かつて日々のくらしに欠かせなかった箒は、電気掃除機の普及とともに需要が低迷し、全国各地の産地は壊滅状態に陥った。ところが近年、電気に頼りすぎないライフスタイルを志向する人、地域の伝統文化や地場産業に価値を見出す人が徐々に増え、職人が手編みした昔ながらの箒への関心が高まりつつある。
なかでも、神奈川県北部の愛川町では、一度途絶えた旧中津村の箒づくりを生業として復活させる取り組みが進む。その立役者として活躍し、伝統を受け継ぎながら作家性の高い作品も手がける筆者は、美術的アプローチにより社会にコミットするという信条の持ち主。いま注目のつくり手が、仕事を通して目指す“ものづくり”と社会の姿とは――。
第16回 実践と研究〜相沢先生のこと
工芸とは何か、作り手とは何かなど、しつこく考える癖がついたのは、大学の先生の影響が大きかった。なぜ箒の道に? と聞かれる時は、民俗学に触れたことを語らざるを得ない。そして、座学ではなく、実践の道に進むことになったのも、文献や論文ではなく、現場で考え、それを形に残す先生達の元にいたからで、それこそが、真摯で誠実な方法なのだと信じているきらいがある。人生を賭ける仕事を選ぶ中で、何に一番手応えを感じるかは人それぞれだけれど、どんなものでも、真に迫るリアリティは、根底で繋がるはずだと思っている。僕にとってその1つの道は、ある先生が拓いてくれたものだった。
リアリティと身体で語ること
2023年3月9日、相沢韶男(あいざわつぐお)先生が亡くなった。腹部の悪性リンパ腫による癌とのことだった。普段から、相沢先生の言葉を思い返すことは少なくなかったけれど、僕が民俗学にのめり込んだのも、箒を作り始めたことも、武蔵野美術大学で民俗学を教えていた相沢先生との出会いを抜きに語ることはできないので、多くのことが思い返される。
今となってはとても感謝しているけれど、僕は母校である大学の彫刻科の研究室には殆んど寄り付かなかったし、サークル活動ばかりで同級生ともあまり交流がなかった。そのためサークルの部室と、12号館6階の相沢先生の研究室、そして隣の文化人類学者で探検家、関野吉晴先生の研究室が一番落ち着ける居場所だった。
武蔵野美術大学には、民俗学に興味がある者なら誰もが知っている、宮本常一がかつて教授として在籍しており、民俗資料が9万点あると言われている。これはおそらく、学術的にも大切な場所なのだけれど、武蔵野美術大学には民俗学科のようなものはないので、一般教養の科目の1つとして民俗学の授業がある。また、民俗資料室も図書館の附属施設という位置付けだった。宮本常一の教え子や、その影響を受けた人は教授や資料室のスタッフの中に密かに点在しているという形で、学生の大半は宮本常一の名前はおろか、民俗資料室の存在を辛うじて知っている、という程度のものだった。
宮本常一とは……と、ここで知った顔で説明をしたいところなのだけれど、実は、宮本常一の話を相沢先生の口から直接聞いたことは多くはなかった。学者なのに、本の話すら殆んどなかった。民俗学に興味をもった僕が痺れを切らして、お勧めの本を聞きたい、と授業後にリクエストを出したところ色々と授業で紹介してはくれたけれど、「人の話は人の話。本当のことを知りたいなら、村のばあちゃんの話を聞きにいけ。聞けるのは今だけだぞ」と、おまけがついてくるほどだ。
授業にも、書物からの引用は殆どない。(言葉の意味を探るため、漢字辞典にはこうある。本当はこういう意味だ。という話はしばしばあった。)俺が見てきた、俺がこう言われた、俺がこう考えた、という話がほとんどだ。仮にも最高学府として、如何なものかと学生なりに頭をよぎったりもしたけれど、机上の空論ではなく、徹底した現場主義と、実体験と情動によるリアリズムは、むしろ人生を変えるほど刺激に満ちたものだったともいえる。この人は、本当に確信を持ったことだけを語るのだと心に刻まれた。
