かつて日々のくらしに欠かせなかった箒は、電気掃除機の普及とともに需要が低迷し、全国各地の産地は壊滅状態に陥った。ところが近年、電気に頼りすぎないライフスタイルを志向する人、地域の伝統文化や地場産業に価値を見出す人が徐々に増え、職人が手編みした昔ながらの箒への関心が高まりつつある。
なかでも、神奈川県北部の愛川町では、一度途絶えた旧中津村の箒づくりを生業として復活させる取り組みが進む。その立役者として活躍し、伝統を受け継ぎながら作家性の高い作品も手がける筆者は、美術的アプローチにより社会にコミットするという信条の持ち主。いま注目のつくり手が、仕事を通して目指す“ものづくり”と社会の姿とは――。

第13回 工芸の目的とはなにか

 敢えて雑な言い方をするならば、僕は手仕事が好き、というよりは、手仕事に夢を見ている。それは端的に美しくて、人の心を癒やすものであったり、暮らしの利便性を高めてくれるものでもある。また、自然素材を活用するもので、環境問題に訴求できるものでもあれば、自らの身体と直結した、労働としても健やかなものだと思う。

 道具は文化や歴史も背負っている。それらを理解し、解釈することはとても知識やリテラシーが必要なものであるし、使う人々に、その知識とリテラシーを自然と求め、深める機能もあるように思う。歴史を知り、鑑賞、批評できる人は、物事を理性的かつ、感性を持って判断できるだろうし、世界に蔓延る分断をも解消できると思う。自分自身でさえ、そんな万能なものがあるとは信じがたいところもあるのだけれど、それでも本気で信じている。だからこそ、工芸に夢を見ている。だからこそ、手仕事に何ができるのか、何をしてきたのか、どこに向かっていくものなのか、ということをずっと考えてきた。

 学生のころ好きだった吉本隆明に倣って本稿のタイトルを「工芸にとって美とはなにか」にでもしようと思ったけれど、「美」といって、何が最善かと表明してしまうのも時代にそぐわないと感じる。「(言語の)全体の関係を価値とよぶ」 ようなことを言ってしまうのもドライなようで、もう少し夢を見ていたい気もする。けれど、様々な見解が乱立し、分断が喫緊の課題として叫ばれる現代では、俯瞰して、それぞれの立場の目的が何なのかを考えることがあっていい。そうして全体を見渡すことで、これから少し先にある工芸の形を垣間見ることができるんじゃないかと思う。ここまで数回にわたって書いてきた、工芸、クラフト、民藝などの関係について考えていきたい。

※吉本隆明『定本 言語にとって美とはなにかⅠ』角川書店、1990年、第Ⅱ章「言語の属性」より

 そもそも、「工芸」という言葉は明治以降に発明された言葉で、それは西洋の価値観に倣うため、政府主導で作られた概念だった。そして、その鑑賞美術的傾向、作家主義的志向に反旗を翻した運動として、アーツ・アンド・クラフツの影響を受けた民藝運動というものがあり、その側面には、工業化、近代化の移行に対するアンチテーゼも思想として、生産構造の改革も含まれているものだった。

 やがて民藝運動が実り日本全土に浸透、濱田庄司や河井寛次郎ら人間国宝などの影響もあり、結果的に権威化してしまう面も否定できなかったように思う。その後、時代の要請もあり、権威や体制からの解放と自由を求めるクラフトと呼ばれるジャンルが生まれ、また、多くの雑誌を中心としたブームも相まって拡大していく。それらは「解放」を越えて、独自に先鋭化していく文化だった。

