理学療法士である著者は、東京・府中市で訪問看護ステーションおよび居宅介護支援事業所を運営しながら、カフェや空きアパートを使ったコミュニティ事業を展開している。あそびを通じた表現活動を行うアトリエ、中高生のサードプレイス、菓子工房、銅版画工房などが半径50メートル内に集まる一帯の名は「たまれ」。最寄の多磨霊園駅と、人が「溜まる」をかけて名づけられた。
こうした活動を通して実現しようとしているのは、人と人との「弱いつながり」だと著者は言う。2011年の東日本大震災以降、とみに加速した人と人との「つながり」を絶対視する風潮への違和感からたどり着いた、「たまれ」という名の「場づくり」。その足跡を振り返りながら、医療と患者、医療と地域、人と人の「いい感じ」な関係を考察する。
#8 おだやかならざる日々:マネジメント迷走録
「おだやかな人生なんて、あるわけがないですよ」
古ぼけた緑の羽根帽子をかぶったムーミン谷の人はワクワクした様子でこんなことを言っている。おだやかな人生を望むなら起業はしていないだろうし、「たまれ」の構想も掲げていない。でも、たまには凪な時が欲しいよね、というのが本音だ。
会社をはじめてから1年、毎日色んなことが起こるので望み通りおだやかではない人生を過ごしている。けれども、緑の帽子を被った人みたいにワクワクしながら人生を語るまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。
別れの言葉
「理念に合わないので退職したいと思っている。ここにいると萎縮してしまい楽しくない」
季節の変わり目とも言える11月の終わりは、人の心もまた移り変わるのだろうか。LIC訪問看護リハビリステーションの立ち上げメンバーで管理者の看護師から退職の意向があった。僕が代表になって初めて告げられた別れの言葉である。彼女から告げられた言葉は全く遠慮がなく、経営者1年目の僕はかなりの衝撃を喰らった。
彼女の様子がおかしいことには数カ月前から気づいていて、定期的に話すようにしていたが力及ばずだった。看護師としての実力は申し分なかったが初めての管理業務で多くの負荷をかけていたと思う。はじまって1年に満たない組織は脆弱で、様々な背景と価値観を持つ職人(専門職)が集まっていることもあり、チームではなく個人で動くことが多かった。特にスタッフから管理職に向けられる目は厳しく、少しでもそれぞれの価値観からズレると「管理者なのにあり得ない」となる。彼女の能力を最大化するための環境をつくってあげられなかった僕の責任は大きい。
僕が彼女に求めていたことは「一人のスタッフが一人の利用者を看るのではなく、全員で一人の利用者を看られるようなチームをつくって欲しい」だ。彼女だけじゃなくてスタッフ全員にもこれをLICの強みにしようという話を繰り返ししていた。看護師全員が訪問看護に従事するのが初めてだったこともあり、この方向性には賛同してくれてたしみんなも求めていた。急変など何か緊急なことがあった時、周りに多くの目がある病院に勤務していた看護師にとって、人の目がない現場に一人で行く不安はかなり大きい。スタッフ全員で利用者を把握することで誰か一人が休んだ時にスムーズにフォローができるし、スタッフの休みも取りやすくなる。それと、一人の考えだけではなくてみんなの視点を入れることで看護の質を上げることにもなるし、ケアの選択肢が複数ある状況をつくりたかったというのも理由である。
彼女はそれがうまくできなかった。スタッフからの報告や相談に対して「私わからないから」「あなたがそう思うならそれで良い」など、判断と責任を個人に委ねるような返答ばかりでスタッフから不満が漏れはじめる。彼女と週1で行っていた定例会議は情報共有の意味もあったが、彼女のコンディション確認や管理者としての気づきを持ってもらうための時間にしていた。その時のメモを見返してみると「接遇、スタッフへの配慮、学習の姿勢、挨拶がない、笑顔がない」と書いてあった。
社内の雰囲気が悪くなったのはさも彼女のせいだみたいな感じで書いているように思えるだろうが、完全に僕のマネジメントの問題が招いたことである。スタッフからの不満が明るみになった時に僕が行ったのもまた個別対応だったのだ。人のことを言えたもんじゃない。