僕は現在も、なぜ箒を作り始めたんですか? と聞かれることが多くて、こんな変わったことをするなんてよっぽど意思が強い人のように思われるのだけれど、圧倒的克己心と独立心、孤独に耐える心は、相沢先生にもらったものだと思っている。むしろ、先生の巡ってきた闘いに比べれば、まだまだぬるま湯にいる。
真剣に聞き、真摯に返すこと
当たり前なのか、母校特有のものか分からないけれど、ある学問に興味を持ったからといって、ゼミや研究室につき、学会や学術誌に論文を発表し、キャリアを積んで研究者になる……というようなルートは、僕の知る限り、当時の武蔵野美術大学ではあまり一般的ではなかった。芸術学部や大学院に行けばあったのかも分からないけれど、少なくとも、一般教養の一つでしかない民俗学や文化人類学などで、そのルートは敷かれていない。更におそらく、先生は学閥であるとか、学会の権威であるようなものとは距離のある仕事をされていたのだと思う。
相沢先生は、どこへ行くにも作務衣に雪駄を履いていて、見るからにクセの強い先生だった。それに、言葉の扱いにはすごく厳格だった。言葉遣いや礼儀に厳しいという意味ではなく、常に真剣に耳を傾け、応答することに関して、相沢先生以上の人間に僕はまだ会ったことがない。学生の僕らが何の気なしに話しかけただけでも、少し腰を落として重心を低く構えた、昔の日本男児らしい姿勢ではたと静止する。そして、じっとこちらを見つめてくる。発言の曖昧な箇所には「それはどういう意味だ?」とか「俺はこう言ったんだ」と、いつでもエッジの立った返答をしてくるので容易に近づける人ではなかったけれど、必ず、先生なりの間違いのない答えを返してくれる人だった。
先生の研究室は、本当に天井まで積まれた書類でいっぱいで、人一人しか通れない道の先に、古いデスクトップが置かれていた。扉を開くと、ヤニが染み込んだ紙の独特な匂いに包まれる。僕らは手伝いをしながら横目で、日々あんなに根を詰めて疲れないか、と不思議でしょうがなかったけれど、一段落ついた時にはタバコを吸って、座ったまま四肢を脱力し、虚ろな瞳で天井を見ながら溜め息をつく。疲れた手つきで、「これでお菓子でも買ってきなさい。お茶にしよう」と、お金を差し出してくれる姿は憧れるようでもあり、また妙に愛おしかった。
言葉や、文章への厳格さは、先生の性格もあったかも知れないが、無数に行なってきた聞き取りやテープ起こしのせいだろうと思う。きちんと聞け、的確に伝えろ、と口を酸っぱくして言われた。正にその時限りかも知れない古老との会話などでは、一期一会の会話すべてが勝負となる。そんな先生の遺した仕事で一番大きなものは、福島県奥会津の大内宿の保存活動だろう。
壊さない建築家
大内宿は、江戸時代に会津若松市と日光今市を結ぶ宿場町として栄えていた宿場だ。1981(昭和56)年には国選定の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
建築学科の学生だった相沢先生は、宮本常一主宰の生活文化研究会に出入りしていた。多くの建築や、茅葺き職人などを追っていく中で、1967(昭和42)年に奥会津の大内宿に出会い、惚れ込み、青春と人生の多くを大内宿の保存と探求に捧げることとなった。会津茅手という、会津の茅葺き職人を追って先生が辿り着いた大内宿は、江戸時代からの草屋根がそのまま遺る、美しい村だ。その外観は勿論、自然に寄り添う共同体、習俗、伝統に残る知恵など、暮らしを作る全てが意義深いものだった。(大内宿で引き継がれている習俗や伝統は、相沢先生が多くの書籍を遺されているのでそちらに譲る。)そこで先生は、「壊さない建築家」を目指すこととなる。
