
理学療法士である著者は、東京・府中市で訪問看護ステーションおよび居宅介護支援事業所を運営しながら、カフェや空きアパートを使ったコミュニティ事業を展開している。あそびを通じた表現活動を行うアトリエ、中高生のサードプレイス、菓子工房、銅版画工房などが半径50メートル内に集まる一帯の名は「たまれ」。最寄の多磨霊園駅と、人が「溜まる」をかけて名づけられた。
こうした活動を通して実現しようとしているのは、人と人との「弱いつながり」だと著者は言う。2011年の東日本大震災以降、とみに加速した人と人との「つながり」を絶対視する風潮への違和感からたどり着いた、「たまれ」という名の「場づくり」。その足跡を振り返りながら、医療と患者、医療と地域、人と人の「いい感じ」な関係を考察する。
#2 白衣を脱げない医療者:地域で感じた健康に対する「違和感」
2011年3月に総合病院を退職し、2011年4月から訪問看護ステーションでの勤務がはじまる。新しい職場は東京都国立市にある株式会社が運営する訪問看護ステーションだ。決め手は僕を管理者候補として採用してくれるという条件だった。理学療法士として6年の経験しかなかったが、採用面接で地域から医療者と患者の関係やリハビリテーションの在り方を変えたいという思いを熱弁し、無事に採用決定となった。29歳の新たな挑戦だった。
働く場を病院から訪問看護ステーションに変えた理由は2つある。1つ目は、僕が感じた医療の専門職と患者の関係についての違和感を、病院からではなくまちからの視点で見たいと思ったからである。もう1つは、自宅で行われるリハビリテーションの質がどの程度のものかを確かめたかったという理由だ。理学療法士としてのキャリアが浅い僕にとっては、随分上から目線の物言いだが、当時、自宅で行われるリハビリテーションは「病院と比べてレベルが低い」というような空気があった。自分の目で確かめて、もしそうだとしたら、変えたいという思いを持って訪問看護ステーションに入職した。
訪問看護ステーションの仕事内容
2011年から働きはじめた訪問看護ステーションの事務所はJR中央線国立駅から5分ほど歩いたところにある。国立市は一橋大学のキャンパスを中心とした学園都市として開発され、国立駅を中心に南に伸びる大学通りと、左右に分かれる旭通りと富士見通りが放射状に延びている。その道沿いにはアートギャラリーや飲食店、ブティック、雑貨屋などの小さなお店が並ぶ。駅前は多くの学生が行き交い、賑やかではあるが、どこか落ち着いている国立駅前の雰囲気が気に入ったことも、ここで働きたいと思った理由だ。


入職当時、訪問看護ステーションの職員は看護師10名、理学療法士3名、作業療法士3名、事務員3名が所属していたと記憶している。このうちの看護師1名が所長、また看護師1名と作業療法士1名が副所長としてマネージャーの役割を担っていた。訪問看護ステーションでは看護師や理学療法士、作業療法士、言語聴覚士が主治医の指示のもと自宅を訪問する。訪問先では、健康状態のチェックや療養指導、医療処置、生活機能訓練を中心に看護やリハビリテーションを行う。さらに、訪問看護の利用者やその家族等の相談に乗り、アドバイスをすることも重要な業務の一つで、主治医などケアに関わる多職種との連携をスムーズにおこなうための調整役も担っている。利用者は、乳幼児から高齢者まで幅広い年齢が対象となる。
国立市での新しい挑戦は順調にスタートした。日々の訪問は1日6人前後で、移動には自転車かバイク(ピザ屋が配達で使うようなタイプ)を使う。病院で働いている頃の移動といえば院内の移動のみだったので、利用者の自宅と自宅間の移動時間はとても新鮮だった。まちの風景から季節を感じることができるし、当然ながらすれ違う人たちのほとんどは医療の専門職ではない。縁もゆかりもない国立市にお邪魔しているような感覚が、僕には心地よかった。
