かつて日々のくらしに欠かせなかった箒は、電気掃除機の普及とともに需要が低迷し、全国各地の産地は壊滅状態に陥った。ところが近年、電気に頼りすぎないライフスタイルを志向する人、地域の伝統文化や地場産業に価値を見出す人が徐々に増え、職人が手編みした昔ながらの箒への関心が高まりつつある。
なかでも、神奈川県北部の愛川町では、一度途絶えた旧中津村の箒づくりを生業として復活させる取り組みが進む。その立役者として活躍し、伝統を受け継ぎながら作家性の高い作品も手がける筆者は、美術的アプローチにより社会にコミットするという信条の持ち主。いま注目のつくり手が、仕事を通して目指す“ものづくり”と社会の姿とは――。
第12回 民藝と社会運動
民藝運動は、1926(大正15)年に柳宗悦・河井寛次郎・浜田庄司らによって提唱された生活文化運動です。
僕は、日本民藝館主催で毎年12月に行われる「新作工芸展」への出品や、民藝協会への加入、雑誌『民藝』の購読、その他イベントへの参加などで民藝に関わってきました。民藝運動は、民藝という言葉が出来てから100年ほど経つ運動であり、多くの言論、また幾度ものブームによるイメージの変化など、語るべきことは多くあります。その中でも、まずは社会デザインというテーマに近いところから、語っていけたらと思っています。
民衆の中にある芸術
民藝というものを語る時に起きる誤解は多くあって、しばしば、観光地などで見かけるお土産ものか何かと思われていることがあるのだけれど、おそらく、民藝はそのような量産品とは遠く離れた所、対極に近い所にあると言っていいだろう。
柳宗悦らより早く、また彼らに影響を与えた運動として、ジョン・ラスキンやウィリアム・モリスらのアーツ・アンド・クラフツ運動がある。それらは、1880年代にイギリスで興った運動で、産業革命の結果、大量に生まれて来たプロダクトに対して、手仕事や芸術性を復権させようとした運動だった。ギルドの結成や、展覧会を通して、質素な生活や労働の喜びを謳う生活の在り方は、美しい田園風景や生活の喜び、自由を謳歌する人々の暮らしを描いたモリスの『ユートピアだより』(1893年)などにも分かりやすく著されている。
芸術の目的は、人々に彼らの暇な時間をまぎらわし、休息にさえあきることのないようにするために美と興味ある事件とをあたえることによって、また仕事をする際には希望と肉体的な快楽とをあたえることによって、人々に幸福感を味わわせることにある。要するに人々の労働を楽しく、休息を豊かにすることにある。したがって、真の芸術は人類にとって純粋の祝福なのである。
ウィリアム・モリス『民衆の芸術』岩波書店、1953年
社会主義者でもあったモリスは、人々が幸せになることが芸術の目的であるとし、「誠実で簡素な生活」こそが理想と考えていた。それらは生産活動を見直し、職人の技術や天然素材を尊ぶものだった。その思想に共鳴した建築家やデザイナー、職人が連携し展開された運動は、各地の協会、展覧会、企業活動や学校などの形となり、世界へと広がっていくこととなる。
これらのアーツ・アンド・クラフツ運動にも影響を受けることとなる柳宗悦は1889(明治22)年、東京に生まれた。学習院高等科在学中に、武者小路実篤※1、志賀直哉※2らと雑誌『白樺』の発刊に参加。ロダンなど、西洋美術の研究や批評を行なっていたが、朝鮮の工芸品や木喰仏の出会いをきっかけに「民衆的工芸」を意味する「民藝」を提唱することとなった。
※1小説家。経済格差や過重労働を廃した、自給自足に近い村落共同体「新しき村」を作ったことでも知られる。
※2小説家。甥にあたる志賀直邦氏(1930~2020)は、柳らの設立した民藝店「銀座たくみ」の経営者でもあった。
柳らの工芸が目指すもの
民藝運動において柳は、第8回で述べたようなヒエラルキーに対しての批判も行なっており、社会や工芸を取り巻く体制への意識の強さが窺える。自著『工藝の道』の「緒言」では
すでにここ一世紀の間に、二つの方面から工藝の意義が追求せられた。一つは経済学的立場から、一つは審美的価値から反省せられた。あるいはこれを物的見方と心的見方とに類別することもできるであろう。概して見れば前者を代表するものはマルクス Marx の流れ、後者を代表するものはラスキン―モリス Ruskin-Morris の思想である。(中略)工藝問題に向って投げた彼らの思想は、真に後に来る者への貴重な遺産である。
柳宗悦『工藝の道』講談社、2005年
