理学療法士である著者は、東京・府中市で訪問看護ステーションおよび居宅介護支援事業所を運営しながら、カフェや空きアパートを使ったコミュニティ事業を展開している。あそびを通じた表現活動を行うアトリエ、中高生のサードプレイス、菓子工房、銅版画工房などが半径50メートル内に集まる一帯の名は「たまれ」。最寄の多磨霊園駅と、人が「溜まる」をかけて名づけられた。
こうした活動を通して実現しようとしているのは、人と人との「弱いつながり」だと著者は言う。2011年の東日本大震災以降、とみに加速した人と人との「つながり」を絶対視する風潮への違和感からたどり着いた、「たまれ」という名の「場づくり」。その足跡を振り返りながら、医療と患者、医療と地域、人と人の「いい感じ」な関係を考察する。

#7 ワクワクとザワザワ:FLAT STANDオープン前夜

和田との出会い

 人に恵まれるとはまさにこういうことをいうのだろう。コミュニティ事業としてのカフェを開くのは数年後と考えていたが、気づいたらコンセプトについての話がはじまっていた。2015年11月のことである。

コミュニティカフェ「FLAT STAND」の現在の様子。1階(上)では「たまれ」と名づけているコミュニティで共に活動している菓子工房の焼き菓子なども販売している。2階(下)はワークショップやギャラリーとしても活用できるシェアスペース。京王線多磨霊園駅より徒歩1分。

 話の中心にいたのが、現在シンクハピネスの取締役を務め「FLAT STAND」の管理人や「たまれ」のコミュニティマネージャーを担う和田滋夫だ。彼は福祉用具の専門店を運営する会社に所属し、ベッドや車いすなどの道具の提供や暮らしを支える環境整備のサポートをしていた。

 彼と初めて出会ったのは2013年くらいだったと思う。理学療法士として訪問看護ステーションで働いている時に、団地の1階で暮らす利用者の車いすについての相談をした。彼が所属する会社には以前からお世話になっていて、ケアの道具や環境整備の依頼をするならここしかないというくらいサービスの質がピカイチのお店だった。新しいスタッフが入ったと聞いて、どんな人なんだろうと気になっていたら一緒の利用者を担当することになった。彼のサービスも例に漏れず良かったが、もっと言うと彼なりの哲学を持ってケアの現場に出ていたことに驚かされた。それまでに出会った福祉用具専門員は「カタログに載っている道具をただ持ってくる」という人がほとんどだったが、彼は僕が意図する目的や利用者にどんな暮らしをして欲しいのかを聞いてきた。予想外のコミュニケーションだったので、思わずドキッとしたのと、一緒に悩んでくれることに対してのワクワク感みたいなのがあったのを覚えている。

 和田とはプライベートで仲良くしていた訳ではなく、利用者の自宅や国立市内の在宅ケアの事業所の集まりでたまに顔を合わせていた程度だった。2014年の夏、退職後に会社を立ち上げることを伝えコンセプトなどの話をしていたら、都内でカフェ併設のレンタルスペースを運営している友人のことを話してくれて、一緒にお店に行くことになった。カフェは外苑前駅から徒歩5分くらいのところにある。どういうわけか、カフェに行く前に皇居ランをしようという話になり、午前中に永田町にあるランベースで待ち合わせして皇居を2周(10km)した。2人で長い時間を過ごしたのはこの時が初めてで、敬語とタメ語が入り混じった会話をしながら皇居の周りを走っているという光景を客観的に見た時に、どこか気恥ずかしさを覚えた。

