かつて日々のくらしに欠かせなかった箒は、電気掃除機の普及とともに需要が低迷し、全国各地の産地は壊滅状態に陥った。ところが近年、電気に頼りすぎないライフスタイルを志向する人、地域の伝統文化や地場産業に価値を見出す人が徐々に増え、職人が手編みした昔ながらの箒への関心が高まりつつある。
なかでも、神奈川県北部の愛川町では、一度途絶えた旧中津村の箒づくりを生業として復活させる取り組みが進む。その立役者として活躍し、伝統を受け継ぎながら作家性の高い作品も手がける筆者は、美術的アプローチにより社会にコミットするという信条の持ち主。いま注目のつくり手が、仕事を通して目指す“ものづくり”と社会の姿とは――。
第4回 未知と交錯の日々、京都②
修業はさておき、お祭りへ
智史さんは、兄の芳弘さんと対称的で、すごくおしゃべり好きな人だった。表情豊かで、いつもにこやかだったイメージがある。とにかく京都の文化や歴史が好きで、その話ばかりしていた。そして、どんな人でも受け入れてしまうおおらかさもあった。
実は、彼からも箒を教わったけれど、その種類は多くない。教わった箒の型をせっせと作っていると、「もうええやろ。出かけよ」と急かす。実際、智史さんの所でお世話になった数日のほとんどは京都散策と陶芸の話を聞いていたと思う。
ちょうど京都は祇園祭で、「山鉾を観よう」と智史さんに誘われるまま外に出た。盆地の京都は平安時代に計画された都市で、中心地は碁盤の目のように規則正しく配置された交差点が連なっている。どこまでも続くようにみえる直線道路には日陰が少なく、店舗や寺や住居が密に立ち並ぶ中、じりじりと照り返す日射しと湿気がとにかく暑かった。そんな中で行われる祇園祭は、千年以上続く八坂神社の祭礼で、ユネスコ無形文化遺産にも指定されている。1か月にわたって続けられる祭礼のハイライトである山鉾巡行では、町ごとに所有する山鉾と呼ばれる山車(だし)三十基以上が市中を巡行する。山鉾は、木造の台車の上にきらびやかな屋台が載っていて、その屋根の上には電柱よりも高いような鉾が天を突くように掲げられている特徴的な山車のことだ。
当時の僕は祇園祭、という名前くらいは聞いたことがあったけれど、それ以上のことは何も知らなかった。訳もわからず炎天下を引きずられるように歩く。「ここで待ってたらええ」と、大きめの交差点の角、ガードレールの裏に立たされた。
「そろそろやな」と、智史さんが呟いてから少し経つと、僕らの後ろにどんどんと人が集まり、気がついたら、テレビカメラや写真家よりも最前線を陣取ってしまっていた。何も分からずいるのが申し訳ないようで、少し気まずく思う。「お、きたきた」と、智史さんがいうと、熱せられた公道の陽炎から、天高く鉾を掲げた山車が現れた。無数の荒縄が繋がれ、草鞋(わらじ)に法被姿の人々が揚々と引っ張っている。
「辻廻しのここが山場なんや」
騒がしい音と、みるみる上がる観客のボルテージの中に、町ごとの象徴を掲げた巨大な山車が迫ってくる。ちょうどここは、山車が方向転換をする交差点らしく、難所かつ見せ場のようだった。木造の山車にキャスターなんてあるばすもなく、どうやって曲がるんだ? という疑問が解決されないまま交差点までやってきた。そこで山鉾は地面に竹を噛ませて、無理矢理としか見えないやり方で、掛け声とともに向きを変えるのだった。更に、観衆の熱気と視線が山鉾に集中していくのが分かる。曳手の中には屈強な外国人らしき人も混ざっているが、力の入れ具合、表情、重たさが伝わる。既に、執拗にアスファルトに擦り続けられた草鞋はぼろぼろだった。ぎしぎしと音を立てながら旋回した山車は、観衆の唸るような歓声を尻目に、またずいずいと次の場所へ向かう。こんなことが何十台も続くらしい。
僕はすっかり興奮してしまって、いつまでも観られそうだったけれど、何台か観たた所で「もうええやろ」と、特に興奮することもなく、終始、機嫌のよさそうな智史さんはまたどこかへ向かう。