など、資本主義への批判と、美学的な価値としてモリスらの運動を評価している。さらに、「経済問題に入ることを最小限度に止め」る、と前置きをしつつも、「私の学び得た範囲では、工藝の問題に関しては、ギルド社会主義 Gild Socialism が経済学的に最も妥当的な学説であると考えられる」など、芸術や文化運動としての「民藝」を広げていく中で、政治や社会構造への指摘があったことは見逃せない要素の一つだ。
工藝品の大部分を占めるものは、生活に必要な器物の類です。もし工藝の世界を健全に発達させようとするなら、量において最も多いそれらの用器を、質において高めねばならないでしょう。丁度少数の人間が優れても、大衆の素質が低いなら、立派な社会を形造る事が出来ないのと同じです。(中略)それらのものが粗悪な限り、工藝による美の王国は成就される事がないでしょう。特殊なごく少量のものが美しくなったとて、世界に救いは来ないからです。わずかの坊さんたちにだけ信心が残るなら、宗教の時代は去ったといってもいいでしょう。神の王国を来らすためには、信仰が汎く案生に行き渡らねばならないのです。
柳宗悦「民藝の趣旨」『民藝四十年』岩波書店、1984年
(中略)
宗教家は救世の念願を果すために衆生に呼びかけました。工藝に志す者はどうして民藝に呼びかけないのですか。その救いを果さずば世界は潤わないのです。
(中略)
私は何よりも普段使いの品が健全にならずば、この世は美しくならないと思う者です。美と生活とが離れるならば、人間の美意識は低下してしまうでしょう。この世に美を栄えさすために、また美しさへの心を深めるために、用器を美しくする事の必要を切に思う者です。 工藝が衰えては美の王国は決して成就されないでしょう。
美学、工藝論として、民藝の思想を展開していく中でも、その問題を大衆の精神性として根深く捉え、社会の健全、「美の王国」までも夢見る切なる願い、情熱には、今なお心を動かされるものがある。
運動の思想性と体系化
また、これら『工藝の道』の連載後、黒田辰秋(木工)、青田五良(織物)、青田七良(金工)、鈴木実(染色)らによって、共同作業、共同生活をする上賀茂民藝協団も設立された。資金面などの苦労もあり、2年ほどで解散してしまったけれど、その際に作られた作品や試みの影響は小さくはない。
また同書の中で、ギルドや工藝の村を作る必要性を語る「工藝の協団に関する一提案」という文章がある。その中で「真の工藝道」に達する方法として
一、修行 Discipline 自力道
「工藝の協団に関する一提案」『工藝の道』講談社、2005年
二、帰依 Surrender 他力道
三、協団 Communion 相愛道
あるいはこれを内省と信仰と生活とに数える事も出来よう。
と述べている。民藝運動において協団を作る意義はギルドのような経済的問題というよりは、思想的な目的、踏み込んで言えば無我の先にある境地を目指すような禅的宗教性にもあった。
上記の三つの道を要約すると以下のようになる。
美とは何か、どのように美が生まれたか、どう見る目を養ったら良いか、我々の使命は何か。それを内省し、理解、自覚する「自力道」が求められるそして宗教の思索が神への奉仕へと転ずるように、進んで自我を放棄し開放(ママ)する。美しい古作品が自然に忠順であったように、自然に身を任せるのが「他力道」だ。しかし、自己修行(自力)や自然への帰依(他力)でもまだ不足していて、目的を達するためには、生活にまで進める必要がある。世捨て人であるより、修道士のように、力を協(あわ)せることで信念を強め、生活を浄める生活様式が、将来の工藝を救う道である。 ※筆者吉田による要約
というようなことが語られている。晩年に書かれた「美の法門」など、民藝の背景にある思想的宗教性の高さは知られたところであるけれども、柳の目的は「美」であって、教典じみたものであるとか、戒律のような実際的な意味での宗教活動は見受けられない。あくまで、美しい工芸を再評価して発展させていくために共同体を構想し、経済活動や思想までも具体化していた運動だと言える。
また、それら具体的な運動の方法を示す図表として有名な「民藝樹」がある。1939(昭和14)年、『月刊民藝』創刊号に掲げられた図は、民藝運動の柱としての美術館、出版、流通という三本の枝が集まり、民藝の樹となる図が残されている。工芸品を集めて、見せる役割を担う美術館としての「日本民藝館」。運動を広げて人々を役割を担う出版として雑誌『工藝』などの印刷物。そして、品物を届ける役割として「たくみ工藝店」を始めとするショップを展開していった。これらの計画的なメディア戦略が確実に遂行されることで、日本全国に民藝の名を轟かせ、根付かせることとなった。
