かつて日々のくらしに欠かせなかった箒は、電気掃除機の普及とともに需要が低迷し、全国各地の産地は壊滅状態に陥った。ところが近年、電気に頼りすぎないライフスタイルを志向する人、地域の伝統文化や地場産業に価値を見出す人が徐々に増え、職人が手編みした昔ながらの箒への関心が高まりつつある。
なかでも、神奈川県北部の愛川町では、一度途絶えた旧中津村の箒づくりを生業として復活させる取り組みが進む。その立役者として活躍し、伝統を受け継ぎながら作家性の高い作品も手がける筆者は、美術的アプローチにより社会にコミットするという信条の持ち主。いま注目のつくり手が、仕事を通して目指す“ものづくり”と社会の姿とは――。
第11回 工房からの風
ここまで、工芸だクラフトだと、概念的な話が多かったのだけれど、作り手として語るべきこと、また語れることは、やはり現場の体験についてです。どのようなシーンにおいても、深く掘り込めば個性的で、簡単にカテゴライズできるものではないのかも知れないけれど、僕なりに、ここまで語った伝統的な工芸でも、オルタナティブとしてのクラフトでもないシーンとして、「工房からの風」についても語りたいと思います。
「工房からの風 craft in action」は、千葉県の市川市で開催されている手仕事の公募展。僕自身、かつての出展作家であり、今はその人たちをサポートする「風人」という立場でお手伝いをさせてもらってもいるので、どうしても個人的な思い入れや主観の強い語りになってしまうけれど、ご容赦戴けたらと思います。
独自で異なる色を放つ場所
工房からの風は、1993年から千葉県市川市のニッケコルトンプラザの敷地内で開催されている、工芸作家の公募展で、いわゆるクラフトフェアの系譜とは異なり、オックスフォード大学の「art in action」※の活動をきっかけにしている。また、日本毛織株式会社(ニッケ)が母胎であることもあり、2016年にメセナアワード大賞を受賞している。
※オックスフォード大学の文化人類学の研究団体が主催。アートやクラフトを通して作る人と使う人の交流と進化を目指している。野外に張り巡らされたテントで展示、ワークショップ、デモンストレーションを行なう。
僕が工房からの風に初めて応募、出展したのは2011年だった。ホームページをみるだけでも、年齢制限があることや、毎年は出せないこと、明確にプロを目指していることなど、詳細な応募要項にもいわゆるクラフトフェアとは違う手触りを感じていた。「新鮮な作り手は、時代の中で果実のように生まれてきます」というポジティブなメッセージは、乱立し、混沌としていたクラフト界隈とは違う色を放っていた。
工房からの風は、出展者を集めて密度の高いミーティングが2回ほど開催される。ミーティングは、鎮守の杜といわれる、ニッケコルトンプラザの敷地内の、実際の展覧会場でもある庭で行なわれる。鎮守の杜には、日本毛織によって建立された、おりひめ神社があり、樹齢の高いクスノキやシイに囲まれて、静謐な雰囲気を漂わせている。
手仕事の庭と呼ばれる花壇には、染料など、手仕事の素材になる植物が育てられている。工房からの風がここで開催されるまでは、ヴェルサイユ調の庭園だったそうなのだけれど、僕がこの場所を訪ねた頃には、そういったヨーロッパ式庭園とは対極を行くような姿を見せていた。大変な手間をかけていることが想像できる多様性に満ちた庭は、線を引いたように区画する訳でもなく、数多くの植物が自然な形で共存している。例えば、徹底的に管理し、目的以外の植物を雑草として全て排除して、望み通りの形に剪定、植え替え、自然を支配するような庭園があるとしたら、その真逆、植物の声を聞きながら、伸び伸びと育つように手を入れ、共存し、互いが幸せな関係を築く。そんな庭なのだと思う。
これは後から気がつくことだけれど、このような庭で手仕事の展示をすることにはすごく意味がある。それは、自然素材を用いた手仕事こそ、素材の声を聞き、その真価が活かされるように手を入れ、共存し、自然と人が幸せな関係を築くことでもあるからだ。
第8回で述べたように、美術工芸の潮流として展示といえばギャラリー、MOMA発祥のホワイトキューブが用いられることが多いのだけれど、それらは手仕事の展示空間としてはごく最近のものだ。自然と隔離され、自然の意志の封殺された空間には、人間中心主義的な志向が多分に含まれるものであって、そのような鑑賞美術化とは異なる方向へ歩みを進めるとしたら、このように自然と共存する形での展示空間というものも、実は本来あるべき姿なのではないか。今となってはそう思わされる。