彼女に対しては1on1を行っていたし、スタッフに対しても不満が出た時は個別に話を聞いていた。
「話を聞いて出てきた課題に対して自分がなんとかする。みんなに迷惑はかけられない」当時の僕の考え方はこうである。たぶん多くの代表初心者が通る道だろう。トラブルがあったら代表である自分が率先して動くことで、頼りになる代表ということをみんなに示したかったんだと思う。いつかのこの国の代表が有事の時にやっていたことに似ている。
思い出すだけで恥ずかしいが、この経験がなかったらとっくに会社は潰れていたと思う。僕はこのことに気づくまでに3年くらいかかった。シンクハピネスが目指す社会を考えた時に、いま起きていることは人の問題なのか、業務の流れなどの仕組みの問題なのか、組織の文化の問題なのか、戦略の問題なのかを包括的に見つつ、バランスが悪い部分に手を加えなければいけないところ、僕は人の問題ばかりに目がいってしまい、それによってどんどん歪みが生まれていたのだ。チームや組織運営においてよく言われる「見えている事象は氷山の一角」というやつである。スタッフにとっての不満は見えている事象に集中する。つまり、僕のクソみたいなマネジメントではなく彼女の管理者としてのふるまいに、だ。社内の雰囲気を悪くしていたのは他の誰でもなく、代表の僕です――。
「もう一度考え直してもらうことはできないかな?」
退職日が決まるまでに何度か話し合いの場を設けていて、はじめに退職を告げられた時と次の1回だけ彼女を引き止めた。2回目は虚飾的な言葉だったと思う。たぶんそれは彼女にも伝わっていた。
彼女とスタッフの間にある溝は日に日に深くなり、それを埋めるには余りにも遅すぎて、彼女が留まることで全体の雰囲気がさらに悪くなるのは明らかだった。彼女の退職を拗らせて他のスタッフが辞めてしまうことが怖くて、相変わらず彼女よりも残されるスタッフのフォローに多くの時間をかけていた。このふるまいが彼女の居づらさを助長させることはわかっていたけど、それでもみんなが居なくなってしまうことはとにかく避けたかった。本当に最低な代表だったと思う。彼女の退職は2月28日に決まった。
続出する退職希望者
2016年から2017年にかけて7人のスタッフが退職した。2月に管理者が退職した後は立ち上げメンバーの1人が友人の看護師を紹介してくれて、彼女を管理者として雇用した。前の管理者と同様に看護師としての経験が豊富な方で実力も申し分なかった。うちに来る前は病院に勤務していて、そこでは病棟の師長をしていたこともあり、個人のフォローだけではなくチームづくりも積極的に行ってくれる人だった。当時、僕らが目指すことにもすぐにコミットしてくれたので、このままLICの基盤ができたらいいなと思っていたら、半年後の夏に退職を告げられた。しかも、彼女を誘ってくれた看護師と2人一緒に、だ。
「引き抜かれて新しくステーションを作るので退職させて欲しい。オンコール対応が怖くてこれ以上はできない。今までも伝えてきたのに変わらなかった。お風呂に入る時や寝る時もいつかかってくるかわからない電話を持つのはこれ以上無理。それに、若い人たちについていけない。この会社の目指すところを考えると、私たちではなく若い人たちがやっていくべきだと思う」
理由はどうであれ退職を伝えられるのはキツい。しかも同時に2人からとなるとダメージは倍だ。さらに今回は引き抜かれるというオマケ付きである。もっというと、2人を引き抜いたのは同じ府中市内で居宅介護支援事業所を運営している会社の代表の方で、LICにも利用者を紹介してくれるケアマネジャーだった。僕もよく知っている人である。「おいおい、たしかその人とは先週会って、依頼をいただいている利用者の話をしたぞ」と心の中で叫びながら2人の話を聞いていた。
