かつて日々のくらしに欠かせなかった箒は、電気掃除機の普及とともに需要が低迷し、全国各地の産地は壊滅状態に陥った。ところが近年、電気に頼りすぎないライフスタイルを志向する人、地域の伝統文化や地場産業に価値を見出す人が徐々に増え、職人が手編みした昔ながらの箒への関心が高まりつつある。
なかでも、神奈川県北部の愛川町では、一度途絶えた旧中津村の箒づくりを生業として復活させる取り組みが進む。その立役者として活躍し、伝統を受け継ぎながら作家性の高い作品も手がける筆者は、美術的アプローチにより社会にコミットするという信条の持ち主。いま注目のつくり手が、仕事を通して目指す“ものづくり”と社会の姿とは――。
第19回 真に合理的な暮らし①
札幌で得られた実り
札幌での暮らしは魅力的な日々だった。貸家の隣に住む大家さんと一緒に雪かきをすることで得られた地域の繋がり。その反対側の隣に住む遠軽(えんがる;オホーツク管内の道東の町)出身のおばあちゃんは、漬物をよく分けてくれた。1人分しかいらないはずなのに、冬になると大根を干して幾つも樽で漬ける。車庫には、米ぬかや麹の混ざった、発酵臭が籠もっていた。豆をすり潰した、ごう汁も美味しかったし、初めて出会った鰊漬けも衝撃的に美味しかった。たんぱく質を、冷凍庫もなしに長期保存できることを僕は初めて知った。
札幌と言っても、車のいらないエリアだったけれど、徒歩圏内に、円山原生林という山もあり、エゾリスがいた。近くには露天の八百屋があって、そこにいるおばあちゃんは、かぼちゃ漬やぶどう漬など、産地でしかみないような保存食をたくさん扱っていた。店にもよるけれど、東京からすると驚くような価格で魚を売っていたりもする。自給率の高さも、北海道に惹かれた理由の1つではあったし、独自の文化に多く触れられることに日々充実を感じていた。
札幌の「がたんごとん」には、ほどなくして詩人や歌人、俳人、柳人など、多くの方が訪れてくれて、たくさんの話を聞かせてくれた。学生さんが作品の進捗を教えてくれたり、歌集が刊行されれば批評会を開いたり、歌会を開いたりもして、小さなサロンのような気配すらあった。100人以上(!)の規模で句会を開く、俳句集団「itaq」に出張して話をさせて戴いたり、「SCARTS」という公共のアートスペースでの、言葉に関わる展示会で詩歌の選定に関わったりもさせて戴いた。Space1-15(第17回参照)の工房にもしばしば取材が入りメディア露出の機会にも恵まれ、箒を求めに来る方も増えた。別フロアにある、量り売りのお店で環境について話をしたり、また別の店へはレコードを買いに行ったり、たまにお菓子を買ったり、1-15の皆で百貨店に出展したりと、思い出を話せばキリがない。
再び探し始めた住処
そんな中でも、慣れてしまえば欲がでてくるもので、少しずつ、家では次にどこに住むか、という話をしていた。もちろん、当時の住居はとりあえず見つけた優良物件、という感じで、ずっと住むという意識はなかった。北海道ではスタンダードとなっている煙突付きの灯油ストーブは、内地では体験したことのないほどの熱量を持っていて暖かい。内装も基本は二重窓で断熱性も高いのだけれど、なにぶん家自体は古いので、暖房のない部屋は寒かった。特に、浴室が寒いのは、北海道出身の妻も我慢ならないポイントだったらしい。車道から細い道に入る、少し奥まった家でもあるので、1日中、殆んど日が入らないのも難点だった。
また、北海道へ「移住」というには、札幌は都会すぎた。札幌にも食べ物や景色、文化は豊かなものがあったけれど、休みに道内各地へ足を延ばすと、ため息がでるような大自然がどこまでも続いていた。遮るものなく、視界いっぱいに広がる山並み、消失点まで真っ直ぐと伸びる丘の道、民家一つない景色が当たり前のようにある北海道は、あまりに広大だった。対して、様々な実りがあるとはいえ、札幌に住むことは、北海道の中においては東京にいるのとあまり変わらない感覚を持ち始めていた。
