理学療法士である著者は、東京・府中市で訪問看護ステーションおよび居宅介護支援事業所を運営しながら、カフェや空きアパートを使ったコミュニティ事業を展開している。あそびを通じた表現活動を行うアトリエ、中高生のサードプレイス、菓子工房、銅版画工房などが半径50メートル内に集まる一帯の名は「たまれ」。最寄の多磨霊園駅と、人が「溜まる」をかけて名づけられた。
こうした活動を通して実現しようとしているのは、人と人との「弱いつながり」だと著者は言う。2011年の東日本大震災以降、とみに加速した人と人との「つながり」を絶対視する風潮への違和感からたどり着いた、「たまれ」という名の「場づくり」。その足跡を振り返りながら、医療と患者、医療と地域、人と人の「いい感じ」な関係を考察する。

#6 母に降りかかった「死の宣告」

「人工呼吸器をつけて生き続けたい?」
 母は僕の目を見つめたまま、それ以上の反応は示さなかった。
「このまま終わりにしたい?」
 母は頷き、小さく笑った。
 そんな母は今、人工呼吸器を使いながらも生きている。

 2015年3月に訪問看護事業がスタートしたシンクハピネスは、訪問看護のサービスの提供をしながらまちの人たちとの接点を少しずつ増やしていく。経営状況は不安定ながらも、思い描いた夢に向かって充実した日々を送っていた。

 この頃の僕は一人暮らしをしていて、実家にすぐ帰れるような場所に住んでいた。実家の近くに住んでいたのは、父のアルコール依存症が理由だ。実家には父と母と妹が暮らしていて、父が酷く酔うと母と妹だけでは手に負えなくなり僕にSOSが来る。父がアルコール依存症と診断されたのはこの年のことだったが、2006年にもお酒が原因で急性膵炎と肝硬変になり入院をしている。僕が気づいた時は全身が真っ黄色になりお腹がパンパンに膨れていた。所謂、黄疸と腹水である。

 元気になって退院するも、父はその後もお酒を止めることはなく再び体調を悪くしていく。お酒を飲んでいる様子があると家族からは受診をするように勧めるが、きまって「入院はしない」と断固拒否。観念して受診したかと思ったら、病院に行ったフリをして嘘をついていたなんてことが何度もあった。朝に家を出てお昼過ぎに帰宅し、どうだったと聞くと、医者に言われたことをそれっぽく話をする。家族は真に受けて、受診するようになって良かったねなんて安心をしていたのだから父の演技力は相当なものだったと思う。その分、嘘が発覚した時の家族の裏切られた感は相当なもので、僕も母もよく怒りを爆発させていた。

 父は自営業でガソリンスタンドを経営しており、母はその事務を担当しながら僕と弟と妹を育てあげた。祖母も同居していて、2006年にアルツハイマー型認知症と診断された後は母がサポートをしていた。

 母は200年以上続くお茶屋の長女として生まれ、子どもの頃から厳しく育てられたと聞いている。早起きしないと母の父親に叩き起こされたり、学校に行く前には必ず家事を手伝い、帰ってきたらお茶屋の手伝いをするなど、厳しい子ども時代を過ごしたらしい。だからと言って、僕らに対して厳しかったかというとそこまでではなかったが、母の気に食わないことがあるとかなりの剣幕で叱られた。特に、人に対する接遇の点はきちんとしている人で、家に客人が来たら誰だろうと必ず挨拶をすること、お茶はお茶請けと一緒に出すこと、人の家にお邪魔する時は手土産を持っていくようになどは母の姿から学んだ。また、人前ではTPOに合わせてきちんとした服装や振る舞いをするという母で、家族の前でも滅多にパジャマや部屋着でいることはなく、スッピンも数えるくらいしか見たことはない。

 糟谷家のアルコール問題が勃発した2006年は、僕が理学療法士として働きはじめた年である。その頃から母とは毎日のようにメールをしていて、実家に帰っても話はもっぱら父のことだった。元々、辛いことなどは内にしまっておくタイプで、家族の前ではいつも笑顔でいる母だったが、父のことが何年も続くとさすがに堪えたようで不眠が続き心療内科に通うようになる。それでも日常生活は変わらず送っていて、休みを見つけてはデパートに買い物に出かけたり、友人と舞台を見に行ったりしていた。

