かつて日々のくらしに欠かせなかった箒は、電気掃除機の普及とともに需要が低迷し、全国各地の産地は壊滅状態に陥った。ところが近年、電気に頼りすぎないライフスタイルを志向する人、地域の伝統文化や地場産業に価値を見出す人が徐々に増え、職人が手編みした昔ながらの箒への関心が高まりつつある。
なかでも、神奈川県北部の愛川町では、一度途絶えた旧中津村の箒づくりを生業として復活させる取り組みが進む。その立役者として活躍し、伝統を受け継ぎながら作家性の高い作品も手がける筆者は、美術的アプローチにより社会にコミットするという信条の持ち主。いま注目のつくり手が、仕事を通して目指す“ものづくり”と社会の姿とは――。

第15回 もう無銘性の話はしたくない②

 前回、民藝を尊び、過去から謙虚に学び、未来への道筋を作るという、民藝における「作家」とは何かについて述べた。手仕事に限ったことではないかもしれないけれど、ものづくりには必ず歴史がある。歴史や先人の知恵、積み重ねがなければ僕たちは木を削ることも、布を織ることもできない。

 仮に「個」が絶対的なものだとしたら、先達にあまりに不遜であるし、どこかに歪みがでているはずだとも思う。表現活動における個人を重視する傾向の発端は、明治以降の欧米化になるだろうと思う。

 前回、美術工芸における個人主義と作家の在り方につい取り上げたように、なぜ僕が、こんなにも欧米化について拘泥するかと言えば、学生の頃から感じていた「作家」という概念に関する違和感を、どうにか解決したいと思っていたことに尽きる。そして、調べれば調べるほど、柳宗悦の言う明治政府の設定した「美術」は現代の眼ではあるが、日本の眼は、未だ別の潮流として流れ続けているのではないかという思いを拭えていない。だから、「無銘」という言葉には思うところがあったし、欧米式の「作家」という言葉で一括りにされたものづくりの中に、違和感を感じとっていた。

美の背骨はどこにあるのか

 人間国宝第一号でもある濱田庄司は、民藝運動の中心人物であり、歴史や一介の職人への敬意は篤く、自身を「民芸を秘仏として、仕事を進めようというほどに解する者」(「日本民藝館展の講評」『民藝』1970年12月号)と述べている。

 手の届かない秘仏のように尊びながら、未来への仕事を続けていく民藝の作家像がある一方、アーティストやクリエイターとしての色が強い(とされる)工芸の個人作家がいる。ただ、民藝運動におけるこういう濱田らの発言や志向を知っている者は少ないので、多くの人が「作家」としてイメージするのは、柳宗悦らが対峙した「美術工芸」の「公的」な作家像だろう。

 使い古されたような話題ではあるけれど、僕たちの世代は、個性個性、と言われると同時に、はみ出るな、右に倣え、と、真逆の圧力を受けながら育てられてきたように思う。そんな中、美術大学に入学するような人間は、さぞかし自由でクリエイティブだと思われがちかも知れないけれど、個性を義務化されることは誰にとっても、すごく苦しい。学部生も後半になると技術習得のための課題が終わり、自由に制作できる段階に入るのだが、嬉々としてアトリエに向かう者と、路頭に迷う者の差は歴然としていたことが強く印象に残っている。

 当時の僕といえば、ほとんど美術史なんて知らないくせに、美術の在り方について疑問を抱いていた。例えばその高尚さと貴族性、例えばそのハイコンテクスト故の難解さ、例えば環境への負荷などを知り、美術が本当に世界を幸せに調和してくれるものだと信じていた僕は大いに苦しんだ。そして、民俗の道にのめり込んだ。それは、こうしたものへの違和感が欧米の文化、キリスト教圏にいたならば、もっと説明がついた筈だと、朧気ながら感じていたからだと思う。 