病院では患者や家族を受け入れる側だったが、受け入れてもらう側になった。病院や福祉施設で働く医療者は、病院はホームで訪問看護はアウェイだからやりづらいと表現する人もいる。そんなことを言うなら、まちで暮らす人たちが病院に受診するときはどうなんだと、ホームやらアウェイやらと言っている医療者たちに言いたいが、この話は今回は横に置いておくことにする。
僕の職場のすぐ近くには病床数44床の小さな病院と、病床数789床の高度急性期病院があって、日々の移動で毎日のように病院の前を通っていた。最初は何の気なしに通っていたが、まちに存在する小学校や中学校などの教育機関や市役所、コンビニ、カフェなど様々な建物と比べると、他のどの建物よりも閉鎖的で、中で何が行われているか分からないようなところが病院なのかもしれないと感じるようになった。また、病院の周りには様々な人が行き交っている。病院の中では白衣等のユニフォームを着ているため、医療者と患者の見分けがはっきりつくが、一歩外に出ると、医師だろうが看護師だろうが、八百屋のおっちゃんだろうが、美容室のお姉さんだろうが、近所のおばちゃんだろうが関係ない。日々の業務の中で、そんなことを考えるようになり、僕が病院で感じた違和感に向き合うためのヒントはまちの中にあると確信するまで、働きはじめてからさほど時間はかからなかった。
繰り返すが、僕が病院から訪問看護ステーションへ働く環境を変えた目的の1つは、僕が感じた医療の専門職と患者の関係についての違和感を、病院からではなくまちからの視点で見たいと思ったからである。さらに、まちからの視点で医療と患者をより良い関係にしていく方法を探り、それを実践していく目的があった。当時の僕はこの目的を「在宅での医療や介護を通じて地域の空気を変える」と表現していた。社会全体を変えることは難しいかもしれないけれど、自分の手の届く範囲の空気なら変えることができるかもしれないと思っていた。
とはいえ、どのようにまちと関わるかは具体的に考えていなかったので、まずは国立市のことを知ることからはじめた。地理的な情報は日々の訪問業務での自転車移動によって得て、文化や歴史的な情報は訪問先の利用者や家族との会話で得ていた。また、訪問を続けているとまちの人たちとの関わりも増えてくる。例えば、訪問先の隣の家の方との関わりあいがある。ほとんどは会釈や挨拶程度の関わりだが、中には僕が理学療法士だと分かると、家族や親戚の健康についての相談をされることもあった。
内容は理学療法士の僕に答えられるものもあれば、役所が答えるような制度のこと、医師や看護師が答えるような医学的なことなど多岐にわたった。その都度、相談先を紹介したり、僕に答えられないことがあれば同じ職場の人に聞いて情報を渡していたが、このような人たちの多くは、自分や家族などの健康の相談をどこにすれば良いのかわからないのではないかという疑問を持つようになる。
高熱が出た、激しい頭痛がある、足が痺れている、動悸が止まらない等のわかりやすい症状があれば、病院や診療所を受診すると思う。でも、何となく調子が悪いが受診するまでもない、という場合はせいぜいGoogleで検索して情報を得る程度で、ほとんどの人はどこかに相談するまでには至らない。早い段階で相談できれば、大事に至る前に予防することができるケースも中にはあるはずだ。このように、まだ医療との関わりのない人の中には、いざ病気や障害を抱えた時、相談先がわからず困っている人がいるのではないかと考えるようになった。
少しずつ地域の活動に参加しはじめる
