
第5回 「雨のみちをデザインする」―― 金属雨といの新たな価値創造に挑む 株式会社タニタハウジングウェア 代表取締役社長 谷田泰氏 (前編)
山積する社会課題にビジネスの手法で取り組む「ソーシャルビジネス」が注目を集め、さまざまな分野で創業が相次いでいる。同時に、既存企業が自社のパーパス(存在意義)を見つめ直す中から社会課題へ果敢に挑み、企業価値を高めているケースも増えてきた。本連載では、こうしたソーシャルバリューの実現に成功している既存企業にスポットを当て、各社の経営戦略や具体的な実践手法についてインタビューする。
三人目のゲストとしてご登場いただくのは、東京都板橋区に本社を構え、金属雨とい市場でトップシェアを誇る株式会社タニタハウジングウェアの谷田泰社長。建築の「美」と「長寿命化」に貢献する金属雨といの価値を最大限に引き出し、グッドデザイン賞など多数の受賞実績を持つ。2回に分けてお届けするインタビューの前編では、「雨のみちをデザインする」というキャッチフレーズが生まれるに至った経緯と、金属雨といを通じた価値創造のプロセスを伺った。
聞き手:中村陽一(株式会社ブルーブラックカンパニー代表)
構成:ブルーブラックマガジン編集部
●谷田泰氏 プロフィール
1964年、東京都板橋区生まれ。立教大学経済学部を卒業後、住友林業株式会社に入社し、住宅営業に9年間携わる。1996年株式会社タニタハウジングウェアに入社し、2003年代表取締役社長に就任。「雨のみちをデザインする」というコンセプトを掲げ、雨といから得られる価値づくりへと視点を変える。工務店・建築家から高く評価される商品開発を行い、2016年、2017年と2年連続でグッドデザイン賞を2つずつ受賞。2022年、創業75周年を機にCI(コーポレート・アイデンティティ)を一新し、コーポレートロゴのデザインを変更。
他に、株式会社タニタ 社外取締役、株式会社吉岡 代表取締役社長、NPO法人緑のカーテンの応援団 副理事長、Tokiwa-Sou 副代表、一般財団法人軽井沢南原文化会 理事、板橋優良法人会 会長、屋根換気メーカー協会 会長。

●聞き手:中村陽一 プロフィール
株式会社ブルーブラックカンパニー代表取締役。立教大学名誉教授、一般社団法人社会デザイン・ビジネスラボ代表理事、社会デザイン学会会長、東京大学大学院情報学環特任教授。
三代目社長が新キャッチフレーズに込めた思い
――谷田社長とは、私が昨年まで勤務していた立教大学で2011年に開かれた「『緑のカーテン』東京フォーラム in 池袋」をきっかけに、ご縁をいただきました。谷田さんはNPO法人緑のカーテン応援団の副理事長としてコーディネーターを担当され、建築家の隈研吾さんや、今年急逝された高野之夫・元豊島区長、NPO法人ゼファー池袋まちづくり理事長(当時)の石森宏さんに私も加わって、「緑を活かし、人がつながるまちづくり」について大いに語り合いましたね。
そんなふうに、谷田さんとはまず「NPO活動に熱心な企業人」として出会ったのですが、本業では「雨のみちをデザインする」というキャッチフレーズを掲げて企業経営を展開されていると伺い、強い印象を受けました。御社が扱っておられる商品については全くの門外漢ですが、その言葉を耳にした瞬間、私が専門とする社会デザインと相通じる部分がきっとあるはずだと確信めいたものを感じたのを覚えています。
今日は金属雨といメーカーとして歴史と実績を誇る御社において、この新しいコンセプトが誕生するまでの経緯や、それが製品開発や企業ブランディングにどう生かされているのかといったお話をじっくり伺えれば幸いです。まずは御社の事業概要をご紹介いただけますか。
