かつて日々のくらしに欠かせなかった箒は、電気掃除機の普及とともに需要が低迷し、全国各地の産地は壊滅状態に陥った。ところが近年、電気に頼りすぎないライフスタイルを志向する人、地域の伝統文化や地場産業に価値を見出す人が徐々に増え、職人が手編みした昔ながらの箒への関心が高まりつつある。
なかでも、神奈川県北部の愛川町では、一度途絶えた旧中津村の箒づくりを生業として復活させる取り組みが進む。その立役者として活躍し、伝統を受け継ぎながら作家性の高い作品も手がける筆者は、美術的アプローチにより社会にコミットするという信条の持ち主。いま注目のつくり手が、仕事を通して目指す“ものづくり”と社会の姿とは――。

第10回 「クラフト」への入り口

初めて聞く言葉

 僕が箒を作り始めた頃、一番最初に箒を売ったのは下北沢の路上だった。芳弘さんの所から戻ってきて、すぐに実行したのでバラついた品揃えだったのだと思うけれど、嬉嬉として実演台・販売台を兼ねた120cm四方ほどのブースを作り、DMまで作ってたくさんの人に送った。今考えても無謀な展示(なのかどうかすらわからない)だったのだけれど、反応は悪くなかったように思う。当時の下北沢は、闇市の名残として残っていた駅前の市場が解体される前で、道も狭く、路上で突飛なことをしていても許される空気があった。唐突に道端で箒を作っていても、距離を置くどころか友好的に話しかけてくれる人も少なくない。売上も多少はあった。

 友人や、学生の頃のバイト先の先輩、智史さんまでわざわざ来てくれたこともあり、ほくほくと路上で箒を編んでは売った。そんな中1人、大学の先輩で、焼き物の作家として活動する人も来てくれて、色々話してくれた。どういう経緯か忘れてしまったけれど、とにかく、どうにかして箒を売って、この仕事を残したい、という話をしたのだと思う。

 おそらく、クラフトフェアという単語を聞いたのは、この時が初めてだった。「松本のクラフトフェアに出展できたら、まぁまぁ活躍してる人なんじゃない?」と聞いて、どこへでも箒を突っ込んで売りに行こうとしていた僕は、目指す先の1つにクラフトフェアを加えたことを覚えている。

「クラフトフェアまつもと」(長野県松本市)に出展、実演販売中の著者(2023年5月)

敢えて語るべきこと

 おそらく、僕が仕事を始めた時期は恵まれていて、作り始めてから10年は、クラフトブームという波に乗って、ざぶんざぶんと手仕事の世界へ漕ぎ出すことが出来た。それは派手で、大きくて、流れも強い波で、時に不安を感じるものであったけれど、失くなってしまった仕事を再興させよう、という当時の僕にとっては「乗らない手はない」と感じられた。どんなに流れが強くても、信念があれば必ず元の場所に戻って来られるし、溺れてしまうなら自分がそれまでだったということでしかない。そもそも、箒を作り始めた時から、僕は箒と心中する覚悟で飛び込んでいたので、リスクはあってないようなものだった。
 そして現在、僕と同様その大きなクラフトの波に乗って生まれた作り手やショップ、ひいては文化が多様にあるように思うのだけれど、そのクラフトというものが何なのか、掴みどころがないようにも思う。流行は流行、水物として一蹴することもできるのだけれど、これらの営みは決してどうでもいいことではなく、作り、手渡され、使われていく中で生まれた思想や感情は意義のあるものだったと思う。歴史は、語られて初めて歴史となるものだから、僕たちの仲間のためにも、信頼できる配り手の皆さんのためにも、そして何より、生まれた道具の役割を全うさせるべく使ってくれる皆さんのためにも敢えて語る必要のあることなのだと思う。

そもそも「クラフト」とは

 まず、ここでいうクラフトフェアなどの意味で使われる「クラフト」は、craftの直訳とは別に捉えるべきだ。広義での工芸と同様広範になってしまうからで、日本語のクラフトは工芸の1ジャンル、潮流の1つとした方が間違いないだろう。

 クラフトといえば美術史上は、ジョン・ラスキン(1819-1900)やウィリアム・モリス(1834-96)によるアーツ・アンド・クラフツ運動が連想されるのだけれど、ここでいう「クラフト」とはやはり同義ではない。アーツ・アンド・クラフツ運動は、産業革命を経た社会の中で、手工芸の復権や工業生産に対する批判を含んだ思想的な運動で、理念に基づきギルドも結成され、ヨーロッパや北米、東アジアや日本の民藝運動に影響を与えたことでも有名だ。

