かつて日々のくらしに欠かせなかった箒は、電気掃除機の普及とともに需要が低迷し、全国各地の産地は壊滅状態に陥った。ところが近年、電気に頼りすぎないライフスタイルを志向する人、地域の伝統文化や地場産業に価値を見出す人が徐々に増え、職人が手編みした昔ながらの箒への関心が高まりつつある。
なかでも、神奈川県北部の愛川町では、一度途絶えた旧中津村の箒づくりを生業として復活させる取り組みが進む。その立役者として活躍し、伝統を受け継ぎながら作家性の高い作品も手がける筆者は、美術的アプローチにより社会にコミットするという信条の持ち主。いま注目のつくり手が、仕事を通して目指す“ものづくり”と社会の姿とは――。
第8回 工房想念④ 手渡す
この「工房想念」では「①素材」、「②③編み上げる」と、ここまで箒づくりにまつわる思いや、そこに込めた考えを語ってきました。概して育てることは自然と繋がり、編み上げることは歴史や先人と繋がる、そして、人の手に渡る段になって、現在の私達の社会に繋がるのだと思います。ここからは、作ったものを手渡すときに起こることや、その背景にあるものについて考えていきたいと思います。
伝えるために考えるべきこと
この「工房想念」を通して考え続けてきたことは、持続可能で合理的なものづくりと生き方、という一言に尽きる気がする。持続可能とは数十年、数百年間、自然に負荷がなく、循環可能な形。また、この場合の合理的とは、長く続いてきた文化や精神的な価値、産業構造としても歪みのないこと。その自分なりの答えとして、アナログで、一見生産性の低い手仕事に辿り着いた。
同時に、仕事の価値と、それが相手に伝わるか、というのは別の問題で、伝える内容が多かったり、複雑であるほど伝えることが難しくなるのは必然でもあるように思う。特に、いわゆる伝統的な仕事に関しては、保守的で重たい先入観がこびりついていることも少なくなく、技術や歴史を次世代に伝え、繋げていくのは簡単ではない。箒のような日常の道具に関しても同様で、道具の機能や構造が研ぎ澄まされている反面、目新しいものとは対極にあるとも言えるので、作った後にその真価をどう伝えるかということが課題になる。
大きな地殻変動の中での場選び
高度経済成長期以前は、現在ほど生活用品に多くの選択肢はなく、工業製品よりも手工芸品が主流だった。当時の職人達は作るだけで、販売は卸先や店が行なっていることが多かった。中津箒に関しても卸問屋に出すことが中心だったが、時に職人自らが担いで行商に行くこともあったようだ。近所から直接注文が来ることもあっただろうけれど、基本的には、規模が大きくなれば卸が中心だったはずだ。(問屋が厳しく、1本悪い品があるとトラックごと返されたような話も聞いたことがある。)
そんな箒も、昭和中頃より国産の手作り箒の生産が急激に減少する。理由の1つとして、生活様式の変化で畳の部屋が減り、掃除機の愛好者が増えたことがある。また、産地の事情としても大量生産の波に押されて輸入された草が増え、簡易的な機械生産の箒が中心となることで、職人の数は一気に減少した。
そのような経緯から、やがて箒の卸問屋はなくなってしまったのだけれど、販売形態や販路、販売促進方法は現代において、むしろどんどん多様化している。昔ながらの百貨店の実演販売や、工芸関連のコンペティションもたくさんある。卸問屋が仲介してくれなくても、見本市で直接小売店に繋がることもできて、見本市にも日本に特化したもの、海外向け、ギフト、インテリアなど、バリエーションも多い。
また、1980年代以降から、クラフトフェアやギャラリーやセレクトショップなど、作り手が直接展示、販売する機会も増えている。特に、有名なクラフトフェアなどは門戸も狭く、その分バイヤーやギャラリストも少なくないので、宣伝効果もある。
これらの事情から、かつてのような作り手、売り手という線引が曖昧になり、作り手やショップ同士の繋がりが新たな展示や販売の機会に繋がることも増えた。
また、2000年代以降には手仕事を紹介する雑誌が多く刊行され、近年ではSNSやウェブメディアなどの宣伝効果も大きくなった。ウェブショップも更に充実しており、特にコロナ禍以降は、ショップでの展示会もオンラインショップと展示即売のハイブリッド型が増えて、通販と直売の境もなくなりつつある。