 近代まで西洋絵画や彫刻の中心であった宗教美術は、聖書の説明および隠喩や換喩なのでハイコンテクストになるのも当然で、神父やコミュニティを通して読解されるものだった。そして、ある時期には大きな罪を孕みながらも王族たちは世界中の富を集め、美術は高尚なものとなっていった。

 さらに、美大で大量に廃棄されるゴミや発生する化学物質は、今日なかなか肯定されるとは思えないけれど、さしたる環境運動や批判もなく、作品の制作は尊いものだからといって、それが免罪符になってしまうとしたら、美術はまた罪を作るのではないかと、不安を感じていた。アートシーンの多くは、欧米を模範にし、追い続けているように見えて、難解さや環境負荷、など、公益性と正当性ばかり気にしている学生時代だった。(今では、メリットや目的を超えたところに本来の芸術があるのでは、という思いもある。)

近代美術館でいふ「現代の眼」は、要するに「西洋の眼」なのである。

柳宗悦(「近代美術館と民藝館」『民藝』1958年4月号)

 美術が本当に好きでありながらも、そのように胸の詰まりを覚えながら箒を作っていた時に触れた、この言葉がずっと気にかかっている。日本における「美」は、理想は、本当に欧米の価値観に全て委ねていいのか? 美術にもコスモポリタニズムのような視点は多くあったものの、世界がのっぺりと一元化するとしたら、それは恐ろしいことなのではないか。だから、柳の主張には、やっと出会えた、というような、共感に近い感動があった。

 とはいえ、国立の美術館が間違っているなんていう批判はほとんど聞いたことがない。むしろ、美術人にとって美術館は、作家生活の最終目的地に近い存在である。ではこれは「民藝」という特異点で生まれた、柳ら独自の思想なのだろうか。正直を言えば僕はまだ、柳の抵抗は終わっていないように思うのだ。

東京・千代田区にある国立近代美術館。日本初の国立美術館。ウィキペディアより。CC-BY-SA-4.0

語られ続けてきた「日本の型」

 1853年、ペリーが来航して以来、日本は西洋との比較の中で動き続けてきた。かなり大味な説明になるけれど、西洋の圧倒的な科学力と思想の「進歩性」に慄いた日本は、戊辰戦争を経て、明治維新、文明開化をして欧米化を目指す。

 戦後になっても、本当の意味で西洋化、工業化のなされる時期には、日本の近代についての議論は盛んだった。いまだに、環境や政治意識、ジェンダーバランスや働き方など、多様な面で「日本は遅れている」と揶揄される。それは、ずっと語られ続けている言説だ。

 美術もまた同様で、欧米化の流れについては先述した。

 こうして外見、内面ともに日本は欧米化していくように見えたが、そうではなかった。常に歪みがあったことは、多くの記述から読み取れる。

 永井荷風は、「立憲政治の今とても(中略)いかにも外観の形式を変更しても、風土と気候と、凡ての目に見えないものが、人間意思の自由、思想の解放には悪意をもってゐる」(「『冷笑』につきて」『荷風全集 第七巻』岩波書店、1992年)と、日本の「進歩」の難しさを指摘している。

 また、敗戦も経て、必死に欧米を目指してきたのに英語話者が極めて少なく、キリスト教徒が少ないことも不思議に思っていたのだけれど、遠藤周作の『沈黙』(新潮文庫、1981年)の中でこんなくだりをみて、妙に納得がいったこともある。江戸時代、鎖国中の長崎における壮絶な数十年の布教と弾圧の末、キリスト教を棄ててしまったフェレイラ元神父の言葉だ。

「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」

遠藤周作『沈黙』(新潮文庫、1981年)

 これでは日本が毒々しい国のようだけれど、それだけ、国が抱えている形に、強固なものがあるということだ。長崎での、神父たちの布教は凄まじく、執念といっても生ぬるいほど、人生と全てを懸けて、愛と平和の為の布教に挑んだけれど、日本の強固さに、はらはらと命が散っていった。長崎の大浦天主堂で殉教者達の史料と歩みを目の当たりにした時は、何度も涙が流れた。宗教弾圧がキリスト教を阻んだにしても、今なおあり余る壁の高さを感じる。

