東京・杉並の住宅街にある「okatteにしおぎ」は、“食”を中心に据えた会員制のコモンスペースだ。明るく広々とした土間のキッチンとダイニング、ゴロンとくつろげる畳スペースや板の間は、メンバー同士がシェアする「自宅外キッチン&リビング」。ごはんをつくる、一緒に食べる、小商いの仕込みをするなど、思い思いに活用しながら「みんなの“お勝手”」を共に育んでいる。
メンバーの自主的な企画や運営により「まちのコモンズ(共有地)」が形成されていったプロセスをオーナーが振り返りつつ、この場所が生み出す価値を考察する。
第5話 1年目のokatte ブレイクの話
株式会社エヌキューテンゴ(以下N9.5)、ビオフォルム環境デザイン室とともに、まちに開かれた家を企画し始めてから1年あまり。2015年4月、okatteにしおぎ(以下okatte)がオープンした。住戸スペースの賃貸管理とコモンスペースの運営サポートについては引き続きN9.5が行い、オーナーはシェアハウス住人から住戸スペースの賃貸料、okatteメンバーの任意団体であるokatteアソシエーションからコモンスペース利用料を受け取り、管理運営サポート費をN9.5に支払うというしくみである。
okatteアソシエーションは住人である「住み込みメンバー(シェア住戸の賃借人)」と、住人を含む「メンバー(月会費を払ってコモンスペースを利用する人)」で構成される。メンバーのうち、プロとしてキッチンの営業許可を利用したい人は、月に一定時間までキッチンを専有して使える「小商いメンバー」となる(オープン当時 2019年変更)。
メンバーは基本的にokatteの入り口の鍵を「勝手に」開けて入り、コモンスペースを一定時間まで自由に使うことができる。イベントなどで専有したい場合は、別料金でスペースごとに予約利用をする。平日の18時~21時は「okatteアワー」として、一人200円で誰でもキッチンでごはんを作って食べることができる(オープン当時 2019年変更)。
okatte最初の住人たち
okatteの住人については、コンセプト型シェアハウスのポータルサイト「コリッシュ」で募集した。また、3月中から、まだ工事中の現地で、住人とメンバーについての説明会を何度か行った。さらにokatteのウェブサイトを立ち上げ、フライヤー(チラシ)を作って西荻窪界隈の店などに置いてもらった。SNS(主にFacebook)を使って、説明会やイベントのお知らせやオープンに向けての準備の様子も発信した。
当時、オーナーである私は、いったいどれくらいの人がokatteに興味を持ってくれるのかわからないということに不安を抱いていた。それまで長年マーケティングの仕事をしていたが、マス商品とは異なり、okatteの場合、ローカルの小さな事業、しかもほとんど先例が見当たらないような事業ということで、予測を立てることができない。不動産の大家としての経験もない。とりあえず、4部屋のシェア住戸さえ埋まれば当面の借入返済はできる見通しではあった。ただ最寄り駅から徒歩15分という立地、しかも一般的なシェアハウスに比べて賃料は高めに思え(N9.5の見立てとしては、坪単価は周辺の家賃相場としてはリーズナブルで、十分見込みがあるということだったが)、申し込みがあるかどうか不安だった。okatteメンバーについては、一桁の人数でもとにかくメンバーになってくれる人がいればうれしいのだけれど、などと、かなり悲観的な予想をしていた。
2015年3月22日、午前午後の2回行った最初の説明会には、のべ30人ほどが参加した。思ったよりたくさんの人が来てくれたという印象だった。前年のワークショップ(第4話参照)に来てくれた知り合いもいたが、SNSで知って、初めて来てみたという人も多かった。近所の区立図書館に行こうとして偶然前を通りかかり、参加した人もいた。皆さん、熱心に話を聞いてくれて、メンバーシップにも興味を持ってくれていた。その後数回の説明会を行ったが、常にそれなりの数の人が来てくれて、これは意外と手ごたえがあるなと思った。