売る場が多様であるということは、その数だけ買い手の層があるということでもある。一般的に、百貨店や古いギャラリーほど年齢層が高く、カジュアルなクラフトフェアやショップほど若いという傾向はあるけれど、ネットショップでも若い人ばかりという訳ではないし、クラフトのイベントでも伝統的な仕事にウエイトをおいたものから、地域性に重きをおいたもの、趣味に近いもの、など多様なバリエーションがある。そのような場の方向性や雰囲気で受け取られ方はガラリと変わってしまうので「伝える」ということを考えるとき、場選びはとても重要になる。
形式によって変わる意味
僕が株式会社まちづくり山上に入社した頃は事業を再興させるタイミングで作り手も少なかったので、色々と自由に挑戦させてもらったけれど、その分、場の影響や文脈については色々と考える必要があり、作ったものの売り先についてはずいぶん放浪したように思う。
一番最初は下北沢の路上だったのだけれど、箒を売り始めて気がついたのは、場所がものの定義を左右すること。つまり伝えるということは、そのものが何なのかを自分で定義して、場を選ばなくてはならないということだった。例えば絵一つとっても、イラストや絵画、現代美術、ストリートアートでは視点や考え方、つまり文脈が異なっていて、評価のされ方や基準は全く異なる。もちろん、上記の中でも、更に細かい分類や立場が無数にあって、その立ち位置と場所の関係によって保守的(または王道)であったり、革新的(または異端)であったりしてしまう。王道の音楽家を目指したいというスタンスから入ったのならば、ウィーンやベルリンの管弦楽団を目指し、その過程で腕を磨いていくのだろうけれど、反対に、個を表現したいことが先立ち、その後にスタンスを選択するとしたら、形式や場面選択が要となる。
これらは、あらゆる表現活動にあてはまる。美大を卒業したのに箒を作っている意味を聞かれることが多いのだけれど、美術史や多様な表現形態に触れることは、作品の持つ文脈や位置づけを確かめることに役に立ったと、我ながら思う。
箒に話を戻すと当時、箒を売っていくフィールドとしては、工芸や民藝、クラフト、少し離れ業ではあるけれど、現代アートという方法が身近にあった。フィールドというには広範すぎる言い方だけれど、雑貨や荒物という括りもある。そして結果としては、どのカテゴリへも足を突っ込んでは試行錯誤して、ここまでやってきた。
それらのフィールドによる違いを説明することは、箒の持つ意味を説明することになるだろうし、1つの仕事がどのように社会に受容されるのかという参考にもなると思う。また、仕事をしている領域を定義できないとその説明も曖昧になってしまう。どのような関係、歴史、力学でもって足元が固められているか(または固められていないか)を確かめて歩むべきであると思うし、言語化、記録化されないと、歴史も作られない。
そもそも工芸とは
僕たちの作る中津箒について、まず第一に形容されるカテゴリは「工芸」だと思う。検索してみると工芸とは「人間の日常生活において使用される道具類のうち、その材料・技巧・意匠によって美的効果を備えた物品、およびその製作の総称。もともと生活用具としての実用性を備えたもの」(小学館『日本大百科全書』)とあって、美しさを備えた道具というだけであれば「広義の工芸」として済ませられる。
けれども、少なくとも僕の得てきた体感で大まかに分けるだけでも、①「伝統工芸」、または②美術工芸の中での「工芸」、そして③「暮らし系」ブーム以降の工芸としてのニュアンスがある。これら3つは話が大きく違うもので、なんの前置きもなく、ただ工芸品、と説明すると、あまりに大味な話になってしまう。
勿論、実際の展示会場や現場で使われている「工芸」という言葉が上記のどれなのか示されていることはないので、作品そのものや設(しつら)えで判断するしかない。そして間違って混ざったり、時に意図的に混入されたものを多くの人が無意識に判別し、曖昧にカテゴライズされていることも多い。
①の「伝統工芸」、という時には「伝統的工芸品」を指していることがある。「伝統的工芸品」とは、経済産業省の指定を受けた工芸品のことで
《・主として日常生活の用に供されるもの
・その製造過程の主要部分が手工業的
・伝統的な技術又は技法により製造されるもの
・伝統的に使用されてきた原材料が主たる原材料として用いられ、製造されるもの
・一定の地域において少なくない数の者がその製造を行い、
又はその製造に従事しているもの
上記5つの項目を全て満たし、伝統的工芸品産業の振興に関する法律(昭和49年法律第57号、以下「伝産法」という)に基づく経済産業大臣の指定を受けた工芸品のこと》