谷田 当社は金属製外装材のメーカーで、銅・ステンレス・ガルバリウム・アルミなどを素材とする金属雨といを主力商品としています。住宅・非住宅を問わず、日本で一般的に使われている雨といの9割は安価な塩化ビニール樹脂(以下、塩ビ)製ですが、金属に比べて経年劣化しやすく、寒冷地では割れやすいなど耐久性に難があります。建物内に雨水が入り込まないようにするための仕組みを雨仕舞い(あまじまい)といいますが、とりわけ木造建築においては建物の耐久性に重大な影響を及ぼす要素であり、これは見過ごせない問題です。建物との調和という面でも、木と金属は相性がいい。こうしたことから、雨仕舞いに最適な外装材の素材は、機能面でもデザイン面でも金属だと我々は考えています。
金属雨とい市場で当社は銅製90%、ステンレス製50%、ガルバリウム製40%と、おかげさまでいずれもトップシェアを占めています。これら金属製雨といの製造で培ったノウハウを応用し、屋根材や外壁材などの製造・販売も手がけていますが、外装材全体の色や質感に統一感を持たせたのが2013年に開発した「TANITA GALVA」シリーズです。製品設計においては、それぞれのアイテムを組み合わせたときの納まりの良さと、建物の「線」を美しくシンプルに演出するデザインを追求し、ご好評をいただいています。


迷いを断ち切った父のアドバイス
――1947(昭和22)年におじいさまが創業された御社は、銅の圧延業からスタートされたそうですね。計測機器メーカーのタニタさんを創業されたのもおじいさまだと伺いましたが、御社はタニタさんから分離独立された形になりますか。
谷田 創業はうちが2年ぐらい遅いのですが、最初から別会社だったようですね。祖父はどなたかが営んでいた事業を引き継ぐ形で銅の圧延を始めたようです。タニタは当初シガレットケースを製造しており、ともに金属を扱うとはいえ、全然違う分野の仕事をなぜ2つ手がけることになったのかはよくわかりません。でも、両社の歴史をたどってみると、人が行き来したり、うちの銅雨といの生産が追いつかなかったときはタニタの工場でつくってもらったりと、互いに助け合いながら、結構バランス良くやれていたようです。
――谷田さんが小学生の頃、はかりのタニタさんはライターもつくっておられたそうですが、「タニタに負けないようなライターをつくる」と作文に書かれたというエピソードを以前伺ったことがあります。幼少期から会社の跡取りという意識をお持ちだったようですが、進路を考える年頃になると、周囲の期待が重荷にはなりませんでしたか。それとも「やってやろう」という気持ちが強かったのでしょうか。
谷田 かなりの重荷でしたね。自分が大学生だった頃は父が二代目社長を引き継いでいましたが、業績はかなり好調で、テレビ東京の「快進撃カンパニー」という番組に出演したりもしていました。そんな姿を横目に見ながら「この人みたいにはなれない」と強く感じていましたね。
そうした中、父と2人で食事をしながら話す機会があり、「将来どうするつもりだ」と問いかけられたわけです。「会社を継ぐなんて無理でしょう」と答えた自分に対して父が言ってくれたのは「お前は別に社長にならなくてもいい。お前より優秀な人間がいたら、その人を社長にすればいい。うちの会社に来れば、お前は誰を社長にするかを決めるぐらいの権利は持てるぞ」と。
――なるほど。それは発想の転換につながるアドバイスですね。
谷田 それでなんとなく気持ちがすっきりして、将来家業に戻ることを前提に就職活動を開始しました。その頃は銅雨といのトップメーカーでしたので、ちゃんとした和風住宅を扱っているハウスメーカーということで住友林業を選びましたが、どこを受けるかは全く父に相談していません。
最初、大学の就職課へ行って「ハウスメーカーで家の営業をやりたい」と言ったら「やめたほうがいい」と止められたんですよ(笑)。ノルマがきつい業界という先入観があったようですね。「相談にも乗らないのかよ」と腹が立ち、それからは一切行きませんでした。ですから、自分で行き先を選び、独自で動いて、勝手に入社したという感じです。
――住友林業さんには9年間在籍されたそうですね。結構長いように思いますが、次のステップへとつながる9年間でしたか。