 外苑西通りに面したビルの7Fにカフェはあった。窓の下に広がる青山霊園の木々は黄色や赤にまだらに染まり、低くなった太陽の淡く柔らかい光が六本木ヒルズを照らしている。テーマを「公園」と謳うカフェは、座席は30ほどあり訪れた人がそれぞれの目的で過ごせるようにテーブルや椅子の配置が工夫されている。運営するのは和田の大学時代からの友人、小野正視さんで彼は都内でカフェ併設のレンタルスペースをいくつか持ちながらケータリングなどの飲食事業を行っている会社の代表をしている。浅く被った黒のニットキャップからは少し伸びた襟足が覗き、オーバーサイズのパーカーにスウェット生地のリブパンツという彼のスタイルに僕は惹かれた。この手の会社の代表はセットアップにTシャツのような、いかにもベンチャーです!といったスタイルが多い印象があるが、彼のラフでありながら清潔感があるスタイルは、カフェの印象とピッタリだった。

 大学を卒業してから一般企業に勤めた後、色々あってお笑い芸人をやっていた時期があるらしい。話がめちゃくちゃうまいのはそのせいだと思うが、こちらから止めないといつまでも一人で喋り倒す。どんな小さなボケでもちゃんと突っ込んでくれるのが心地良くて、今でも彼と会うとテンポの良いボケとツッコミが挨拶代わりになっている。彼とはすぐに意気投合し、いつかカフェを出す時はお世話になりたいなと思った。

「で、いつ来るの?」
 和田と会う時は決まってこの言葉をかけるようになっていた。「シンクハピネスでいつから働くの?」という意味の言葉である。皇居ランの後から彼とはよく連絡を取るようになった。訪問看護で関わっている利用者の車いすなど福祉用具についての相談や飲みの誘いをしていた。和田と飲む時は小野さんも一緒のことが多かった。彼もいつの間にか「で、いつ来るの?」の仲間に入り、僕と一緒にシンクハピネスへの勧誘をしてくれるようになっていた。「で、いつ来るの?」仲間は徐々に増え、僕の会社のスタッフも挨拶代わりに使うようになる。「で、いつ来るの?」攻撃が実ったのは2015年の9月のことで和田の入職が翌年の2月に決まった。国分寺のタイ料理屋でバケツパクチー(巨大なバケツいっぱいにパクチーが入っている)を頬張っている時のことである。

二人の特性の違い

 新しい年になり、いよいよコミュニティ事業のカフェオープンに向けて本格的に動き出す時がきた。ワクワクしながら2016年を迎えたが、人生はそんなに甘いものではない。社内では業務中の車や自転車、バイクの事故が続いた。さらに、管理者の体調不良や利用者からのクレーム、診療報酬請求ミスが続き、書類の不備など細かいところが浮き彫りになる。こうなるとステーションの雰囲気は一気に悪くなり、スタッフからは不平不満が漏れるようになる。

 「夏休みをもらっている間に代行してくれたスタッフに勝手にケアの内容を変えられた。今まで培ってきたものが壊されてしまい、利用者に申し訳ない」
 「あの人は人の言うことを聞かないから諦めている」
 「何回もお願いしている書類なのに全くやろうとしない」

 この状況で僕がしたことは今までよりさらにみんなと話す時間をつくり、現状を把握することだった。個別に話をする時もあれば、全体で現状の課題について議論をする時もあったが、解決しているという手応えは感じられなかった。

 「こんなに聞くことに時間を割いているのに何で事態は良くならないんだ……」

 この頃から僕は自らのマネジメント能力に対して違和感を覚えるようになる。目の前で次々と起こる火を消すことに必死になり、起きていることの根本となる原因が何なのかを考えないまま、ただただ話を聞き続けるだけでは解決するはずはない。時間が経てば経つほど火は勢いを増すばかりだった。

 そんなゴタゴタ続きの2月16日、和田がシンクハピネスに入社した。和田の所属はコミュニティ事業部で、これからオープンを予定しているカフェの責任者である。入社前に何度か遊びに来ていたり飲みに行ったりしていたので、スタッフは彼の入社を歓迎していた。ただ、戸惑いはかなりあったと思う。「シンクハピネスがなぜカフェをやるのか」については頭では理解していたものの、「そんなことよりも訪問看護の事業に力を入れてほしい」という思いの方が圧倒的に大きかったはずである。和田もそんな社内の雰囲気を感じていて、入社早々からカフェのオープンまでに社内へどのような見せ方をしていくのが良いか頭を悩ませていた。

