かつて日々のくらしに欠かせなかった箒は、電気掃除機の普及とともに需要が低迷し、全国各地の産地は壊滅状態に陥った。ところが近年、電気に頼りすぎないライフスタイルを志向する人、地域の伝統文化や地場産業に価値を見出す人が徐々に増え、職人が手編みした昔ながらの箒への関心が高まりつつある。
なかでも、神奈川県北部の愛川町では、一度途絶えた旧中津村の箒づくりを生業として復活させる取り組みが進む。その立役者として活躍し、伝統を受け継ぎながら作家性の高い作品も手がける筆者は、美術的アプローチにより社会にコミットするという信条の持ち主。いま注目のつくり手が、仕事を通して目指す“ものづくり”と社会の姿とは――。
第21回 工芸とパンとコーヒー
出会いは突然に
元々コーヒーは飲めなかった。理由は簡単で、単純に苦いと思っていたからだ。基本的に、甘味や旨味は生物的に好ましいもので、苦味やエグ味なんかは身体にいいものではないと相場が決まっている。だから、苦くて美味しいはずもないし、付き合いで入った喫茶店なんかでは砂糖とミルクを大量に入れて、学生の頃にサークル活動で通っていた茨城で親しんだ、甘くて有名なマックスコーヒーよりも更に甘くして飲んでいた。
そんなコーヒーへの先入観は、ある日あっさりと覆った。それが、スペシャルティコーヒーとの出会いだった。そのきっかけとなった、下北沢のコフィアエクスリブリスを訪ねたのは、妻に連れられて、こばやしゆふさんという作家の展示会を訪れた時が初めてだった。
古材や味わいのあるライトで飾られた店内、壁際に展示されたゆふさんの焼物をほうほうと眺めて席についた。少し簡素なくらいの古道具の椅子や机が気軽で心地よかった。全くコーヒーに関心がなかった僕がメニューで何を見て、何を注文したかは覚えていない。ゆふさんの作品や、彼女の常人離れしたライフスタイルについて考えていると、オーナーの太田原さんが試飲用の小さなカップに新たなコーヒーを淹れて持ってきてくれた。そしてその味に、天地がひっくり返るような、まさにコーヒー観がコペルニクス的転回をする衝撃を覚えたのだった。僕がかつてコーヒーに持っていた先入観としての嫌な苦味がない。果実のような酸味があり、ブラックでも充分に甘く糖度が高く、口の中に味わいが明るく広がり、長く残る。そして爽やかなまま綺麗に消えていく。当時の僕に、こんなボキャブラリーは無かったけれど、そのような印象だった。
太田原さんは、聞けばいくらでも深くコーヒーの説明をしてくれる人だけれど、その日はあまり時間がなかった。とても美味しかった旨を伝えると、スペシャルティコーヒーは産地の風味特性を大切にしていることなどの話をしてくれていたと思う。当時、下北沢でアルバイトもしていた僕は、その後すっかりコーヒーが好きになり、コフィアエクスリブリスへ足繁く通うようになってしまった。
工芸的かつ客観的
スペシャルティコーヒーとは、明快な線引が定められている訳ではないのだけれど、まずはコマーシャルコーヒー(コモディティコーヒー)、プレミアムコーヒーに対する区分けという点があるだろう。コマーシャルコーヒーは、インスタントなどに使われる、安価で大量生産であることを目的としたコーヒー。そして、プレミアムコーヒーは、一般的にブルーマウンテンやキリマンジャロ、もっと稀少な例だとコピ・ルアックのような、稀少性の高さに重きを置いたコーヒーを指している。それに対して、スペシャルティコーヒーは、提供されるカップの「味」に主眼を置いている。農地ごとの風味特性を活かすために、小さな規模のマイクロミルと呼ばれる精製所がとりあげられるだけでも、手工芸に携わる者としては共感できるものがある。
コーヒーは嗜好品であって、好みはそれぞれであっていいのだけれど、スペシャルティコーヒーにおいては、カッピングというテイスティングの技法を用い評価や、カップ・オブ・エクセレンスという品評会などを通して、国際基準で、客観的に点数が付けられていることが多いのも特徴だ。カッピングでは、味の綺麗さ、糖度、質感、後味と酸味の質などを基準に判定されていて、熟練者であれば、100点満点中、誤差があっても数点程度と聞く。
ここで更にポイントになるのは、客観的に、世界で通じる評価をつけた上で、それに見合った価格で取引されるということだと思う。稀少であるからとか、ブランドであることだけを理由に値段が付くことはない。カッピングによって選ばれた、良質な豆には多くの買い手が付き、農家の経営に適した価格で取引を行なうことができる。単純に美味しいコーヒーを飲めることも嬉しいけれど、味わうことで、努力した誠実な農家が潤うとしたら、それは素晴らしいことだ。