また、2018年には胆振(いぶり)東部地震があり、札幌も3日ほど停電していたことにも多少背中を押された気がする。箒は電気などなくても日中は作れるし、漬物や米を常備していた我が家では数日電気がない位では、さほど困らなかった。行きつけにしていた八百屋も、そもそも現金手渡しのみ。ぶら下がったザルから小銭が出てきてもおかしくないような店だったので通常営業だった。
その反面、札幌中心部に住む人から、大手スーパーに並び、ほとんど無い商品を買い求めることに苦労したという話も聞いた。また、高層マンションなどは電気がないと水も出なく、オール電化の家は調理もできなかった。自給率が200%とも言われる北海道でもそうなのだから、東京や大阪で同じことが起きていたら、大惨事だったろう。最近は温暖化やヒートアイランド現象も進み、札幌でもマンションなどではエアコンが無くては熱中症になってしまうけれど、本来はエアコンが不要とされている北海道なのだから、人が密集し過ぎているのだとは感じていた。そもそも、足繁くオフィス街やファッションビルに通う必要性もないのだから、合理性の面でも、心地よさの面でも、札幌が最適解ではない、とは薄々感じていた。
いい住まいとはなんだろう
引っ越してよりよい家を探そうと、ぼんやり考え始めてから、特に家の機能面について、戦後の本から現在のエコハウスの本まで、ぱらぱらと読んでは思いを馳せる日々が始まった。元々、家屋の資料や暮らしの本を読むのは嫌いではない。
暮らし方の変化を振り返ると日本では、明治維新以降、文明開化によって西洋式の暮らし方が推奨されたが、イエ制度と日本家屋(生活様式と、居間や寝所などの間取りは、暮らし方やイエ制度と直結している)は第二次世界大戦後も根強く残っていた。そうした中でも、大正期に和洋折衷で作られた文化住宅や(すごい言葉だ)、アパート、マンションなども出現し、住まいの形は徐々に変化していく。そうかと思えば、現在では昔の家屋が懐かしがられたり、リノベーションが流行ったりと捉えどころがない。
住居というものはどうしても費用がかかるものだし、日常生活にずっとついて回るものだから悩む人も多いのだと思う。その点、僕は徹底して「道具」を好むものだから、あまり悩みもなく関心も絞られていた。使う資源やコストをミニマムにしたいと思っていて、エアコンや空気清浄機なしに暮らせない、東京で享受していた生活は、あまりに非効率的だと考えていた。
いい道具、つまり住居がもたらす有用性とは何か。有用性といっても、基本的には慎ましく暮らしたく思うので、豪華な書斎が欲しいとか、趣味のガレージが欲しいとかの欲望はない。これだけエネルギーだ、環境破壊だと叫ばれているのだから、できるだけ消費せず、小さく、無駄なく過ごしていきたいという思いがあり、そこには、東西の様式や時代にかかわらず、素朴な道具を好む者の矜持と合理性の折衷点を得られる気がしていた。
札幌に越してからというもの、隣のおばあちゃんが昔のご主人の服をどんどんとくれたせいもあるけれど、中古の服ばかりを着て、新しい服を買わなくなっていた。調理器具も、いわゆる一生モノとされるような包丁や鍋など、少し値が張るけれど、自分の生きているうちに使い切らないような寿命が長い道具をコツコツ買い貯めてきた。
そして、そういう物の選び方をしてくると、結果的には少し前の時代のものに辿り着くことが多い。和服のように、何度も何度もリメイクして、染め直し、何十年もかけて使い倒せる衣服というのは素晴らしいと思うし、鋳物の鉄瓶や鉄のフライパンなど、現代的な道具に比べれば手入れが必要なものの、機能性が高く、生涯にわたって育てて使えるものは少なくない。竹籠のように、用途によっては少しずつ摩耗していくものでも、必ず修理方法があるし、土に還り、再生可能な素材でできている。箒も、そのような道具の1つとして選んだものだった。住居も、できればジャンクなものや使い捨てるようなものは避けたい。