当時の和田滋夫さん(右)と著者(左)。カフェのオープン前に、著者主催のイベントにコーヒースタンドを出店。

 彼と僕の特性はかなり違う。僕は10年後や20年後の理想を語り、仲間を集めながら突っ込んでいくタイプで、いつも未来を見ている人間だ。こう表現すると素敵な感じに聞こえてしまうので加えておくが、当時はいつも未来のことしか考えていないただの夢想家であった(いまでもその傾向はあるが)。彼は10年後や20年後の理想に近づくために、いまから過去を見ながら起こり得るリスクを潰しつつ着実に前に進む。やれないことはやれない、ダメなことはダメとはっきり言うタイプで、進むためにやれないことを明らかにするタイプだ。カフェのオープンに向けて浮わついていた僕を何度も現実に引き戻してくれた。

 カフェの場所はどこにするか、いつオープンするか、コンセプトやお店の名前はどうするか。コミュニティ事業はそんな話から業務がスタートした。僕の中ですでにお店のイメージはあって、#3で触れた映画『しあわせのパン』に登場するパンカフェ「マーニ」である。

 「マーニ」はログでつくられているカフェで、さまざまな背景を持つ人が訪れる。カフェで描かれる人間模様に、ログの木の温もりが人の綺麗なところだけではなくもっと奥にある人間臭さを想起させてくれる。ちなみに、こうやって言葉で表せるようになったのはつい最近のことで、9年前の僕は「何かわからないんけど、どこか良いんだよね」という超抽象的で薄っぺらいことしか言えず、『しあわせのパン』のイメージを説明するたびに相手の頭の上にクエスチョンマークが並ぶのがわかった。

「まるたか」のおっちゃん

 場所が決まらなければオープン日も決まらないので、まずは店舗探しをすることにした。賃貸検索サイトを漁ったがイメージに合う物件はそう簡単にあるものではない。あまりにも見つからないのでキッチンカーで営業するのはどうかという話にもなり、車の費用を調べたり出店できそうな場所を調べたりもした。そんな中、とある場所が頭に浮かび和田と一緒に見にいくことにした。

 築40年を超える三軒長屋は京王線多磨霊園駅から徒歩1分の場所にあり、向かって右側が寿司屋、左側が居酒屋、真ん中が空き店舗になっていた。数年前までパチンコの景品交換所があったというその場所は、決して綺麗ではなかったが、僕らが考えるコンセプトに近い雰囲気があった。

 三軒長屋の隣には2棟の古いアパートがあった。通りに面している1棟は3階建で1階には「まるたか」という名前の小さなスーパーが入っている。もう1棟は2階建で三軒長屋と「まるたか」の間にある車1台通れるくらいの狭い道を入ったところに建っていた。店舗の内見を終えた僕らは、隣のアパートが気になったので見に行くことにした。三軒長屋と「まるたか」の間の道を入っていくと、赤いエプロンをした60代後半くらいのやや強面のおっちゃんに話しかけられた。

 「お前らどこのやつだ?」

 低くドスの利いた声だった。エプロンの胸のあたりに「まるたか」という文字が書いてある。おっちゃんはスーパーの裏口の前にテーブルを置いて、野菜の仕分けをしていた。空き店舗を見にきたことと、もしかしたらカフェをやるかもしれないということを伝え名前を名乗ると、強面の表情が崩れ愛嬌の良いおっちゃんに変わった。

 「あんた糟谷さんのお孫さんか? おじいさんには本当にお世話になったよ」

 おじいちゃんは僕が6歳の時に亡くなっている。食道がんで入退院を繰り返していたことは何となくわかっていたが、息を引き取った瞬間に自分がどこにいたのかは覚えていない。僕の記憶の中にあるのは「でえ」と呼んでいた奥座敷に、顔に白い布を被されてたおじいちゃんが寝ていて、枕元でお線香を上げている時に父がおじいちゃんに覆い被さるように泣いていた場面だ。死んだ人を見るのも初めてだったが、父が泣いているのを見るのも初めてだった。