(経済産業省 製造産業局 生活製品課 伝統的工芸品産業室 ホームページ https://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/mono/nichiyo-densan/index.html)
を指している。
日常会話でお客さんなどに「伝統工芸ねぇ」などと言われるとこちらは「古くからある美しい手仕事と言ってくれているのだな」と「広義の工芸」として理解するので「ありがとうございます」と、それなりに対応するのだけれど、百貨店などで職人同士、「これは伝統工芸ですか?」と聞く時には、経済産業省の指定を受けているかという意味になったりする。(それとは別に、県の指定している工芸品がある場合もある。)
ポイントは、1974(昭和49)年という、「伝統工芸」という言葉のイメージとは裏腹に、最近できた制度というところだ。また、通称「人間国宝」、すなわち無形文化財というものもあるが、これは1950(昭和25)年に制定された文化財保護法の施行以降である。つまりは、高度経済成長で暮らしが変わっていく中で、これらを保存すべきという議論が出てきた中で生まれてきた官製の括りということだ。
勿論、制度として国が工芸品を保護してくれることは素晴らしい。信頼感があり、多くの手仕事が確固たる地位、いわば国からのお墨付きをもらって、発展してきたのだと思う。(ちなみに、ある程度産業の規模が必要なこともあるので要件を満たせず、中津箒は伝統的工芸品には指定されていない。)
当時を生きていないので分からないけれどおそらく、それまでにも伝統工芸、という言い回しがあったとしても、人間国宝や経済産業省指定の「伝統工芸」が生まれてからは、工芸という言葉の受け取られ方も大きく変質していったはずだ。作品を「伝統工芸」として打ち出しているかいないかは、仕事を伝える際に大きな差が生まれる。制度が発足した経緯からして、伝統工芸の存続というものは容易ではないけれど、文化的で信頼感があり、メディアなどにも取り上げられ華やかさもあり、和物としてのイメージが強い。時に敷居が高い、嗜好品と思われてしまうこともある。好みに良い悪いはないけれど、何かしらのバイアスがかかるということは、デザイン上も大きな選択肢となる。
「工芸」以前の話
また、あまり一般に認識されていないかも知れないけれど、そもそも工芸というジャンル自体にも、留意すべき背景がある。学校では、美術の教科書で縄文土器や仏像、浮世絵、などなど古くから続く美術・工芸の系譜を習う訳だけれども、「美術」、「工芸」というカテゴリ自体は明治初期に出来たものだ。日本が1873年(明治6)のウィーン万国博覧会の出品に際してkunstgewerbeの訳語として「美術」という言葉が現れた。
《「美術」という語は、はじめ諸芸術を意味していたのだが、やがて視覚芸術の意味に限定されるようになり、その結果、絵画・彫刻・工芸のなかで最も純粋に視覚的な表現媒体である絵画が、それを代表することになったのである。しかも、この過程は、工芸が美術の階層秩序の底辺に位置づけられるようになった事由をも示している。》(北澤憲昭『境界の美術史ー「美術」形成史ノート』ブリュッケ、2000年)
工芸という単語自体は明治以前も漢語として知られていたけれど、工も芸も人が修練で身につけるものを意味していて、六芸といえば「礼(道徳教育)、楽(音楽)、射(弓術)、御(馬車を操る技術)、書(文学)、数(算数)」を指していた。その後、明治維新を通してヨーロッパの文化を取り入れる中で、学問、芸術、生活様式など様々なものが輸入、翻訳されてきた。美術・工芸という概念と枠組みもその1つで、絵画のように純粋な個人の意志の発露を頂点として、工芸は下位とするヒエラルキーも作られた。
また後述するけれど、その価値基準に反旗を翻したのが、民藝運動※1だった。例えば柳宗悦は『民藝』第64号(1958年4月)で《近代美術館は「現代の眼」を標榜してゐる。併し民藝館は「日本の眼」に立たうとする。》と国立近代美術館を批判している。
※1 1926(大正15)年に柳宗悦らによって提唱された生活文化運動。華美な装飾を施した観賞用の作品に対し、名も無き職人の手から生み出された日常の生活道具を「民藝(民衆的工芸)」と名付け、民藝品の収集や出版、振興、美術館の設立などを行なった。
《窯は始まって以来変らない。伝統が凡てである。(中略)思いようによってはまさに時代遅れの窯である。それを謗(そし)る人もあろうが不思議なことには最も進んだ科学が産むものより、ともかく美しい。これを想うと今の知識の頼りなさがしみじみと身に迫る。》(「日田の皿山」『工藝』第9号 1931年)
