理学療法士である著者は、東京・府中市で訪問看護ステーションおよび居宅介護支援事業所を運営しながら、カフェや空きアパートを使ったコミュニティ事業を展開している。あそびを通じた表現活動を行うアトリエ、中高生のサードプレイス、菓子工房、銅版画工房などが半径50メートル内に集まる一帯の名は「たまれ」。最寄の多磨霊園駅と、人が「溜まる」をかけて名づけられた。
こうした活動を通して実現しようとしているのは、人と人との「弱いつながり」だと著者は言う。2011年の東日本大震災以降、とみに加速した人と人との「つながり」を絶対視する風潮への違和感からたどり着いた、「たまれ」という名の「場づくり」。その足跡を振り返りながら、医療と患者、医療と地域、人と人の「いい感じ」な関係を考察する。
#1 魔法が解ける:病院で感じた医療に対する「違和感」
少し長い前書き
この連載は、僕たちが望む健康な暮らしを送るためには、医療や福祉と僕たちの暮らしの間にどのような「つながり」が必要なのだろうかという問いに対する取り組みの記録である。問いのはじまりは、理学療法士としてのキャリアをスタートした2006年で、勤務先の病院で経験したある出来事がきっかけだった。この経験は、理学療法士という医療の専門職として働きはじめた僕に大きな違和感を抱かせた。それはある種、医療への不信感や不安感とも言えるものだったと思う。
その後、医療と患者、医療と地域、人と人など、「と」で境界線が引かれている関係に興味を持つようになる。これらの間にどのような「つながり」があれば、それぞれが望む「いい感じ」な暮らしが実現するのだろうか。そんなことばかり考えるようになり、気づいたら会社を立ち上げていた。
会社では2つの事業を行っている。訪問看護ステーション、居宅介護支援事業所という医療や福祉の事業と、カフェや空きアパートを使っての場づくりを行うコミュニティの事業である。2つの軸から医療と暮らしを考え、医療や福祉の専門職だけではなく、まちで暮らす人たちと一緒に様々な取り組みをしながら、医療と患者、医療と地域、人と人のいい感じな関係を模索している。
会社を立ち上げてから9年が経とうとしているが、僕の違和感が解消された訳ではない。しかし、僕の手の届く範囲の空気は変わってきている。どうやら「弱いつながり」というものが、僕の違和感を解消するための手がかりになりそうだということが見えてきた。僕らとここで暮らす人と医療や福祉の間に「弱いつながり」を育むことで、いい感じな関係が生まれる。この関係によって、それぞれが望む健康な暮らしを送ることができるのではないだろうか。
これから、僕が考える「弱いつながり」を紹介する。すでに感じている人もいると思うが「弱いつながり」は非常に抽象的な表現である。僕自身もこれだという言語化はできていない。だからこそ、連載を書くことを決めた。
読んでくれている人の中には、今まさに、医療や介護に直面している人もいるだろうし、これから向き合う人もいると思う。そして、向き合う立場も様々だろう。あなた自身が向き合っている場合もあれば、家族や友人、恋人として、また、会社の上司や行政、医療者、企業、教育機関、NPOとしてなど、様々な立場がある。いざという時に皆さんと医療や福祉の間にどのような関係があったら、皆さんが望む暮らしを送ることができるか。ぜひ、それぞれの立場で「つながり」について考えてもらい、皆さんの意見を教えて欲しい。
皆さんと誰かの関係がいい感じになることを心から期待して、連載を開始する。
※「弱いつながり」について
本連載のサブタイトルにある「弱いつながり」については追って詳述するが、「何となくお互いを知っているようなつかず離れずの関係である2者が、必要な時に声を掛け合える関係が持続的に続く状態」と定義して使う。同時に、1973年にアメリカの社会学者マーク・グラノベッターがAmerican Journal of Sociologyで発表した学説「弱い紐帯の強み」とは異なる定義であることをあらかじめ述べておく。
