かつて日々のくらしに欠かせなかった箒は、電気掃除機の普及とともに需要が低迷し、全国各地の産地は壊滅状態に陥った。ところが近年、電気に頼りすぎないライフスタイルを志向する人、地域の伝統文化や地場産業に価値を見出す人が徐々に増え、職人が手編みした昔ながらの箒への関心が高まりつつある。
なかでも、神奈川県北部の愛川町では、一度途絶えた旧中津村の箒づくりを生業として復活させる取り組みが進む。その立役者として活躍し、伝統を受け継ぎながら作家性の高い作品も手がける筆者は、美術的アプローチにより社会にコミットするという信条の持ち主。いま注目のつくり手が、仕事を通して目指す“ものづくり”と社会の姿とは――。
第18回 生きるための道具と詩歌②
詩歌の自律性と強靭さ
「生きる」ために「詩情」が必要である――。その気づきを与えてくれたのは詩歌だった。そして、その詩歌の肥沃な大地を形作っているものもまた詩歌であることにも気付かされることになる。これは矛盾ではなくて、自律した循環と言っていいように思う。その背景には短詩型文学の魅力、またはそれらを支える強靭なエンジンとして「読み」の重視、批評の存在があるように思う。ある事実を残すために、正確な記録をすることが必要であることは、民俗を通して教わっていた。歴史を残すのは記録、そして、その歴史を作っているのは批評であるとも気づいた。
先述したように、短歌や俳句には座があり、批評がとても活発で、新刊と同時に読書会や批評会が行なわれることは珍しくない。つまり、作品の発生と同時に歴史化や、その位置づけの試みが始まると言っていいだろう。そして批評に携わる人の多くがそのプレイヤーであり、実作をしながら批評をするということも普通であるから、批評は実践的かつシリアスな問題として扱われる。和歌や俳諧は江戸時代にもあったけれど、短歌や俳句として分岐が始まったのは正岡子規による「歌よみに与ふる書」などの短歌革新運動以降でもあった。短歌について言えば、カテゴリの発生と同時に鋭い批評が絶えず行われてきたと言っていいように思う。
明治維新という変革は大きなもので、美術や工芸も明治期に生まれたことは先に述べた。美術や工芸は、西洋化の波がそのまま制度化された面があるのだけれど、短詩型文学に関しては第二芸術論というラディカルな批判を受けながらも、それらに立ち向かうことで詩型を保ち、進化してきた。また、美術工芸と起点が同じであることから、歴史が並行するように前衛やポストモダンも経験し、現在的なリアリティを維持し続けている。
僕が箒を作り始めて数年たった頃は工芸、ひいては僕の主に出入りしていたクラフト界隈は、暮らし系ブームと言われる波の真っ只中だった。手仕事に光が当たり、多くのメディアに載せてもらえることは本当にありがたい。けれど、それが一過性の流行で終わってしまっては困る、というのが本音のところだ。人によって立場の異なるものなのかも知れないけれど、僕にとって手仕事は過去から引き継いだもので、後世に遺すべきもの。つまりは、歴史として遺していくべきものだった。歴史化には記録と批評が必要となるので、流行り物として消費されてしまうことや、気持ちのいい言葉で矮小化されてしまうことは最も避けなければならないことだった。
そんな中、前回触れた、歌人の石川美南さんの開催する勉強会「さまよえる歌人の会」で短歌を読み解くことや、多くの作品やその言論に触れることは励ましのようでもあり、目指す先を示してくれるようにも感じていた。とにかく、読むことや書くことが、自身の仕事の未来に繋がると信じさせてくれた。小説を夜な夜な書いている時期もあったし、「工房からの風」ディレクターの稲垣早苗さんは、僕に書くことを勧めてもくれていた。小説の賞への応募、短歌や、評論の応募、フリーペーパーの作成や同人誌への投稿など、様々挑戦してはいたのだけれど、大した結果は残せていない。
これは工芸とも変わらないけれど、技術や形式はそのプロセスや手段であって、結局は何を描くかという所に目的が集約されるだろう。正直な所、僕は文学や詩歌の形式に憧れていただけで、大して書きたいこともなかったのではないかと思う。伝えたいことの主軸は箒の中に収められていた。そこからはみ出したものや補助線だけで形を為せるほど、詩歌は小さな器ではなかったというだけの話だろう。
「Space1-15」という異空間
そんな折、株式会社まちづくり山上の社員として、箒職人のまま、北海道へ移住することになった。というよりは、引っ越すことは予め決まっていたという方がいいだろう。札幌出身の妻は北海道で子育てをすると決めていて、子どもが3歳までには北海道に帰る、ということは子どもが生まれる前から言われていたことだった。