ウィリアム・モリス(左)と、モリス商会が発売した壁紙(中)、タペストリー(右)。生活と芸術の一致を謳ったモリスのデザイン思想が反映されている。
出典:いずれもwikipedia(パブリック・ドメイン)

 また、デザイン史上では工芸家とデザイナーによって設立された日本デザイナークラフトマン協会(1956年設立、1976年に日本クラフトデザイン協会となる)や、クラフトセンタージャパン(1959年設立)がある。クラフトデザインとは「機械力を使ってもなおハンディ・クラフト(手造りの工芸)の暖かさ、豊かさを活かした工芸」(菱田安彦『クラフト・デザイン』社会思想社、1963年)とされている。

 また、日本デザイナークラフトマン協会の初期メンバーでもある内田邦夫は、「『生活を楽しむ工芸』をクラフト」、また、「機械生産による生活必需品とは別に、クラフトマンシップから生まれるオリジナルな手造りの味と、デザインを楽しむ工芸」 (内田邦夫『クラフト入門(カラーブックス275)』保育社、1973年)とも述べている。さらに内田は民藝に対して「デザインがなされていない」「民藝大家の作品は、工芸美術と同等の価値観となって、今日大衆工芸(民芸)の本質を失っている」などの批判も述べている。批判の是非はさておき、アーツ・アンド・クラフツとの違いは、楽しみや豊かさに主軸があり、機械生産や労働などの産業構造の批判、ギルドの構築などと比較すると政治色の強くないところが指摘できる。松屋銀座でのショップ「ニュークラフトセクション」の運営や、同催事場で毎年ニュークラフト展を開催するなど、鑑賞美術化する伝統工芸や、流行を経て大きな権威ともなった民藝にオルタナティブとして対峙する側面があったようにも思える。

「クラフト」の背後に醸成されていた空気

 直接「クラフト」という言い回しはされていないけれど、空気の醸成を後押ししたものとして雑誌『ジュニアそれいゆ』(ひまわり社・1954-60)や『私の部屋』(婦人生活社・1972-90 ※現在はインテリアショップとして展開中)における「手作り」や「DIY」などの流行も指摘できるように思う。『私の部屋』には、カントリー志向が強い時期もあり、創刊号には「BACK TO THE NATURE いま憧れは、田舎風に暮らすこと」などの特集が組まれ、ヒッピー達に絶大な影響を与えたと言われる『Whole  Earth Catalog』(1968-74)に通ずる志向も見て取れる。1974年の14号「HAND MADE SPECIAL」ではDIY精神について「この精神の底に流れるものは、半文明的なものへの愛着であり、一種の耐乏主義である」とも語られている。体制批判まではいかないまでも、独立、自由を求める思想は見て取れるように思う。

クラフトフェアの元祖

 今回、語ろうとしている「クラフト」、それらを起点とした「クラフトフェア」は、一貫した思想運動ではないものの、機械生産や既存の体制に逆らいつつ、大衆性・ファッション性を纏いながら成長を続けてきた。おそらく、今回説明しようとしている意味での「クラフト」の母胎となった、日本最古のクラフトフェアと言われている「クラフトフェアまつもと」は、これらのバックグラウンドの中で1985年、長野県松本市で、作家の有志により始められたものだった。

 その当初の動向には、解放や反体制的な志向が多分に窺える。

「クラフトフェアまつもと前夜の松本の雰囲気」の中で「70年代後半には、学生運動をやっていた世代の人たちが、半農半工を目指して松本周辺に住みつくような流れがあって、木工や織りの人が増えている頃でした。アングラ系、ヒッピー系の人も多かったですね。天皇陛下が松本を訪れた時に、裸踊りで出迎える人たちや、河原乞食と称して河原でパフォーマンスをしている舞踏の人達がいたり、『遊撃展』というアングラカルチャーの文化祭のようなイベントをあがたの森公園でやっていた」(1〜3 回目のクラフトフェアまつもと事務局長・小田時男)

「クラフトフェアというのは、共感が広がっていくような在り方の先駆けではあるんだよね。演劇の頃の話(※筆者注 三谷は若い頃、学生運動のなごりの強い、過激な表現の劇団に所属していた。)に戻るんだけど、あの時に違和感を覚えた強い表現や思想を強引に共有させようとする姿勢の限界を乗り越えるものだと思うんだよね」(三谷龍二・クラフトフェアまつもと第5〜6回事務局長)

「そもそもクラフトフェアっていうのは、松本周辺にその頃いた、ものづくりやヒッピーなんかの、人と違った動きをする人たちが、みんなで集まってひとつの祈りを捧げるような場のイメージだったんだ。そういう意味で、クラフトフェアは『工芸』みたいな枠組みの言葉とは違うんだよね」(第17回〜19回事務局長の柏木圭)

