かつて日々のくらしに欠かせなかった箒は、電気掃除機の普及とともに需要が低迷し、全国各地の産地は壊滅状態に陥った。ところが近年、電気に頼りすぎないライフスタイルを志向する人、地域の伝統文化や地場産業に価値を見出す人が徐々に増え、職人が手編みした昔ながらの箒への関心が高まりつつある。
なかでも、神奈川県北部の愛川町では、一度途絶えた旧中津村の箒づくりを生業として復活させる取り組みが進む。その立役者として活躍し、伝統を受け継ぎながら作家性の高い作品も手がける筆者は、美術的アプローチにより社会にコミットするという信条の持ち主。いま注目のつくり手が、仕事を通して目指す“ものづくり”と社会の姿とは――。

第9回 百貨店周りの話

職人と百貨店

 いわゆる「工芸」の仕事をしている方々、職人さん達に多く囲まれる販売の機会の1つに百貨店がある。

 職人にも色々な業種がいるので一概には言えないけれど、多くは生活用品などがあるキッチンフロアか、上層階に多くある催事場で実演販売をしていることが多い。百貨店といえば花形のイメージもあるかも知れないけれど、バブルの頃の盛況に比べれば、苦境にある店が少なくないことはニュースなどでも知られるところかと思う。もちろん、全国にある業態なので若者で賑わっている店や、名物企画で知られる店もある。そのように話題性があり注目されるフロアがある反面、そうとも言えないフロアもままある。一週間単位で行なわれることが多い実演販売や催事は、場合にもよるけれども皆一人で店頭に立つことが多く、営業中、交代なしに販売をしなくてはならないので拘束時間も長く、なかなか大変な仕事だ。巡り合わせ次第では、黙々と実演を続けるしかない。

著者が百貨店の実演販売で製作するのは手箒などが中心。実演には小物よりもサイズの大きいものが好まれる

盛衰があって今がある

 中津箒は、百貨店以外にも色々な展示先や販売先にも出向くのでそれほどでもないけれど、半年家に帰らない、と言っている催事場の職人にも会ったことがある。全国を周るための展示用品や商品、実演道具などを大きいサイズで何箱も送ることになるし、一週間の宿泊費、交通費、食費などの経費も少なくないもので、なかなか楽ではない。職人の後継者問題もしばしば世間では話題にあがるけれど、それに伴って職人展や催事などでも高齢化は少なからずある。一週間張り付きで仕事をしても、経費を抜いたら利益はどれくらい残るか、なんて話も珍しくない。バブルの頃は、窯まで観光客がたくさん来て売れたけどねぇ…なんていいながら、店頭に立つ職人さんにも会うと、工芸品の未来について心配ばかりしてしまう。

 ここで話題にあげているのは催事場やキッチンフロアにいる職人の話で、同じ百貨店でも上層階にある美術画廊などではまた事情が異なることもある。数百万円の花器や美術品が並び、1000万単位で売り上げる作家がいるような話も聞くけれど、全く違う世界の話だ。※前話参照

(もちろん、そちらはそちらで大変な世界であることは知られているし、デパ地下の食品やギフト、コスメ、ファッションなどは更に事情が違うようで、そのあたりは催事で在店していても殆んど分からないので、別のものとして考えていただきたい。)

 とは言うものの、元来、工芸品の普及や振興に百貨店が果たした役割は、相当なものだった。特別な美術商や、ギャラリストを通さず、誰でも気軽に買える場所で数十万円、時にそれ以上の工芸品をコンスタントに幅広く扱っているのは、現在でも百貨店くらいではないだろうか。多くの百貨店では、外商、などと言って、昔ながらの上得意の顧客専門の担当者がいて、特別に販売促進や案内をしてくれることもある。(「景気のいい時代は、胸ポケットに札束を入れて客が来たもんだ」という嘘みたいな話もきいたことがある。)