2010年代、多くの雑誌やテレビ、ラジオ、イベントに出ていた僕も、東京で本当にやりたいことを形にするのは難しい気がしていた。巨大なイベント、街では多くの人が流れるように行き交い、立ち去っていく。ショートタームで分かりやすく、可能な限り広い人に届けるのが大きなメディアにありがちな方法だけれど、作れる数に限りがあり、その文化的意義、背景を深く伝えることが必要な手仕事においては、どこかローカルな場所に根を張り、手渡しで伝えていく方が適している――ということを、東京に30年近く生きて実感していた。環境負荷の少ない暮らしや、地域の文化や共同体を大切にしていく、という面でも、自然の資源が少なく、新陳代謝のあまりに激しい都会は不向きなように感じていた。
引っ越す前から、札幌への里帰りに付いていくことはあったので、家は探していた。そこで目を付けていたのが「Space1-15」(スペースイチイチゴ) だった。
Space1-15は、札幌市、南1条西15丁目にあるスペースの名前だ。札幌の街は、中心地にあるテレビ塔から正面に伸びる大通りを中心にマス目状に広がっている。大通りから北に行けば1つ目の交差点が北一条、2つ目が二条と続き、西に行けば西一丁目、二丁目と続いていく。
Space1-15の名称は、南1、西15という、札幌を知っている人であれば、おおよその位置が想像できるような名前になっていた。そこは築年数の古いマンションの中に、30店舗近い個人店が入っている建物で、有名店も少なくない。札幌に作り手の知り合いは殆んどいなかったのだけれど、縁あって、その中の店主に知り合いがいた。中には住居にしている人もいるそうで、住みながら工房を構えるならあそこではないかという狙いもあった。しかしHPを見ても、入居方法は書かれていない。ダメ元で問い合わせフォームからメールをしてみたところ、「現在空きはない」との返事が来た。どこか適した物件がないか探していたのだけれど、結局は、妻の実家からの紹介で、古い戸建てを借りることになったのだった。
札幌で、車がなくても全く不自由しないエリアで、戸建ての2階も一部使わせてもらうことになった。口伝てで貸してもらった事もあり。賃料も破格だった。大家の人と雪掻きをする触れ合いも悪くなかったし、隣には90歳近いおばあちゃんがいて、漬物のあれこれや郷土料理を教えてくれた。借りた家は古くて、寒い家の部類に入るそうだけれど、煙突付きの灯油ストーブは東京のそれとは比較にならない熱量で、悪くない暮らしだと思った。(のちのち露呈してくることだけれど、日当たりの悪さや、風呂場が寒いことなど、札幌の新しい家をよく知る妻は、なかなかに不満もあったらしい。)
そんな暮らしをしていた折、二人目の子どもが生まれて1年も経たないタイミングで、Space1-15から「空きがある」との連絡があった。もうすっかり、間借りした一軒家には根を張っていたけれど、これを逃す機会もないと思い、スペースのプロデューサーのTさんと打ち合わせに行った。Tさんは、いつも黒い服を着ていて、普段何をしているかよく分からないのだけれども、急にひょっこりと現れることもある、神出鬼没な人だ。過去に十数店舗も店を経営していたとも聞くし、現在でも人気の有名店の内装やデザインを手掛けたりもするのだけれど、未だに全貌が見えていない上に、好き嫌いの好みもハッキリしている。雑に言ってしまえば一筋縄ではいかない人だ。
古道具も扱うTさんの事務所は、見るからに異空間だった。傾いた本棚や、巨大な屋外用の時計、真空管、実験器具のようなもの、古書などが点々と、しかし何かの法則性を持ってディスプレイされていて、何かに化かされているようだった。古い扉を天板にしたデスクで、とうとうとSpace1-15の理念について話し始める。
当時説明された内容としては、元々、空きの多かった物件を、ある人から依頼を受けてプロデュースしていること。まだ住んでいる人もいること。若手の支援のため、入居費も破格にしていること。内装は手入れ自由で、原状復帰の必要はない、などがあった。
その他、個人店として異色な特徴としては――
週3日は休みを取ること。仕事ばかりをするより、個人で小さくやる場合は自己投資や、仕込みに時間をかける必要がある。
来る人だけが来ればいい、故に、マンションに入るにはチャイムを押して、インターホンを通して入口のオートロック解除をする必要がある。
店は入りやすい必要はないので、入口に分かりやすい案内図などは設けない。探す楽しみがなくなるだろう。
――などの話があった。
そう聞いた当初は面食らったものの、よくよく考えてみれば理にかなっている。というか、人が多すぎ、ろくに話もできない都会から逃げてきた身とすれば、それは理想的な形態だったのかも知れない。
個人と対面で接し、強く繋がる中で物を売っていくという理念は、手仕事を伝えていくのに、一番必要なことなのでは、とすら思った。
入居前に、プロモーションとプランニングも兼ねて、3階にあるレンタルスペースでトライアルをする慣習があった。そこでは、箒の展示や、本、コーヒー、映画の紹介など、趣味を詰め込んだディスプレイをしたのだけれど、結果、店を開けてみると具体化されるものはなく、6畳のスペースも埋まらないほどスカスカだった。
そこで、どういう回路が短絡的にショートしたのか「詩歌を売ろう」ということに思い至った。そして「対面で、強く繋がる」という話を聞いて、まず思い起こしたのは藤谷治氏のお店のことだった。