工芸に点数は付けられないけれど、客観的な評価基準を取り入れた上で、素晴らしいものは何かと、白熱した議論を交わしている光景を想像して、ものづくりに携わる者として憧れも感じた。
また、地域の特性(テロワール)を重視することと、苦味やエグ味がなく、糖度も高いことから、スペシャルティコーヒーはブラックで飲まれることが多い。特に、僕の通っていたコフィアエクスリブリスなどのお店では、コーヒープレスによる抽出方法を採用しているところも魅力だった。豆に欠点がある場合、また、特定の味だけを抽出したい場合は様々な方法で味を抽出する必要があるけれど、フレンチプレスはステンレスの網のフィルターで濾すだけ。オイルを含め、豆の特徴がそのまま現れるという、この上なくシンプルな抽出法となっている。素材をそのまま活かし、果実の恵みや特性を味わうということは、自然素材の工芸にも近いものがあるように感じている。
味わいの先に実るもの
フローラル、ベルベット、シロップ、ドライフルーツ。ワインのテイスティングではよく行なわれていることだけれど、一見同じような外見のコーヒーを介して交わされる表現は、すごく詩的な行為であるようにも思った。僕が道具に味わいと詩情が必要だと感じたように、日常の食べ物飲み物の中にも、深い味わいや感じ入ることのできる奥行きがあれば、世界はより豊かになるだろう。大量生産と速度ばかりにとらわれているのは、道具の世界だけではない。質や味わいにこそ、人間的な営みが宿ることを、様々な角度から感じ、伝えていきたいと思う。
コーヒーにも様々なブームがある。ペーパー、ネル、サイフォン、エアロプレスなどの様々な抽出法や、豆の精製方法にもウォッシュ、ナチュラル、ハニー、アナエアロビックなど増え続けているようにも思うけれど、スペシャルティコーヒーの掲げるseed to cup、結局は良質な豆と、適切な処理をされたコーヒーの味が要とされている限り、やはり糖度が高くて、味に奥行きがあり、雑味がなく綺麗、などの基準は根源的な価値であるし、時流に流されることなく美味しいコーヒーが作られ続けるように思っている。
自分の仕事もそのように、ブレない価値と喜びを届けるものでありたいと思う。地域の特性、素材の力、生産の過程に目を向けることや味わい、批評をして良質なものを広げていくことなど、飲料と手仕事というジャンルは違えど、共感するものや憧れるものが多くて、出会って以来ずっと、仕事の友にコーヒーを飲んでいる。
シンプルで豊かで美しい
天然酵母パンとの出会いも偶然だった。カフェなんてものに馴染みのなかった僕は、スペシャルティコーヒーとの出会いからコーヒーを飲み始めた。昼食にパンを食べていたから、自分で作ったら食費が浮くのではないか、とか、コーヒーの添え物として何となく知っておこう、程度のものだったと思う。
訪ねたのは、料理研究家・西本かがり先生の主宰していた、天然酵母パンの教室だった。とりあえず、というつもりで参加した体験会は、他の参加者と都合が合わず、1人での参加となった。真っ白で統一され、大きな窓から採り入れられた光で静謐な空気をたたえたスタジオは、吉祥寺の裏路地にあった。広い作業台に向かい合い、丁寧にパンや小麦の特性について語る先生の姿は大らかで、眩しく映った。体験で焼いたパンを、包みから出して噛ったときの記憶もまた、忘れられないものとなった。広がる小麦と酵母の香り、食感、少し加えたバターの風味と僅かな塩味、全く初めての体験だった。
すっかり天然酵母パンが好きになった僕は、せっせと家でパンを焼くようになる。カフェやパン屋、それらに特化した雑誌にも詳しい妻のお陰で、東京にいるうちに、めぼしいパン屋は殆んど訪ねた気がする。(実は、妻はパン屋を1日何軒もハシゴするほど、パン屋好きでもあった。)一軒のパン屋やカフェのために、何時間もかけて旅行をするということも少なくなかった。
世の中には色んなパンがあるけれど、概ねいくつかの系統に分かれている。日本人が大好きな、ふわふわで、餡やクリームなどを入れてある菓子パン。バターやミルクが入ったパンを、パンを作る人はリッチなパンというのだけれど反面、小麦と水と塩を中心としたハードなパンをリーンなパンという。フランスパンやカンパーニュをイメージしてもらえればいいと思う。フランスにも、バターをたっぷり使ったデニッシュやクロワッサンもあるのだけれど、ヨーロッパでのリッチなパンは、日本のふわふわしているけれどもっちりと生地のまとまった菓子パンとはまた違うものだと感じる。チーズやハムの身近さなど、ライフスタイルと言ってしまえばそれまでだけれど、特に日本は菓子パンや生地に混ぜる具材や使われ方が特徴的なように思う。