職場に慣れてくると、日々の訪問看護ステーション業務以外でまちの活動に参加するようになる。前述した「相談先がなくて困っているのではないか」という疑問を、実際のまちの人たちと関わりながら明らかにしていくことがいちばんの目的だった。市役所が主催する市民向けの認知症に関する勉強会や、会社近くの地域のおまつりなどに参加して、地域住民と話す機会を増やすことにした。また、イベントに参加するだけではなく自分で主催してみようと思い、訪問看護ステーションの目の前にある喫茶店を借りて、健康についての座談会を定期的に開催することを決めた。集客は喫茶店のオーナーさんにお願いして、普段利用されているお客さんを集めてもらった。座談会は、健康面の様々な困り事をテーマに看護師や理学療法士が悩みを聞くという形で進めた。
どのような困り事が聞けるのかとワクワクした気持ちで臨んだが、参加者から出てきた話は予想を大きく裏切られる内容ばかりだった。「私はジムに通っているから大丈夫」「今は健康だから、病気のことは考えたことがない」「介護保険がどのようなものかわからない」、介護中の男性からは「介護のために仕事を辞めようと思っている」という話もあった。座談会をはじめる前は、多くの人が健康に対する困り事を抱えながら生活していて、健康に対する相談先を探しているのではないかと予想していたが、結果は全く違った。
期待を大きく裏切られた座談会になったが、僕にとっての新しい気付きをもらえた。この座談会をきっかけに、まだ医療に関わりのない人にとって、近い将来直面するであろう自分や家族の健康問題について向き合うことは、不安や怖さがあるのかもしれないと考えるようになる。また、僕らは座談会に看護師や理学療法士という立場で参加した。僕が病院で感じた「専門職に対しては本音で話をしてくれないかもしれない」という患者の医療者に対する遠慮のようなものが、座談会の参加者と僕らの間にあったのかもしれない。
白衣を脱げない医療者
座談会の後も、まちの様々な活動に参加していた。特に、会社を立ち上げる1年前に参加したイベントは、僕にとって忘れられない経験となった。
2013年8月に、地元の信用金庫が主催するイベントに参加した。信用金庫が発行する季刊誌があり、毎号多摩地区の市区町村を特集し、住んでいる人や働いている人など、そのまちに関わるさまざまな人に向けて「まちの楽しみ方」が掲載される。刊行にあたっては、特集される市区町村の住民を集めてワークショップが実施され、まちの情報を住民が出し合い、それらが元となって記事になる。住民と一緒につくるというのもこの季刊誌の特徴だ。翌年の2014年1月号に、小金井市の特集が組まれるので参加してみないかと知り合いから声がかかった。まちの人たちと話ができる良い機会だと思い、二つ返事で参加を決めた。
その頃は、国立市だけではなく近隣の国分寺市や小金井市との関わりも多くなり、それぞれのまちのイベントに参加するようになっていた。

イベントは、東京学芸大学のキャンパスで開催され、100人ほどの多種多様な地域の方が集まった。実を言うと、僕は人が多く集まる場所が苦手だ。今はだいぶ慣れたが、当時の僕にとって、はじめて顔を合わせる人とワークなどを通じて議論することは、最も苦手とすることだった。医療や福祉関係の学術大会などに参加し、発表や交流することはあったが、そこに参加している多くの人たちは僕と同じ医療や福祉に従事している人たちである。立場や職種は違えど、医療や福祉における共通言語で語れる安心感のようなものがあり、そこまで苦ではなかった。しかし、この時僕が参加したイベントでは、年齢や性別、職種、住んでいる地域、趣味趣向など様々な価値をもった人たちが参加することを事前に聞いていたので、緊張しながら会場に向かったのを覚えている。