 もちろん、多くはないけれど、今もなお盛り上がっていて、若い人も多く出入りする、先端を行く百貨店もある。とある場所では、レイアウトを直したらレジのパートの方に「いい展示になりましたね」と声をかけてもらって驚いたことがある。馴染みのない人には分からないかも知れないけれど、本当に店によって姿勢、対応、雰囲気まで違いがあり、入ってみるまで分からないことも多いのだ。

文化拠点としての百貨店

 民藝運動と高島屋などの関係も密接で、現在でも大規模な催事が開かれているし、かつて高島屋のバイヤーが河井寛次郎作品のコレクターで、後に河井寛次郎記念館へ大量に作品を寄贈したという話も聞く。松屋のデザインコレクションというショップなども有名で、プロダクトの普及にも大きな役割を果たした。催事場で美術やデザインの展示をしている場所も少なくない。

 県内に百貨店がなくなってしまった地域の職人さんに話を聞いたことがあるのだけれど「街の文化度が下がるねぇ」などとぼやいていたのを聞いたことがあるのだけれど、それも百貨店の文化施設としての側面を示唆しているようにも思う。

 くわえて、やはり百貨店という信頼感は揺るぎないもので、僕自身も初めて実演に出始めた頃は、親族が見に来てくれたことも覚えている。現在のように、流通ルートが多様化するまでは、街の個人商店とは一線を画する百貨店が、工芸にとって重要なステージであり、デザインやプロダクトも含めて、多くの文化を担ってきた存在であることは間違いない。

 明治末期の三越による「元禄」ブーム(※三越の意匠部が「伊達模様」の揃いの衣装を作り、多くの芸者に着させて宣伝、新聞記事なども使い仕掛けた流行)など、20世紀初頭は、百貨店各社が自社のPR誌を用いて、数多くの流行を仕掛け、生み出してきた。まだ美術館の多くなかった時代には多くの文化催事が開かれ、絵画、ファッション、写真、玩具など「年中博覧会のような状況を呈していた」(初田亨『百貨店の誕生』)とも言われる。お子様ランチが百貨店から生まれたことも有名であるし、音楽隊の編成やコンサートなど、文化的に果たした役割を上げれば枚挙に暇がない。東京の地下鉄の「三越前駅」や「上野広小路駅」、「日本橋駅」や「銀座駅」は、百貨店が出資して出来たもので「デパ地下」に直結することで更に都市や文化を発展させる役割を果たした。

 その他、ちょうど最近、本店が閉館してしまった東急百貨店を始め、渋谷の文化拠点は東急グループが展開していて、109(トーキュー)、Bunkamuraミュージアム、ホールなど、街の文化史を語る上でも欠かせないような存在でもあったことも見逃せない。

百貨、故に交錯する世界

 器の、釉薬を掛ける前の段階、轆轤(ろくろ)引きした生地を作ることを本業とする、生地屋の人と一緒に展示をしたことがあった。生地屋は、基本的に下請けとなるので単価は高くないが、正確な技術を求められ、数を作らなくては仕事にならない大変な仕事。多くの焼物屋を支えていると言っていいように思う。その百貨店では、キッチンフロアのイベントスペースの数十m先に美術画廊があって、彼が作る千円二千円の器のすぐ先で数十万円の陶器が多く並んでいるのだった。彼が美術画廊の方を見て「いい仕事だよなー」なんて冗談めかしていたことを思い出す。

 もちろん、高級な茶器を作ることも相当過酷な道なのは間違いなく、技術や市場の幅広さに、途方もない気持ちになる。横に目をやれば工場で量産されたフライパンが並んでいたり、きらびやかで1体数万円もする、リヤドロの磁器人形が並んでいたりもする。そのように、文脈と価値観とが混沌としている中で、自分をどこに位置づけて、どう仕事を残していくかを考えることは容易ではない。