五島列島の若松島(長崎県)にあるキリシタン洞窟。禁教が解かれる直前の明治初期、隠れ棲んでいた信者が捕らえられ、拷問にかけられた。photo by  Yusei – stock.adobe.com

 このような日本の固有性として、西洋と日本は進歩の違いではなく、「型の違い」だとして戦後日本を代表する評論家の加藤周一は説明している。

「型」の差として理解すれば、落差は固定的であり、働きかけの余地がなくなる。

加藤周一「物と社会と人間」『加藤周一自選集 第三巻』2009年、岩波書店

 と述べている。そもそも、文化というものは進歩とか前進という史観で捉えることが正しいのかという問題もあるだろう。

文化の問題は、一般に発展段階を以て律するわけにはゆかない。封建制から近代社会へ という考えは、そのまま文化、殊に思想・文学・藝術の領域に適用することはできない。生産力は発展し、生活水準は向上することができる。学問も進歩するだろうが、思想・文学・藝術は、 変化するとしても、進歩しないのだ。技術的な進歩はあり得るかもしれないが、それは附帯的なことにすぎず、文学・藝術の核心ではない。

加藤周一「近代日本の文明史的位置」『中央公論』1957年3月号

 ある地域の文化や歴史に対して、遅れている、劣っているという判断は、すごく危険なことでもある。正義、進歩の名の元に、力のある国がその他の国の文化を塗り替えていった歴史も多々ある。明治以降、日本が目指し続けた欧米こそが正解、という文化史観は未だ根強く、歪みも少なくないように思う。

 例えば社会人類学者の中根千枝は「日本のインテリが「西欧社会」というものを、本を通したステレオ・タイプのイメージで受け取っていた」そして、「西欧社会という、先進国というラベルのもとに驚くほど単純化され、西欧の諸社会に内在する複雑性を実態として把握する立場になかった」ことを指摘した上で、単一の集団のみに帰属する日本を覆う「タテ社会」の構造を指摘している。(『タテ社会の人間関係 単一社会の理論』講談社現代新書、1967年)

中根千枝(1920-2021) ウィキペディアより。CC BY 4.0

 こちらも随分前の本だけれど、現在でも頷いてしまうような指摘が多い。タテ社会というものが、良いことばかりかどうかは別にして、家族的な紐帯、タテの繋がりの強さは歴史性が長く強い。ドイツの制度化されたマイスター制なども有名だけれど、各国ごとに、別の気質が形成されていると考える方が自然なのだと思う。

 日本が欧米化することの是非は置いておくにしても、「型」の違い、あるいは「思想の解放への悪意」、旧態依然として残る「タテ社会」など、どこか変えがたい強固な何かが、あるような気がしてならないのだ。

 ドイツの哲学者、マルティン・ハイデガーの教え子であるカール・レーヴィットは、日本の思想をこう評した。

二階建の家に住んでいるようなもので、階下では日本的に考えたり感じたりするし、二階にはプラトンからハイデッガーに至るまでのヨーロッパの学問が紐に通したように並べてある。そしてヨーロッパ人の教師は、これで二階と階下を往き来する梯子は何処にあるのだろうかと、疑問に思う。

カール・レーヴィット「日本の読者に与える跋」『ヨーロッパのニヒリズム』筑摩書房、1948年

 このように明治から戦後に至るまで、日本がどう西洋文化を受容してきたか、または乗り越えていくかという議論は行なわれ続けてきた。

 『文学界』1942年9月号・10月号で特集された「近代の超克」論も有名で、京都学派の哲学者や評論家らによって、ヨーロッパ文明をどう総括し、「近代」を乗り越えていくかが議論されたけれど、その後、文化意識が統合されて時代が進んでいったという話も聞かないので「二階建て」の構造は変わらなかったのだろう。