古いほどいい訳でもない
広い意味で道具としての寿命や文化的な蓄積、資源としても無駄がないことを考えると、古いから良い、という安直な考えではなくおそらく「道具の成長期におけるピークに近いもの」というイメージがある。
何でもいいのだけれど、やかんや包丁、お椀やお箸などなど、大きなフォルムが中世頃からほとんど変わらない道具は少なくない。おそらくその道具のベースはある時期に完成していて、今はその精度や仕様を細かく追求していったり、または新商品として派生を作る段階にあるのだと思う。ただ、時代によって変化してきた道具もあるし、比較的最近になって完成していった道具もたくさんある。箒はおそらく江戸時代にはまだ完成しきっていなかっただろう。トランペットは中世には完成していたけれど、自転車や野球ボールは昭和に入ってからかも知れない。
しかし、細かい仕様が洗練されていくことや、精度が上がること、心地よい意匠が工夫されていくことは好きなのだけれど、どんどん要素を追加したり、多機能化してしまって使いづらくなったり、機能の本懐が傷ついているものも少なくないように思う。特に家電にはよくそんなことを感じているけれど、個人的な好みなので、それらを否定するつもりはない。ただ僕は、細かいメニューやモードが搭載されてごちゃごちゃしたものより、ダイヤル式でアナログなものの方が好きだし、壊れにくく、安心感があると感じている。
すっかり話がずれてしまった。そのように、それなりに原型が固定化される成長期のピークは、日本の住居においてはいつ頃になるだろう。そもそも、日本家屋が西洋化の波により和洋折衷され、基準をどこに置くかという問題がある。それに、何をよしとするかのポイントも多岐にわたるので難しいところだけれど、生物的な需要に基づく機能性、ということを考えると、雨風を防ぐ、そして温度や湿度の快適性、適切さという所は、東西の工法や素材を抜きにして変わらないはずで、西洋式を取り入れた先の現代の家屋には現代の家屋で、ある程度の最適解がある。
とはいえ、様々な道具と同様、長年住まうはずの住宅でさえ、安く安価に作り使い捨てられるような使われ方をしているのではないか、という思いもある。耐久消費財であるにしても、長く愛せるもの、愛着というのも重要な機能のひとつ、備えるべき価値といえるだろう。
内地の家に欠けていたものとはなにか
北海道ではよくする話だけれど、難しい話を抜きにして「北海道の家は暖かい」ということがよく話題にあがる。これは体験としても引越して、まず感じたことだった。いまの我が家のような、四十年前の家でも断熱材が使われ、二重窓になっているし、暖房器具は煙突付きの灯油ストーブやセントラルボイラーがあり、発する熱量が圧倒的である。僕の知る東京の家屋は、窓は一枚、断熱は薄く、暖房を付けていない区画は外気温と変わらなかった。寒く、熱効率が悪い。端的に言えばスペックが低いように思えた。
何故、本州の家は断熱も気密性も高めず、寒い家なのか。はっきりとは分からないけれど、住宅建築界隈ではしばしば「家の作りやうは、夏をむねとすべし」という『徒然草』にある吉田兼好の言葉が信じられてきたからだ、という説がある。昔は暑かったから? 違う。暖房器具も火鉢など貧弱なものだったし、気密も何もない。ダウンも羽毛布団もない。ただ、兼好の生きていた頃は冷蔵庫や乾燥機、科学的な薬品などもなく、湿気が大敵だったのでは、という解説がなされたりもしている。かつて、腐敗や感染症は、現代よりも遥かにシリアスな問題だったことは想像に難くない。ゆえに、冬は寒いけれど、あえて暖かさを切り捨てて、寒々しい家の作りになっていたのかもしれない。