この時は2人を引き止めなかった。退職の理由を丁寧に説明してくれたということもあるが、シンクハピネスが目指していることに賛同できないという訳ではなく、自分たちにはその役はできないということを明確に言ってくれたからである。と、いまは冷静に言えるが、当時は間違いなく強がっていて、2人がいなくなっても大丈夫ですからみたいな顔をつくっていたけど、内心ビクビクしていた。訪問看護ステーションを運営するために設けられている看護師の常勤換算2.5人を割ってしまうかもしれないという不安や焦りとともに、僕自身の代表としての資質を懐疑的に見るようになっていた。
残りの5人の退職者の在籍期間は2カ月、5カ月、5カ月、半年、半年だ。おそろしく短い。入職してすぐに産休に入った人、訪問看護に馴染めなかった人、難病看護の経験が素晴らしかったがスタンドプレーばかりだった人、訪問看護の管理者経験者で必ず盛り上げると言ってくれたが、何もできなかった人。中には「あなたに私の人生をめちゃくちゃにされた」「私が辞めたらLICは潰れると思いますがそれでもいいんですか?」こんな捨て台詞を吐いて辞めていった人たちもいた。
いまとなってはあまり知られていないことだが、過去にシンクハピネスで訪問介護事業所を運営していたことがある。訪問介護ってなんだ? という人もいると思うので簡単に説明しておくと、自宅での日常生活を送ることが難しくなった要介護や要支援認定者に対して、介護福祉士やホームヘルパーの資格を持つ人が自宅に伺うサービスだ。入浴、排泄、食事等の介護、掃除、洗濯、調理等の援助、通院時の外出移動支援などを行う介護保険サービスである。運営していたのは2016年6月から2019年1月まで約2年半という短い期間だった。
訪問介護事業所の職員は最大で15人いたが、その15人が一気に退職するという事件が起きた。スタッフはうちに来る前から訪問介護経験者ばかりだったので、利用者の確保は常にできていたし、ケアの質も良かったと思う。では何が退職のきっかけになったかというと方向性の違いである。訪問介護の管理者から他市に事業所をもう1カ所出したいという提案があり、会社はそれをNOとした。
「収入が増えるのに何でやらないんですか」と言われた。そんなことはわかっていた。訪問介護事業自体はうまくいっていたし、人のマネジメントや利用者の確保など対外的なところもできる管理者だったということもあり、もう1店舗出したとしてもきっとうまくいっていたと思う。でも、シンクハピネスが出した答えはNOだった。もう1カ所、事業所を出すことは悪くない。訪問介護としてケアの高い専門性を持ってサービス提供することで、そこで暮らす人たちが望む暮らしをするための何かは提供できるかもしれないけど、僕らがやりたいのはそれだけではない。ただ、介護保険サービスを提供するだけの事業所なら、シンクハピネスがやらなくても他ができる。それに、他市(少し離れた)に訪問介護事業所を設けた時、僕らが出せる社会的インパクトは弱い。
後日、管理者らから退職の申し出があり、スタッフを引き連れて希望していた市内に事業所を開設した。
社内と社外の温度感
社内の雰囲気は最悪だった。人が次々に辞めていくし、まさかの全員いなくなるという事件が社内で起これば当然だ。こうなってくると、PCの横に置いたコーヒーカップを誤って倒しただけで大問題になる。「そんなところに置くからだ」「座っている姿勢が悪いのがいけない。そもそも何であんなに偉そうに座っているんだ」「こんな溢れやすい形状のカップを買った人がいけない」こんな調子である。もちろん、訪問看護のケア中に起こるトラブルに関してもだ。
日々起こる小さなトラブルについて建設的に考えることができなくなり、誰かのせいになる。そして、誰かのせいにできなくなると最終的には「社長がいけない」ということになるのは、どこの組織も一緒だろう。スタッフからは不満を言われまくっていたが全て受け入れていた。この状況をつくっているのは自分だということは十分にわかっていたし、ここで僕が怒りを表に出したところで何の解決にもならない。それに、僕が感情的になった瞬間に誰もいなくなるのは明白だった。
そんな酷い状況の中、社外の仕事が少しずつ増えるようになる。医療系雑誌のコラムや近隣の歯科医師会の講演、高齢福祉系の新聞取材などだ。創業当時の想いや構想をベースにFacebookやblogをほぼ毎日更新していたことが功を奏した。
