
理学療法士である著者は、東京・府中市で訪問看護ステーションおよび居宅介護支援事業所を運営しながら、カフェや空きアパートを使ったコミュニティ事業を展開している。あそびを通じた表現活動を行うアトリエ、中高生のサードプレイス、菓子工房、銅版画工房などが半径50メートル内に集まる一帯の名は「たまれ」。最寄の多磨霊園駅と、人が「溜まる」をかけて名づけられた。
こうした活動を通して実現しようとしているのは、人と人との「弱いつながり」だと著者は言う。2011年の東日本大震災以降、とみに加速した人と人との「つながり」を絶対視する風潮への違和感からたどり着いた、「たまれ」という名の「場づくり」。その足跡を振り返りながら、医療と患者、医療と地域、人と人の「いい感じ」な関係を考察する。
#3 “いま”のしあわせをつくる
2014年8月31日。3年半お世話になった会社を退社した。3年半という短い期間だったが、僕にとっては十分な経験だった。訪問看護ステーションの副所長という役職の他にも様々なことに挑戦させてもらった。通所介護施設の立ち上げに関わり管理者を務めたり、グループ法人内の通所リハビリテーション施設の立ち上げに関わったり、さらに、保険制度外のパーソナルトレーニングスタジオを開設したりと、多くのことを経験させてもらった。どれも会社のビジョン実現のための事業としてスタートさせたが、僕の個人的な思いを実現するための事業でもあった。それは、#2で書いたような、医療や福祉の専門職としての顔と、まちで暮らす一住民としての2つの顔を持ち、日常的に医療や福祉の視点でまちを見ることと、まちからの視点で医療や福祉を見ることを行き来するための事業である。
しかし、少しずつ会社の向かいたい未来と僕が向かいたい未来の擦り合わせがうまくいかなくなる。2014年の春頃から会社と話し合いを重ね、8月の終わりに退社することを決めた。起業の準備は退社前から進めていた。準備といっても設立のための具体的な準備ではなく、会社を経営するイメージを持つために、知り合いの経営者や税理士、社労士に話を聞いて回っていた。
法人格は株式会社にすることにした。今でも「なぜ株式会社にしたの?」という質問をいただくことが多いのだが、恥ずかしながらこれという理由はない。本来なら、事業内容などを考えた上で決めると思うが、僕の場合は数人の理学療法士の知人が会社を経営していて、その全員が株式会社を法人格にしていたことが大きな理由である。株式会社の他に、一般社団法人や特定非営利活動法人などの法人格があることは知っていたが、深く調べることもせず、「知人がやっているから」という理由だけで株式会社を選択してしまったのだ。こんなにも浅はかな判断をしていたかと思うと、本当に恐ろしい。
当時は会社経営に対しての知識はほとんどなかった。もちろん経営の経験もない。そんな状況でよくはじめたねと言われることが多いが、僕にとって新しいことをはじめるのに知識や経験はさほど重要なことではない。では、何も考えずにはじめたのかというとそうではなくて、すでに書いているように、自分が理想とする社会像だけは持っていた。医療や福祉の視点を持つ訪問看護ステーションと、まちの視点を持つコミュニティなどを運営することで、病院などの非日常の場ではなく、日常の暮らしの中で、まちで暮らす人たちと関わり合うことができる。そうすれば、僕は医療や福祉の専門職としてと、まちで暮らす一住民としての両方の立場で、お互いの価値を覗き見ることができる。起業を通じて、そんな場をつくりたいという思いだけは持っていた。

こだわりはスタッフが楽しく働けること
法人格を株式会社に決めた後は、会社と訪問看護ステーションの名前と経営理念を考える作業に入る。僕が会社をつくるにあたり、特にこだわっていたことがある。それは、「スタッフが楽しく働けるような組織やチームをつくること」だ。では、なぜこだわっていたのかの話を、少しだけするとする。
僕が直前まで所属していた会社には、訪問看護ステーションや居宅介護支援事業所、訪問介護ステーションの3つの部署があり、看護師や理学療法士、作業療法士、言語聴覚士、ケアマネジャー、ヘルパー、事務員が所属していた。それぞれが高い専門性を発揮しながらケアを行い、周辺の同業者と比べても質の高いサービスが行えていたと思う。10年以上前のことになるが、今でも当時の所属先の質の高さは目を見張るものがあったと感じるほどだ。しかし、僕は納得していなかった。地域からもそれなりの信頼を得られていたと思うし、外から見ると何ら問題ない組織に見えると思うが、僕にとっては足りないものがあった。それは、スタッフが楽しく働いているように見えなかったことだ。この「楽しく働く」には色んな意味があると思うが、僕はスタッフそれぞれが持っている個性を十分に発揮できず、日々降りてくる指示命令に応じて働いているだけに見えていた。
それぞれが感じる違和感を机の上にあげないまま、苦しくなって辞めていくスタッフを多く見てきた。机の上にあげたとしても、経営層とスタッフの間に齟齬が生まれ、お互いにすれ違いが起きてしまうこともあったし、会社をより良くしようと提案したがことが、会社側には「否定」と伝わってしまうようなことも少なくなかった。それぞれが専門職として利用者に対して質の高いケアを提供しているのに、働く環境が合わないという理由で退職していく人たちを見ているのはとても心苦しかった。