スペインが誇るポーセリン・ブランド、リヤドロの磁器人形。ハンドメイドで高級感がある

 売りやすいからといって廉価な小物ばかりのラインナップにしてしまう業者もいる(職人の本質は商売人でもあると思う)けれど、中身はやはりその腕一本でやってきた職人が殆んどなので、仕事について詳しく聞くと、嬉嬉として話してくれる人が多い。職人仕事は一つ一つが手作りなので、工業製品と違って、どんなに注文が来ても利幅がどんどん増えることはないし、身体をずっと酷使する辛い仕事だ。けれど、やはり腕一本でやってきた誇りや、それを守ってきた矜持のようなものを誰もが持っていて、一週間もそんな人達と時間を共にするのだから、ベテランの職人達に憧れる身としては、そうした時間も捨てたもんじゃないとも思う。

 普段は、手仕事の個人作家さんと交流することが多くて、彼らは志が高く社会的な意義なんかも語り合ったりするのだけれど、普通の職人のおっちゃんは「あいつ最近、売れてるらしいぜ。いいよなー」みたいな、いかにも俗な話をしてくるのが妙にチャーミングに感じられたりする。かと言って、漆のことを聞いたら仙人のように詳しかったりするので狐につままれたような気持ちになる。作り手かと思えば、話を聞いたら販売専門の営業さんのこともあるし、あそこのメーカーはこんな作りで…など、あまり表に出さないような話をあっさり聞かせてくれる職人さんもいたりして、道具への見識も増える気がする。「あそこの産地は、うちが殆んど下請けだから、うちが潰れたら潰れるよ」みたいな見えない流通もあり、一筋縄ではいかないな…とも思うし、自身も、目を鍛えていかねばならない。とも思う。

胸が苦しくも宝の山

 昔の職人は厳しくて「間違えると真っ赤に熱された火箸で叩かれたもんだ」なんて刃物屋さんもいた。「問屋も怖かったよ。初めて緊張しながら売り込みに行ったら『開店前だよ〜』とかいいながら、柄杓の水を頭から掛けられた。高架下で、泣きながらシャツを絞ったね。何度か通ってやっと見てもらってさ。『お足代なら要りません』って言ってやったんだよ。そしたら初めてそいつ、にや〜っと笑ってさ。『飯行くぞ!』っつって連れてかれて、それからはずっと付き合ってくれた。そんな問屋、もうみんな潰れちゃったけどね」

 そんな話が続くと、民俗の調査をしていたスイッチが入ってしまってどんどん引き込まれてしまう。もちろん、フラッと立ち寄って聞ける話ではないかもしれないけれど、そのように、世の中には表には見えない歴史や背景がたくさんあって、そこには失われゆくものや、学ぶべきものがあると信じて調べることを始め、そのバトンを形にするために、箒を作り始めたことを思い返す。そんな職人が集まる会場は、往々にして流行の最先端ではないし、ネットで映える場所じゃないかも知れないけれど、宝の山のようにも感じる。

 途方もない数の工程が続く仕事もあれば、もう本当に素材がないという話も聞く。昔ながらの職人は、本当にその品を作ることだけを鍛錬してきた人だから、例えば見本市に出展することや、デザインを考えることなど、腕はあっても発想や実行に至らない人も少なくない。話を聞く度に、これはすごい…と反芻しながらも、その窮状を目の当たりにして、どうしても胸が苦しくなることも多い。ブランド品のようなステータスを纏っている訳でもない、1つ何十万円にもなる道具を売ることは容易ではないし、何人もの手で工程を分業して、初めて生まれる工芸もある。そして、そこにしかない技術や歴史があり、一度途絶えると復活はほぼ不可能に近い。そんなすごいものがゴロゴロあって、時には一日十時間近く畳の上に座りながら、客を待ってじっと佇む職人の姿を見る時、とてもじゃないがやるせない気持ちにもなる。

 もちろん、そんな現場は他人事ではなくて、一度歴史の途絶えた中津箒も、かつて通ってきた道なのだと思う。例えば武士の使っていた武具のように、どうしても時代のニーズに合わないものもある。前回書いたような、「工芸」の目指した道や国策は正しかったのだろうか。と思い返すこともある。