谷田 結果として、すごくいろんなことが今に生きています。当社は大きくくくれば建材メーカーですが、住宅メーカーは視点が全く違うんですよね。住友林業はそれなりに高級な注文住宅を扱っていますが、雨といに関してはほぼ塩ビです。大体、外壁とかサッシの後、外装材の最後に雨といを選ぶのですが、見本の中から「じゃあ、この色にしましょう」と、営業がさっさと決めてしまいます。その間およそ30秒。住まい手さんは誰も雨といを選んでいません。9年間で100軒ちょっと販売しましたが、当社の雨といがついた家はたったの3軒です。正直なところ「うちの会社、大丈夫か?」と心配になりましたね。
その一方で、家を売るというのは幸せな家族に出会える仕事なんですよ。幸せにはいろんな基準があると思いますが、住宅メーカーのお客様は土地や資金をもっていますし、独身で建てる人はほとんどいませんから家族もいる。しかも、家族仲がある程度良くないと、新しい家を建てようなどという話にはなりません。
そうしたご家族とお付き合いさせていただく住宅営業という仕事は、お客様の勤務先や年収はもちろん、今のお住まいでの暮らしぶりや家族関係など、ご家庭の中に深く入り込む仕事です。なかでも2世帯住宅の場合は誰がキーパーソンかを見極める必要がありますし、「ここは谷田さんのほうでうまく進めてくれる?」なんて裏で言われて調整役みたいになる(笑)。当時はまだ20代ですが、人生の成功者である大先輩たちに「谷田さん、谷田さん」と頼られ、親しくお付き合いさせていただけるのは大きな喜びでした。
また、営業的な視点で言うと、お客様と最初にお会いするときは、ご家族のプロフィールやキャラクターをまず想定します。最初は外れることも多いのですが、的中率が上がってくるにつれて成績も良くなるわけです。経営者になった今、取引先の新規開拓などで初対面の方とお目にかかる機会も多いのですが、そういう能力は大いに役立っていると思います。もっと言えば、素敵なご家族とたくさんお会いしてきたことは、自分が家庭を築いていく上でも非常に勉強になりました。自分の人生を豊かにすることにもつながる住宅営業が心底好きで、素晴らしい仕事だと誇りに思っていましたね。
顧客と価値を再考する
――住友林業を辞められて、31歳で御社に入社されるわけですが、最初の印象はいかがでしたか。
谷田 入ってすぐわかったのは、うちの会社は誰も社長になろうとして仕事をしてないんだな、と。もうちょっとみんな、上を目指して頑張っているのかと思っていたのですが、そういう気配は感じられず、自分としてはちょっと驚きました。
もちろん、いずれ息子が帰ってくるという雰囲気をつくってくれていた部分もあったとは思います。ただ、自分としては先ほどもお話しした通り、優秀な人がいたらその人に任せようというスタンスで戻っているので、ああ、こういう感じか、と。逆にその状況を目の当たりにして、自分が頑張らなければという意識が芽生えたのかもしれません。
――その後社長に就任されたのは38歳、2003(平成15)年ですよね。これは私がパーソナリティを務めているニッポン放送のラジオ番組「おしゃべりラボ~しあわせSocial Design~」にご出演いただいた際にお話しいただいたことですが、社長就任の挨拶回りに行かれたときに、谷田さんとしては未来志向の話をしようと期待されていた。ところが全然そういう話にならず、思い出話ばかりだった、と。印象的なエピソードでした。
谷田 中小企業の面白いところは、代替わりによって代表が30歳ぐらい若返ります。取引先にとっては、急に目線を下げて話ができるようになるわけです。そんなことから、若造に何か言ってやろうということも含めて、今のやり方では絶対ダメだとか、会社の将来像はどうなんだとか、もう少し未来の話ができると思って挨拶回りをスタートしました。この対話を通じて社長としての自分のビジョンももっと固められるなと期待していたのですが、「あの頃は良かったね」と、20年前ぐらい前の昔話ばかりだったのです。代表になってから気がつくのでは遅いのですが、うちの会社は本当にまずいぞ、と。当社に何も期待してくれない人たちを相手に、この先どうやって会社の舵取りをしていけばいいのかと、暗澹たる気持ちになりました。