誤解が生じるといけないので言っておくが、このような姿勢に対して否定の気持ちは全くない。当時の所属先は理念を具体的に掲げ、目の前の利用者さんに対する質の高いサービスを提供していた。それによって地域からの信頼も得ており、専門職のマネジメントやリーダーシップについて多くのことを学ばせてもらった。トップは自分たちの存在意義や在りたい姿を示しながら理念実現に向けて、真っ当な組織づくりをしていたと思う。「スタッフの楽しさ」については、会社の理念には掲げられていなかったため、それを追求する優先順位は低かった。ただそれだけのことである。
前述した、会社の向かいたい未来と僕が向かいたい未来の擦り合わせがうまくいかなくなったというのはこのことである。僕は、会社のスタッフが高い専門性を活かしつつ、それぞれの個性を活かし、自分の好きなことができるような会社をつくりたかった。僕が会社をつくる時に、「スタッフが楽しく働けるような組織やチームをつくること」にこだわっていた理由はこれである。

マネジメント初心者がチームを壊す
マネジメント初心者だった僕は、スタッフが楽しく働いていないという課題に対し、組織として向き合うのではなく、スタッフと個別に向き合っていた。彼らと1on1を繰り返しながら、自らの考えを主張できるようになれば、この課題は改善されるかもしれないという、浅はかな考えしか持っていなかったのだ。
所属していた会社は、典型的なトップダウン型で、意思決定の場に現場スタッフが加わることはなかった。そのため、管理者である僕の役割は現場側と経営側の間にいる中間管理職的なものだった。リハビリテーション部門の会議を開き、現場からの声を吸い上げて経営側にぶつけることで、業務改善を行っていくつもりで仕事をしていたが、当然この方法では課題を解決するには至らない。管理者である僕自身が会社の理念に対してどう在るべきかを考え、部署としての方向性を示さないといけない。それなのに、僕はただスタッフの思いを聞き、それを経営層に届け、さらに経営層での答えをスタッフに伝えるということを繰り返すだけで、全く機能していないマネジメントを行っていたと思う。
リハビリテーション部門のスタッフは最大で11人いた。このようなマネジメントでは到底うまくいかず、少しずつ管理者である僕とスタッフとの温度差が生じるようになる。そこからリーダーシップやマネジメントの研修に参加したり、本を読んだりして、とことん学んでいったが、付け焼き刃の知識だけでは上手くいくはずがない。スタッフはより疲弊していくばかりで、僕の経験不足によって組織やチームが機能しなくなっていくのを目の当たりにした。
その後、リハビリテーション部門のビジョンや日々の行動指針をスタッフみんなで考え、運用しはじめると少しずつ状況は変わっていく。時間はかかったが、それぞれがもっている個性が際立ってくるようになり、自分の意見を主張できるスタッフが増えてきた。やっとマネジメントらしいことが行えるようになってきたが、そこで会社の理念が変わるわけではない。僕の理想は何よりも先に、スタッフが楽しく働けるような職場を考えたかった。
会社の理念は非常に大切である。代表をはじめ管理者たちは、理念を基に意思決定を行う。判断が遅れたら会社が潰れることもあるし、目の前の利用者の命を落とすことにもなりかねない。会社やそこに所属するスタッフが、何か迷った時に立ち返る場所が理念であると、当時の会社から学ばせてもらった。
では、僕が考える「スタッフが楽しく働けるような組織やチーム」とは何か。当時読んでいた『奇跡の経営:一週間毎日が週末発想のススメ』という本の中にそのヒントがあった。この本の著者はブラジルのセムコ社という会社のCEOであるリカルド・セムラーで、彼は父から倒産寸前の小さな製造業の会社を継承し、そこから6年かけて大改革を行い、会社を立て直したというストーリーが書かれている。リカルド・セムラーは、わずが6年で売上を3,500万ドルから2億1,200万ドルに上げ、社員数は3,000人も増やし、離職率が高いと言われているブラジルで離職率2%まで下げた。また、ブラジルの大学生が就職したい企業1位に選ばれている。
このような経営を実現している、セムコ社の特徴をいくつか紹介しよう。組織階層がない、社員を監視、監督、管理しない、給与は社員が自己申告で決める、出社時間、退社時間は自分で決める、決まったCEO/CIO/COOがいない、ビジネスの目標も企業戦略も持たないなどである。にわかに信じがたいが、このような経営によって、業績も社員の働きがいも結果を出しているのが、セムコ社の経営だ。
ほとんどの組織がセムコ社の体制を理想に思うのではないだろうか。僕はセムコ社の体制に惹かれ、このような会社をつくりたいと強く思うようになる。特に、社員の働きがいや好きなことを優先している姿勢は、まさに僕の理想だった。
会社と訪問看護ステーションに名前をつける