「あえて」としたのは、調べれば、保温性、気密性の高い家づくりが歴史上は存在していたことも分かるからだ。例えば、ロシアでは冬になるまえに家の周りに土や藁を寄せて、部屋の天井裏にも藁を数十センチ敷き詰めて保温性、蓄熱性を高めていた、という資料をみたことがあるし、日本も、お金があるならば壁を分厚くした蔵のような造りにしてしまえば、蓄熱性の高い土で暖かい家が作れたかも知れない。なぜそうならなかったか。これは僕の仮説になるけれど、西洋の石やレンガの家と違い、日本は木の文化で、煙突のある家を作らなかった。そして、東西問わず熱源は焚き火や炭なので、日本は草屋根のようなもので一酸化炭素を外に逃がすしかなかったのではないか。と推測している。そして、木の家、草の家は、やはりカビや雑菌が増えやすい環境を作りやすいので、風通しを優先したのではないかと思う。
例えば、初めて人工雪を開発した中谷宇吉郎の『寒い国』(岩波書店、1943年)という本で見かけたのだけれど、当時にも既に樺太に住む日本人が家が隠れるほどの薪を積んでバラックに住んでいる非効率を指摘していた。当時のロシアの農家は、保温のために斜面に家を建てるゼムリャンカという、裾を半分土に埋めた家や、中屋根に土を乗せて断熱した家などがあったが、それも古い家だけで、当時はイズバという作りの家が主流になっていたそうだ。基本は丸太小屋だけれど、丸太の隙間に苔で数年かけて気密をし、天井、床、壁も分厚い板や土で気密、断熱をして、二重窓、更に窓の断熱のために内側に戸板までついていて、圧倒的な効率の違いがあることを指摘している。(僕も、ロシア式の巨大な暖房器具ペチカに憧れて、作れないか調べてみたりもした。)
そして現代では、今でこそエコハウス、パッシブハウス(ドイツ発の、自然の力を受けて受動的=passiveに快適な住環境を実現する手法。冷暖房負荷や気密性能などの認定基準がある)などといって、本州でも二重窓三重窓が推奨されるようになった。更に断熱のためにアルゴンガスを注入したりもする。特に、夏の日差しを遮るため、温暖化の進む現代こそ断熱は必要とされる。そうして僕は色々調べたり、何年も考えたのだけれど、煙突を付けられる、そしてヨーロッパのように乾燥した北海道においては、かつての古くて風通しを優先した木造家屋に住む「機能的」な理由に辿り着かなかった。もちろん、心情としては古い家屋、木造のしなびた家が好きな僕は、北海道においても古い日本家屋を肯定するための理由を探して考え続けたのだけれど、分からなかった。やはり、最適化が追いついていないのだと結論した。
ただ、東京の三鷹に住んでいた頃の家は、The 木造家屋といえるような縁側付きのスカスカした家だったけれど、やはりカビには悩まされたので、まだ吉田兼好の説は通用するかも知れない。けれど、もう熱すぎてエアコン無しに生きていくことが物理的に難しい、という別の問題に内地では直面している。(ちなみにドイツなどヨーロッパ諸国では、室温が低いと基本的人権を損なうとして法規制もされている。)
すっかり遠回りしてしまったけれど、結果としては、考えに考えた末、僕は古くて味わいのある寒い家ではなく、現代的な考え方に基づいた、高気密、高断熱といわれる住まいを目指すようになった。(とはいえ、そもそも寒い家は嫌だ、という妻の意見は最初からあったので、何にしろ暖かい家に引っ越していたかも知れない。)
ここでいう高気密、高断熱とは、簡単にいってしまえば服や布団と同じことで、薄着をして風通しをよくしていれば寒いし、厚着をしていればぬくぬくとしていられる、ということだ。そうすると、夏に困るようだけれど、家は太陽光を浴び続けるので、屋根を断熱しないと家は熱を吸収し続けてサウナのようになってしまう。また、断熱とともに蓄熱する性能が高ければ温度の移動が少ないので、夜に涼しい風を取り込んでおいて、昼間に温度が上がるのを遅らせられるし、仮に冷房を使うにしても、効きが良く暑くなりにくいというメリットがある。