河井寛次郎(明治23年 - 昭和41年) 田村茂 撮影『現代日本の百人』文芸春秋新社(昭和28年刊)
ウィキペディアより。パブリック・ドメイン

「クラフト」の後に生まれたもの

 その先には例えば、「生活工芸」と名付けられた動向も生まれた。元は、三谷龍二(木工)や、安藤雅信(陶器)、赤木明登(漆)、内田鋼一(陶器)、辻和美(ガラス)らを中心として、金沢21世紀美術館を会場にした「生活工芸プロジェクト」(2010年)に端を発する、展覧会やトーク、出版といった企画などだ。正直なところ、現場感覚としては作品のカテゴリとして「生活工芸」という表現をすることはあまりないので、工芸のジャンルというよりはプロジェクト名とした方が妥当かも知れない。とはいえ、『「生活工芸」の時代』(三谷龍二+新潮社 編、2014年)の冒頭で菅野康晴は「九〇年代の終りごろから器をつくる作家の取材が多くなりました」として、上記5名の名前を挙げ

「狭義の生活工芸というときに私が念頭においていたのは、そしておそらく今回の筆者たちが念頭においているのも、 彼ら五人が核となり、ほかの作り手、売り手、買い手たちとともに、この十数年でつくりあげたある種の状況のことです。」

『「生活工芸」の時代』(三谷龍二+新潮社 編、2014年)

とも述べている通り、名実共にスターの彼らがクラフトシーンに与えた影響は小さくなく、DIYとは明らかに次元の異なる、洗練された印象の瀟洒な「作家」達を生み出す契機にもなったようにも思う。多くのメディア露出や執筆などは、雑誌を中心とした「暮らし」ブームにおいても大きな動力となっていたはずだ。

※三谷龍二……1952年福井市生まれ。1981年松本市にPERSONA STUDIOを開設。普段使いの食器などを作る。白漆なども用い、現代の生活に合う木工品を制作。絵画や立体作品も多数制作。2011年松本市内に自身のギャラリー「10cm」を開設。クラフトフェアまつもと(1985〜2012)、六九クラフトストリートの運営などの活動もある。著書に『木の匙』『僕の生活散歩』(ともに新潮社)『遠くのまちと手と仕事』(アノニマ・スタジオ)『すぐそばの工芸』(講談社)、共著に『生活工芸の時代』『工芸批評』(ともに新潮社)など。

※安藤雅信……1957年岐阜県多治見市生まれ。武蔵野美術大学彫刻学科卒。日常食器と茶道具、また「結界シリーズ」など現代美術と焼き物を並行して制作。新しい茶の湯と中国茶を提案している。1998年ギャルリ百草開廊。2000年若手作家支援のためstudio MAVO開設。著書に『どっちつかずのものづくり』(河出書房新社)。ほかに安藤明子との共著『ギャルリ百草 美と暮らし』(ラトルズ)、李曙韻 著『茶味的麁相 中国茶のこころ』(角川書店刊)の監修など。

※赤木明登……塗師。1962年岡山県生れ。編集者を経て、1988年に輪島へ。1994年独立。以後、輪島でうつわを作り、各地で個展を開く。著書に『美しいもの』『美しいこと』『名前のない道』、共著に『毎日つかう漆のうつわ』(いずれも新潮社)など。連載多数。

※内田鋼一……陶芸家、造形作家、古美術収集家、アートディレクター。1969年 愛知県名古屋市⽣まれ。製陶所でろくろを引く賃引きの仕事をしながら作品制作をおこない、21 歳で初個展。31歳でparamita museum にて個展が開催、その記録が『UCHIDA KOUICHI』(求⿓堂)として出版される。その他国内外で活躍。2015 年11 ⽉に三重県四⽇市市に私設美術館「BANKO archive design museum」を設⽴。

※辻󠄀和美……ガラス作家・美術家 1964生まれ、石川県金沢市在住。 金沢美術工芸大学商業デザイン科を卒業後渡米、カリフォルニア美術工芸大学でガラスを学ぶ。1996年にガラス制作のブランド「factory zoomer」設立。国内外で展覧会多数。

瀬戸内生活工芸祭実行委員会 編『道具の足跡—生活工芸の地図をひろげて』アノニマ・スタジオ、2012年。三谷龍二・安藤雅信・赤木明登・内田鋼一・辻󠄀和美の各氏がショートエッセイを寄せている。

