かつて日々のくらしに欠かせなかった箒は、電気掃除機の普及とともに需要が低迷し、全国各地の産地は壊滅状態に陥った。ところが近年、電気に頼りすぎないライフスタイルを志向する人、地域の伝統文化や地場産業に価値を見出す人が徐々に増え、職人が手編みした昔ながらの箒への関心が高まりつつある。
なかでも、神奈川県北部の愛川町では、一度途絶えた旧中津村の箒づくりを生業として復活させる取り組みが進む。その立役者として活躍し、伝統を受け継ぎながら作家性の高い作品も手がける筆者は、美術的アプローチにより社会にコミットするという信条の持ち主。いま注目のつくり手が、仕事を通して目指す“ものづくり”と社会の姿とは――。
第14回 もう無銘性の話はしたくない①
前回、工芸の目的や動向について語った。工芸、クラフト、手仕事には様々な呼び方があり、それらの意味を僕は考えてきたつもりだったけれど、まだ拭えない疑問があった。
近代美術館でいふ「現代の眼」は、要するに「西洋の眼」なのである。
柳宗悦「近代美術館と民芸館」(『民藝』1958年4月号)
これは、民藝の提唱者である柳宗悦が行なった、近代美術館への批判の一節である。美術工芸の在り方には、学生の頃から関心があったが、そもそもからして民具や民俗に関心があった僕が、隣接領域である民藝に関心を持つのは時間の問題でもあった。やがて、美術工芸へのカウンターとしての民藝に惹かれていった。「工芸」という言葉や概念が明治以降のものであることは先に述べた。また、純粋美術、鑑賞工芸の基本は一点物であり、個性や個人の意思が要となるものだから、民具や民芸品を作り出す「民衆」ではなく「作家」が作り出すものだ。「作家」という言い方は、現行のクラフトシーンでも使われている。やはり、特定の秀でた考え方、技術、スタイルを持った個人が作り出したものという視点だと言える。
作家か職人か
僕自身仕事柄、場所によっては作家と呼ばれることもあるし、明らかに職人と呼ばれる人が集まる場では職人と呼ばれることもある。個人的には、大切なのは作ったものそのものであり、それらが人にどう作用するかが問題だと思うので、作った人の肩書きは作家でも職人でも宇宙人でも何でも構わない。反対に、これは箒でないと言われてしまうと大問題で、誰がどう見ても優れた箒、というものを作りたいとは思っている。それはどこまでも道具でありたい、という思いから来ているので、僕がどう呼ばれるかは構わなくても、作ったものが「作家物」として珍重され、飾られてしまうようなことがあるとしたらまた問題である。
また「作家」というとクリエイティブで創作的なニュアンスも含まれるので、歴史や自然の摂理を汲んで形にしよう、と思う者にとって、あまりにオリジナルであることを誇示するのは自然に対して不遜なのでは、という思いもあった。あくまでこちらは、歴史や自然から恵みを戴いている立場なので「作家物」を全面的に受け入れてしまうと、人間中心主義が過ぎるのでは、とも思っているので、敢えて作家として自称することはあまりない。
巨大なプロダクトや自己主張には、うっすらと自然を支配する思想を感じてしまう面もある。近代以降の美術家やアーティストなどとなれば、創作する対象は観念であって、自然物を使っていてもそれは表現の媒体、意思を表すための通過点であるから、人間中心のものであって問題はない。観念は人間の創作物と言い切っていいようなものの、道具は、人が自然界に生きて、人体があるからこそ用を為すもので、軸足は自然と、それらと付き合ってきた人類の歴史でもある。つまり、道具を作る人に「アーティスト」のような肩書きを与えてしまうと、実態とのズレが大きすぎるのでは?ということがある時期から気にかかるようになっていた。手仕事を取り巻く環境は、いつからそのような状況になったのだろう。
個人の意志、主張を重視する個人主義的考えはヨーロッパのもので、やはり明治期に輸入されたと言っていい。様々に再解釈や反論もなされているのでそのまま受け入れてはいけないけれど、聖書の『創世記』には、「神は彼ら(注・人間のこと)を祝福して言われた。産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(1章28節、日本聖書協会新共同訳)という記述があることも、環境問題などの方面ではよく取り上げられている。これらを人間中心主義の起源とするには乱暴過ぎるにしても、自然から戴く、のではなく、自然を超越する思想は、自然に軸足を置いたものづくりの中では採用されづらいように思う。