「よしよし、思い通りに動きはじめたぞ」と個人的には思っていたが、これがまた火に油を注ぐことになる。社内が荒れている状況で僕の外部への露出が増えていくことで、さらに社内が荒れるのだ。
「自分が社外に発信することでシンクハピネスという会社が認知される。訪問看護の依頼や見学者、採用希望者が増えてきっとみんなも喜ぶはずだ」
いまこうして書いていても恥ずかしいくらい、あの時の僕は浅はか過ぎた。そりゃ人も辞めていく。こんな代表にはついていきたくないと思うのが普通だ。でも当時の僕は本気でそう考えていたのだ。もちろんシンクハピネスが目指す社会をつくるためには、組織の文化をつくることが大事であることも理解していた。でも、同時に社会に知ってもらうことで同じような思いを持つ人からの入職希望があるかもしれないし、一緒に動きたいと言ってくれる人や企業が出てくるかもしれない。僕らの話を聞きに来てくれる人がいたら、スタッフの意識も変わってくるかもしれない。だから社会への発信は大事なんだ。社員の温度感を考えることなく、会議などで夢を語る裸の王様になっていた。
バカはバカらしく
かなり悩んでいた。今まで通り仕事をしていたし、社外から声をかけていただきメディアや講演などでの露出が増えていたこともあり周りからはそう見えなかったと思うが、ふと時間が空いたりすると、組織やチームづくりのことばかり考えていた。
そんな中、FLAT STANDの管理人として入社した和田や居宅介護支援事業などのシンクハピネスの管理者と、FLAT STANDのお客さんや事業に関わってくれている数名で調布の居酒屋で飲んでいた時に言われた一言がある。
「カッコつけてないで、バカなんだからバカらしく、やりたいようにやりなよ」
僕にこの言葉を放ったのは当時の居宅介護支援事業の管理者、石田だ。こうやって文章にすると色んな意味で捉えることができるが、彼とは僕が代表を務める医療や福祉の専門職と市民からなる任意団体で4年くらい一緒に活動していたこともあり、僕の性格を熟知していたからこそ放った愛のある一言だった。言われた時はこれといって感情が揺さぶられることもなく「それはわかっているんだけどさぁ」と答え、その後も石田や周りからは「バカはバカらしく」とは糟谷にとってどういうことかについての話を長時間聞かされていたが酔っ払っていたので内容は覚えていない。
飲み会の帰り道も翌日以降も「バカなんだからバカらしくいればいいんだよ」という言葉が僕の頭の中をぐるぐる回っていた。「わかってるわ!」とかき消そうとするがまた戻ってくる。
状況を好転させるために、より時間を取ってスタッフと会話をするようになった。そこで言われたことや改善に向けた提案についてはすぐに実行した。過去に一度だけ「顔が気に入らない」と言われたことがあるが、それについてはどうしようもない。
続ければ良い方向に向かうと信じていたが、僕がつくってきてしまった雰囲気を変えるのはそんな甘いもんじゃない。「社長は話を聞いてくれない」「社長に言っても無駄」と言われる始末である。百歩譲って「言っても無駄」は理解しよう。でも「聞いてくれない」って一体どういうことなんだ。かなりの時間を取って話を聞いていたのに、もっと話をする時間をつくれということなのか。こうやって当時のことを振り返ってみると本当にバカだなと思う。救いようのないバカである。
変わったようで、変わらないような、わかったようで、わからないような。僕はそんな感じで相変わらず悩んでた。僕に愛のある言葉を放った石田や和田、調布の飲み屋で一緒にいた人たちは「あいつ悩んでるなぁ」って目で僕のことをニヤニヤしながら観察している。ニヤニヤしてないでなんか言えよって思いもあったけど、自分の弱さやダメなところを公に知ってもらえたような気がして、そんな状況も心地悪くなかった。
たくさんの退職者がでた訪問看護は1人の看護師の入職をきっかけに良い方向に向かいそうな兆しが見えはじめ、僕の自分自身への気づきもより深くなっていく。
「おだやかな人生なんてあるわけがないよね」
古ぼけた緑の羽根帽子をかぶったムーミン谷の人とまではいかないけれど、前よりはワクワクしながらこんなことが言えるようになっていた。