 28年経ってまさかおじいちゃんの話を聞くとは思わなかったので面食らったが、おじいちゃんのことを良く言ってくれているこのおっちゃんは悪い人ではないということだけは感じた。おじいちゃんとの記憶は断片的だが、畑に行ったり、スイミングスクールに軽トラで送り迎えしてくれたり、床屋に行ったり、夜はおじいちゃんの横で寝ていたことは覚えている。終戦後は農林水産省に勤め、退職後は農業をしながら、お寺の総代を務めたり地域のために活動していたそうだ。アパートや土地などの不動産も持っていて、今は父がそれを引き継いでいる。

 実は三軒長屋も隣にある2棟の古いアパートもおじいちゃんが建てたもので、今は父がオーナーになっている。僕が幼稚園くらいの頃はアパートに叔母が住んでいて、一度遊びに来たことがある。その後は前を通ることもなく、僕の記憶からは忘れ去られていたがカフェの店舗探しをしている中でふと思い出した。

 「まるたか」は30年くらい続くスーパーで赤いエプロンのおっちゃんが社長として切り盛りをしていた。商売が苦しかった時期は僕のおじいちゃんに相談に乗ってもらっていたらしい。おっちゃんの定位置は「まるたか」の裏口で、1日の多くの時間はそこで作業をしている。定位置には作業以外にも意味があって、見知らぬ人が入ってきたら声をかけるという役割を担ってくれていた。駅を利用する人が自転車置き場に使ったり、端にバイクを駐めたりすることがよくあるので見張っているという。僕らが入ってきた時にドスの利いた声で話しかけられたのもそういう意味だ。

「おっちゃんと話が出来てよかったね」
「よかったけど、おっちゃんがつくってきた場によそ者が入っていくという覚悟はしないといけないよね。あそこで暮らす人たちが不快にならないような関わり方をしていかないといけない」

 ほぼ初めて来た場所で「まるたか」のおっちゃんといい感じの雰囲気になれたとニヤニヤしていた僕を横目に、和田はおっちゃんが長年つくってきた場にどのように関わっていくかを冷静に考えていた。こういうところが彼のすごいところである。

「まるたか」の上には部屋が6部屋あり、どうやら5部屋は空室のようだった(後から管理会社に聞いたのだが、そのうち1室は訳あり部屋だった)。さらに奥のアパートも6部屋あり4部屋が空室だ。駅から徒歩1分の物件にこんなに空室があるのは謎だったのでオーナーである父に聞いたところ、理由は「人を入れるには設備などの修繕が必要で、それには金がかかるから」だった。この答えも謎だったが多少はアルコール依存症(#6参照)の関係もあるだろうと思い、この時は触れずにいた。

 三軒長屋とその隣に多くの空室があるアパートがあるここなら、僕の構想は実現できるかもしれない。「マーニ」のような場所に、カフェや訪問看護ステーション、子どもたちが勉強できる場、まちの人たちがワークショップをやれるような場、近所の農家さんが育てている野菜の直売所、通所介護施設、賃貸住居などがある場をつくり、まちで暮らす人たちと医療との出会いのきっかけにするという構想だ。

 数日後、管理会社に三軒長屋の真ん中の店舗を借りたいという連絡をして3月から契約をすることになった。和田がシンクハピネスに入社して1週間後のことである。

「FLAT STAND」の出店場所

まちのセカンドリビング

 いよいよカフェのオープンに向けて準備がはじまる。グランドオープンは6月4日に決めた。ここからは僕も和田も未知の領域だったので小野さんにも加わってもらい、コンセプトや実際のカフェのメニューやオペレーションなどを詰めていく作業に入った。カフェの施工は小野さんに紹介してもらった工務店にお願いすることになり、シンクハピネスが目指す社会を伝え『しあわせのパン』のイメージと「五感で感じられる場」というオーダーだけをした。