ただ、父親のすすめで社長就任前からドラッカーの経営学を学んでいたのが幸いでした。これを機に、当社にとっての顧客は誰なのか、彼らは何を価値ととらえているのかを根本から考え直してみることにしたのです。そこで出た結論は、流通ルートの中でお金を直接やりとりしている卸業者さんたちを顧客と思っていても未来はないということです。かといって、住友林業での営業経験からも明らかなように、住まい手が自ら雨といを選ぶことはありません。
そうすると、やはり卸と住まい手さんとの間にいる工務店や建築家さんたちをお客様ととらえなくてはならない。彼らがどういうものを望んでいるのかを知った上でのものづくりへとシフトしていかない限り、未来はないなと確信したわけです。
それと同時に、わが社は雨といを通じてどういう価値を提供しているのか。そこをもっと掘り下げていく必要性を痛感しました。

(2023年7月13日、HIRAKU IKEBUKURO 01 SOCIAL DESIGN LIBRARYにて)
雨といの「晴れの日の価値」を見出す
――先ほどのお話にもありましたように、住まいづくりにおいてインテリアに凝る人はいても、雨といに凝る人はほとんどいないわけですよね。そうしたなかで、住まいにおける雨といの価値をどこに見出すのか。これは面白いけれどすごく難しい問いですね。
谷田 当時すでに本を読んで学んだりもしていたのですが、雨といの起源は奈良時代までさかのぼります。以来、雨といに求められる価値は歴史的にどんどん変わっていくのですが、もともとは屋根に降った雨を集めて使うために設けられたと言われています。それが最初だったのですが、神社仏閣の大きな屋根がある軒先でお賽銭をあげたりするとき、雨といがないと参拝している人が雨の日に濡れてしまう。それで寺社を中心に軒といだけ付けるようになっていったそうです。
江戸時代になると、江戸の街は家が密集していましたので、火事になるとすぐに燃え広がってしまいます。そのため茅葺きや板葺きだった屋根に不燃材を使えという幕府からのお達しが出て、全部瓦になっていく。瓦屋根は防火には適していたのですが、雨水があちこちから一気に流れ落ちてしまうので、木造建築の耐久性という面で建物に悪影響を及ぼすようになった。それで雨といが一般住宅にも普及したと言われています。
そういう歴史的な事実を知り、自分としては日本の木造建築における雨といの機能を再認識していたのですが、当時からお付き合いのあった建築家の方たちと話していたとき、「本当は雨といを付けたくない」と言う人が結構いたんですよ。「雨が降っているときは必要だけど、晴れていたらいらないだろう」と。軒先をせっかくきれいに見せているのに、ごちゃごちゃしたものが付くと台無しだとおっしゃるんです。
だとすれば、晴れの日の雨といの役割とは何なのか。それを見出し言語化する必要があると、すごく意識するようになりました。言い換えれば、「雨といを通じて提供しようとしている価値とは何か」という問いへと向き合う必要性に迫られたわけです。そんなとき、自分の中に突然降りてきたのが「雨のみちをデザインする」という言葉だったんですよね。
――ドラッカーの著書『経営者に贈る5つの質問』に、①われわれのミッションは何か、②われわれの顧客は誰か、③顧客にとっての価値は何か、④われわれにとっての成果は何か、⑤われわれの計画は何か、という問いが提示されていますよね。谷田さんの場合、ドラッカーの議論を勉強されながら本業と結びつけ、まず②の顧客とは誰か、続いて③の顧客にとっての価値についての考えを深めて行かれた。その延長線上に、①の「雨のみちをデザインする」というミッションが導き出されたということですか。
谷田 はっきりとした順番があったわけではなかったと思います。ドラッカーを学んでいたときだったからこそ、当社の使命とは何かと考えながら雨といのルーツについて自分なりに調べてもいましたし、最初の3か月で取引先を回った際、この人たちは未来の顧客ではないなと感じ取ることもできました。そうしたいくつかの要素が重なり合って、「雨のみちをデザインする」という言葉にたどり着いたように思いますね。
