かつて日々のくらしに欠かせなかった箒は、電気掃除機の普及とともに需要が低迷し、全国各地の産地は壊滅状態に陥った。ところが近年、電気に頼りすぎないライフスタイルを志向する人、地域の伝統文化や地場産業に価値を見出す人が徐々に増え、職人が手編みした昔ながらの箒への関心が高まりつつある。
なかでも、神奈川県北部の愛川町では、一度途絶えた旧中津村の箒づくりを生業として復活させる取り組みが進む。その立役者として活躍し、伝統を受け継ぎながら作家性の高い作品も手がける筆者は、美術的アプローチにより社会にコミットするという信条の持ち主。いま注目のつくり手が、仕事を通して目指す“ものづくり”と社会の姿とは――。
第7回 工房想念③ 編み上げる~その2
中津箒を製作する株式会社まちづくり山上では、畑で素材のホウキモロコシ(第5回参照)の無農薬栽培を行っており、製造、販売まで、全てを自社で行なっています。
草箒は一般的に、素材のホウキモロコシなどを糸や針金で束ね、編み込んで形にしていきます。素材としては、箒の本体であるホウキモロコシ以外に、①箒全体を編み込みながら束ね、穂先を綴じる糸、②柄(え)に使う竹や枝、③編み終わりの処理に使う籐の皮、などがあります。
④道具は、一般的な刃物や工具などが多く、箒作り専用で使われる道具の数はあまりありません(①~④は第6回参照)。
大まかな工程としては、天日で充分に乾燥させたホウキモロコシを、⑤長さや質に応じて選別し、⑥束ねてマルキという束にします。続いて、⑦糸でホウキモロコシを編み込み、途中で柄を差し込みます。編み終わりに⑧籐を巻いて、⑨穂先を綴じて完成となります。
今回の「編み上げる」のその2では、⑤選別以降のプロセスに焦点を当て、その流れの中に、どんな思いや意味があるのかを綴っていきたいと思います。
幸せに手渡すための入り口ー選別(⑤)
箒の工程において、取材やデモンストレーションの時には編み込みが注目されがちなのだけれど、昔から選別は親方の仕事と言われていた。若い職人が編み込みと仕上げをやって、その前段階の仕分けは、経験のある職人の仕事だった。偉い人が下準備をするなんて、そのことを聞いた当初は理由が分からなかった。けれど、作り始めて考えるうちに、それが当然であることも分かってきた。
素材をそのまま活かす工芸では、素材をどう仕分けるかによって製品の品質とラインナップ、出来高が直結するとも言える。僕の場合は十数種類で、それで品物の出来が左右されるというのは手仕事としてはかなり大味に感じるかも知れない。けれど、毎秒のように草を手にとって判断をし続けるのだから、やはり経験と人の手と目にしかできない仕事のように思う。もった瞬間に分かるものもあるし、定規にかざして分けるものもある。草のようすを伺いながら、送り届けるお店や人のことを考えて完成品を考えていくのだから、地味なようで自然と人の橋渡しをする、大切な作業でもあると思う。
箒づくりは、手順や工程(編む、穴を開ける、刺すなど)を細かく分けることができるけれども、その中でも選別というものは仕分ける、時にバラす、という作業でしかない。ところが箒は粘土のように削ったり足したりが出来ない分、草一本一本の組み合わせに頼るしかない。サイズや品質がその仕分けに左右される点はシビアだと言える。また選別の過程で、どの草をどの商品に割り振るか、バラすか、どう組み合わせるかによって概ね製品の品質やラインナップが決まってしまう。また、草の良し悪しの判断も記憶と経験に頼るしかないので、やはり熟練した職人の目が必要になる。
よく聞かれる質問の一つに「良い草とはなんですか?」というものがあるのだけれど、端的に言えばできるだけ目が細かく、穂先が長く、均一に育っているものだろう。しかし実際は健康的によく育っているかを大量に仕分ける中で瞬間的に判断していくことになるので、結局は理屈ではなく、経験と直感、と言ってしまうのが的確な気がする。八百屋が野菜の、魚屋が魚の良し悪しを一目で判断できるように、箒屋はホウキモロコシの良し悪しを即座に判断しなくてはいけない。
人間国宝第一号であり、民藝運動の重要人物であった濱田庄司が、大皿へ釉薬を15秒ほどで流し掛けをしている際「あまりにも早すぎて物足りなくはないか」と聞かれると、「15秒プラス60年と見たらどうか」と答えた有名な話がある。