彼の論文は、社会ネットワーク研究で最も引用数が多いと言われているくらい、社会に大きなインパクトを与えている。そのため、後ほど紹介する「たまれ」という場で僕が「弱いつながり」を実践していると言うと、グラノベッターの論文が広く知られているせいもあってか、「直接のつながりではなく、友達の知り合いのような間接的なつながりがよいということだよね」と返されることが多い。これは「『弱いつながり』が有名になり過ぎたとも言える」「微妙な知り合いをとにかく増やしておけばいいという誤解も見受けられる」と指摘している研究者もいるように、「弱いつながり」という概念自体が形骸化していることの表れとも言えるだろう。
「いつもリハビリをしてくれてすごく感謝しているわ。でも1つだけわかって欲しいことがあるの。私たち患者もあなたたちに気を遣ってリハビリを受けているのよ」
その瞬間、それまで僕が抱いていた「医療者は誰かのしあわせをつくる」という魔法が完全に解けた。
この出来事から14年が経ち、今、僕は会社の代表を務めている。東京都府中市に拠点を置く会社は、株式会社シンクハピネスという。事業内容は先述したように訪問看護ステーション、居宅介護支援事業所、そしてカフェである。また、カフェの隣にあるアパートのいくつかの空き部屋を活用し、アート、食、教育、子育てなどの多世代が集まり、「たまれ」というコミュニティの場を運営している。「たまれ」で起こるモノやコトが、医療・福祉と人とまちの間にいい感じな関係をつくり、このいい感じな関係が、地域で暮らす人々が望むそれぞれの健康を実現すると考えている。
シンクハピネスの英語表記はSync Happinessであり、しあわせを人から人、人からまち、まちから人へシンクロ=同期させたいという僕の想いを込めた。そして、シンクハピネスの企業理念は「“いま”のしあわせをつくる」である。
私たちは、まず、自分自身が笑顔でしあわせでいることを大切にしている。会社を設立した当初は、「なんでお客様じゃなくて自分のことを一番に考えるのか」「お客様を一番に考えない会社ってどうなんだろうね」というような意見をもらうことが多かったが、まずは自分自身のしあわせを考えて欲しいというメッセージは僕のポリシーであり、シンクハピネスが存在している理由の1つでもある。
僕は、自分自身がワクワクした想いを抱きながら働いていない職場に、魅力があるはずがないと思っている。自分自身がHAPPYでいることで、周りのスタッフがHAPPYになり、さらにサービス利用者やその家族、そして関わる全ての人たちにHAPPYが伝わり、人から人、人からまちへとしあわせが広がり、そしてまた自分のところに戻ってくる。これが、社会の空気を変えるために、僕が最初に掲げた旗である。
遅ればせながらの自己紹介:はじめまして、かすやあきのりです
この連載を書くにあたって、まずは自己紹介からはじめる。名前は糟谷明範。1982年生まれ、東京都府中市出身の独身(バツ2)、1人暮らし。動物占いはペガサスで、特徴通り自由奔放で気ままな性格だ。趣味はサッカー観戦や食べ(飲み)歩き、身体を動かすことが好きでフットサルやランニング(トレイルラン)をしている。
僕が理学療法士を目指したきっかけは、高校1年生の冬に受けた腰の手術である。中学生の頃から左足の太ももの付け根から外側に違和感を感じていて、時に強い鈍痛や痺れが出るようになっていた。
小学1年生の時に地元のクラブではじめたサッカーは高校生になっても部活で続けていた。この頃になると、左足の鈍痛や痺れがプレーに影響をしはじめ、日常生活でも痛みに耐えられなくなっていた。家の近くの整形外科に行くと、医師にはサッカーのシュートのフォームが悪いと言われ、先生は良いシュートフォームを身振り手振りで教えてくれた。その姿を見て、子どもながら医師の診断に疑問を抱き、自ら総合病院を受診した。当時は紹介状が必要だということも分からなかったので、直接病院に行って何時間も待って診てもらい、検査の結果、馬尾神経に腫瘍が見つかり手術することになったのである。