イベントは、主催者である信用金庫の職員による趣旨説明からはじまった。次に5人1組のグループに分けられ、「小金井市の良いところを出し合う」というグループワークに移る。僕が一緒になった人たちは、自営業、自治会長、NPO団体に所属している人など様々な立場の人である。ワークは自己紹介からはじまり、僕は名前と国立市や小金井市で訪問看護ステーションの理学療法士として働いていることを紹介し、その後に「身体のことで何か困っていることはありませんか」と付け加えた。僕の投げかけに対し、このような言葉が返ってきた。自治会長をしている60代前半くらいの男性からである。
「あなたは病院の人間でしょ? 私たちが普段生活をしている地域のことを知らないのにいきなり個人的なことを聞くのはどうかと思う。そういうのは、まちのことを知ってから聞くのが礼儀だと思うな」
全く予想外の言葉が返ってきたので、僕は次の言葉が出なかった。男性の口調は怒っているというよりは、諭してくれたような感じで、どこか優しさもあった。にもかかわらず、予想外の返答がきた驚きと、初対面のおっちゃんに何でこんなことを言われなければいけないんだという憤りの気持ちで感情が溢れそうだったが、冷静を保った。「病院で働く多くの人はそうだが、自分は違う」と反論したい気持ちはあったが、その場の空気を読み「確かにそうですよね」と返答し、なんとかやり過ごした。
男性が言うように、病院や施設などで働く多くの医療者は、まちのことを知らない。毎日、朝出勤して夕方に退勤することを繰り返すだけで、病院の周りにはどんな人がいて、どんな暮らしをしているのかを知ろうとする人は多くない。イベント終了後に機会があったら話をしてみようと思ったが、結局、話をすることなく会場を後にしてしまった。僕にとって、かなり悔しい経験だったが、残念ながら彼が僕に言ったことは間違っていない。

僕は、訪問看護ステーションで理学療法士として働きながら、それ以外の時間では国立市を中心に様々なイベントに参加してきた。そこで感じたのは、医療の世界がいかに閉鎖的なものであるかということである。病院などの医療機関とその周りのまちの間には、見えない隔たりがある。病院の中にいる医療者は、まちの住人が理解できない言語で話をしているように感じる。そして、彼らの多くはそれに気づいていない。
ここで、僕が感じている医療の世界の閉鎖とは何なのかについて少し触れておく。経営学者の西口敏宏は「コミュニティへの帰属意識が強化されると排外的なコミュニティ・キャピタルが醸成される」※1と述べている。西口は、コミュニティ・キャピタルを「特定のコミュニティにおける成員間に生じ交換され蓄積される限定的な関係資本であり彼らによってのみ有効裏に利用されうる目に見えない共有財」と説明している。これは医療の世界に限らず、組織や地域、サークル活動、友人同士、家族など様々なことでも言えることだろう。医療の分野にも様々なコミュニティがあり、医師や看護師などの職種によるものや病院などの医療機関など施設によるもの、研究者による学術団体などがある。さらに西口は、このようなコミュニティにおいて、人と人が成功体験や失敗体験を繰り返しながら関わり合うことで生まれる「刷り込み」によって、面識がなくとも、誰もが等しく支援し合う関係を醸成すると言っている。病院などで働いている医療者は、このような過程で同質性が強くなり、自分たちの認識は患者も理解しているという思い込みによって、患者とのコミュニケーションを阻害しているのではないだろうか。
※1 西口敏宏・辻田素子(2017)「コミュニティー・キャピタル序説:刷り込み、同一尺度の信頼、準紐帯の機能」『組織科学』Vol.50 No.3、pp.4-15.