 僕が訪問看護事業をスタートさせた2015年になっても父のアルコール問題は変わらず、家族の苦悩は続いていた。実家で一緒に暮らしていた母や妹は、よく10年もそんな父と付き合ってきたと思う。この頃の父は、朝起きると居間のソファーに座り1日中テレビを見ながら過ごしていた。食事はほとんど食べず、ソファーから離れる時はトイレに行くかお酒を飲む時である。隠れて飲むようになっていたのだ。

 お酒が隠してある場所は「ここにあるから見つけてくださいね」というような分かりやすい所ばかりで、もう少し工夫して隠せば良いのにと思うのだが、そこまで気が回らないのだろう。飲んだ証拠を掴むと僕や母は父に問い詰めるが、いつも「飲んでいない」という返事が返ってくる。しつこく聞くと「俺だって毎日大変で頑張っているんだ」と怒鳴り散らすので、時に母の我慢が限界を超え、父に対して強く言ったり家の中を物が飛ぶこともあったがそれでも父の態度は変わらなかった。ちなみに、至る所に隠されたお酒は全て赤いパッケージのパック酒で、飲むならもう少し良いお酒を飲みなよと父に言ったことがあるが、その時は無言で返答がなかった。僕が飲むことを肯定するような発言をしたのでバツが悪かったのだろう。家族がお酒を見つけると問い詰め、問い詰められると否定し、しつこく言うと怒鳴り散らす、そんなことを繰り返す毎日だった。

 糠に釘の状況にさすがの母も感情を抑えきれなくなり、家から飛び出し近所の親戚の家に駆け込んだこともある。いよいよ母を父から離さないといけないと思い、僕が一人暮らしをしているアパートで一緒に暮らそうと母に提案したこともあった。

 気の休まない日々を送っていたが、母は大きく体調を崩すことなく家のことをきちんとこなしつつ、趣味ではじめた陶芸教室に通ったり友人と食事に行ったりと気分転換をしながら暮らしていた。前にも書いたが、僕は人よりも楽観的な性格だと自負しているが母は僕以上だと思う。一晩寝たら嫌なことはたいてい忘れてしまう。

あごの下の絆創膏

 この年の夏、実家にふらっと立ち寄ると顎に大きな絆創膏を貼った母がキッチンから出てきた。そんな母の姿を見たのは初めてだったので驚いたのと、ちょっと間抜けな姿に思わず笑ってしまったのを覚えている。

「歩いていたら転んじゃったのよ。まったくしょうがないわよね。もう60歳だから」

 母は恥ずかしそうに絆創膏の理由を教えてくれたが、それを聞いて少し嫌な予感がした。手に荷物を持っていたため両手が塞がっていたのかと聞いたが、そんなことはないという。人間の身体のメカニズムからすると、転んだ際には反射的に手を出すなどをして大事に至るのを避ける習性があるが、母にはその反応が見られなかったのだ。考えたくないが、脳や脳神経の病気の可能性は否定できない。パーキンソン病、進行性核上性麻痺、脊髄小脳変性症、筋萎縮性側索硬化症(以下、ALS)……。この中でもALSは避けたいと強く願った。

ALSが筋肉に及ぼす影響 image by rob3000-stock.adobe.com/jp 日本語訳は著者及び編集部

 まずは僕自身が落ち着かないといけないと思い、少し時間を置いてから母に話をした。
「もしかしたら、脳か脳神経に何かが起こっているのかもしれないから、一度病院で見てもらった方が良いと思う」
 父だったら断固拒否だったと思うが、母は快諾してくれて翌日には市内にある脳神経外科の予約を取ってくれた。

 母には行きつけの整骨院がある。脳神経外科受診の前に診てもらったところ、骨盤が歪んでいて背中や足の筋肉がかなり硬くなっていると言われ、そこをほぐしてもらったらだいぶ良くなったという。「診てもらって安心したね」とは伝えたものの、問題の根本はそこではないことは僕の中では明らかだった。母は僕が伝えたこととは違う選択肢が欲しかったんだと思う。予約していた脳神経外科の受診では脳や頸椎などのMRI検査をしたところ特段問題はなく、専門的に診てくれる大きな病院の神経内科を紹介してもらうことになった。9月の中旬のことである。