それぞれの位置関係

 ここで、これまで説明してきたカテゴリを整理したいと思い、関係図を作成してみた。(主観的でもあるし、説明上の図であるので、多少の認識の違いはご容赦戴きたい。)

 工芸、民藝、クラフト。趣味のハンドメイドやDIYを除けば、これらの言葉で、現行の手仕事で作られる工芸品の多くを形容できるように思う。

 工業化によって芸術が蔑ろにされることや、労働環境への反発をしたウィリアム・モリスらのアーツ・アンド・クラフツは、現状に対抗する社会主義的活動として、また、デザイナーなどとも連携し、世界に広がるムーブメントとして展開されていったものだった(図の①)。

 その影響を受けた柳宗悦らによる民藝運動は、モリスらの反プロダクト的な志向に同調しながらも、デザインや作家性というよりは、民衆が歴史や自然の中で獲得してきた(現在で言えば)アノニマスな美や道具を最上のものとした。同時に、明治政府が打ち立てた西洋志向としての作家主義、芸術観に反旗を翻すものでもあった。カウンターでもあり、歴史を重視し、西洋に依らない自律した美を見出したもので、時代や制度に媚びない運動だった(同②)。

 アーツ・アンド・クラフツは、政治運動として、またはビジネスとしても時代に合わせた、共時性、大衆性を持ち合わせたものだ。対して、美術工芸や民藝は、美学的観点として解答を出そうとした絶対性が特徴であるように思う。また、自ら「日本の眼」と評した民藝は、日本の美学、歴史を踏まえた美学としての立場でもあった。美術工芸は西洋の美術観を輸入したもので、「正当な」工芸史としての、美術工芸を打ち立てたものとして考えて良いように思う(同③)。

 そして民藝、美術工芸、どちらも新しい概念ではあったが、民藝は結果的に大きなブームともなり、大衆的に愛されるものとなるし、美術工芸も、制度化されて、誰もが知る一般的な概念となる。

 アーツ・アンド・クラフツが社会構造を越えようとしたとすれば、民藝は、体制を乗り越えようとする運動でもあったが、理解や共感を経て大衆的なものとなったと同時に、時間を経て、先駆的な運動というよりは、世間的な評価と地位を確立することにより、権威的なものとして捉えられてしまうのだと思うことも必然だったように思う(同④)。

 そんな中、より体制から自由に、共感や感性を軸にしたムーブメントとして、クラフトという言葉が使われ始める。それらは流行の雑誌などのマスメディアを巻き込んで、大きなファンを獲得するムーブメントとなった。体制を乗り越える、対峙するというよりは、共感として、横のコミュニティを拡大する志向が強かった(同⑤)。

 そして、自由で縛りがなく、作家の美学と信念にイニシアチブを持たせた活動が流行となる時、商業的な傾向を孕むことは避けられなかった。勿論、ビジネスとしての手仕事は必要なことでもあるが、インターネットやSNSの普及などで、濃密で厚みのある情報ーー歴史や芸術観など、コンテクストの高い表現ーーが難しいことも、当時のメディアの環境では避けられなかったように思う。

 2010年代は、「暮らし系」ブームと呼ばれるものがあった。多くの雑誌が創刊され、それに伴ってショップも全国的に増えた。プロやアマの線引という問題もあるし統計も取られていないので具体的な数字は出せないけれども、イベントの数などから見ても、明らかに作り手も増えた。そしてブームの成長、市場の拡大に寄り添って、技術や意匠、コンセプトやイメージなど、総体として作家の意思表示の洗練を求められる時代があったようにも思える。競争化が起こる中で、またこれらも必然だったのかもしれない。

 そのような動きにおいて、「生活工芸」の作家達が進めた仕事の意義は小さくなかったと感じる。テキストや背景を練り込んだ表現は、流行のものとなってしまった作家物の工芸に、美学としての絶対性を復権しようとしたように僕は感じている(同⑥)。