例えばバターと牛乳の入った生地がふわふわのあんぱんは、日本の素材を活かした偉大な発明だと思っている。北海道では、牛乳も小豆も砂糖も穫れる。牛乳とあんぱんの相性の良さは、土地の特性が忌憚なく発揮されている。あと大きなカテゴリとしては惣菜パン。ピザのようにソーセージやチーズをたっぷり使ったものや、焼きそばパンのようなものもある。
パンはどのパンも美味しいけれど、僕が最終的に選んだもの、教室で出会い夢中になったものは最もリーンで、小麦、水、塩以外は一切混ぜない、惣菜パンや菓子パンの対極にあるようなパンだった。原料は極めて素朴なのに味わいが深く、複雑。コーヒーや、工芸に通ずるものも感じた。
素朴なパンのようにありたい
教室ではメジャーなパンの種類をひと通り教わったとも思うのだけれど、その白眉は発酵の間に作る、添え物の料理でもあったようにも思える。ナッツの入った飛竜頭(ひりょうず)、じゃこのサラダ、ニョッキ……伝統的な素材や料理のようで、一品一品が、明らかに既知の味から飛び出た一手間や味わいがあった。技術や知識やアイデアを超えて、魔法のように感じるレシピの数々を、先生は正確に教えてくれるのだった。センスとは、こういうものだと思い知らされた。
巷に溢れる惣菜パンにも美味しいものはたくさんあるけれど、パンを離れ料理に触れること、そしてレシピを作るとは如何なるものか、と感じ、プロの料理家には絶対に敵わない……と、打ちのめされてしまって、惣菜には手を出せないでいるので、現在でもほとんどリーンなパンしか焼いていない。実は、僕が体験で衝撃を受けたパンも、サイズや粉、少し乗せたバターなど、レシピの力だったのかも知れないと思うのだけれど、それはそれで魔法にかかってしまったのだから仕方がない。パンはハードパンしか焼けない身体になってしまった。
そして、ハードパンの工芸性に共感していた面もある。僕の育てている天然酵母は、ルヴァン種、サワー種といって、それぞれ小麦、ライ麦から発酵させる種だ。よく、自分で種を起こすというとレーズンや果実を使うと思われているのだけれど、小麦だけでも問題なく酵母は増やせる。むしろ伝統的な製法だ。惣菜パンや調理されたパンは作れないけれど、小麦の特性にひたすら向き合うことならば、まだ多少手に負えるのではないか、と思った。
パン作りの工程におけるポイントはいくつかあるけれど、おそらく要となるのは発酵だろう。分量が決まったら、あとは、手を入れる数、入れ方、時間と温度を如何にコントロールするかで、味と形が決まる。簡単に言えば、どこまで小麦のことを知っているかということだろう。そして、手にした素材のポテンシャルを引き出し、商品として固定化することは、工芸にすごく似ている。これは持論だけれど、技術とは、素材を熟知することだと思っている。素材がどのような力を持ち、特性があり、弱みがあり、どこまで加工に耐えるかの駆け引きの中で、最大値を引き出すことが技術。元の素材に全てが含まれていて、何を引き出し、切り捨て、形作るかがものづくりなのだと思う。それに、僕の好むカンパーニュなどのハードパンは、極めて素朴で、本来貧しい民衆のためのもので、伝統的な民俗や民藝を思わせるものがあった。中世から続くような素朴なやり方で、何より美味しいものができるのだから、こんなに豊かなものはない。
現在では、ハードパンにも一定の人気と市場がある。かつては舶来もので、「豊かな」ヨーロッパを象徴する文化的なものとして輸入されてきたパンが、素朴で貧しいパンへ還っていくとしたら、やはりパンの本質はそこにあるのでは、とすら思う。
さらに、パンは宗教性も高い。キリストがパンを自らの肉体であると例えたことも有名だけれど、僕の好きなフランチェスコ会の修道士は極めて禁欲的で、生命を維持する以上の食物や物を受け取らず、素朴なパンを食べていた。つまり生命を繋ぐための食物とは恵みであり、人を活かす希望であり、平和への祈りを含むべきものだと僕は思う。
飽食はそれらを破壊するものであり、できるならば必要以上は受け取らず、分け与えるべきだ。土壌の貧しい地域ではライ麦を育て、黒いパンばかり食べていたのだけれど、貧しいパンに崇高さを見い出せることはまた、人類の偉大な発明の1つだろう。実際の飢餓や戦争にも遭っていない僕がこんなことをいうのも詭弁にしかならないかも知れないけれど、だからこそ、食やその在り方には敬虔であるべきとも思う。素朴で美味しいパン、幸せな時間を噛みしめながら、より深く、広い世界にある幸せを願いたいようにも思うのだ。
そして、それらによって養われた心身で、手仕事の世界に還っていきたいとも思う。