鎮守の杜は、木漏れ日に満ちていて、どこにどう作品を展開させるか、心を踊らされる場所だった。ミーティングは出展にあたっての諸注意、というよりは、この展示会をいかに質の高いものにするか、という気迫を感じさせるものだった。当日に、一番いい状態の作品群を展開できるよう準備していくこと、また、「ただ作り手が集まったイベントではなく、個展が50個開催されるものと思ってください」という言葉も印象的だった。説明もそこそこに場所を移動して、出展者同士の自己紹介の時間もある。
これは後にしみじみと実感することなのだけれど、工房からの風の出展者同士は、繋がりが強い。全員が全員という訳ではないかも知れないけれど、皆でいい展示会を作ろう、いい仕事を発表する場を皆で作ろう、という意識を共有できた者同士は、離れていても仲間意識が生まれる。特に、全力をぶつけ合った者同士ならなおさら、数日の体験でも忘れられない出来事となる。手仕事のイベントというものも様々で、気概のあるイベントも少なくはないのだけれど、そうでもないものもある。もちろん、仕事で食えなければ続けても行けないけれど、気持ちが満たされなければ、わざわざこんなに手間のかかる仕事をする意味もない。手間ひまと気持ちを注げる場所があり、それを共に喜び会えることこそ、本懐と言えるのではないだろうか。どんなに大きくて、話題性のある場所に出ても、作業のように作品を売って、集まって解散というのでは、空しさもある。
ミーティングの時、手仕事の庭で全国的にも稀少なホウキモロコシを栽培していたことに驚いたのだけれど、とにかく、両手を広げて迎えられている印象を強く受けた。当時、箒を持って展示会やクラフトのイベントに出る人などは少なかったし(もちろん現在でも多くはないが)、奇異な眼差しを向けられることの方が多かった僕にとって、当然のように受け入れられたことは、初めて仕事を認められたような気持ちになったものだった。
当時はとにかく、作れるものをガンガン作って持っていくだけだった(今もそんなに変わらないかも知れないけれど)ので、その後の行程はあまり覚えていないのだけど、当日は、とても輝いた二日間だったことは脳裏に焼きついている。展示を喜んでくれるスタッフの皆さんはもとより、来場者の皆さんも特別に温かかった。話を聞いてくれる。共感してくれる。そして心から納得した上で購入してくれる方が多かった。箒の価値や魅力を知った上で、箒を暮らしに取り入れてもらいたい。その一心で今も昔も行動しているので、得られた充実感は、売上や数字などを遥かに凌ぐ。ポジティブな磁場はポジティブな繋がりを生むもので、当時から現在まで繋がる仲間や、取引先も少なくない。
根は深く、風は新しく
もちろん、手仕事の世界は大変な多様性があるもので、どんな人にも工房からの風が最適解であるということではないけれど、この時に手触りで理解した、いわゆる「クラフトフェア」との違いは、雰囲気の違いなどのシームレスなものではなくて、明らかな文脈の違い、背景の違いであるということも、後に感じることとなった。
「クラフト」に、反体制的な志向が含まれていたことは前回述べた。対して、工房からの風では「反〜」というような批判意識というよりは、明るい向日性がすごく強いように思う。おそらく、この会設立の経緯に、幾らかの理由を求めることもできると考えている。
工房からの風のディレクターである稲垣早苗さんは、学生の頃から本格的に俳句に打ち込み続けていた。そして、縁があって、金沢の工芸スペースのスタッフを経験してから、日本毛織に入社した、という経歴がある。ここだけに根拠を求めてしまうのは安易すぎるけれど、伝統性を汲んだ俳句や金沢の工芸に触れることは、先に述べた反発というよりはむしろ、伝統に深く入り込み、理解を示す立場であったはずだ。(ちなみに、俳句に通じた人には説明するまでもないのだけれど、芭蕉の時代から不易流行と言われている通り、伝統的かつ革新的であるからこそ俳句であって、それも工房からの風の在り方に繋がっているようにも思えるのだけれど、また大きな話になってしまうのでそれはまた別の機会に。)
さらには、稲垣さんがニッケコルトンプラザで手掛けたのは、雑誌『銀花』(2010年に休刊)と提携したギャラリーショップだった。『銀花』は「性別、年齢にこだわることなく、暮らしの中の美を求め、味わい深い人生に誘う趣味の雑誌」と、版元である文化出版局のホームページにはある。
ここでいう「趣味」は、現在で言うホビーやアマチュアという意味ではなく、審美眼や美意識を持ち、文化全般に精通している茶人や数寄者にも言われた趣味人のような意味で捉えた方がいいだろう。『銀花』を創刊した今井田勲は、『装苑』編集長に就任したのち、『ハイファッション』『ミセス』なども創刊した凄腕編集者。そして、稀覯本蒐集者としても知られている。その広い視野と見識、感性によって、『銀花』にはいわゆる伝統工芸が特集されることもあれば、民具や民藝、個人作家の走りのような人から玩具まで、かなり広範囲にわたって取り上げられている。そのため、何がテーマなのか、と一言でいうにはとても難しい雑誌なのだけれど、伝統的なものを取り上げながらも固執せず、軽味があり、掘り込んだ記事が多く見られるのが魅力とも言える。