 「暮らし」ブームの中でも、民藝には何度目かのブームが起きた。共感性や絶対性の揺らぎの中で伝統工芸とはすっかり違う場所まで来てしまったけれど、概ね、時流に合わせて変化する相対的なものづくりというよりは、自ずからの美学による絶対性が高く、歴史の延長線としての工芸を追求し続けているように感じている。

熱の後に立ち上がる理性

 2020年頃からの新型コロナウイルスの流行以降、手仕事の地勢図も大きく変化をしたように思える。物理的な要因としては、大型のクラフトイベントが一時期、完全に停止したことによって数が減り、直接的に共感を得る機会が減ったこと、また、それらを補完するかのようにインターネットやSNSが発達し、普及した。対面の代替品というのみならず、オンラインはオンラインのみの伝達方法も特化し始めているように思える。

 とはいえ、分断や多様化、というとチープなようだけれど、大きな会場の熱気で感情を共有することや、その場所で育まれる文化を受け取る機会が減るという、共感性の消失は、ものづくりの目的意識に大きな影響を与えるはずだ。各々が美しいと思うもの、必要だと感じるものを取捨選択するため、独立して、絶対的な美学を追求する仕事が増えるかもしれない。

 この前、青竹細工を作る若者に会って、記憶に残ることがあった。彼曰く、竹を始めたのは環境問題からの意識が強い。(とりわけ、グレタ・トゥンベリの影響は大きいと話していた。)そして、同年代にはそんな考えの奴らばかりだという話だった。概ね籠の仕事をする人は環境意識が強い人が多いように思うし、僕も勿論、こんな記事を書いているくらいだから工芸による社会への影響や変化可能な構造についてはとても関心がある。

高度経済成長期にプラスチックが普及する以前は、竹を素材とした日用品が数多く見られた。近年、脱プラスチックの実現に向けた代替資源として、竹が再び注目を集めている。

 そんな話は嬉しくもあったけれど、民藝や生活工芸にあった美学や、クラフトや暮らしブームにあった共感的広がりより、現実に対応した行動としての工芸、というものが先立つ志向が世代として盛り上がってくるとしたらすごく希望が持てるように思えた。確かに、2010年代の圧倒的なブームの頃には、どうしてもイベントによっては熱に浮かされたような場所もあった。ブームの落ち着きと新型コロナウイルスの影響もあって、そういった浮つきはなくなった気がする。しかしスマホやSNSの普及で情報が多様になり、体制や一元的な権威、そして、ブームのような大きな共感がなくなった時、理性的な仕事への希望が浮かび上がることも、また自然なことのように思えた。

 勿論、手仕事も芸術の1つとするならば、理性のみを頼りにして芸術を何かの手段とすることは避けなければならない。しかし同時に、ものを作り出すことと、その影響に対する責任は常につきまとうので、考えることもまた止めてはならない。そしてどのような志向も否定するべきではなく、共存していくことが必要だとは思うけれど、自らがどこに位置するのか常に把握していく必要はあるだろう。

 

 便宜的に書いてみたにしても、上記の図では民藝の守備範囲が広い、というよりは、相反する要素を多く持っていて、意味を為さないような書き方を申し訳なくも思う。その広範さが世間での誤解や、分からなさの元となっているようにも思う。柳宗悦の動機として、間違いなくカウンターとしての動向はあったけれど、対して民藝運動家の中には人間国宝のような、権威ある立場のものもいる。土地に残るままの仕事、歴史を極めて重んじるかと思えば、日本民藝館は毎年公募式の新作工芸展を開催している。大規模な百貨店での展覧会や、幾度にも渡るブームなど、極めて大衆的な面もある。

 その中でも、長年僕を悩ませてきたのが、「無銘性」という問題だった。そして、作家であること、無名の職工であることの違いと根源は、工芸の根本的な問題でもあるので、次回以降に述べたい。


記事をシェアする

第13回 工芸の目的とはなにか

by
関連記事