学校を長く休むわけにはいかなかったので、冬休みに合わせて手術の日程を組んでもらい、1か月ほど入院した。手術は無事に成功したが、サッカーの復帰には10か月必要と言われた。その時にはじめて理学療法士という職業に出会うことになる。言うまでもないが、この出会いが理学療法士を目指すきっかけになったのである。
高校卒業後は理学療法士を目指すために進学したと言いたいところだが、進学したのは経済学部だった。理由は、内部進学の条件が整ったからである。3年間の部活生活で燃え尽きてしまった僕に、外部受験という選択肢はなかった。大学卒業後に理学療法士の養成校に進学すれば良いという考えで、内部進学を選択したのである。
2000年の春に大学に入学し、楽しくキャンパス生活を送っていたが、大学2年の秋に状況が変わる。2年生になってサッカーサークルの副代表に指名されたり、友人と旅行に行ったりと楽しく過ごしていたが、夏休みが終わるくらいに、ふと卒業後のことが頭によぎった。大学卒業後に理学療法士の養成校に進学するという考えの一方で、残り2年半の在学で得られるものは何だろうと考えるようになった。もし退学したとしても、サッカーサークルや友人との関係は続けられる。では、失うものは何だろうか。経済学部での学びや3年次からのゼミという場の経験くらいだろうか。
9月の下旬から秋学期がはじまり、11月にはサッカー以外では学校に行かなくなっていた。この頃には自分の気持ちが固まり、理学療法士の養成校の受験を決めていたと思う。誰にも相談していなかったので、親や友人からしてみれば青天の霹靂である。年明けに受験し、無事に春からの進学を決めた。
理学療法士としてのキャリアのはじまり
僕は2006年に理学療法士免許を取得し、東京都武蔵村山市にある中規模の総合病院で働きはじめた。主に担当していたのは、回復期リハビリテーション病棟という、急性期の治療を終え、家に帰るためのリハビリテーションを行うところである。
前述したが、理学療法士を目指したのは、高校1年生の時に腰の手術をして、術後に理学療法士にお世話になったことがきっかけである。当時はサッカーなどのスポーツに関わる理学療法士になりたいと考えていたが、気づいたら病院の面接を受け、脳血管疾患領域、整形外科疾患、呼吸循環器疾患等に対するリハビリテーションを行っていた。なぜ方向転換をしたのかは覚えていない。当時は「スポーツに関わりたいと言っておけば格好が良い」くらいにしか思っていなくて、僕の中でどんな理学療法士になりたいかという明確なビジョンはなかったのだろう。
学生時代はとてもじゃないけど優秀と言える学生ではなかった。フットサルとバイトに明け暮れ、学校は「理学療法士の免許を取る」という目的のみのために通っていた。放課後にクラスメイトと遊びに行くことはほとんどなく、授業が終わるとすぐに教室を出て、フットサルの練習やバイトに向かう日々だった。
理学療法士免許を取るためには、大学や専門学校の養成校で国家試験を受けるための単位を取得し、かつ、国家試験に合格することが必要である。僕はこのうちの、国家試験を受けるための単位がもらえれば良いという考えで通学していた。授業によっては単位がもらえる最低限の出席日数を計算して履修をしたり、定期テストに関してもある程度の点数が取れれば良いという考えで受けていた。
そんな学生生活だったが、唯一印象に残っているのが臨床実習である。理学療法士としてどのようなキャリアを積んでいくかを考えるきっかけとなったのは、臨床実習での経験が大きかったと思う。僕が通っていた学校では3年次と4年次にそれぞれ9週間、病院や施設での実地研修があった。理学療法士の指導の下、実際に患者を担当し、評価、問題点の抽出、目標設定を行い、目標達成に向けて様々な方法でのリハビリテーションを実施するという実習である。今はどうか分からないが、当時は臨床実習=レポート等に追われ眠れないと言われ、僕自身も例に漏れず眠れない9週間を送った。