ただ、そういう家を新築で立てると恐ろしく費用もかかるし、現代は空き家が多くて困るくらいなのだから、リノベーションを自分たちでする、というのも、最初から決まっているようなものだった。果たして、そんな都合のいい条件を満たす物件があるのか、そして実現可能なのか、という疑問はあったけれど、もしできれば、魅力的な事例になるとも思った。
導かれるように着いた場所
そんなことをぼんやりと考えながら、さらなる移住先を探していた。道内での移住といっても、北海道はあまりに広くて、さらにぼんやりしてしまう。家族でキャンプがてら、色々な所に行った。上下水道がないのに人口が増えているという東川町や、感度の高い個人店やクリエイターが集まる洞爺湖など、話題になる場所はたくさんあった。ここらでガツンと、釧路や網走など、道東へ引っ越してしまうのもかっこいいのだけれど、札幌に妻の実家があることや、既に多くの書店や個人から書籍を預かっていることもある手前、あまりに離れるのは憚られた。縁もあって、理解のある不動産屋さんに時間をかけて見つけてもらったのが、現在の小樽市塩谷の家だった。
これは東京でも実感していたのだけれど、古くて「味のある」家を不動産屋さんに探してもらうのは、意外と難しい。鉄筋より木造、クッションフロアより板張り、ビニールクロスより砂壁がいい、という客は少ないようで「ボロくて古くて、代わりに手を入れても大丈夫な家」というリクエストをしても、東京ではなかなか見つからなかった。というよりは、そもそもその意図を理解してくれる不動産屋が少なかった。そんなボロい家は、値段も安い上に、そのまま商品になりづらいという事情もあるかもしれない。その点、小樽では、知り合いの作家さんを伝手に「古くて放置されている家がたくさんあって勿体ない」というような話に共感してもらえる不動産屋さんに会うことができた。
探し始める前はあまり考えていなかったけれど、古い、それなりに大きくて味のある空き家を探したら小樽に辿り着くのは当然の理だった。小樽は、札幌よりも先に栄えた都市で、かつては北海道の心臓と呼ばれていた。江戸時代からニシン漁は行なわれていたけれど、明治以降に規模をどんどん大きくし、北前船の影響で、富山や関西から莫大な資本がどんどん流入していた。北前船一隻、一度の航海で現在の数千万円は稼げたと言われており、当時の小樽の町が計上していた年間予算より、多くの資産を持った人が何人もいて、人口も現在の倍近くいた。
しかし「金肥」とも呼ばれ、莫大な富を生んだニシンは急激に獲れなくなってしまったため、人口の落ち込みも苛烈だった。ましてや、急な坂が多くて有名な小樽だから、冬は車が通れないような坂の上に、放置されてしまった空き家がたくさんあるのだ。選ばなければ、戸建ての空き家なんてゴロゴロあった。そして、昔からの市街には軟石で出来た蔵造りの建物や、古い木造建築、歴史的建造物が多く遺されているのが小樽だった。
とはいえ、観光地としても有名な小樽なので、お土産物屋の隣に居を構える訳にもいかない。少し離れた場所、店を作れるようにそれなりに大きく、できれば畑をやれるような土地もあり、海や山も近い。それが現在住んでいる塩谷だった。
豊かな土地
手に入れた家屋(正確には、家は廃棄物なども含めた現状渡しなので、土地を購入したら付いてきた形なのだけれど)は、120平米近くあり、屋根裏付きの2階建て。土地も建物を丸々もう一つ入れられるくらい余裕があり、川まで流れている。築40年ほど経つので庭には立派な山桜、梅の木まであり、背後は広葉樹で囲まれていて、理想以上の条件だった。