賃貸住戸については、幸い、被災地応援の仲間二人が工事中から興味を持ってくれた。一人は映像関係の仕事をするKさん(40代男性)で、仕事場も兼ねた住まいとして使いたいとのこと。それまで近所の2DKのマンションに一人で住んでいたものの、キッチンはほとんど使っていなかったことを考えると、キッチンをシェアすることで家賃を抑えられるokatteのほうがリーズナブルだと話してくれた。大学院でコミュニティ研究をしていたので、okatteのような場がどうできていくかにも関心があるそうで、入居してくれればとても心強いと思った。
もう一人は当時東北の食品の通販会社を経営していたMさん(50代女性)で、事務所として使いたいとのことだった。Mさんは、近所に店舗兼事務所を借りていたが、一人で店舗をきりもりするのは難しいということで、通販事業に専念し、事務所として個室を利用しつつ、okatteのイベント等で販売もできたらという希望だった。業務用冷蔵庫を入れるために個室の床を補強する必要があったが、Mさんが事務所として利用してくれると、昼間、okatteが全くの無人になることを避けられそうだというメリットもあり、そちらも心強かった。Mさんは3月から、Kさんは4月から入居することになり、あと2部屋の住人を新たにさがせばよいということで、かなりほっとした。
最初の説明会の後、残り2部屋の入居者もすんなりと見つかった。それどころか、部屋数を超える人数の申し込みがあった。このため、僭越ながら入居者の選考まですることができ、よりokatteの立ち上げにふさわしい入居者に入ってもらうことができた。
新たに入居が決まった二人のうちの一人は、学校の管理栄養士として給食に携わり、みんなで囲む食事に興味のあるYさん(20代女性)。学校という公共の場での食の専門家でもあり、大勢の食事を作ることが好き、というYさんは、まち食(第3話参照)等での活躍が期待されるとともに、衛生面やキッチンの備品管理(調理器具や食器、消耗品等)等の面でもメンバーの中心になってくれそうだった。
もう一人は、初めての一人暮らしがちょっと不安なので、シェアハウスで自立の予行演習をしたいという保育士のHさん(20代女性)だ。Hさんの両親はもともとN9.5の影山知明さん(第2話参照)が店主を務めるカフェ クルミドコーヒーをよく利用していた。また、Hさんのお父さんがコーヒーを淹れることが趣味ということもあり、両親もokatteメンバーとして登録して、イベント等に参加しつつHさんの自立を見守りたいということだった。入居者としては最年少のHさんだったが、okatteは小さい子どものいるお母さんの利用も多いことが見込まれたため、保育のプロであるHさんが住人としていることの安心感は大きく、Hさんが入居してくれることはokatteにとってもよいことだと思われた。
2015年4月半ば、4人が入居した日の夕方、入居者とメンバー一人をまじえたささやかなokatteアワーが開かれ、okatteでの共同生活が始まった。メニューは豚肉と野菜の炒め物、市販のギョウザ、サラダ、みそ汁とご飯。皆で料理をし、缶の飲み物で乾杯した。少しだけかしこまった感じで始まった夕飯だったが、すぐに打ち解け、話も弾んだ。okatteの始まりに期待が膨らんだ。
実は、性別や年齢が異なる入居者が一緒に住むことに対して、私の中でちょっとした懸念がないわけではなかった。私自身はシェアハウスに住んだ経験がなく、もしトラブルが発生したらどうしたらいいのかわからない。テレビでシェアハウスを舞台にしたリアリティショーが放映されて、シェアメイト同士の人間関係が面白おかしく話題になっていた時期でもあった。しかし、実際にはそうした懸念は杞憂であった。
もちろん個室の施錠やバスルームに鍵のかかる脱衣コーナーを設けるといった配慮は行った。N9.5の入居者に対するケアも行き届いていた(住人の定例ミーティングや定期的な入居者個人との面談など)。住人だけの閉鎖的な空間ではなく、外部からのメンバーも出入りするokatteの風通しの良さも関係しただろう。しかし、なによりも、良識ある入居者が良識ある住まい方をしさえすれば、深刻なトラブルにはつながりにくいという当たり前のことがわかったことは、私にとって大きな安心感につながった。