勝手に自分の仕事を並べてしまうのも恐縮だけれど、ほとんどの職人仕事は一瞬一瞬の積み重ねであるようにも思う。僕自身、箒を教わるときに、その手早さに驚いた記憶があって、繰り返しの作業というものは、手だけでなく、判断力や経験から来る直感、予測、様々な言語化できないことを総動員しているので、人間にしかできない仕事だろう。
こうした地道な作業が、受け手、作り手の幸せに繋がっている。初めて注文で作った長柄箒は、東京の下北沢で売ったのを覚えている。当初、売る場所もないので路上で売らせてもらったりしてたのだけれど、そんな折、若い夫婦が、長く使えるものが欲しいと、求めてくれたのだった。百貨店なんかで、サクサク買ってくれる人もいるのだけれど、その夫婦は丁寧に封筒へ包んだ代金を恭しく渡してくれたので、こちらが恐縮するほどだった。日々、製作に追われてしまうのでなかなかそうもいかないけれど、本当は、渡す先の顔を思い浮かべながら製作できれば幸せだし、どんどん上手くなれるような気がする。そういった幸せな光景が、黙々と仕分けを続ける一瞬一瞬から繋がっている。
例えるならレンガ積みーマルキ(⑥)
マルキとは、選別した草を括って束にしたもの。束ねると言っても柔らかく、上質な部分を無駄なく使えるように穂先を揃える必要がある。さらに草は枝分かれや太さがまちまちなので、束がまばらにならないよう、選別した幾つかの草を混ぜて束にすることもある。
編組品(へんそひん)である箒は織物などと同様、端から編んで完成していく。完成のイメージや規格があっても、選別、マルキ作りなど、一つ一つの工程から推測して完成像に近付けていくので、少し重くする、少し大きくする、穂の粗密を変えるなどのオーダーはひょいひょい来るのだけれど、ピタリとイメージ通りの完成品を作るには経験を必要とする。
よくこの作業を、レンガ積みに例えてお客さんに説明している。
職人というと、思い通りに品物を完成させるようだけれど、箒はこうやって端から締め付けながら編んで、立体にしていくので、全体の完成形は見込みで進めるしかない。ひと編み、ひと編み、進めていくとだんだん姿が表れる工程は、レンガ積みに似ているように思う。レンガ積みより難しいところは、草はブロックのような規格でもなく、力加減で大きくも小さくもなり、強度や外見と相談しながら進めていくので意外と忙しいところだ。織物のように幅を決めてしまうより先に、強固に締め付けることが決まっていて、草の疎密で胴体の太さが前後してしまうので、一定の密度とサイズを調整することが難しいのだけれど、商品化する為に規格を決めることは避けられない。
というような多くの無理な調整に応えなくてはいけないところがエキサイティングでもあるし、そうやって要望に応えられることが手仕事の価値のひとつでもある。その機微をコントロールできるようになって、初めて需要に応え、道具としての在り方を提案できるようになるのだと思う。
自然素材の手仕事には不確定要素が多く、完成品にゆらぎがある。うまくいかないこともあれば、想像以上の結果になることもある。そのゆらぎを極力安定させることが職人仕事ともいえるし、それでも生まれるゆらぎが、味わいや温かみの源でもあり、自然と対話をする喜びでもある。
装飾ではなく機能としてー編み込み(⑦)
必要な数だけマルキを作ったら、それを覆うように草と糸を編み込んでいく。ホウキモロコシの草は、水に浸しておくとスポンジのように柔らかくなり、編みやすくなる。編み込みは装飾と思われがちなのだけれど、それは全くの誤解で、きちんとした編み込みは箒の強度と使いやすさに直結する極めて機能的なものだ。しっかりとテンションをかけて編み込まれた箒は糸が茎に食い込んで組み込まれているため、仮に糸をどこか切っても箒がバラバラになることはない。(きちんと編まれた箒を解体するには、一つ一つ編み込みを解いていくか、切れ味のいい刃物で本体丸ごと切り開くしかない。)また、糸が草に食い込んでおり、凹んでいるのでぶつかったり擦れても、切れる心配が少ない。
編み込む際には、箒特有の道具、杭に巻き付けてある糸に腕や身体で強くテンションをかけ、縛り上げるように編み込んでいく。数ある編組品の中でも、強く縛り付ける部類に入るはずだ。そうやって草の束を決してバラけたり抜けないようにする。また、締め付ける強さで箒全体のフォルムも変わってくるので、糸が切れない範囲の中で、丈夫かつ使いやすい形態になるよう調整しながら編み込んでいく作業となる。