民藝の特性としての無銘性
個人の意志に関するところで言えば、日本民藝協会は、「民藝」の特性として次の9つを挙げている。
実用性、無銘性、複数性、廉価性、労働性、地方性、分業性、伝統性、他力性である。
個々の説明は省くけれども、個人主義、芸術に関して言えば作家中心主義的な志向と反目するのは「無銘性」というところになる。銘入り、つまり創作した本人の署名のある作品に対して、現代でいえばアノニマス(匿名のもの)で、誰が作ったでもなく、文化の中で時間をかけて、名も無い作り手の中から生まれてきた物が無銘の品物となる。
柳は、鑑賞美術に対して、これら民衆の無銘の工芸こそが美であり、「正しい」工芸だと主張した。これは現在の美術教育の中ではスタンダードな考え方ではないが、一介の職人こそ至上、という話が本当だとしたら、美術大学から、ドロップアウトして民俗資料室に籠もった身の上としてはとてもシリアスな話で、美術論、工藝論以上の、身に迫った問題提起であるように思えた。
とはいえ、多少民藝に詳しい人であれば、民藝の先達の中にも有名な作家がいる人物がいることも知っているであろう。民藝運動の中心人物であった濱田庄司は人間国宝第一号ですらある。それ故、民藝の中でも無銘と作家の問題は、しばしば取り上げられてきたトピックであった。僕自身、日本民藝館で毎年開催される公募展に出品するに当たって、民藝の特性の一つである「無銘性」の言葉には悩まされた。一介の職人こそ至上、無銘こそ美しいと思っても、公募展に個人名を出して出品する時点で、美から遠ざかっているのではないか。
例えば、柳の『工芸の道』に接したことで民藝運動に参加した三宅忠一は、民芸店の立ち上げや民藝協会の設立など多くの活動を行なっていたが雑誌『日本の工芸』における「民藝運動の道」という連載で、作家中心となった民藝運動を批判した後、日本民藝協会を脱退し、日本民藝協団という団体を立ち上げることとなった。
ただ、「三宅は、柳の定義をやや素直に受けすぎていたようにも思える」(濱田琢司『民芸運動と地域文化』思文閣、2006年)と指摘されている通り、無銘と作家という葛藤は、元より民藝に内包されたものだった。柳は『日本民藝美術館設立趣意書』を発表した翌年の1927年、『工藝の協団に関する一提案』という論考を頒布していたが、その中で「吾々が今当面せるディレンマについて」として、「私たちはもう知慧の実を喰べたのである。昔の人のように無心でいるわけにはゆかない」と、述べている。
そして「私たちは古作品を味わうと同時に、新しく作るという任務をおびている」とし、「昔のような意味の無心な民藝は、今日の社会制度が一変しない限り、もう二度とは起らないであろう。それに目覚めたものは皆知識の実を喰べてしまったのである。それならどうしたら意識的な吾々が、正しい工藝を産む事が出来るか。この難問題に解答を与えようとするのが、今度のギルドGuild(組合)の生活である」と述べている。
過去に美しいものがあったとしても、それをそのまま取り戻せる時代ではなくなってしまった。それならどうしたら、その美しさを蘇らせることができるのか。時代、環境は違えど、この立場は僕が民具に出会った時とほとんど変わらない感触があり、感じ入るものがある。古くからの道具には美しいものがたくさんあり、そして息絶えようとしている。その技術や文化を何らかの形で継いだとしても、外から来た者の介入や、新たな視点を加える過程では、どこまで行ってもその原型に辿り着くことはできないのだ。場合によっては、その文化を歪めてしまう恐れすらある。
「知識の実を食べた者」として
そうしたジレンマを乗り越え、知識の実を食べてしまった者なりの答えを出すために、民藝の運動が展開された。では、その解答はどのようなものだったのだろう。
三宅忠一の批判に対し、柳は『民藝』72号(昭和33年12月号)の「民藝と個人作家」という論考で、三宅の名は出さないながらも、応答している。
随分見当違いの批評をする人もあるものだと思いました。ともかく民藝品と個人作家の作品とを判然と二つに分けろという主張が、なかなか多いのに気付きます。しかし私の考えでは、これを分かつより、これを 接近させ、出来るなら結びつけて考える方が遥かに至当だと思われます。
柳宗悦「民藝と個人作家」『民藝』72号(昭和33年12月号)