現在、入居者は全員入れ替わっているが、この4人は、okatte初期の「住み込みメンバー」として、okatteの「マナー」を形作る中心的存在となってくれた。1人は転居でメンバーからはずれたが、3人は今もokatteメンバーである。転職したり、結婚したり、子どもができたりとライフステージは変わっても、okatteとの関係が続いていることで、私にとって親戚のような存在になっている。
オープン時のメンバーのプロフィール
入居者以外のメンバーの登録も好調だった。オープンから3か月後の7月にはokatteのメンバーは50人を超え、1年後にはのべ100人に達した。特別にお金をかけてPRをしたわけではないにもかかわらず、新聞や雑誌、テレビといったメディアの取材も何回か入った。オープンからしばらくした時、N9.5の齊藤さんに「もしかしたらokatte、化けるかもね」と冗談で言っていたが、どうやら、一部ではあるが、okatteは実際に注目を集め始めているようだった。多くのメディアでの紹介の仕方は「核家族や単身者の増加による孤独や孤立が問題になる中、東日本大震災を契機に地域のコミュニティの大切さが見直されている。そうした気運の中でつながりを取り戻す新しい方法として、他人同士での共食を楽しむことに着目したちょっと変わった共用キッチン付きシェアハウスがあるので紹介する」といったものだった。まちづくりや地域活性化、空き家問題、シェア、子ども食堂といった当時のホットな話題とokatteがマッチしたのかもしれない。
初期メンバーには30代から40代の女性が多かった。シングル女性も多かったが、小さい子どもを自転車で連れてくる女性の反応がよかった。オーナーや運営が女性であること、キッチンが中心であること、ワークショップで出た意見を反映して、子ども連れへの配慮をしたことが彼女たちに親しみを持ってもらえたのかもしれない。説明会の時によく出たのは、地域にママ友以外の知り合いが欲しいという話と、子連れの大人同士が気軽に食事をしたりくつろいだりできる場所がファミレスくらいしかないという話だった。しかし、子どもを連れてファミレスに頻繁に行くのは、経済的にも負担だし、まわりのお客さんにも気を遣う。子どもの健康のことも考えると、手作りの食を食べさせたい。okatteはそんな女性たちの気持ちに寄り添えると思われたのかもしれない。夕飯のおかずを作り合えないか、とか、作り置きの惣菜を分け合いたいといった、キッチンを使った助け合いをしてみたいといったことを話す女性もいた。
シングル女性の場合は、東日本大震災の影響から一人暮らしが不安になり、住んでいる地域に知り合いが欲しいと思ったが、行政などが主催している地域イベントや活動は高齢者向けのような感じで参加しにくいという話も出た。okatteはこうした女性たちのニーズにも合致したようだった。
逆に少ないのは高齢者だった。ネットでの募集が中心だったことで、高齢者にはあまり情報が届いていないようだった。その後新聞やテレビで取り上げられた時には説明会に高齢の人も来るようになったが、okatteのシステムを理解してもらうことは少しむずかしいのかなという印象だった。ただ、その後のオープンなイベント(ランチや物販)には近所の高齢者も来てくれるようになった。
男性のメンバーは約2割。説明会にはパートナーの女性と一緒に来る人、趣味のうどんづくりや友人たちとの持ち寄り会食でキッチンを利用したいという人、また、コミュニティづくりに参加したいという人もいた。