小樽駅からは1駅、道道が目の前を通っている。民家は少ないのに、何故かすぐ目の前に高速のインターチェンジもあり、更に市街地へ抜ける山にトンネルを作る計画まである。スキー場のある天狗山まで車で10分、塩谷海岸までも歩ける。家を出て車で15分で小樽駅だが、反対側へ行けば余市へ向かう「フルーツ街道」に、野菜や果物の直売所がたくさんある。小学校や保育園もあった。小学校の近くにセブンイレブンがあったけれど、土地の購入前に閉店してしまった。と思った矢先、道民に愛されるコンビニ、セイコーマートに生まれ変わるという奇跡も起きた。また、この辺りは文学者、伊藤整ゆかりの土地でもある。並べてみれば恵まれた条件ばかりだ。
屋内には、多くの不用品も残っていたけれど、この辺りでは有名な名士の家だったらしい。屋根裏には、桐箪笥や船箪笥がいくつもあり、大きな火鉢や花瓶、漆塗りの食器、着物など、古道具、民具好きなら唸るようなものがたくさん詰まっていた。車2台分の車庫の裏にも倉庫があり、中からは大量の桶や、漬物石がでてきた。恐らく、漬物で冬越しをしていた時代のものがそのまま残っていたのだろう。農具用らしき倉庫には、木の柄のスコップや数種類の鍬、木挽鋸など、資料室で見ていたようなものが次々と出てきて心が踊った。洋室にはシャンデリアが下がり、北海道には珍しく、縁側付きの和室もある。書斎には毛足の長い絨毯が引かれ、壁紙は布製、部屋の隅にはアフリカ系とおぼしき木彫が飾られていた。『小樽市史』、『花街の歴史』など、郷土資料まであった。机、食器、ソファまであるので、家財に関しては、好みのものを選別してもあまる程だった。あとは、どう生活のインフラを整え、また好みの設えに改装していくかだ。もちろんお金はかけられないので、可能なことは全てDIYになる。
計画はまずキャンプから
改装の前に、まずはキャンプから始めた。いきなりは住めないからだ。電気はあっても、暖房もお湯も出ないので、北海道のような北国でなくても、そもそも生きていける条件が揃っていない。
元々は、1階2階と2世帯で暮らしていたようで、キッチンやトイレは2セットあった。それに洗面所や洗い場、洗濯機の水道なども含めると水栓は8カ所ほどあった。元栓が複数あり、どれがどれに繋がっているか分からない。冬は凍結で通らないものもあるし、灯油式のセントラルボイラーは銅管で家中に張り巡らされていたのだけれども、全て完膚なきまでに詰まっている。完全に空き家だった期間は4年ほどと聞いていたけれど、寒冷地の空き家とはそういうことなのだと思う。
とりあえず、1階のキッチンは最初から水が出た。飲み水の次に必要なのは、トイレだろう。他の元栓は開けても出たり出なかったり、想定していない2階の水栓から水が漏れたりと不具合が多いので、キッチンの水栓から延長して、トイレにホースで延長して、接続した。飲み水とトイレがあれば、とりあえずキャンプにはなる。ただ、家族揃って何日もDIY合宿をするのも子ども達から不満がでるので、状況確認と簡単な設備工事だけをして、改めて道具や資材を準備して出直すことにした。1回目のキャンプで水栓を確認して、ホースでトイレを流すようにする。2回目で、壁に穴を開けて、ホースから塩ビ管に進化させることで、多少家らしくなった。(しかしホースがあると、ドアが閉められなかった。)
幸いにも、ここには都市ガスが来ているので、冬はガスの暖房で凌げるだろうか。次に、風呂がない。元々あった風呂はタイル貼りの在来工法で、人がいない間にカメムシや蛾の巣になってしまっていた。絨毯のように虫の死骸があるので、とても使えないし、そもそもお湯も水も出ない。しかも寒そうな風呂場で、また寒い浴室に入るようでは引っ越してきた意味がない。次にやるべきことは、暖かい風呂の設置だった。