発症9カ月前の母・敦子さん (著者提供)

 父のアルコール問題はより酷くなっていて、昼間から酩酊状態になることもあった。酔っ払って倒れ込むと一人では起き上がれず、母が手を貸す始末である。それでも父の「俺は飲んでいない」という主張は変わらない。僕も母も弟妹も我慢の限界を迎え、ここでは書けないような態度を父に対して取っていた。33歳まで育ててくれた恩はあるが、僕の中での優先順位は母である。15年もアルコールに溺れている父をサポートする気持ちはなく、いっそこのまま死んでくれたら家族は幸せかもしれないと何度思ったことか。母からのSOSメッセージや電話は毎日のようにあったが、自分の身体よりも父の心配をしていた。全く母らしい。

 僕は母の精神的不安を少しでも減らそうと、何年間も拒否され続けてきた受診の説得を続けた。話をするたびに拒否されるので、途中からは頑なに拒否する父の態度を面白がることにした。そうでもしないと僕は怒り狂いそうになる。

 9月の終わり頃、突然父が病院に行くと言い出した。おそらく母に対する配慮があったんだと思う。心の中では「今頃おせーよ」と思っていたが、受診を決意してくれた父には「ありがとう」と伝えた。父の気が変わらないうちにアルコール専門外来に連れていくと、医師からは入院を告げられた。家族全員が入院を希望していたがここでも父は断固拒否を貫き、「母が大変な状況だからそばにいなければいけない」「家の仕事をやらなければいけない」などの理由を並べた。僕からすれば、家にいる方が母や妹に迷惑をかけるし、家での仕事はたぶん多くない。強制的に入院をさせてもらいたかったが、入院には本人の承諾が必要らしい。仕方なく、その日は「次回の受診までに飲んだら入院する」という約束をして家に帰ってきた。

死の宣告」

 10月に入ってから、母は紹介された病院にかかり検査入院することになった。この時点で母の歩く速度は今までの半分くらいになっていて、8月に感じた嫌な予感はますます現実味を帯びる。医師はどんな疾患の疑いがあるかを明らかにしなかったが、検査を確認するとALSの可能性を判断するような内容だったので、僕は心の準備をはじめた。10月19日のことである。

 その日の夜、1日目の検査が終わったという報告と23日に検査結果の説明があるから同席して欲しいというメールが母から送られてきた。「入院中、お母さんの心配はいらないから、お留守番宜しくね」というメッセージも書いてあって母の強さを改めて感じた。23日の結果説明は僕の仕事の都合で16時30分にしてもらった。この5日間は僕の人生の中でも一番長い5日間だったと思う。90%以上はALSだろうという確信と、どうかそうでありませんようにという思いが何度も行ったり来たりして、まったく仕事に集中できていなかった記憶がある。

 検査結果説明の日。母の病室に行くとすでに父と弟妹がいて、それぞれが心配そうな表情をしている。16時30分になって看護師から声がかかる。母と一緒に指定の部屋まで移動したのだが、1週間の入院で活動量が少なかったせいか母の歩く速度はびっくりするほど遅くなっていた。すでに薄暗くなりはじめた窓の外から、日の入り前のオレンジ色の陽の光がうっすらと廊下に射している。苦笑いを浮かべながら、僕に迷惑をかけまいと一生懸命歩く母の姿が今でも忘れられない。

 部屋に入るとすぐに医師からの説明がはじまった。手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病気であること、10万人に2人くらいの神経難病であること、原因がまだ解明されていない病気であることなどが告げられ面談は終わった。明らかにALSの症状の説明をしていたのに筋萎縮性側索硬化症という診断名が医師の口から出てこなかったことに違和感を覚えた。あまりにも気持ち悪さが残ったので、説明が終わった後に僕だけその場に残って医師と話をさせてもらった。