現在でも、1936(昭和11)年に建てられた日本民藝館を始め、昭和後半にかけて作られれた30近い地方の民藝館や参考館、記念館などがある。それらの設立には、民藝運動に加わった棟方志功、濱田庄司、丸山太郎、芹沢銈介、河井寛次郎、吉田璋也、外村吉之介などに代表されるような、各地で活躍した工藝家や運動家が関わっている。
また、各都道府県の民藝協会も30団体近くあり、各地で研修やイベントなど、全国的に活動が行われている。民藝協会の全国大会や、夏期学校などの勉強会なども定期的に開催されている。日本民藝協会の会報誌である『民藝』は800号を越え、地方協会が作成する会報誌など、規模の差はあるにしろ、今なお継続して活動が展開されている。販売店の展開も、老舗だけでなく、若年層に人気の新規店舗まで幅広い。多くの富裕層の協力があったとはいえ、民間から発生した芸術運動が、100年近く全国的に継続されているということは、世界的にも希少な例ではないだろうか。
毎年開催されている「日本民藝館新作工芸展」では、現在でも、全国から数百の応募があり、多くの作り手や配り手が集い、意見交換をする場となっている。(入選作は会期中展示、会期後に販売、準入選作は会期中の即売となっている。)
オルタナティブとしての民藝
このように、民藝における社会運動的な側面を大まかに紹介してきたのだけれど、あまりに恣意的な説明なのではないか、という批判もあるかもしれない。柳宗悦らの目的はあくまで美しい工芸品の発見や普及であって、共同体の実験や美術館、出版などはその手段に過ぎない。
とはいえ、根本的には「貴族的な鑑賞美術」に抗するがために生まれたものでもあるから、存在そのものがカウンターカルチャー、社会変革的な性質があるとも言える。1958(昭和33)年の雑誌『民藝』4月号において、柳による、近代美術館への直接的な批判があった。
近代美術館は「現代の眼」を標榜してゐる。併し民芸館は「日本の眼」に立たうとする。「日本の眼」に、最も正しいもののあるといふ信念を持ちつづけてゐる。近代美術館でいふ「現代の眼」は、要するに「西洋の眼」なのである。(中略)私どもの考へでは、日本の美術館は「西洋の眼」などを真似せず、須く「日本の眼」に立つ可きだと思はれてならぬ。」
柳宗悦「近代美術館と民芸館」『民藝』1958年4月号、日本民藝協会
「(近代美術館は)西洋的な「現代の眼」を代弁する形をとつてゐるので、日本固有の仕事から遠のくのである。悪く云へば、西洋の後塵を拝する怖れがあらう。
民藝運動における柳の根本期な姿勢として、官製の美術工芸の仕組みや在り方への抵抗というものがあった。現状としても、教育、美術館、公的な支援制度など、日本では明治移行に成立した美術概念を基準に政策や制度設計がなされている。現在は、多少詳しい人でなければ民藝がカウンターカルチャーであるという認識はないし、当時の柳のように制度批判をする人は多くないけれど、西洋美術とは異なる工芸を提案し続けるオルタナティブとしての存在感は、幾度もの再評価を経てなお増していると言えるだろう。
今なお、提示される問題
先述したように、ウィリアム・モリスらのアーツ・アンド・クラフツ運動は、工業化社会に対して、美学や労働的な観点から対抗した運動だった。それらに影響を受けたものの、柳は、モリスらの進めていた運動を工芸の美ではなく美術であると批判もしていた。大きな相違点としては、デザイナーや建築家が主導していたアーツ・アンド・クラフツに対し、地域地域の無名の職工による雑器や下手物と呼ばれる工芸品を美しいとした点があるだろう。
しかし共通してモリス、柳らは共に急激な近代化や工業化によって失われる美的感覚や生産の在り方に警鐘を鳴らしていた。加えて、日本において工業化や近代化を受け入れるということは、西洋化、欧米の価値観に追従することも意味していた。
柳の賛美した「日田の皿山」にあったような暮らしぶりは、明らかに日本近代化以前の在り方と言える。現在の私達の暮らしの中でも、大量生産と大量消費による環境負荷、生産性向上のために過重な労働を求められる労働問題など喫緊の課題は少なくないだろう。SDGsなどで語られるような地域創生、一極集中から、地域に息づく仕事に光を当てるような視点は、柳らの目指した形でもあっただろう。明治以降の近代化、同時に行われた西洋志向のもたらした文化や生産構造に関する課題は、産業革命当時から現在まで、絶えず語られていると言っていいように思える。
そして、課題解決以上にモリスらの言う豊かな暮らし、柳らの言う、美しいものを見極める日本の眼を私達が獲得できるのか、ということは、まだ社会にとって遥か遠く、シリアスな問題であるように思う。