ただ、すぐに「これだ!」と確信を得たわけではなく、自分の中で言葉がぐるぐると回っている時間がしばらく続きました。そんなある日、たまたま訪れた展示会で、西尾(旧姓・吉田)真紀さんという書家さんが1枚500円で書を書いてくれるコーナーがあったのです。それで自分の思いを伝え、「雨のみちをデザインする」という言葉を3枚書いてもらいました。西尾さんが目の前でシャシャシャッと書いた瞬間、「これで行こう」と思ったんですよね。なぜかと言われてもわからないのですが、そのときに覚悟が決まりました。
その後、まず社内で話をしまして、対外的にも当社の新しいキャッチフレーズとして使うようになったのは翌2004(平成16)年の4月頃からです。

――社内に「雨のみちをデザインする」というキャッチフレーズを提案されたとき、社員の皆さんの反応はいかがでしたか。
谷田 めちゃくちゃ悪かったです(笑)。もう無反応に近かったですね。「うちはものづくりの会社であって、デザインなんてしてないし」と。デザインという言葉は近年だいぶ身近になりましたが、20年前ですから、まだすごく遠く感じていたと思います。ですから、雨とい屋と「雨のみちをデザインする」ということが、全く結びつかない。自分自身も、当時はこのミッションを掲げてこんな事業を展開したいという具体的なものはまだ見えておらず、「この言葉を手がかりとして、雨といの先にある価値を一緒に考えられれば、もっと面白いことができるよね」という程度だったのですが。それでも、理解してもらうのは結構大変でした。
そのときに、やってよかったことがいくつかあります。1つは既存の流通先を回っていた営業マンが当時20人ぐらいいたのですが、その約2割に当たる5人を、建築家や工務店という新規顧客の開拓に充てたことです。新しい仕事を始めるときには一番優秀な人間に担当させないとダメだ、そうでないと失敗したときに担当者の力量不足だったという話になって経営側が判断を間違うと、これもドラッカーから学んでいたので、ベストメンバーを5人集めて社長直結の課にしました。
それで関東を中心に新たな営業先を回り始めたのですが、彼らがまず「雨のみちをデザインする」という言葉は面白いかもしれないと言うようになりました。最初はあまり売上には反映されず、PRみたいな感じで数値化はできなかったのですが、なんとなく行けそうだという手応えを感じ、彼らが自分の味方になってくれたことが大きかったですね。
――コンセプトを浸透させていくために新商品とセットにするとか、事業戦略的なものはあったのですか?
谷田 正直なところ、当初の段階ではこれといったものはありませんでした。ただ、書家の西尾真紀さんと一緒に『雨くんのひとり旅』という絵本をつくったのです。西尾さんとは初めてお会いした展示会の後も仲良くさせていただいていたのですが、事務所を訪ねた折に「社外より社内が問題だ」と話したら、「谷田さん、絵本をつくろう」と。それでどれだけ社員に伝わるかは未知数でしたが、5000冊つくりました。会社の金でつくると、どんどん違うものになりそうな気がしたので自腹です(笑)。
この絵本は空から降った雨が花や緑、土、微生物と出会い、再び空へ戻っていくという雨水の循環を物語に仕立てたものですが、社内で配ったり、お客様に配ったりしているうちに、自分が本気でやっているという感覚が少しずつ伝わっていったようです。「雨のみちをデザインする」という言葉にそれほどの思いがあるのならと、社員も耳を傾けてくれるようになりました。

オールドスタイルの新商品がヒット
谷田 もう1つ、「雨のみちをデザインする」と言い始めた時期に出会った沖縄出身の建築家さんがいらっしゃるのですが、その方とのお付き合いがきっかけになり、「半丸」という当社で今いちばん売れている商品ができあがりました。その開発に当たっては、特命チームメンバーだった現在の常務と建築家さんの事務所へ通い、バンバン試作品をつくって短期間で形になったんですよね。新商品なので商品企画会議にかけましたが、当時は誰も売れると思っていませんでした。というのは、半丸の形状というのは業界ではある意味オールドスタイルなんです。もっと角型とかいろんな新しいデザインがあるのに、なぜ昔に戻るの?と。樹脂メーカーでも安い建て売り住宅にしか使わない雨といというイメージでしたから。