「母の病気はALSですか?」と聞くと、医師から返ってきた答えは予想通りだった。

「ほぼそうだと思います」

 ここで医師が「と思います」という表現を使ったのには理由がある。日本ALS協会によるとALSの確定診断を受けるまでの期間は15カ月くらいとしている。母の場合はここまで約2カ月で、日本ALS協会が報告している平均と比べるとかなり早い。一通りの検査は行ったものの症状が固定している訳ではなく、この時点で確実にALSと判断するのは難しいと判断したようだ。もっとも、10万人に2人の発症頻度ということもあり、医師が症例として経験した人数も少ないのだろう。母の場合は身体の異変に気づいてから受診するまで早かったことや、専門的に診てくれる神経内科にうまく受診できたことで診断までの期間が早かったのではないかと思う。また、進行が早かったので症状から判断しやすかったということも考えられるが、このことは医師には聞かなかったので真意は分からない。

 僕は普段から医療に関わっているのでこのよう考えたが、全く関係のない人だったら医師の言葉をそのまま受け入れ気づいたらALSという診断名がついていたか、「と思います」という説明に不信感を抱くなどをしていたと思う。いずれにしても、どこか気持ち悪さが残る説明だったのは間違いない。

母の意思

 医師との話が終わり母の部屋に戻ると家族はまだそこにいた。やや重たい空気が流れていたが、ここでも母は明るく振る舞っている。母は父や弟妹がこういうストレスに弱いのを分かっている。特に父や弟はかなり神経質な性格で、ちょっとの不安があると気になって眠れなくなってしまうほどである。僕はというと、不安と恐怖と悲しさが入り混じったような感覚はあったが、診断されてホッとしたところもあった。大変なのはこれからだ。僕は一人病室に残り、母とこの先のことについての話をして帰ることにした。母はALSという実感はないという。そりゃそうだ。8月から少しずつ歩くことが大変になっているとはいえ、日常生活に支障が出ている訳ではない。それに治療すれば良くなっていくという希望もあったと思う。そんな母に1つだけ質問をした。

「このまま病気が進行していくと、身体のすべての筋肉が動かせなくなっていく。歩けなくなったり、物が持てなくなったりするだけではなくて、口の筋肉や呼吸をする筋肉にも影響が出る。ご飯が食べられなくなり、呼吸をするのも苦しくなっていく。そして、人工呼吸器をつけて生きるか、何もしないでそのまま命を終わらせるかという選択をすることになると思う。そうなった時、お母さんはどうしたい?」

 後半は声が震えていたと思う。頭では冷静に考えていたが、口に出した瞬間に一気に恐怖と悲しみが襲ってきた。

「実感がないから今は分からないかな。そうなったらなったでその時に考えて対処すれば良いかなって思う。今言えるのはそのくらいかな。ただ、家族には迷惑はかけたくないわ」

母はこう続けた。「明範はいろんな知識もあるし、周りに医療関係の友達がいっぱいいるのは知っているから、正直ショックは少ないのよ」

 母らしい前向きな答えだ。息子の前なので気丈に振る舞っているところもあったと思うが、元から母はこういう性格である。もしかしたら奇跡が起こるんじゃないかと思わせるような母の姿勢に逆に勇気付けられ、病院を後にして仕事に戻った。

 会社に戻る車の中で色々考えた。なんで母なんだろうなとか、母は生きることを選択するのかなとか、父のアルコール問題はさらに深刻になるんだろうなとか。前年の夏に「アイス・バケツ・チャレンジ」が流行っていて、僕もそれに乗っかっていたことも思い出した。ALSに対する認識を広め寄付を募ることを目的に行われたこの運動には、世界中の著名人がたくさん参加していた。ALS研究に対する寄付をするか、氷水の入ったバケツを頭からかぶるかの2択から選び、次に「アイス・バケツ・チャレンジ」をする人を指名するという運動である。多くの人に支持された運動でもあったが同じくらいの批判があったと記憶している。

 僕も日常でALSと触れる機会は全くなかったので、ノリでこのような運動に参加するのは嫌だった(真面目か)。指名がきてもすぐには実行せず、「早くやれよ」という周りの声を完全に無視し僕なりにALSのことを調べた上で氷のバケツを被った。「もしかしたら自分の家族が罹患するかもしれないよな」なんて思いながら運動に参加したことを思い出し、あの時考えなければ良かったかもなんて馬鹿げたことまで頭をよぎり出したので、過去を振り返るのはやめることにした。