僕の実習は3年次は静岡県の沼津、4年次は茨城県のつくばだったため、実習先では学校が手配したウィークリーアパートで暮らしながら実習をこなした。3年次も4年次も、病院や介護老人保健施設などを持つ医療法人だったため、急性期、回復期、慢性期それぞれのリハビリテーションを経験することができた。中でも印象に残っているのは、回復期と慢性期の患者を担当した時である。それまでのリハビリテーションと言えば、術後など急性期のイメージを抱いていたが、実習先では、治療が終わって家に帰るための段階や、家に帰ってから症状がある程度固定した段階、または終末期の段階におけるリハビリテーションに関わることが多かった。
実習では、治療のためのリハビリテーションよりも、患者や家族が望む暮らしを送るためのリハビリテーションを多く学んだと思う。例えば、病院で歩けるようになったところで家に帰った時に同じように歩けるとは限らない。つまり、歩くことが目標ではなく、歩いて何をすることが患者や家族が望む暮らしなのかを考えることを学んだ。さらに、手足の関節が曲がってしまい、自分の意思では動かせないほどの拘縮がある方の場合、医学的な死を迎え、棺桶に入る際に、葬儀屋が力づくで関節を外して収めることとなる。この場合、リハビリテーションの専門職は何を考えて介入すべきかを考えるきっかけをもらった。
また、専門職と患者という関係についても学びがあった。病院や施設では患者とリハビリテーションの専門職という関係がある。しかし、専門職である前に人であり、患者もまた人である。患者がどのような人生を歩んできたか、これからどのような人生を歩んでいくかを考えずに関わるべきではないということも教えられた。
こうやって振り返ってみると、学生時代の経験が僕の理学療法士としてのキャリアに大きな影響を与えているんだと気づく。今の取り組みのきっかけになった「違和感」は、臨床実習の経験があったからこそ生まれたものだと思う。
「違和感」のきっかけ
話を戻そう。無事に理学療法士国家試験に合格し、2006年4月に東京都武蔵村山市にある病院で理学療法士としてのキャリアをスタートさせた。ワクワクした気持ちでスタートした病院での勤務だったが、1か月も経たないうちに「違和感」を感じるようになる。医療者の患者に対する態度のことで、どうしてこんなに偉そうなんだろうという場面に出くわすようになったのである。例えば、医師の患者に対する威圧的な言動だったり、日々の業務に追われている看護師に対し患者が話しかけるのを遠慮していたり、リハビリテーションの専門職が患者に対して上から目線で接していることなどである。実は、僕自身も新人の時に自分の考えを患者に押し付けてしまい、杖で殴られそうになった経験がある。
この「違和感」は勤務3年目のある出来事によって、僕が今の活動をするきっかけになった。2009年4月、僕が所属するリハビリテーション科に新任のリハビリテーション専門医が3人加わった。今までのリハビリテーション科の方針は刷新され、3名の医師は早期退院を掲げた。
結果として、1年後に患者の入院期間は半減したが、スタッフの数も今までの2/3になる。早期退院を目指すために、医師がスタッフを厳しく管理するようになり、患者のリハビリテーションが進んでいないと、病棟やリハビリテーション室では怒号が飛んだ。患者の前だろうか関係なくスタッフへの指導がはじまり、それはしばしば患者にも向けられていた。(今だったらパワハラや虐待案件として扱われていてもおかしくない状況だったと思う。余談になるが、「この事象を病院ごととして扱って欲しい」と上長や経営陣にも訴えかけたが、何も動くことはなかったということを付け加えておく。)
方針が変わり、スタッフの態度にも変化が起こる。医師に怒られたくないので、今までよりも患者のリハビリテーションに一生懸命になった。ここで僕が懸念していたのは、一生懸命な分、自分たちの考えを押し付け過ぎているのではないかということである。リハビリテーション科内でも、スタッフの患者への言動について何度も議論した記憶がある。もちろん、スタッフは患者に意地悪をしたくてやっている訳ではなく、目的はあくまでも早期退院であることを付け加えておく。