自分もその会議に参加していましたが、商品化に漕ぎつけたのは「社長の息がかかったプロジェクトだから、何を言ったって仕方ない。どうせやるんだろ」という理由で、決して前向きなゴーサインではありませんでした。協力してくれていた建築家さんは年間10棟くらい手がけている方で「僕は全部使うよ」と約束してくださり、彼とつながりのある工務店もあるので年間100棟くらいにはなるということでしたが、うちの売上はたぶん1棟5万円くらいです。だから年間500万程度にしかなりませんが、コストは確か1000万ぐらいだったと思います。詳しい数字は忘れましたが、とにかく普通だったら考えられない企画です。

でも、「半丸」の商品開発に取り組んだら、次々と面白いことが起こりました。一緒に開発した建築家さんにはお金も払わず、ただ一緒に楽しく取り組んでいたのですが、「タニタさんとこんなものをつくってます」とブログにアップしてくださったら、発売前に資料請求が来たのです。当社の商品は通常、卸を通して流通するので、まず卸業者や板金屋さんに情報が伝わり、そこから工務店につながっていきます。ですから売れ出すのに1年くらいかかってしまうことが多かったのですが、ダイレクトにこういう反応が来るんだとびっくりしました。
実際に商品ができあがってからも反響は大きく、営業先でカットサンプルを出すと、「ああ、これ誰々さんと一緒にやってたやつね」という反応が返ってくる。「なぜご存じなんですか」と尋ねると「ブログで見たよ」と。そんなやりとりが続いて、あっという間に半年で160棟分ぐらい売れてしまった。営業担当者は自分で売りながら「こんなにすぐ出るようになるの?」と半信半疑の様子でした。
その後も売上を伸ばし続け、去年は6000数百棟分くらいの販売実績ですので、当初見込みの60倍ぐらいの数字です。でも、それを最初から目指していたら、おそらくこの結果には結びつかなかったのではないでしょうか。こうした一連の出来事があって、ようやく社内が「三代目も案外頑張ってるな」という空気に変わっていったような気がします。
――たしかに、外から評価を受けて、中の人が「今やってるのは面白いことなんだ、いいことなんだ」と気づかされることは多々ありますよね。当初、いわゆるマーケティング的なアプローチをそんなにおやりになったわけでもないようですが、この「半丸」が成功した決め手は何だったのでしょうか。
谷田 先ほど申し上げたように、半丸の雨といを付けるのは安い家という業界の常識に対抗し、当社は塩ビでなくガルバリウムという金属でやったのが1点目ですよね。でもそれ以上に大きかったのは取り付け金具の工夫だと思います。雨といは一般的に受け金具で下から支えることが多いのですが、するとその線が60cm間隔で入ってしまう。軒をきれいに見せるにはどうしたらいいかと考えた結果、吊り金具で吊るようにして、軒といが一本の線に見えるようにしました。それは建築家さんと話していたときに、当社から提案したことです。その金具や他の部品もシンプルなデザインにして、とにかく悪目立ちしないように心がけたことが大きな支持へとつながっていったのだと思います。
それはただ塩ビを金属に変えればいいということではなく、やはり晴れた日にもすっきりと美しく見えるデザインをみんなで追求したことが功を奏したのではないでしょうか。
>>後編に続く(2023年8月21日公開予定)
●会社概要
会社名:株式会社タニタハウジングウェア
事業内容:金属製雨とい、屋根材、外壁材等の製造・販売
営業拠点:東京・大阪・名古屋・仙台・秋田
設立:1947(昭和22)年
従業員数:130人
ホームページ: https://www.tanita-hw.co.jp/