実はオープンしてからしばらくして、あまりにも女性のメンバーが多い(メンバーの8割は女性だった)ため、男性のメンバーから、男性が気軽に利用しにくいという不満が出たことがある。女性メンバーといっしょにイベントに参加したパートナー男性が、女性たちが料理をしながら楽しんでいる間 、子どもの相手ばかりさせられるので、もう行きたくないと言い出したこともあった。しかし、これは長らく女性が経験してきたこと(男性客ばかりの居酒屋に女性が気軽に入りにくい、男性が家に友人を連れてきてお酒を飲んで楽しんでいる間、家族の女性がつまみを用意したり子どもの世話をしたりする)でもある。女性が男性を排除しているわけではないので、お互い性別にこだわるのではなく、メンバーとして男性も女性も一緒に料理をしたり、おしゃべりをしたりして楽しめばよい、ということになった。
その後、数少ない男性メンバー(女性メンバーのパートナーを含め)は「男子会」を作り、魚をさばいたり、もちつきイベントを主催したり、キャンプに行ったりという活動も始めた。また女性が多いことに慣れるにつれ、女性主体のイベントだからといって参加しにくいということもなくなったようだ。建築関係の仕事をする男性メンバーが、子どもたちのイベント用にお菓子の家を作りたいというお母さんたちから頼まれて、設計図を描き、ビールの缶を切ってクッキー型を作って提供したら非常に喜ばれたといったできごともあり、いつのまにか、性別そのものが問題にされることもなくなった(2022年現在も女性が多数派であることに変わりはないが)。
最初の1年、okatteの「ブレイク」
4月のオープンからしばらくは、運営者側が企画するイベントを比較的頻繁に行った。阿佐谷で参加して以来念願だった「まち食」(第2話参照)の西荻窪版「okatteアワー」はオープンの1週間後に実現した。5月にはオープニングパーティを開催し、50人以上がお祝いに来てくれた。6月にはメンバー発案で、大分県臼杵市の無化学合成農薬・無化学肥料の野菜づくりの取り組みを扱った大林千茱萸(おおばやしちぐみ)監督のドキュメンタリー映画『100年ごはん』上映会と、メンバー数人が料理したおにぎりと臼杵市の野菜を使った料理をふるまう食事会(ブッフェ形式)を行い、大変好評だった。
この食事会を含め、イベントの際の料理や食材、調味料の使い方等に関してメンバーをけん引したのが、小商いメンバーに登録してくれた料理家の故フルタヨウコさんである。フルタさんは通販サイト「北欧、くらしの道具店」でジャムを販売しており、その製造場所としてokatteを利用するためにメンバーに登録した。彼女はまた有名ファッションブランドの社食を手掛ける料理家として、サイトや雑誌などにシンプルでおいしくておしゃれなレシピを紹介し、ファンも多かった。残念ながら2018年に若くして逝去されたが、自分が考えたアイディアやレシピ(商売道具のジャムのレシピも教えてくれた)、スキルを惜しみなくメンバーと共有し、調味料の選び方や使い方のワークショップを開いたり、調理器具を寄付してくれたりした 。フルタさんが遺してくれたこうした有形無形の宝物はokatteへの「遺産」となり、初期のメンバーの中にしっかりと受け継がれている。
オープンからしばらくすると、平日夜の「okatteアワー」や予約利用の食事会も頻度高く行われるようになった。料理好きなメンバーを中心に10人以上が集まる時もあったし、住人がカレーなどの日常食を作り数人で食卓を囲むときもあった。子どもを連れたメンバーが集まり、板の間で子どもを遊ばせながらそれぞれが1品ずつおかずを作って食事をするということも多かった。地域おこし協力隊として秋田に移住した住人の友人から送られてきた山菜などの食材を、秋田とテレビ電話でつなぎながら料理して食べる会、カカオ豆からの手作りチョコレートワークショップ、ブックカフェといったイベントも行われた。
イベントの様子はSNSでも発信し、メンバーになったら楽しそうという雰囲気を伝えるようにした。オーナーである私も、こうしたイベントに参加することで、okatteという空間でみんなといっしょに料理をして食卓を囲む楽しさを味わうことができ、okatteを作って本当に良かったと思えた。当時、okatteのメンバーになるとどんなメリットがあるかと聞かれた時には「家でご飯を作ろうと思ったら一人で何品か作らなきゃならないじゃないですか。でも、okatteなら1人1品作れば、5人いれば5品食べられるんですよ。しかも自分の知らないメニューや新しい味に出会えるんです! 作り方も教えてもらえるし、新しい知り合いも増えるし」と答えていた。