この後、編む作業の中で、少しずつ中身を削っていく。途中で柄を挿し込んで、強く締める部分を胴締めという。ここで柄を固定させる。その他細かい工程はあるけれど、編み込みの途中で名前がついているのはここだけなので、重要な工程と言えるだろう。各部、名前は無くとも作業自体の説明はできるけれど、強度、糸のズレにくさ、美観、全体のフォルムとの関係など、逐一言葉にしないで判断している工程や職人各々のこだわりや意識は無数にある。よく、見て覚えろと言われたという話を聞くけれど、的外れでもない話だと思う。半分は時代の空気であったのかも知れないけれど、残り半分は、そもそも言語化されていない領域は見たり感じたりするしかない、という事情もあるのではないかと思う。それ故に、濃密な関係で継承して、尊敬と愛情を持って繋いでいくのが本来の手仕事なのだと思う。
異素材で仕上げるーマキド(⑧)
全ての工程は綿糸とホウキモロコシだけで編めるのだけれど唯一、編み終わりだけは、籐の皮を巻く。糸で始末をすることや、柔らかいアルミのワイヤーで代用されることも多いけれど、昔から籐が巻き付けられていた。中津の箒ではマキドと呼ばれる。ここだけ、異素材がわざわざ付けられるのは、編み終わりの強度が重要だからだと思われる。植物系の編組品に共通するけれど、折れやほつれは素材の末端に多い。ウィークポイントである部位、終端に、固く丈夫な異素材を付ける。異素材である分、外れるリスクもあり注意が必要だけれど、栓をするようなつもりでしっかりと仕上げて、編み込みの完了となる。上記のようなマキドの理由は僕の推測だけれど、そうやって連綿と続いてきたことをまず受け取り、その意味を味わい、考えることはすごくロマンチックで楽しい。反対に、意味や目的が全て用意されて余白がない世界は、貧しいものだとも思う。
職人仕事とスパイスーオオトジ、ナカトジ、コアミ(⑨)
箒を柄の付け根まで編み上げた後は、穂の根本を、畳針のように大きな針で束ねるオオトジ、ナカトジ、そして針を使わずに編むコアミという工程がある。ここまで箒に関して、殆んどの工程に機能的な意味があって、装飾本意の作業はあまりないことをも説明してきたつもりだけれど、ナカトジ、コアミに関しては機能面だけでなく、糸の色を変えたり、麻の葉の文様を編み込んだりと、装飾といえる製法もある。(装飾的な仕事はやれば色々できるけれど、僕自身は好みとしてあまりやらない。古くからの美学を継いでいくことも、すごく意味のあることだとは思う。)
とはいえ、編み始めのすぐ穂先側を、針と木槌で綴じるオオトジは、穂先の固定や向きを揃えるために機能的に必要で、同じように見えるナカトジは意味が異なる。かつては、オオトジまでが職人の仕事で、ナカトジやコアミは、職人以外の、妻や子どもがやることが多かったと言われている。仕上げに、スパイスのようにちょっと装飾を入れるというのは控え目で、チャーミングに感じるし、あくまで本領は道具、という逞しさも感じられる。
現在の(株)まちづくり山上の六代目が子どもの頃、コアミを1周3円のお小遣い(当時コロッケが10円だったらしい)でやっていたと聞いて、手伝わされて大変だったろうとも思うけれど、仕事と暮らしが切れ目なく繋がっている世界に、どこか憧れてしまう気持ちもある。
佇まいから滲み出る美しさ
何でも数値化されてしまう世の中だけれど、いい職人の仕事には、言葉にできるもの以外に佇まいであるとか在り方であるとか、実は感覚的な価値もかなりの範囲を占めているはずだ。いい箒はどんな箒か、ということをよく聞かれるけれど、何年使えるか、機能性が高いか、という当然の話以上のものを感じさせたり、生み出すことができたらと思う。それは、外観がきらびやかであったり、装飾的であるよりも、数が並んだ時にも整っているだとか、あるだけで佇まいが凛としていたりだとか、全体から滲み出るようなもので、そこに職人仕事の美しさがあるように思う。
工芸品の美しさの根源が何かを答えることは難しいけれども、こういった道具としての必然性や洗練によるものは欠かせないように思う。生きるために生業とし、数を作り、しかも無駄なく作ることは、技術や構造、外見を洗練させることになる。完成された道具の外見を美しいといってもらえることはもちろん光栄だけれど、本当は、その背景に潜む営み、人の重ねてきた歴史の結晶に対する賛辞であるべきだと思う。そして、その意味を読み解いて、人に伝えていくことが、受け取った人間の責務であるようにも思う。