一方、まちで自営業で酒屋をしながら、ボランティアで子ども食堂を行っているAさんが病院を受診したとしよう。酒屋で子ども食堂をやっているAさんは、病院に入ったとたん酒屋や子ども食堂というラベルを剥がされ、代わりに患者というラベルを貼られる。そして、Aさんは彼らの言葉を理解したふりをするようになる。「何か意見を言ってしまうと、明日から見てもらえないのではないか」「忙しいのに、私なんかの意見を聞いてもらうのは申し訳ない」という医療者に対する遠慮が、より一層、医療の世界を閉鎖的にしているのではないだろうか。
僕は、このような考えから、医療と患者、医療と地域をより良い関係にするために、病院などの医療機関が中心となって取り組みを続けても大きな変化は起こらないと思った。座談会の時に感じた、医療者が医療者としての看板を背負ってまちに出ると、地域住民からは「病院の人」「医療者」のラベルを貼られ、本音で語ってくれないかもしれないという仮説は、まだまだ不十分ではあるものの、少し明らかになった気がした。
「なんちゃってリハビリ」の横行
働く場を病院から訪問看護ステーションに変えた理由の2つ目、「自宅で行われるリハビリテーションの質」について話をしよう。訪問看護ステーションで働きはじめて、実際の訪問現場で感じたことは「僕の家族には受けさせたくないな」だった。6名のリハビリテーションスタッフは、それぞれが経験豊富で、提供しているリハビリテーションは勉強になることが多かったが、僕が理想としていたリハビリテーションではなかった。
なぜそのように感じたのか。病院と訪問におけるリハビリテーションの違いは様々あるが、ここではリハビリテーションの専門職(理学療法士、作業療法士、言語聴覚士)として、どのような役割が必要なのかについて話をする。病院で行われるリハビリテーションは患者に対して個別のアプローチとなる。これは、リハビリテーション室や病棟の居室で行われるような、起き上がる、立つ、歩くなど、生活する上で必要な基本的な動作に対する身体機能向上のための訓練や、風呂に入る、食べる、トイレに行くなど、生活する上で必要な応用動作のための生活機能訓練などを指す。

一方、訪問では、利用者に対しての個別のアプローチに加えて、自宅内外の環境に対するアプローチや、社会保障制度や家族状況などの把握など、利用者を取り巻く様々な生活環境を調整する役割を担う。ここでいう自宅内外の環境というのは、自宅内の段差や風呂、トイレ、階段や自宅外にあるお店や道路、公共交通機関などの生活する場所を指す。
リハビリテーションの専門職は、身体機能や生活機能の改善を個別アプローチによって行うが、それだけでは不十分である。自宅内での動作が難しい場合は、個別アプローチに加えて、手すりや車椅子などの道具を使うことによって、生活の改善を目指す。また、外出する上で、近くにバス停はあるのか、駅まではどのくらいかかるか、道路の幅や交通状況などの確認を行うのもリハビリテーションの専門職の大事な役割である。さらに、社会保障制度について考えることも必要だ。利用者や家族が望む生活は、利用可能な保険制度内で、どこまで実現可能かを検討しなければならない。もし、保険で補えない場合は、家族や友人などのマンパワーがどのくらいあるのか、自宅の周りに出かけられるお店や居場所はあるのか、それまでにどのような交流があって、どのような過ごし方をしていたのかなどの情報収集を行い、このような保険制度外の資源を含めて、リハビリテーションを提供する。
理学療法士の吉良健司は『はじめての訪問リハビリテーション』※2 の中で理学療法士の役割について、病院では「個人に対する治療的アプローチ」とし、治療者としての役割があると言っている。また、訪問では「生活に対する適応的アプローチ」とし、コーディネーターとしての役割があるという。つまり、訪問に従事するリハビリテーション専門職は、包括的な視点で利用者と関わるスキルが求められるのだ。
※2 吉良健司(2007)『はじめての訪問リハビリテーション』医学書院
僕が実際の訪問リハビリテーションの現場で見たのは、訪問であるにもかかわらず、病院と同じように多くの時間を個人への治療的アプローチに費やしている光景だった。