「壊さない建築家」と聞いて、すぐに意味が分かるだろうか。総じて、相沢先生は独自に思索を積み重ね、結晶した言葉を語ることが多いので、すぐには理解できない言葉が多い。その一言の真意を理解するための講義が多かった。時代は高度経済成長期、次々とパッチワークされながら膨張する都市に、建築家として加担するよりも自然の恵みを活かし、助け合って生きる人々の村、建物群を遺すことを、先生は建築家として選んだ。
そして安心して「オシメを下げられる村」という言葉もよく使っていた。建築家は、建物を作るだけではなく、街並みも作ることになる。街並み、住居を作るとしたら、住人の生活に関与することとなる。素晴らしい住居では素晴らしい暮らしができる。安心して暮らせる。安心して洗ったオムツを干せる村を作ることが、理想だと語っていた。
僕がここで、箒を作る傍ら社会について語っているのも、そんな先生の考えに影響されたからに過ぎない。僕は箒を作ることで、幸せな暮らしを生み出せると信じている。村の保存のために先生は、多くの宿場をはじめ、地方の産業、習俗、歴史を追い続けることとなったし、海外にも多く調査に行かれた。村を知り、守るということは、人の暮らしを追い続け、200以上の宿場を歩くことだった。アジア、アフリカ、中東、世界を歩き、文化人類学的手法も用いた。そうして大内の、日本の暮らしの根底に流れる本質が何なのかを考え続ける、つまり美しい草屋根の保存活動は、民俗学者になるということと同義だったのだと思う。
美術大学でこそできる民俗学
これまで、なぜ美術大学に宮本常一がいたのか。そして相沢先生たちのような教え子たちが美術大学にいるのか不思議だったのだけれど、卒業して20年近く経ち、ようやく意味が分かった。(ちなみに、「〜の問題について、うん十年考えてきたんだ」というのも、先生の決まり文句だった。)鍵になるのは、民藝と民俗学の違いについて語った、柳宗悦と柳田國男の対談である(「民藝と民俗學の問題」『柳宗悦全集 第十巻』筑摩書房、1982年)。
そこでは民俗学と民藝の共通点として、
・民衆の生活を重視していること
・地方の文化を重視すること
があげられている。
違う点として、
・民俗学は、対象の状態を客観的に、科学的に考察して記述する。そして「もの」の背景にある「ことがら」を対象とする。したがって、資料として多くの資料を、選択よりも数を重視して集める必要があり、現在や将来よりも過去が重要な対象になるという指摘がある。
・対して民藝は、あくまでも「もの」そのもの、特に美的価値を重視するので、民俗学が科学であれば、民藝は哲学の分野に入る。
民具学を提唱した宮本常一は、柳田より「もの」に近づいたとも言えるが、現在も隔たりはあるだろう。僕自身、民俗資料室に慣れた目で日本民藝館を訪れた折、資料の詳細が少ないことに驚いた記憶がある。柳は「経験学」と「規範学」、「記述学」と「価値学」、「植物学」と「倫理学」のような例えも用いている(「民藝学と民俗学(上)」『民藝』第428号、日本民藝協会、 1988年8月、および『柳宗悦全集 第九巻』1980年、筑摩書房)。
ここで納得がいったのは、相沢先生の論文集の題にもなっている《美者たらんとす》という言葉だった。「美者」とは先生の造語で「美を通して真に人間的自由に達しようとする者」を二文字にまとめたものだ。
抵抗を設ければ自由が生まれる、という名言があるが、人間が人間になる道は激しい鍛錬、たゆまざる精進の中にあって、放任の中にはない、その框(わく)を固定させず、しかも放縦に任せず、 真に人間的自由に達するような美術教育への願い、それが若い私たちの共通であった。