会社と訪問看護ステーションの名前を決めた理由に話を戻そう。会社はSync Happiness(シンクハピネス)、訪問看護ステーションはLIC(リック)訪問看護リハビリステーションという名前をつけた。Sync Happinessの「Sync」はsynchronizeの略であり、同期するや同調するなどの意味があり、Sync Happinessで「しあわせを同期する」という意味でつけた。
社名に込めたさらなる想いは、まずは自分自身がしあわせでいて欲しいという願いである。繰り返すが、僕は今までの経験から、スタッフが楽しく働いていない職場に魅力なんてあるはずがないと強く感じていた。だからこそ、まずは僕も含めてスタッフが笑顔でしあわせでいることをシンクハピネスは強く願うことに決めた。
自分自身がHAPPYでいると、家族や恋人、周りにいる親しい人たちもHAPPYになる。その、HAPPYが人から人へと広がり、まち全体を笑顔としあわせでいっぱいすることをシンクハピネスの企業理念として掲げた。HAPPYが自分自身から誰かに、誰かから人に、人からまちへと伝わっていくHAPPYは最終的には自分のところに何らかのカタチで戻ってくるものと信じている。
訪問看護ステーションの名前のLICというのは、Life is Colorfulの頭文字をとってLICという名前をつけた。人はそれぞれ違う個性(色)を持って暮らしている。LIC訪問看護リハビリステーションは、関わりの中で、その個性(色)を尊重しながら必要な時にだけ色を加え、その人がさらに輝ける暮らしを一緒につくっていく役割を担う。こんな想いを込めてLICという名前をつけた。
次は経営理念についてだが、シンクハピネスでは「“いま”のしあわせをつくる」とした。誰のしあわせをつくるのかというと、大きく分けて自分自身、スタッフ、利用者・家族、まち・住民である。さらに、僕は理念に以下のような思いを込めた。
まずは、自分自身が笑顔でしあわせでいて欲しい。自分自身がしあわせでいることで、隣にいるスタッフにしあわせを届けて欲しい。そして、しあわせを届けられたスタッフは、スタッフの家族や恋人、親しい人たちに届けて欲しい。さらに、スタッフは、そのしあわせを利用者や家族、関わる全ての人たちに届けて欲しい。そこからさらに、まちや住民にしあわせが広がり、僕たちが暮らすまちが笑顔としあわせになっている社会を目指したい。
そして、シンクハピネスが大切にする価値として、2つの姿勢を掲げた。1つは、専門職として人や街に対して何ができるかを考えること。もう1つは、専門職という立場を横に置き、そこで暮らす一人の人としてまちに何ができるかを考えることである。医療や福祉の視点とまちの視点をもち、それぞれの立場でお互いの価値を覗き見るための姿勢を示した。

『しあわせのパン』
会社と訪問看護ステーションの名前と理念が決まった後は、僕の構想をさらに具体化する作業に入った。前述したような、医療や福祉の視点を持つ訪問看護ステーションと、まちの視点を持つコミュニティなどを運営することで、医療や福祉の専門職とまちで暮らす一住民としての両方の立場から、お互いの価値を覗き見ることができる場を具体化する作業だ。
この思いを、具体化するきっかけとなった映画があるので紹介したい。2012年に公開された『しあわせのパン』という映画をご存知だろうか。監督、脚本は三島有紀子さんで、大泉洋さんと原田知世さんが主演を務めた映画だ。「たまれ」は僕がこの映画を観ていなかったら、間違いなく今の形とは違ったものになっていただろう。映画の公開に先駆けてリリースされた小説より、あらすじを紹介する。
北海道洞爺湖畔の静かな町・月浦に、りえさんと水縞くんの営むパンカフェ「マーニ」があった。実らぬ恋に未練する女性・香織、出ていった母への思慕から父親を避けるようになった少女・未久、生きる希望を失った老夫婦・史生とアヤ……さまざまな悩みを抱えた人たちが、「マーニ」を訪れる。彼らを優しく迎えるのは、りえさんと水縞くんが心を込めて作る温かなパンと手料理、そして一杯の珈琲だった。
ポプラ社「書籍の紹介」『しあわせのパン』https://www.poplar.co.jp/book/search/result/archive/8101179.html

大泉さん演じる水縞くんと原田さん演じるりえさん夫婦とそこに訪れるお客さんたちの距離感や、答えをすぐに渡さずに、その人のペースに合わせ、時間をかけて行うコミュニケーションは、僕にとって実に魅力的に見えた。それは答えをすぐに渡さずに、その人のペースに合わせ、時間をかけて行うからこそ成立するものなのかもしれない。
この映画からそんな気づきを得て「マーニ」のような建物の中に、カフェや訪問看護ステーション、子どもたちが勉強できる場、まちの人たちがワークショップできるような場、近所の農家さんで育てている野菜の直売所、通所介護施設、賃貸住居などがある場を構想した。当時は、これらを「地域のコミュニティセンター」と呼んでいた。今の「たまれ」のことである。さらに、コミュニティセンターを中心に「地域のみんなが健康でいる仕組みをつくる」と宣言し、ここから本格的に会社をつくる準備をはじめていくことになる。