そんなある日、日本理学療法士協会の会報の最初のページを開くと、「なんちゃってリハビリの横行!」という文字が僕の目に飛び込んできた。日本理学療法士協会というのは、理学療法士の学術および職能団体である。
僕が見た記事は、当時、理学療法士協会の会長を務めていた半田一登の寄稿文だった。半田は、なんちゃってリハビリを「リハビリテーション医療全体としての目的意識の欠如、理学療法士の知識・技術不足、リハビリテーション科としてのチーム医療の崩壊等々が考えられる」と説明している。さらに、病院でのリハビリテーションを例にあげ、理学療法室でリハビリテーションを受けている患者のほとんどが、ベッドに横になり、理学療法士は背中や腰をさすっていると書いていた。本来なら理学療法士は運動療法等を提供することが目的であるが、そうではなくマッサージ的行為中心に行われているリハビリテーションへ苦言を呈していたのだ。半田は、理学療法士が提供するリハビリテーションの中核が「なんちゃって理学療法」であるなら、理学療法士の将来には暗雲が立ち込めると続け、寄稿を通じて理学療法士に対して警鐘を鳴らしていた。
「なんちゃってリハビリの横行!」を目にした時は驚いたが、読み進めると共感する気持ちも出てきた。前回の「病気や障害は見るが、顔を見ない理学療法士」という項で書いた内容は、僕の理学療法士に対しての警鐘である。
その後も記事は続き、半田が介護保険の第一人者から言われた一言が紹介されていた。「私の知る限りでは在宅リハビリテーションはマッサージ中心のようですね。リハビリテーションの目的は生活の自立にあることを忘れては困ります」という内容である。僕は「決してそうではない」という怒りと、「残念ながらその通りである」という共感の気持ちの半々の感情を抱いた。この記事を見て、何かを感じ、行動を起こした理学療法士はどのくらいいただろうか。
なぜ「なんちゃってリハビリ」が横行していたのか。僕の考えをいくつか書こうと思う。まず、訪問の現場は他人の目がないため閉鎖空間であるということを話しておく。病院のリハビリテーション室では他のスタッフがいる中でサービスを提供することになるが、訪問リハビリテーションは基本的には単独で訪問するため、他人の目がない。
病院の場合は、リハビリテーションの内容で気になったことがあれば、周りからのアドバイスがあるし、安全面におけるリスク管理もしやすい。一方、訪問の場合は、経験の浅い療法士が先輩療法士からアドバイスをもらうことができないし、極論を言ってしまうと、リハビリテーションの内容がどんなに怠慢であっても、誰からも指摘されない。僕が学生の頃の話になるが、臨床実習の一環で訪問リハビリテーションの見学があり、僕の実習指導者はうつらうつらと今にも眠りそうになりながら利用者のマッサージをしていた。稀に、利用者の同居家族から事務所にクレームが入ることがあるが、多くはないだろう。このように、訪問リハビリテーションの現場は他人の目がほとんど入らないのである。
次に、育成の問題について触れる。訪問リハビリテーションでの若手育成をするための課題は様々あるが、大きな課題が1つある。あくまでも持論になるが、若手の育成には先輩が訪問に同行することが必要だ。訪問する前の準備、訪問してから自宅に入るまでの心構え、リハビリテーションを開始するまでの流れ、リハビリテーションの内容、終わってから自宅を出るまでの流れ、事務所に帰ってからの記録や各所への連絡など、1件訪問するために、意識するポイントが多くある。病院では、場所によるが1-2か月は指導者と一緒に患者に関わる。
その後、独りで患者を担当するようになっても、周りの目がある中でリハビリテーションを行うため、気になることがあればいつでも指摘される環境に置かれる。訪問でこのような指導ができるかというと、多くの場合は難しい。なぜかというと、先輩の指導者が訪問に同行するとなると、1人分の売上が減ってしまうためだ。病院の場合、先輩指導者は自分の担当患者のリハビリテーションを行いながら若手の指導ができるが、訪問では物理的に難しい。聞くところによれば、世の中には先輩の同行がないまま、いきなり単独で現場に放り出される事業所が多く存在しているという。