イベントだけではなく、手芸部(寄付されたミシンを使って自分の好きなものを作る)、着物部(着物の知識豊富なメンバーに着付けを習う)、園芸部(造園業のメンバーに植物の手入れや剪定を教わる)といったメンバー同士の部活のような集まりが自主的に行われるようになった。住人を中心とする掃除部(定期的に掃除をする)もできた。掃除は面倒でやりたくないことと思っていたが、掃除を楽しめる人もいるということに驚いた。2年目にはokatteを離れてメンバーの群馬の実家で米づくりを手伝う稲作部ができ、育てたお米をokatteで販売した。小商いメンバー中心に定期的に行われるマルシェのような「okatte商店街」の催しも始まり、ランチの提供や自分が製造した商品の販売を行った。この催しは、メンバーにはなりにくい高齢者を含む近所の人(私の母も)も気軽に立ち寄り、okatteのことを知ってもらうよい機会となった。その後「okatteオープンデー」と名前を変え、2022年現在も隔月で続いている。
そんな中、2016年に入ってメンバーのSさんから持ち込まれたのが、釜石のみそメーカー藤勇醸造株式会社(以下藤勇)の「十割糀みそ(岩手県産米・大豆100%使用)を使った焼き菓子づくりの依頼だった。Sさんが東日本大震災後のボランティアで知り合った藤勇の専務の娘さんから、東京の岩手応援イベントで販売する焼き菓子をokatteで作ってくれないかと相談されたが、Sさんは料理は苦手なので、住人のYさんに頼んだのだ。
Yさんはいくつかのパターンでレシピを考えて試作したものをメンバーに試食してもらい、意見も聞いた。そして一番評価の高かったみそ入りパウンドケーキを200個ほど作り、数人のメンバーが包装などで協力し、販売したところ、とても好評で完売することができた。その後、藤勇と地元の洋菓子店がコラボしてそのパウンドケーキを「十割糀みそケーキ」として商品化することになり、Yさんはレシピを提供し、グラフィックデザイナーのメンバーAさんがパッケージとポスターをデザインした。そしてこれが「岩手ぅんめぇ~もん!!グランプリ2016」の食品企業部門で優秀賞を受賞したのだ。okatteでのメンバー同士のつながりから、思わぬ成果が生まれたエピソードだった。藤勇とokatteメンバーのつながりは2022年現在も続いている。
こうして、オープンから1年ほどの間に、okatteのメンバーは予想以上に増え、外部からも注目をされ、ありがたいことにある種の「ブレイク」を経験することとなった。ただ、この間の真の意味での「ブレイク」は、運営側がイベントを提供しなくても、メンバー自身が自分の心の壁をブレイクして、自由に自分がやりたい活動を自発的に楽しんで立ち上げるようになったということだ。しかも、メンバー同士で頼ったり協力したりすることにより、一人ではできないことができることもわかった。
たとえば、数人で食事をしながらおしゃべりを楽しんでいる時にこんな会話が交わされたことがあった。
「実は今度ポートランドからパーマカルチャーの市民教育をしている人が来るんだけど、okatteでも彼を呼んで話をしてもらいたいんだよね」
「それはいいね。だけど英語だとわからない」
「そういえばMさんって英語できるよね。通訳とかしてもらえないかな」
「ちょっと聞いてみるわ」
結局Mさんが通訳をかってでてくれ、ポートランドからの客人にはokatteで一泊してもらい、トークイベントも実現したのだった。
こうしたokatteのブレイクをもたらしたのは、N9.5の齊藤さんを中心とする運営側のありかたと、メンバー自身の変化によるところが大きい。次回はその中でも運営側のありかたについての話。