この年、僕は回復期病棟の専従として配置され、リハビリテーションスタッフの管理も担っていた。前述したような状況にあったため、リハビリテーションの時間以外になるべく多くの患者と話をするように心がけていた。ある日、60代の女性に言われた、今でも忘れられない一言がある。
「いつもリハビリをしてくれてすごく感謝しているわ。でも1つだけわかって欲しいことがあるの。私たち患者もあなたたちに気を遣って、リハビリを受けているのよ」
冒頭で紹介した一言である。女性はさらにこのように加えた。
「医師や看護師、リハビリテーション専門職には自分の意見を言えない。自分の意見を言ってしまったら、明日からちゃんと見てくれないんじゃないかと思ってしまう」
この出来事は僕にとってかなりの衝撃だった。とうとう言われてしまったという悲しい気持ちと、この状況を何とかしたいという強い決意が生まれた。この出来事がきっかけで、ケアを受ける側の患者が医療者への遠慮によって自分の意見を言えないなんて、いったい誰のための医療なんだろうと疑問を抱くようになった。
昨今、「コンヴィヴィアリティ(自立共生)」で話題になったイヴァン・イリイチは、医師が示す診断や治療は間違いないもので、患者や家族は医療を神格化するような文化があると言っている。僕が病院でした経験はまさにイリイチの考えを体現したようなものだ。また、哲学者の山本哲士は、聖なる空間(病院)を俗人に土足で踏み入れられたとき、わたしたちの恐怖と憤りは想像をこえるものだろうと述べ、病院という空間が世俗化されていないことを指摘している。
僕自身、病院を聖なる空間として仕立て上げ、医師や看護師、理学療法士などの医療従事者たちは、患者や家族が望むことを叶えてくれる場所であるという幻想をつくり上げていたのである。病院や医療者を批判したいわけではなくて、誰に教えられたのか分からないけれど、病院とはそのような場所であるという認識が僕の中で勝手に膨れ上がっていったのだと思う。病院を舞台にストーリーが展開するテレビドラマや漫画をよく見ていたので、その影響が大きかったのかもしれない。
病気や障害は見るが、顔を見ない理学療法士
この出来事の後から、自分の理学療法士としてのキャリアを真剣に考えるようになった。僕はしばしば理学療法士は職人であると話をする。ものづくりに携わるような、例えば大工や陶芸家のような、自らが身につけた知識や技術によって仕事をする人たちを思い浮かべて欲しい。僕は経験が浅い理学療法士に対して「患者の顔を見てリハビリを提供しているか」と問うことが多い。こんなことを言うと驚く人もいると思うが、手や足に集中し、患者の顔をほとんど見ずにリハビリを提供している理学療法士は多い。身体機能の回復という目的だけを考えれば、この行為は不思議ではないかもしれない。でも僕らの目的は違う。
日本理学療法士協会は理学療法士について、「ケガや病気などで身体に障害のある人や障害の発生が予測される人に対して、基本動作能力の回復や維持、および障害の悪化の予防を目的に、運動療法や物理療法などを用いて、自立した日常生活が送れるよう支援する医学的リハビリテーションの専門職」であると定義している。僕らの目的は、患者が望む暮らしが送れるように支援することである。つまり、病院の生活だけではなく、その後の生活を視野に入れて、患者がどこで誰とどのような暮らしをしているかを考えながらリハビリを提供することが大切だ。
病院で関わる患者は心身のどこかに課題を抱えている。その課題のうち目に見える課題だけに関わるだけでは、理学療法士としての役割を担っているとは言えない。顔を見て会話をし、時には議論や対話を重ねながら、その後の患者の暮らしを考え、高い技術や知識を持ったリハビリテーションを行うことが僕たちの本来の役割であると思う。これは、理学療法士だけに限ったことではなく、医師や看護師など医療の専門職にも言えることではないだろうか。
このまま病院での勤務を続けていたら、僕が感じた違和感はいつまで経っても何も変わらないだろうと思いはじめた。医療者と患者の関係や、理学療法士の暮らしを見る視点について、これらの課題の本質は病院にはなく、患者が病院にかかる前の地域での暮らしにあるかもしれないと思ったのだ。