だが、病院とは違うアプローチが必要とされている訪問リハビリテーションにおいて、先輩の指導がないまま現場に出ることは信じ難い。会社を経営する立場から考えると、運営するための資金繰りが大事なのは理解できるが、リハビリテーションの質だけではなく、利用者に対しての安全面という観点でも、このような体制はあってはならない。
ここでは僕の個人的な考えを書いたが、他にも立場によって見えてくる課題は様々あるだろう。そして、「なんちゃってリハビリ」の課題はいまだに続いている。日本理学療法士協会を中心に、様々なリハビリテーションに関する団体や個人が課題と向き合っているが、良い方向に向かっているとは言えない。

医療と患者、医療と地域がより良い関係になるために
では、どのようにすれば、医療と患者、医療と地域はより良い関係になるのだろうか。また、「なんちゃってリハビリの横行」に対して、どのような取り組みが必要なのだろうか。僕はこれらの課題に、どのような人たちが関わっているのかを考えてみた。主に、行政、医療、福祉、患者、企業、地域住民が考えられるが、さらに広く考えるとまちにある全てがそれにあたる。
2011年に訪問看護ステーションで働きはじめてから、様々な立場の人たちと話をしてきた。医療や福祉に従事する専門職や利用者、家族はもちろんのこと、行政、企業、教育などの分野の人やまちで暮らす住民などである。話をしていく中で、みんなが、それぞれの立場で大なり小なり課題を抱えているということに気づいた。それまでの僕は、「患者がこんなに困っているのに、なんで医療や行政はすぐに動いてくれないんだろう」という見方をしていたが、決してそうではないことがわかった。それぞれに与えられた最低限の役割は果たしていて、目の前の課題を見て見ぬふりをしている訳ではなかった。課題への向き合い方の多くは、自らが所属する分野のみで取り組んでおり、まれにコラボレーションと称して2つの分野が一緒になって取り組んでいるプロジェクトなどもある。
課題解決に向けての考え方として僕が大事にしていることがある。1つの課題が解決されたからといって、全てが良くなる訳ではない。つまり、誰かにとって良いことは、他の誰かにとっては決して良いことではないということだ。
まちには様々な課題があるが、課題の見方は立場によって違う。これを意識しないまま課題に向き合おうとすると、お互いが「わかってくれない」と平行線のまま話は終わってしまう。必要なことは、わかりあうことではなく、目の前の課題に向き合い、何かを変えていくために、お互いの役割を知ることではないだろうか。
訪問看護ステーションで働きながら様々な立場の人たちと関わってきたことで、僕の医療や福祉と患者や家族、まちなどの関わり方の考えは変わっていった。それぞれが良い関係をつくるために、まず医療や福祉の専門職は白衣等のユニフォームを脱ぐことからはじめる必要がある。これは、専門職という立場を捨てろという訳ではない。あくまでも、出会い方の話である。はじめは、お互いがまちで暮らす一住民として出会い、その後、関わっていく中で、その人の健康についての困り事が出てきた時に、実は医療や福祉の医療者であることを明かすような関わり方が良いのではないだろうか。
僕の立場で考えるとなると、医療や福祉の専門職としての糟谷と、まちで暮らす一住民としての糟谷という2つの顔が必要になる。医療や福祉の視点でまちを見ることと、まちからの視点で医療や福祉をみることを、日常的に行き来することで、それぞれが抱える課題を知ることができると考えた。
しかし、僕が今までしてきた働き方では行き来は難しく、どうしても医療や福祉の視点が多くなってしまう。 どうすれば良いだろうかと考えていく中で、起業という選択肢が僕の中でぼんやりと浮かんできた。医療や福祉の視点を持つ訪問看護ステーションと、まちの視点を持つコミュニティなどを運営することで、病院などの非日常の場ではなく、日常の暮らしの中で、まちで暮らす人たちと関わり合うことができる。そうすれば、僕は医療や福祉の専門職としてと、まちで暮らす一住民としての両方の立場で、お互いの価値を覗き見ることができると思ったのだ。
この辺りから「在宅での医療や介護を通じて地域の空気を変える」という思いが一層強くなり、いよいよ起業に向けて準備をしはじめた。