できれば、最終的に住むのは日当たりの良さそうな2階、1階は丸々店舗にする予定だった。とはいえ、最後まで前の持ち主が住んでいたのは1階のようで、比較的片付いているのは1階だったので、1階に仮住まいをして、2階を整備、改装、そして2階に住居を移し、1階を店舗に改装していく、という3段構えを取った。
しかしまずは、お湯も出ない風呂も無いのでは、仮住まいも厳しい。給湯器と風呂を2階に設置して、それから引っ越してくる必要がある。引越の予定は、長男の小学校入学に合わせてなので、1年以上猶予はあった。とはいえ車を持っていないので、1時間に1本の、ワンマンディーゼルの電車に乗り、通いで改装をすることにした。仕事もしながらなので、本当の日曜大工だ。
肝心要の断熱についても考えないといけない。幸いこの家は裏に川が流れていて、比較的夏は風が涼しい。また、暖房は薪を自給するつもりだったので、熱が逃げにくく、蓄熱性の高い造りに越したことはない。いわゆるエコハウスなどの資料を参考にすると、壁や屋根には300mm以上の断熱材を入れているので、それを参考にした。DIYでやるので、あまり手間をかけられない。そこで、大きな家を手に入れて、内装はそのままにして、内側にぐるりと300mmの断熱材で囲んでしまう計画にした。床も300mmほど上げて板を貼り、断熱をした。天井裏の断熱も重要と言われるけれど、配線などがあり、また天井まで下げるわけにはいかないので、天井は内装はそのまま、天井裏にブローイングという施工を頼んで、断熱材を400mmほど充填してもらった。
よく、気密をしないと断熱材が室内の湿気を吸ってカビたり、湿気で重みを帯びてずり落ちる、ような記述もみるのだけれど、合板で囲った限り、改装後2年の2024年現在、そこまで極端な結露は見られていない。(元の住居の壁と断熱材もあるので、外気温との温度差が抑えられているせいもあるかも知れない。)
風呂が一般的に寒い理由は、床や天井を抜いてユニットバスを設置するので、周囲が断熱されていない場合がある。せっかく沸かした湯の熱量があるのを逃がしてしまうのも勿体ないので、天井が高い家なのをいいことに、部屋の中にそのままユニットバスを設置して、壁との隙間にはやはり断熱材を詰めた。
居住スペースだけの、いわゆる部分断熱というやつで、現在は鋳物のストーブ1台で賄えている。他の部屋は極端に寒いのだけれど、まだ空き部屋のままなので、それはそれで良いと思っている。
(元々あった、セントラルボイラーは全部屋に配管されていたし、家の隅にあるので、とてもコストがかかったろうと思う。銅管が全て錆びて詰まっていて、そもそも使えなかったけれど。)
そうして、通いで風呂を設置し、まずは1階に引っ越し仮住まいをする。2階に床を貼り、余分な壁を抜き、断熱を施し、キッチンや洗面所、トイレをつけ換え、ストーブの煙突を設置して、やっと2階に居住スペースを移して引越して完了だ。ガス機器の設置以外は、全て自分たちでできた。何でもホームセンターやネットで買えて、分からなくても調べられる。こんなにDIYしやすい時代はこれまでになかっただろう。ひと冬は、やや寒く、古いままの1階で過ごしたけれど、翌年には暖かな2階で過ごすことができた。小型の灯油ストーブがあるけれど、メインは周囲で手に入れた薪なので暖房費は殆んどかからない。紙ゴミや生ゴミも乾燥してから燃やしてしまうので、ゴミも劇的に減り、精神的に、とても軽くなった気がする。
周辺の柴刈りや間伐、廃材で暖を取れることは、いつ無くなるか分からない石油を使うよりも遥かに安心感がある。都市に人が集まることと反比例して、田舎は薪や土地にどんどんと余裕がでてくる。家や生活を、環境や社会に負荷が少なく自給可能で安心する形に、いくらか近づけることができた。そのような、豊かな環境についても、いくらか紹介していきたい。
(続く)