これは手仕事に限った話ではないのだけれど、「自由」を謳いながらも結果的に全く受け付けない領域があったり、一定の志向に固執しているケースはままある。もちろん、『銀花』も個性の強い雑誌ではあるけれど、ジャンルの枠組みに依らず組まれた特集は正に自由で、その感性に共感する者にとっては魅力的な雑誌だった。『銀花』の説明が長くなってしまったけれど、つまりは強固な芯を持ちつつも弛むことなく、新しくも移ろわず、思想や雰囲気に頼らず、新鮮に向き合い続ける感覚を軸に工房からの風のディレクションが行なわれているのだと思っている。
特別な「場」として育まれてきた理由
工房からの風の、公式ホームページの説明は以下のようになっている。
素材の恵みと、それを生かす人の技術と美の感覚によって形づくられたもの。
「工房からの風 craft in action とは」(工房からの風ホームページより) https://www.kouboukaranokaze.jp/cia/about/#point)
現代の暮らしに響く工藝・手仕事・クラフトを柱として企画しています。
(中略)
企画をする上で目指しているのは、より有意義で手ごたえ豊かな工藝・クラフトの展覧会です。
新鮮な作り手と使い手と伝え手が集まってくる出会いの磁力のある場づくり。
展覧会への準備体験が、作り手の制作を進化させていくような展開。
自由で和やかな雰囲気の中にも、個々の上質で意欲的な試みが行われる野外展。
(中略)
来場者との出会いはもちろんですが、「工房からの風」に共に出展することによってつながる作り手同士の出会いは、毎回、出展者の大きな喜びになっています。
自然素材を用いた手仕事。有意義で豊かな展覧会。作り手の進化と、出会い。作り手の成長にウエイトを置いていることも特徴的だけれど、守備範囲はかなり広いように思える。その中で、場の質や空気を維持し、刷新していくことは容易ではないように思えるのだけれどおそらくそれは物理的な場、コルトンプラザ内の「鎮守の杜」の背景も大きい。
日本毛織は、市川の工場を閉鎖する際に、雇用や地域経済にマイナスの影響を与えるのではなく、むしろ「工藝学校のある街をつくります」というステイトメントと共に、神社と公園を残したという経緯があった。この1983年に構想をしたときの「工藝学校のある街をつくります」という表題のポスターには、以下のようにある。
《「大きいこと」が「価値あること」である時代が永く続きました。(中略)このため、大都市にだけ都市の機能が育ち、小都市は都市の機能をうしないはじめました。
二十世紀の終わりに近づいて、大きな反省が育ちました。》
《「消費社会」と「産業社会」の変化によって、この工場は生まれかわります。しかし、ここでも、コミュニティへのこころを、大切にしたいと考えています。》
例えば同時期に生まれた無印良品では、2008年から代表を務めていた金井政明が《無印良品は1980年の日本に「消費社会」のアンチテーゼとして生まれました。》と述べている。どちらも時代に対して先進的だと思うのだけれど、やはり日本毛織には、そして工房からの風は「反〜」でない明るさがある。大量生産・大量消費が進み、都市の機能が変化したのは全国的な現象だけれど、日本毛織は、ものづくりの会社として、工場の閉鎖も時代の節目としてポジティブに受け入れていることが、ステイトメントから感じられる。
すっかり場の話ばかりになってしまったけれど、何よりここでは、本当に多くのかけがえのない仲間ができて、公私共に力になってもらっているので、個人的なことを語りだせば切りがない。現状僕は、風人というサポート役で参加させてもらっているけれど、そもそも素晴らしい仕事が伝わり、残る世界を目指していた僕にとって、作り手の成長と出会いを願う場が継続されていることは、とても幸せなことだ。
〈「大きいこと」が「価値あること」である時代〉は、おそらく終わっていない。そのような逆境において、作り手一人一人の力は、大きくはないかも知れないけれど、一つ一つの輝きはどこまでも尊く眩く、必ず誰かの希望となるものだと僕は信じている。出展者、来場者、運営者と共に仕事を喜び、認め合える場所。繋がりを得て、自らを深め、次へ進む礎となる場所に関われていることを、とても嬉しく、誇りに思う。
参考文献
稲垣早苗『手しごとを結ぶ庭』アノニマ・スタジオ、2006年
川北眞紀子・薗部靖史『アートプレイスとパブリック・リレーションズー芸術支援から何を得るのか』有斐閣、2022年
『MUJI無印良品』良品計画、2010年