(『ウォーキング・ウィズ・クラフト』NPO 法人松本クラフト推進協会・2014年)

 解放や繋がりを求めるムーブメントでありながら、自主性や共感など、個人に軸を置く在り方は運動でもなく、志向を縛ることもなく、派閥を思わせるような要素とは無縁で、間口が広かった。そして、その影響は全国に及ぶこととなる。

ブームの後にできること

 2000年〜2010年代にかけての「暮らし系」ブーム(第8回参照)を巻きこみつつ「クラフトフェアまつもと」は2012年には 7万人以上の来場を誇る巨大なイベントとなっていく。期せずして、僕が「クラフトフェアまつもと」に参加させてもらったのは2010年で、ブームがピークに近い時期だった。(その時は何周年かの記念の会だったらしくて開催中、草原の広場の中心で、突然サックスプレイヤーがビバップのソロを吹き始めたと思ったら、公園内の川から白塗りの人たちが何人も、スローモーションで上ってきたことを覚えている。まさに、前衛やアングラの精神が残っているのだった。)

 このころ僕は、松本以外にも様々なクラフトイベントに出展していて、引き合いも多かった。けれど正直なところ、不安も多かった。若い人で賑わうクラフトフェアは華やかだったけれど、売っていて「これはブームである」と体感で分かった。飛ぶように売れるとき、人は殆んど物をみていない。物の魅力ではなく、会場の雰囲気で売れてしまうことも少なくない。もちろんそれは売り方の1つだし、ギャラリスト、買い手ともに、誰もが軽薄なはずはなかったけれど、流行に軸足を置いてしまうと、その波が去った時にどうにも出来なくなる。

 雑誌やテレビなどの取材も無数に受けたけれど、それで何かを為した気になってはいけない。外部の力が全て無くなった後に何が残せるか、自分に何が出来るかということを常に肝に銘じていた。こういった盛者必衰の感覚はもしかしたら、抜群の腕があっても生業としては仕事を続けられなかった、芳弘さん達から経た教訓なのかもしれない。そして、ブームが去った後も、誠実に仕事を積み重ねていれば、必ず誰かが発見してくれて、その人の心と人生を動かすことができるということも教えの1つだろうと思う。

 この後、誰もが予想していた通りにクラフトブームが飽和していく中で、「生活工芸」を語る動きや、再びの民藝ブームなど、新たな動きも生まれた。また、新型コロナウイルスの流行で野外イベントは一斉に休止を余儀なくされ、SNSの発達で、手仕事界隈は現在更に大きな潮目を迎えた所という風に思える。

日本民芸館(東京・目黒)

産業革命以降の問題は共通している

 ここで興味深いと思うのは、イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動についてだ。現場の意識として繋がってはいないものの、根底に通ずる視点があるように思う。

「伝統的に存在した芸術の格付けに挑み、 職人やデザイナーの地位を高め、 『芸術家を職人に、職人を芸術家にする』(ウォルター・クレーン「Ideals in Art」1905)ことを目指した。また、伝統的な手工業や技法の復興、 よりシンプルな生活への回帰、日用品のデザインと製作を通じ、日常生活の質を向上させることを標榜した。 A. H. マックマード (1851-1942) の言葉を借りれば、『日用品に美』 を見出し、『シンプルで善き人々の住居のために美しいものをつくる』ことを鼓舞するものだった」

カレン・リヴィングストン「モリスから民芸まで―イギリス、ヨーロッパおよび日本におけるアーツ・アンド・クラフツ運動」『生活と芸術―アーツ&クラフツ展』(京都国立近代美術館、2008年)

 このように、それが全てとは言えないまでも格付けへの対抗がアーツ・アンド・クラフツにはあった。クラフトを巡る流れは、アーツ・アンド・クラフツの一環とは言えないまでも、やはり既存の体制への抵抗という視点は大きくあり、時に重なり、隣接した周辺を迂回しながら広がってきたようにも思える。

 かなり荒い言い方にはなってしまうけれど、手仕事や自然に寄り添う仕事をしている限り、プロダクトや機械化、それに纏わる流通や消費サイクルには対抗することになる訳で、生活の変化を目指す手仕事は、産業革命以降に解決されなかった問題を追い続けているようにも思う。答えを1つにする必要もなければ、そうするべきでもないけれど、古くから繫がる手仕事を続けるマイノリティの立場から語れることは、まだまだあるように感じている。

参考文献

神野由紀編著『趣味とジェンダー <手づくり>と<自作>の近代』青弓社、2019年

内田邦夫『クラフト入門 暮らしの中の工芸』保育社、1973年

内田邦夫『現代工芸を考える』京都書院、1988年


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第10回 「クラフト」への入り口

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