忘れられない店
かつて、下北沢にあった本屋「ficciones」(フィクショネス)は、小説家の藤谷治さんが経営していた店だ。奥まった道の2階で、決して行きやすい立地ではない。箒を作りながら、まだ下北沢でアルバイトをしていたある日、小説家に会えるのかと驚き、ふいに訪ねたのだった。扉を開けると、タバコの臭いが広がった。大音量でチェロの曲が流れている。と思ったら、部屋の隅で、ガタイのいい藤谷さん御本人がチェロの練習をしているのだった。テーブルに広がった原稿用紙をみて、少し戸惑っていると、向こうも戸惑いがちに手を止め
「少し、弾いていてもいいですか」
と、遠慮がちに尋ねる。奥に書斎らしきものがあるせいもあり、大量の蔵書があるとは言えないけれど、岩波など、骨太で、意志のある棚だと一瞬で分かった。元々店のことは調べて行っていたので、藤谷さんの小説を手に取り、サインをしてもらい、その日はすぐに帰った。小説家のことを知るには、まずは作品を知るべし、と思ったからなのだけれども、家で本を開き、手書きのサインを見るたびに、チェロとタバコの臭いが蘇ってくる。小説は勿論おもしろかったのだけれど、同時に藤谷さん御本人、そしてお店にも強く惹かれてしまっていた。
僕は文学に触れ始め、小説を書き溜めている時期だったこともあり、折をみて何度かficcionesを訪ねた。本について何かを尋ねれば、現役小説家の知識と経験をもって誠実に答えてくれる。何の流れか、素晴らしい小説家についての話になり、結局はドストエフスキーかトルストイが、一番文学の高みに近づいたのではないか、という話を聞いた。
僕は友達に、文学に興味のある人はほぼ皆無で、相談できるとすれば大学卒業後から文通中のYくん1人くらいだった。僕自身はそう思っていたけれど、他に、ドストエフスキーが最高だと言う人にはまだ会ったことがなかった。だが、これほどの人が言うなら、やはり自分を信じてもいいのだろう。それからは、座右の銘を『カラマーゾフの兄弟』に出てくるゾシマ長老の語る「全人類の幸福と調和」であると、堂々と言うようにしている。文学的評価として、ドストエフスキーやトルストイが最高位にいる、とされているのかいないのかは分からなかったし、今も分からない。けれど、信念が多数決である必要はない。深い理解者が、1人でもいれば充分なのだと救われた気がした。
当然ながら、藤谷さんは本の紹介者としても素晴らしい人だ。ある時「美学について知りたいんです」と、あまりに雑な質問をしながら入店すると、少し考えながら「アドルノか、カントの三大批判書の一つ『判断力批判』はどうですか」と、思案しながら答えてくれた。こんなに大味な質問に応えてくれたことにも感動したし、文学、思想の門外漢にとって、カントは新たな扉を開いてくれる哲学者であった。店を出る際「頑張ってください」と、小さく送り出してもらったことは、生涯忘れないだろう。
文学を扱うとしたら、まず頭に浮かぶのは藤谷さんのことだ。人ひとりの人生を変えるには、本1冊でも充分すぎる。ひとりでも、必要な人に、その1冊を届けられるとしたら、店を構える理由としては充分過ぎると今でも思う。
文学は不特定多数に向けられているように見えながら、実際は一人ひとりの人間に向けて書かれている。極端ないい方に思われるかもしれないが、文学はあなたのためにあるのだ。
藤谷治『こうして書いていく』大修館書店、2013年
この言葉を文学以外に演繹してしまうことは、曲解になるのかも知れないけれど、僕はficcionesで、僕の人生を決めるための1冊を受け取ることができた。工芸にもそんなことができるだろうか。職人の本分は作ることだけれど、手仕事の為すべきことは、そして幸せな形は、誰かの人生に影響を与え、光を与えることだと思った。そのためには、ただ多く売るよりは、1つ1つ、丁寧に売る必要があるし、辿り着ける人だけが来てくれる店でいい。道を歩く人が、人生で必要としているただ1冊、それを手渡すために、書店は存在するのだと思う。工芸も、そのような在り方ができると僕は信じたいと思った。
小説や思想書は今でも好きだし、世界の光明のように思う。そして芸術の分野に優劣はないと思うのだけれど、結晶化され、批評性が高く背景の奥深い詩歌は、工芸にとって必要なものだと僕は感じている。そして、詩歌のような抽象的で詩情を携えたものが、具体的な道具のように日常の中に寄り添ってくれたら素晴らしいと思っている。
そういった目的のため、Space1-15と詩歌は、最高の組み合わせだったのだと今では思う。その場で作り、生の言葉で語り、手で直接渡していくことが考えられる最善の方法だった。
そうして「生きるための道具と詩歌」というコンセプトの、書店に箒工房のついた変わった店、しかし、これしかない、と思える店「がたんごとん」が出来た。
札幌の店は、2017年から3年ほど続いて、その後は現在の小樽に引っ越した。詩歌の作者の皆さんに直接お会いできるのは、それはそれは刺激的な日々だけれど、その詳細は別の機会とする。