アイス・バケツ・チャレンジを行う人 ウィキペディアより。CC BY 2.0

 1時間前に母に対する「死の宣告」を告げられたばかりだが、すでに気持ちは切り替わっていた。母親に似て、楽観的で超ポジティブ思考が僕の特性でもある。母が生きることを選択するにしても、死ぬことを選択するにしても、これから徐々に身体状況は変化する。歩けなくなり、立てなくなり、手を動かすこともできなくなり、喋れなくなり、食べられなくなる。どのタイミングで呼吸が苦しくなるか分からないが、間違いなくその時は来る。ALSの進行は個人差があるため予測が難しい。生きるか死ぬかは母の言う通りこれから考えていけば良い。できなくなることがどんどん増えていく中で、どのように母や家族、そして僕の暮らしを続けていくかを考えなければいけない。10年後とかに「母のことがあったからやりたいことがやれなかった」という言い訳だけはしたくなかったし、家族にも「母のために」という生き方をして欲しくなかった。

 具体的には治療と介護が必要になる。かなりの医療費がかかってくるし、自宅でサポートを受けるためのサービスも必要だ。これらに備えるためには、医療費の全額の扶助を得るための特定疾患医療受給者証の申請や自宅で生活するために必要なヘルパーの手配、ベッド、車椅子などの日常生活用具の給付をしてもらうための身体障害者手帳の申請をしなければならない。また、介護保険サービスを受けるための要介護認定の申請も必須である。

 必要とされる具体的なサービスの種類や事業所についても考えてみた。ケアマネジャー、訪問診療、訪問歯科、福祉用具、ヘルパーなどである。運転しながら知り合いの顔を思い浮かべてみたところ、だいたいのサービスは揃いそうだ。問題は訪問看護である。自分の会社の訪問看護を一番に考えたが、ALSの在宅看護はかなり特殊で、もし母が人工呼吸器を付けることを選択した場合は専門的な知識が必要になってくる。LIC訪問看護リハビリステーション(以下、LIC)を立ち上げてようやく半年が経ち、まだまだ在宅看護の経験値が浅いみんなに大きな負荷をかけて良いものかどうか。この辺は会社に戻ってみんなに相談してみることにした。

父の入院

 母がALSと言われてから6日後、父親が入院した。やっと入院してくれたという言い方の方が正しい。母のALSによってお酒を止める気になるかと思ったが、逆にお酒の量は増え、父のアルコール依存症はより深刻になっていく。実を言うと、それ以前に父は入院する意志を自ら医師に伝えて入院日も決まっていたのだが、当日にドタキャンをするというとんでもないことをやらかしていた。ドタキャン後の受診は妹に引きずられるようにして病院に向かい、入院の意志があるのかどうかを医師から尋ねられたところ「しません」と答えたのだ。それまで忍耐強く父に関わってくれた医師だったが、この時ばかりは態度が変わりかなりの剣幕で父を諭したという。妹から母のALSの件を伝えていたので、事情を察してくれたんだと思う。

 母と妹がやっと父から解放された。約15年の間、今日は飲んでいるのか、機嫌はどうなんだろうと毎日父の顔色を伺って暮らしてきた二人に自分の時間が戻った。昨日までの暗い雰囲気は何だったのかというくらい家の中が明るくなり、父には申し訳ないがこのままずっと入院していれば良いのにと思ってしまうほどだった。

 こうした中、会社は創立から10カ月が経過した。母のALSや父のアルコール依存症など、色んなことがあった10カ月だったが決して悪いことばかりではなく、同じ頃にカフェ(今のFLAT STAND)オープンに向けて追い風が吹きはじめる。現在、シンクハピネスの取締役を務め、「FLAT STAND」の管理や「たまれ」のコミュニティマネージャーを担う和田滋夫の入社が決まり、カフェのコンセプトについて具体的な話がはじまったのがこの頃だ。LICでコーヒーを提供するためにサポートしてくれていた、都内でカフェ併設のレンタルスペースを運営している友人も加わり、いよいよカフェオープンが現実味を帯びてきた。

 母のALSや父のアルコール依存症と付き合いながら、僕が思い描いていた構想はここから加速していくことになる。


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#6 母に降りかかった「死の宣告」

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