『武蔵野美術大学 六〇年史』創立六〇年史編集委員会 編、武蔵野美術大学、1991年
と、名取堯先生が述懐している文章が原点となっている。
僕が一時期、民俗の研究所にはいったけれども、すぐに辞めてしまったことは第二回で述べた。それは、学術的な調査研究が一部の専門家の中で共有されることに苦しさを感じたからだった。僕は先生のように、仕事で誰かが安心して暮らせるようになったり「真に人間的自由に達する」ことを第一に求めていたのだと思う。だから、実際に手を動かすことで、ものづくりと生活の最前線に立つことを選んだ。そして、「美」と「自由」を求めた先生は、科学的記述よりも、その先にある美と自由、先人から学べる「倫理」と「規範」を追い続けていたようにも見えた。学者である前に美術家であり、建築家だった。やはり、美術大学でやるべきことをやっていたのだと思うようになった。
そんな、紋切型の研究者でなかった先生でも、学者として「経験」と「記述」にも多くの心血を注ぎ、出版にも苦労していた。結果、ゆいでく有限会社という出版社を自ら立ち上げ、編集、印刷、製本、流通までを自らの手で行なった。僕が在学中は、放課後に集まる生活文化研究会のメンバーで『アイヌの民具実測図集』の製本を行なっている時期だった。先生が工夫を重ねた、シンプルかつ強度の高い製本法を教わりながら、コツコツと、何十冊も製本した。
ちなみにこの本は、アイヌの萱野茂さんからの依頼で、二風谷に集められたアイヌの民具が国の重要有形民俗文化財を受けるために、先生や学生が実測作業を行なった図面を関係者向けに製本したものだったが、過去の和人の学者がアイヌ民族に行なった非人道的な行為への反省から「調べない、書かない、まとめない」という誓約の下、ひたすら技術だけを提供するという、民俗学者としては信じられない指針の下で作られた資料集だった。
全ての作業を自ら行なう出版作業は孤独で過酷なものだったとも思うが、先生から、躊躇いや迷いの影をみたことはなかった。むしろ「誰もやらないから俺がやるんだ」という使命感と説得力、論理と倫理に満ち満ちていた。大勢が従っていることが正しいとは限らない。漢字辞典を引いてみろ。「民」という字は、目に針を刺して盲目にした奴隷を表しているんだ。お前ら目を覚ませ。そんなことばかり言う先生だったから、僕は、当時周りに仲間なんていなかった箒の道を、迷わず、喜び勇んで選ぶことができた。
「美者」の手にする自由と答え
当時よりも、環境や共同体、文化的な豊かさとは何かが問われる現在、スクラップアンドビルドを繰り返すよりも、持続的で本質的な村の在り方を探求し、実現する「壊さない建築家」は、人類の理想ではないか、とすら僕は思う。そんな理想の実現を、相沢先生は、生涯を全うすることで証明して見せたのだと思う。
もう一つ、『美者たらんとす』のあとがきでは若い人に〈造形美の追求とともに「造形理」を見据えた活動をして欲しい〉、〈「自然」の中での「必然」が造形理にならないか〉という思いを述べている。自然の理を学び活かすことは、正に工芸の核心であるようにも思う。そしてそれが、自分の、他者の「真に人間的自由」へ導いてくれることを、先生の言葉がいまも信じさせてくれる。
僕が先生について文章を書くのは初めてで、これを読んだら人一倍言葉の意味や校正にうるさい先生は、あれやこれや言われるだろうけれど、小言を言われるのは、僕も人生の仕事をやり終えたあと、向こうに行ってからになる。あの世に行ったら、考えていたことをエジソンに聞くんだ、縄文人に聞くんだ、なども先生の口癖だった。今頃さぞや、人生で考え続けた推理の答え合わせに忙しくしているだろう。
本と同様、手仕事も、人の人生に関与し、影響を与えつづけるものだ。僕も、どこかに足跡を遺していけるだろうか。