 なぜ「五感で感じられる場」なのかというと都会と田舎の認知症の症状を比べた時に、田舎の方が今までのその人の暮らしを続けながら生活をしているイメージがあったからだ。この分野の研究をしている方に何か言われそうなので、都会と田舎の認知症の症状について調査はしていませんとエクスキューズをしておく。つまり完全に僕の主観だが、あながち間違ってはいないと思う。

 畑に出て作業をすることで土の手触りや匂いを感じられるし、風の音や様々な色が目に入ってくる。隣の畑では近所の人が作業をしていて、休憩時間には一緒にお茶を飲みながら世間話をする。

 一方、都会では近所との関わりが希薄になっていて、外に出ても無機質なビルが立ち並び自然に触れる機会は少ない。ケアの場では、無機質な白い壁に囲まれた施設の中で、画一化されたプログラムをこなす。職員が合理的にケアを行うために枠からはみ出すことは許されない。トイレの時間やお茶の時間、帰る時間などの順番が決められ、レクリエーションの時間には歌を歌う。歌わない人には「さぁ歌いましょう」と迫り、笑顔いっぱいの職員が隣で手拍子をはじめる。きっと僕がそこに通う頃には「世界で一つだけの花」を歌わされるのだろう。絶対嫌だ。

 それでもケアに関わる人たちは笑顔でこう謳う。「その人の暮らしに寄り添ったサービスの提供に努めます」と。人の暮らしは誰かがつくった枠に入れられるほど単純ではない。五感で感じられる場をつくることで、画一された社会から解放された時間をつくれると思い、僕はそれをオーダーをした。

リノベーション設計にあたってのデザインイラスト
柱などの構造部分だけを残すフルリノベーションとして施工した。

 「カフェの名前どうする?」
 「FLAT STANDは? 単純すぎるかな」

 カフェの名称を決める話し合いは、僕と和田のこんな会話からはじまった。シンクハピネスが目指す社会に医療とまちを「フラット」な関係にするという意味があることと、誰もが「ふらっと」立ち寄れるという意味でFLAT STANDだ。あくまでも話のきっかけとして出た案だったので固執するつもりは全くなく、むしろ別の名称を考えるつもりだった。その後、何度も打ち合わせをしたが僕らのコンセプトにしっくりきたのがFLAT STANDで、最終的には和田と府中のロイヤルホストで何時間も悩んだ末の深夜に決定した。

 FLAT STANDのロゴやホームページをつくるにあたり、名前が決まるまでの過程やシンクハピネスの目指す社会について担当のデザイナーと打ち合わせを行い、このようなコンセプトが生まれた。

だれもがふらっと立ち寄れる、 みんなのまちのふらっとな場所、 できました。
はじめて来たのに、どこか懐かしい。
そんな木の温もりに包まれた場所で、 みなさまにお会いできるのを楽しみにしています。

 「セカンドリビング」という言葉は僕らが出したイメージに対して、ロゴやコンセプトを決める打ち合わせの時にデザイナーがふと出した言葉だった。サードプレイスという言葉も出ていたが僕らにはしっくりこなかった。ちょっとだけサードプレイスに触れておくと、サードプレイスとはRay Oldenburgが提唱した概念で、家族とのつながりの場である自宅を第1の居場所(ファーストプレイス)、勉学や仕事からのつながりの場である学校や職場を第2の居場所(セカンドプレイス)とした時、そのどちらでもない、いかなる人にも開かれた場所として都市に暮らす人々が心のよりどころとして集う場所を第3の居場所(サードプレイス)として、とびきり居心地良い場所と位置付けている。

