吸器をつけて生きるか、それとも自然な形で死を迎えるか、家族で考えてください」

 与えられた日数はそんなに多くなかったと記憶している。これまでに何度か母の意志を確認してきて、診断直後は「想像がつかないから分からない」だったが、少しずつ答えが曖昧になり、入院する直前に聞いたのは「生きる選択をしない」だった。

 僕は改めて母の意志を確認するために病室に行き母に尋ねた。

「人工呼吸器をつけて生き続けたい?」

 母は僕の目を見つめたまま、それ以上の反応は示さなかった。

「このまま終わりにしたい?」

 母は頷き、小さく笑った。

 いろんな視点で母が生きることについて考える必要があった。人工呼吸器をつけた後の家族の介護力の問題はどうなのか、お金の問題はどうなのか、ケアをお願いしたいと思えるサービスは近くにあるのか、そして5年後もいまと同じように考えられるのかなどである。父や妹、弟の意志を確認するために実家に集まり話をしたが、みんなの意志は「生きてほしい」だった。父は「俺の妻なんだから生きてもらわなきゃ困る」と、涙を流しながら話をしていた。

 家族の思いは理解した。では、いま並べたような介護力の問題、お金の問題についてはどのように思うかという質問をしたが、お前はお母さんを死なせたいのかというような内容を言われた記憶がある。そりゃそうだ。生きるか死ぬかの瀬戸際にある状況で、このようなことを冷静に考えられるような余裕を持った人は多くはいない。

 数日後、医師に回答した答えは「人工呼吸器をつける」だった。この間に、面会に訪れた父と父の従妹が、母に対して生きて欲しいという想いを強く伝えたことが、母の意志を変えるきっかけとなったのだ。

 最終的に母が判断したのは、いよいよ医師に命の選択を伝えるまさにその日だったと思う。医師との面談のために病室にいた僕と父と妹に対し、もうほとんど動かない手で筆談ボードに「生きていいの?」と書いて僕らに差し出した。想像を絶するような大変な選択だったと思う。この選択をしてくれた母には感謝しかない。

「この時の気持ちはどのような感じだったのか?」とよく聞かれるが、ボキャブラリーのない僕にとってはこの質問に答えるのがすごく難しい。ここでは「今まで経験したことないような心の底からの嬉しい気持ちと、ホッとした気持ち」と書いておく。

 一方で、どこか引っかかるところもあった。母のなかで「生きる」という選択に変わった理由は何なのか。誰かのために生きたいと思ったのか、それとも自分のために生きたいと思ったのか。この件に関してはいまだに母に聞けていないので、機会があったら聞いてみることにする。

退院時のカオスなパーティー

 3月の上旬に母は気管に穴を空ける手術をし、自らの意志ではなく人工呼吸器によって生命が維持される生活がはじまった。退院日は4月の中旬に決まり、それまでに自宅で暮らすための医療や介護のサービス調整を行った。

 母の喉元には直径1cmくらいの穴が空いていて、普段は気管カニューレというものを挿入している。そこに人工呼吸器を繋いで呼吸を行っているわけで、医療者じゃない家族としたらそんな母が自宅で過ごせるのかという不安でいっぱいだったと思う。父のアルコール依存症のこともあったりして、実家の雰囲気は良くなかった。

 そんな中、僕は勝手な行動に出る。退院日に実家でパーティーを開いてしまおうと考えた。招待者は僕の友人で、多くは母とは会ったことがない人たちだ。

 僕が小さい頃から自宅にはたくさんの人が遊びにきていて、僕の友人もしょっちゅう泊まりにきていた。多い時は20人くらい泊まった時があったと思う。母も家族もそれを歓迎していた。母の実家のお茶屋でも昔から茶摘みの時期になるとたくさんの学生が住み込みでバイトをしていたという。僕のおじいさんも初対面の人を家に連れてきてそのままお茶屋で働かせてしまうような人だったので、たくさんの人が出入りしていたらしい。

 僕はFacebookでイベントページを作成して、母とは全く関係のない人たちも含めて招待を送った。出入り自由にしていたので、正確な人数は把握していないがおそらく30人くらいは来ていたと思う。料理は友人にケータリングをお願いした。ウクレレを持参して歌い出す人もいたり、酒を飲んで酔っ払っている人もいたりと、何だかよく分からない感じのカオスな空気が漂っている部屋の中心に、退院してきてまだ数時間しか経っていない母がいる。そんな姿をみて、不安なことはたくさんあったけど楽しくやれそうだなと感じた時間だった。

ケータリングサービス「Mo:take(モッテイク)」の料理(上)を味わいながら、友人と家族で母の退院を祝った(下)。

 カオスな空気が漂う中、部屋の端にスクラブ(首元がVネックになった半袖の医療用のユニフォーム)を着たLICの看護師がいる。入職して2週間の黒沢だ。彼は入職してすぐに、母の退院調整のため病院の看護師とやり取りをしてくれたり、退院後にどのような体制で医療や介護を提供するかを考えてくれていた。そして、退院日には何だか分からないパーティーに何か緊急なことがあった時のための看護師として参加させられ、相当面食らったと思う。彼は当時のことを思い出して、何だか分からなかったけど在宅看護ってこういうことなんだって思った瞬間だったと話しているが、多分他のどの訪問看護ステーションでも経験できないことだったと思う。

 退院後の訪問看護は土日を除いて毎日午前と午後にLICの看護師が担当した。状態観察を行いながら、吸引や胃ろうの経管栄養、排泄ケアなどの指導を家族に行っていく。また、訪問介護や訪問入浴、ケアマネジャー、訪問診療の医師などとの情報交換もLICの看護師が担っていて、そのマネジメントをしていたのが黒沢である。大規模病院で救急救命に従事し、リーダー的な立場にいた彼は、看護のスキルだけではなく対人スキルも申し分なかった。週4日の非常勤勤務だったが手を抜くわけでもなく、むしろ真摯に利用者やスタッフに対応をしている姿を見ると、「謎」は深まるばかりだったが、本当の理由が明らかになるのはもう少し先になる。

 フラスタがオープンして少しずつまちとの関わりが増え、訪問看護も黒沢のような良い人財が集まるようになってきた。たくさん人が辞めたし、口座にお金が4桁しか残っていないような時期も経験した。本当に大変だったけど、夢を見続けて語ることで、何かが変わってくるという実感も得られた。ウォルトが言っていることを懐疑的に見る人もいると思うけど、騙されたと思ってみんなやってみたら良い。たくさんの失敗はするだろうけど、それでも夢を見続けられたらきっと良いことがあると思う。

 起業して3年経たないうちに、人の失敗もお金の失敗もいっぱいしてきた僕は性懲りも無く夢を見続けていた。そんな中、コミュニティ事業に関する大きな仕事の話が飛び込んできた。

“If you can dream it, you can do it.”

「ウォルト、君を信じて夢を見続けてよかった!」

そう叫ばずにはいられない出来事だった。


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#9 夢見る力:ウォルトの言葉が導いた人財と命の選択

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