これは、現在も大分県日田市にて作られ続けている小鹿田焼(おんたやき)に対する文章だ。国策として形成された概念の「工芸」や「伝統」というものがある一方、制度化以前にも手仕事は脈々と続いてきたし、長い歴史の中で受け継がれて来た仕事と美しさは無数にあった。それらは後に「工芸」や「伝統」と呼ばれただけで「工芸」という近代化の過程で生まれた視点によって、見えづらくなるものもあるように思う。おそらくそれは、「鑑賞」に対する「実用」や「生活」ということが鍵になる。※2
※2 また、時期は異なるが正反対をいくような運動として、1947年以降、むしろ用途にこだわらない「オブジェ」を作る前衛陶芸を発表する四耕会が活動を開始している。
広がりゆく「工芸」
民藝運動や前衛の工芸運動などもムーブメントの1つなので、何が正しいという訳ではないけれど、個人の表現や鑑賞される作品こそが美術、という考え方より、道具や暮らしの中に美があるのではではないか、という考えに、個人的には深く首肯する。美術が輸入される前、現在の工芸品に当たるものは茶の湯では器、掛け軸、釜や茶筅、菓子に至るまで機能を持ったものだったし、寺社仏閣の神具や仏具、絢爛な内装も、信仰という「実用」上必要なものだった。印象派などに大きな影響を与えた浮世絵や、町人が破産するほど金をつぎ込んだ手ぬぐいや着物、扇子なども機能があり、画廊(ギャラリー)で鑑賞するために陳列されるような作品が主流だったことはない。真っ白で四角い、ホワイトキューブと呼ばれる空間に作品を置くのは、ニューヨークの近代美術館が導入した様式と言われている。
中世や近世の箒に文化的な価値があったかは別にしても、職工達が誇りや美学を持って作っていたことは、箒を教わってきた身としてひしひしと感じる。それを明治以降の「工芸」という枠組みに嵌めてしまうことは、過去の手仕事も「工芸」という観点を用いることになる。言ってしまえば色眼鏡でみてしまうこともあるのではないか。
もちろん、言葉の意味は時代とともに変わっていて、新しいイメージを持つ生活用品、時にクラフトとも呼ばれる、身近で、カジュアルなハンドメイドの道具も、時に工芸と呼ばれることがある。その大きな流れの1つに、2000年〜2010年代にかけての「暮らし系」ブームと呼ばれる流行があった。個人の作り手による生活用品を扱う小規模なセレクトショップが都市部を中心に矢継ぎ早に生まれ、『ku:nel』(2003年)、『Lingkaran』(同)、『天然生活』(同)など「ライフスタイル」を紹介する雑誌が申し合わせたかのように創刊される。そしてそれらの店舗や作家を多く取り上げた。
工業製品であるプロダクトに対して、ハンドメイドで、自然素材を中心にした瀟洒(しょうしゃ)な「作家物」と呼ばれる手仕事が「クラフト」とも「工芸」とも呼ばれる中、時に伝統的な背景を持つ仕事であっても、カジュアルで身近な生活用具として広く受け入れられるようになってきた。
多様な文脈の中に身を置くこと
大まかに、僕たちの作る箒を「工芸」と呼ぶ時に含まれる意味合いを俯瞰してみた。ロックもパンクもジャズも、多数の様式があることが音楽を肥沃にするように、どの系譜も、現在も脈々と続いているし、どれが正解ということはない。更に重複して混ざり合う面もある。それに、呼ばれ方などどうでもいいのではないかという意見もあるように思うのだけれど、展示会場や販売店は、必ず何かしらの文脈を反映してしまうことは避けられない。
中津箒は「伝統的工芸品」には指定されていないものの、それらに囲まれて販売することも少なくないし、「オブジェ」やプロダクトに囲まれることもある。クラフトフェアと呼ばれる場所にも多く出展してきた。様々な要素の集合体である手仕事は、置かれる場所によって切り取られる面が変わることは避けられない。そこに適応できる感性や技術があれば、格式高い「工芸」にもなれば、視覚に重きを置いた「オブジェ」にもなるし、カジュアルで親しみやすい「クラフト」にもなる。
こんな背景は知らなくても、使い手は敏感に空気を感じ取っているもので、会場や店頭で品物に魅力を感じたとき、対価を払って生活に迎え入れてくれる。そして何年、何十年と、その価値観と暮らしてくれるからこそ、自身の作ったものがどのような背景を持ち、どう伝わるかということには、常々敏感でいたいように思う。
参考文献
高木崇雄『わかりやすい民藝』D&DEPARTMENT PROJECT、2020年
森仁史『日本<工芸>の近代』吉川弘文館、2009年
三谷龍二+新潮社編『「生活工芸」の時代』新潮社、2014年