 この「いかなる人にも開かれた場所」「とびきり居心地良い場所」というところがどうにもしっくりこない。

 「いかなる人にも開かれた場所は果たして心理的な安全が保たれてるの?」
 「とびきり居心地良い場所ってなんだか気持ち悪いよね」

 和田はそんな話をしていたと記憶している。誰かにとっての居心地の良い場所は、誰かにとっての居心地の悪い場所になる。Oldenburgさんはサードプレイスを8つの構成要素に分けていて、その中の1つに「公共空間にある第二の家のような空間」とあるのだが、むしろそこに近しいイメージだ。

 家でもサードプレイスでもなく、かといって職場でも学校でもないリビングって何だろうと考えた時に、サードプレイスに人肌感を感じないっていう自分自身の感覚があるからしっくりきているんだろうけど、the town stand とセカンドリビングにはすっと落ちた感があって、しっくりきたと和田は話をしていた。

 最近改めて彼とセカンドリビングについて話をしたのだが、彼らしい話をしてくれた。

 「セカンドリビングについて当時どう思ってた?」
 「あの時はうまく言語化できなかったけど、家でも学校でも『落ち着く』という経験はなかったし、職場でも役割に追われている(自分で勝手に背負ってるところもある)から落ち着くなんてことはない。『家族』っていう言葉や『家』みたいなものに否定的ってわけではないけれど、いろんな家族が世界にはあるって思ってたから、日本で言ういわゆる『家』とか『家族』とかには懐疑的に考えていたんだよね」

 僕にとっても彼の考え方は「わかりみが深い」。彼は自分の成育歴が影響しているとも言っていたけどきっと僕もそうなんだろうな。

 リビングだからくつろいでもいいし騒いでもいい。でも、そこに誰かがいる時もある。だから僕らは「自分の『楽しい』は誰かの不快であるかもしれないし、誰かの『楽しい』は自分の不快でもあるかもしれない」って考え方を大事にしている。「たまれ」の思想の根底は間違いなくここにあるだろう。

 「あれから8年経つけど改めてセカンドリビングってどう思う?」
 「『家』でもあるんだけど、ちょっと開かれている。私の場所でもあり、みんなの場所でもある。いっしょに『楽しい』や『悲しい』を共有するだけじゃなく、楽しいときや悲しい時に応援してもらうだけじゃなく、ちょっと我慢できたり、ちょっと話を聞いてあげられたり、主語が自分だけじゃないイメージ。自分が許容してもらう場所であるのと同じくらい、自分が誰かを許容することが大事」
 これが和田滋夫である。

 まちが少しずつ春の色に染まりはじめた3月の終わり、カフェのロゴやホームページの準備が本格的にはじまった。

 気にしていたスタッフとの温度感の違いや距離は、僕がカフェの準備などで会社にいない時間が増えたことでより開いたように思える。訪問看護の現場は相変わらずバタバタと落ち着かない状況が続いていて、人や業務の問題で日々何かしらの対応に追われていた。不在にするときは頻繁にスタッフと連絡を取るようにしたり、会社にいる時も多くコミュニケーションを取るようにしていたが、全体の状況が好転することはなかった。

 相変わらず和田は僕のことを冷静にみている。雑誌の取材や地域の講演など社外への露出が続いていたことに加えて、FLAT STANDのオープンが近づき浮き足立っていたのは間違いない。そして社内の良くない雰囲気も感じていた。次にやらなければいけないことは、コミュニティ事業であるFLAT STANDがスタートすることを会社のみんなにどのように説明し、どのような関わりしろをつくっていくかを考えることである。

 会社をはじめる前に掲げていた構想に着実に近づいている感覚はあったが、みんながついてきていないのも感じていた。

 「何がいけないんだろう」

 僕が前に進めば進むほど、みんなとの距離が離れていく気がする。

 「だったら、もっと進んで会社の知名度をあげればみんなも振り向いてくれるかな」

 笑ってしまうくらい僕のダメさを象徴するような考え方だが、当時は本気でそう思っていた。組織の代表になって1年3か月が経過し、僕自身のマネジメント力の無さが決定的に露呈しはじめた。


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#7 ワクワクとザワザワ:FLAT STANDオープン前夜

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