第一、民藝品にしても、作家の作品にしても、到り尽くすところは一つで、互いに矛盾したり、反撥したりするはずのものではないでしょう。 ただ違うのは歩く道筋だけです。(中略)両者の美しさにもし矛盾する点があったら、いずれかが未だ中途にいることを語るに過ぎないでしょう。 民藝品と作家の作品とを、ただ分けてのみ見るのは、かえって、見方に徹したものがないことを語るともいえるでしょう。いずれの側も、ともに美の世界に参与する品物です。
柳宗悦「民藝と個人作家」『民藝』72号(昭和33年12月号)
まず柳は立場として〈「工芸美術」といふ自負した位置は、一度は瓦解を余儀なくされるであらう〉「個人作家と民藝」(『民と美 上』靖文社、1948年)とまで言っており、民藝が唯一の美の到達点であると確信していた。一介の職工が作ったものも、個人作家が作ったものも、それぞれの価値があるのではなくて、唯一の「美」を目指す限りは同じ場所に到達する。ただ、この視点に立ってしまうのはあまりに一元的で、作家だ職人だと議論する余地もなくなってしまう。では、民藝の作家たちのことはどう捉えていたか。
第二、心ある作家たちは大いに民藝品から学ぶところが あるでしょう。また民藝品から多くのものを学びとることのできないような作家なら、本当の作家とはいえないでしょう。 河井や浜田や芹沢らが、他の作家たちと著しく異る点は、恐らく他のどんな作家よりも、民藝品の美の最も正しい理解者だということであります。つまり、誰よりも滋養分を民藝品から汲みとっている人々です。 それゆえ、誰よりも民藝品に対して謙虚な想いを抱いている人々だといえるでしょう。
柳宗悦「民藝と個人作家」『民藝』72号(昭和33年12月号)
民藝から学べなければ作家ではないという意見も偏りが過ぎるにしても、民藝の作家は、どんな作家より民芸品を尊び、謙虚であるという主張は重要だ。おそらくこれは前回述べた「他力性」に通じる思想で、個人の意思ではなく、歴史や共同体が軸となって美が生まれるという考え方だ。一言に「作家」といっても、個人の志向を中心に置くのか、共同体に基軸に置くのかによって、同じ「作家」という言葉でも、対極にあるような立場として説明されている。
第三、工人たちは多かれ少なかれ伝統に依存して仕事をしますが、変化する社会事情で伝統が漸次弱まって来た今日、なかなか一人立ちは出来ません。まして生活様式が変わって来た今日、昔のままの仕事をただ反復していては、 仕事の維持が困難になるでしょう。それゆえ、誰か創意ある作家の助力が必要な時期に来ています。
柳宗悦「民藝と個人作家」『民藝』72号(昭和33年12月号)
「昔のような意味の無心な民藝は、今日の社会制度が一変しない限り、もう二度とは起らない」「私たちは古作品を味わうと同時に、新しく作るという任務をおびている」故に、時代の変化に対応し、舵取りのできる「作家」が必要である、という論理だ。
柳は『日本民藝美術館設立趣意書』の中で、「私達の仕事は過去への賛美であると共に、現代への是認であり、将来への準備でなければならぬ」とも述べている。
例えば、鳥取の民藝運動において重要な役割を果たした吉田璋也はデザインなども多く行ない、民藝運動を展開したが、「新民藝」「残存民藝」という言葉で、新作の工芸と、素朴に作り続ける地方の産地の手仕事を区分していた。無銘のみを「美」とするのであれば、「残存民藝」のみを美しいとすることになる。そして「過去への賛美」を前提として、現在行なわれる仕事を受け入れた上で、将来にも「美」を実現するために設立されたのが日本民藝館であり、民藝運動だったのだと僕は解釈している。
こうして調べたり読んだりした上で、民藝においては民藝品を何より尊び、学び、未来への準備として新作を作り続ける「作家」がいるということは理解した。
そしてそれでもやはり、僕に疑問は残っていた。歴史の長い日本の手仕事は、民藝に関わらないで活動する「作家」に関しても、過去の仕事への賛美や継承を多く孕んでいることがある。むしろ、真っ当な仕事をするほど、歴史性や伝統的な技術性が濃くなるはずで、そこにも「過去への賛美」と「美」は存在するはずである。ただ、自他ともにそれは民藝とはされていないはずである。その原因はおそらく、明治以降に導入された美術観、工芸観、作家観と、実際に続く手仕事の間にあるズレによるものではないだろうか。
手仕事において、本当に「自由」や「創作」は存在するのか。民藝ではなく、「個」を鍵にして、僕は考え続けることにした。