時代の変化と職人と作家

 作り手が個人作家として意匠を考えたり、意志を仕事に込め始めたことは、工芸の歴史から言えばそう古くはない。元々殆んどの工芸品は工房に職人が集まって作っていたもので、どんなに早く見積もっても、現在のような個人主義が輸入されたのは明治維新以降。本当に、素朴に家業や仕事として職人を続けている人は、ひたすらに作る人である一方で、売り方や売る場所、ましてや文脈や社会構造などにはあまり関心がないことがままある(逆に、僕のようにそればかり考えているのもどうかと思うけれど)ので、そういった人にとっては、流通や情報の爆発的な変化(少なくとも、中世から明治くらいまでに比べれば)は、かなり過酷な障壁になっているように思う。

 とはいえ、ビジネスセンスがあり、技術を活かした商品開発を展開して成功している工房もたくさんあるし、昭和中頃には、プロダクトデザインに対して、クラフトデザインという、職人の技術を活かしてデザインされた商品を展開しようというムーブメントもあったけれど、やはり舵を切れる作り手は限られるように思う。きっと、中津の箒職人もそうだった。先人達は、どこまでいっても職人だった。けれど、邪(よこしま)なように見えても、歴史に新しいチャンネルを加えたり、舵を切ることを避けられない仕事もあるのだと思う。

 作り手と同じく、売り場も時代とともに変化する必要もあるだろう。建物や規模の手前、仕方がない部分もあるのだけれど、どうしても百貨店は建物の築年数が経っていることが多く、照明や什器も新しいセレクトショップなどに比べると見劣りしてしまうこともある。また、「百貨」の通り、あらゆる品物が並んでいるので、相対的に、個性やコンセプトを打ち出しづらい面もないではない。作り手も、職人ではなく、有名な個人作家になると、そのような理由から催事場などは敬遠している人もいる。

バイパスか、正面か

 けれど、工芸品の未来は、悪いことばかりではないはずだ。中津箒は幸い、ギャラリーやクラフトフェアなど、百貨店以外のバイパスを多く見つけてきた。日本民藝館の公募展に毎年出品することもその1つかも知れないし、2017年にはLEXUS NEW TAKUMI PROJECTというトヨタの全国の職人を支援するプロジェクトの神奈川代表に選出され、全国の都道府県に仲間ができた。メディアとも大きく連動し、関連企画の展示やワークショップ、見本市に出品する機会にも恵まれ、今でも関係は続いている。

LEXUS NEW TAKUMI PROJECTに神奈川代表として選出された著者

 新しい広がりを感じつつも、百貨店で出会った職人さんから聞いた「俺たちは儲かりはしないけど、負けることはない。自分で作ってんだもの」という言葉にもまだ励まされている。大きく売れはしなくても、丈夫で機能的で、誇れる品物をきちんと作っていたら、どこかに必ず、それを探している人がいる。その需要が、ゼロになることもまた考え辛いことであるようにも思える。

 元々、永遠に続く商材なんて無いのだし、中世や近世まで続いて途絶えた仕事だって無数にあるはずだ。前述の通り、伝統工芸の保存という考えも、その歴史からすれば長いものではないし、市場原理に沿って淘汰されるのが当然だという言い方もできる。百貨店の大きな経営統合や、Jフロントリテイリング(大丸と松坂屋、パルコなどを傘下に持つ)によるGINZA SIXなど、業態や売り方もどんどん変化していくけれど、百貨店については、文化を育ててきた拠点として、続いていってほしい売り場だ。

銀座エリア最大の商業施設として2017年にオープンしたGINZA SIXは、アートや伝統工芸に力を入れている

参考文献

梅咲恵司『百貨店・デパート興亡史』イースト新書、2020年


記事をシェアする

第9回 百貨店周りの話

by
関連記事