大きな視点と歴史から眺める

 では、元来日本にあった手仕事、日本の工芸とはなんなのか。『わかりやすい民藝』(D&DEPARTMENT PROJECT、2020)の中で、福岡の民藝店「工藝風向」店主の高木崇雄は、柳宗悦の「工藝的なるもの」(『柳宗悦全集 第八巻』筑摩書房、1980年)を引用しながら、以下のような説明をしている。

それは、本来は個人的な行為、「私」 という領域・生活で行われる行為が、社会という「公」の場、他者と触れる場所で次第に削ぎ落とされ、リズムが煮詰まったもの、煮詰まって一つ の特徴ある姿となったものです。

高木崇雄『わかりやすい民藝』D&DEPARTMENT PROJECT、2020年

 バスの運転手の独特の言い回し、能の謡いや、床屋の鋏の調子、肉屋の主人の包丁さばき、様々な動作の中に、「工芸的なるもの」が含まれていると、柳は説明している。これは、前回触れた「複数性」や「他力性」にも通じる所だけれど、たくさんの人が仕事(に限らず、日常の仕草においても)を反復していく中、社会の中で自然淘汰されて残ったものが工芸的なもの。その多声的なポリフォニックを工芸とするという話だ。

春日神社(兵庫県丹波篠山市)の翁奉納。ウィキペディアより。CC 表示-継承 3.0

 同書の中では、濱田庄司ですら、益子の土地に吸収され、文化の1つに組み込まれていることから、名前は残ったとしても、時代を経て歴史や文化と一体化することで「無名」となったという説明もある。

 こうして、工芸の歴史が形作られ、その通過点に我々が立っているだけなのだとしたら、どんなに努力しても、これらの営みは多声の1つでしかないということで、やるせない気もするけれど、逆に、どんなに小さな声でも、たくさんの声の1つとなり、少しその文化を動かせるというようにも取れて、人生そのものを励ましてくれるとも思う。

 柳は、美術工芸の体制に対するカウンターサイドにいたので、どうしても民藝を「正しい工芸」という言い方をしていたが、最早、現代では民藝にも一定の理解者や市民権があるように思うし、正しい正しくないと、一元化する必要もないように思う。芸術家の作るマスターピースも、一介の職人が作る素朴な道具も、どちらも美しい。そして、多様な仕事が共存することで、世界が豊かになることには間違いがないだろう。

 そこで、工芸に対して中立であるためには、学校で習う「美術工芸」だけでは一元的になりすぎるのでは、と、僕は思う。中根の言う「単純化」が妥当だとすれば「作家」という言葉の内実はファインアートや鑑賞芸術の作家のニュアンスが強すぎる。濱田のように、辿り着かない「秘仏」を追い続ける作家もいたのだし、地方で細々と仕事をしていたけれど、不意にどこかの展示会に呼ばれて出品すれば「作家」と呼ばれることもある。そして、全ては多声として大きな歴史の中に取り込まれ、無銘化していくのだろう。

 僕たちの仕事は、美術史の授業より、生活の洋式化より、民藝運動より、明治維新より古い。そして、それを軽々と縦断してなおも生き続ける文化なのだし、全ての手仕事に携わる人間には、その深みが痛いほど刻まれている。だから、「作家」だ「作品」だ、「無銘」かどうか、など、枠組みだけの話をするのには疲れてしまった。もう無銘か作家か、などの不毛な話はしたくない。ひたすらに、目の前の仕事と、美しいと信じるものに向かい合うしかない。確実な一手は、その仕事と、工芸と、文化を一歩ずつ進めていくに違いない。そんな折、民藝好きとして参考にできる言葉があるとしたら、柳宗悦の「直下に見よ」という言葉に尽きるのだと思う。

【参考文献】

樋口陽一『加藤周一と丸山眞男 日本近代の〈知〉と〈個人〉』平凡社、2014年

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第15回 もう無銘性の話はしたくない②

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