京都の裏道へ
「見どころはこっちや」といっては、明らかにうらぶれた小道へ、ついついと入っていく。はぁ、と、やや釈然としないながらも付いていくと、日も暮れかけ、ほとんど黒い塊のようになっている裏通りの民家の格子戸の奥に、灯りがついているのが見えた。何も置かれていない畳の一間の中心に、きらびやかな着物が一枚かけられている。人の気配はない。
「祭りの夜は、家宝を出してみせるんや」
静まりかえった通りを歩いていくと、1つ、また1つと、スポットライトに照らされたように、着物や壷などが家々の窓際に現れる。後に知ったところでは、それは屏風祭と呼ばれており、ダイナミックな山鉾の裏で屏風や着物などを個人や会社が各々披露するという催しなのだった。主催がいるわけでもなく、各々が自発的に祭りを祝う在り方に秘めたる熱意や人情を感じ、とても感銘を受けたのだった。
「でも随分少なくなったなぁ」
そうして、寂しそうにする智史さんと帰路に着いた。
少しの期間だったけれど、智史さんとの日々は始終そんな調子だった。
「お菓子買いに行こか」
といって連れられると、看板もなにも出ていない木造の民家にしか見えない建物に入っていく。土間のこじんまりとした店内には、ガラスケースに、ポツンポツンと和菓子らしきものが置かれていた。
「すんませーん」
智史さんが声をかけると、中からジーパン姿の、ラフな茶髪の女の人が出てきた。これと、これ、と智史さんが当然のように注文をする。しばらくすると、淡白な接客に似合わず、真っ白で端正な包装の菓子がでてきた。御礼を言って店を出ると
「あ、卵かってかえろか」と言って、智史さんはまたほっこりと帰路に着いた。
帰って食べた和菓子は、よく分からないけど「すごい」としか感想が出てこないものだった。甘さは控えめながら、ほろほろと、口に入れた瞬間になくなってしまうような繊細なお菓子。とにかく上品だったのだけれど、食べたのはそれきりで、名前も素材も、今となっては分からない。ははぁ…としばし感心していると、「お父さん卵割れてるじゃないですか」と、台所から奥さんの声がして、智史さんは「そうかぁ〜?」と、生返事をするのだった。
智史さん達の美学
智史さんは筋金入りの焼物コレクターでもあった。
間口が狭く、絵に描いたようなうなぎの寝床の家には、箱に入った器が山とあった。器だけならまだしも陶芸のオブジェにも手を出していて、本来ならホテルのロビーにでもあるような四角い陶の立体が、超然と玄関に置いてあったりもした。そして、今でも不思議だと思うのは智史さんが箒を誇らしい「文化」だと僕に出会う前からずっと思っていたことだ。箒などの道具は元来「荒物」などと言われるように雑多な生活の道具で、高尚なものだとは思われていなかった。高尚と卑俗。簡単なことのようで、相反する価値を逆転するということはすごく難しい。
僕の知る限り、雑多な民衆の道具に価値を見出した文化運動は幾つかあって、僕が親しんでいる中で1つは民俗学、もう1つは民藝運動だった。智史さんは、確かに河井寛次郎や木喰さん※など、民藝に関する単語を話題に出したことはあったものの、基本的には工芸や茶道、アッパーカルチャーとしての陶芸の好事家という感じで、民藝運動にコミットするような行動はとっていなかったように思う。あまり抽象的な話をしたこともなかったのだけれど、箒を茶道具と同様に捉え、当たり前のように評価していることが不思議でならなかった。
※江戸時代の仏教行者・木喰(もくじき)上人は全国を行脚して仏像を遺しており、大胆なデフォルメ、野性味のある作風は、民藝運動の生みの親である柳宗悦にも愛されていた。
美術史に詳しい人の間ではよく知られたことだけれど、「美術」、「工芸」というカテゴリー分けと価値体系というものは、明治維新以降に政策によって形成されたものだ。ウィーンやパリの万国博覧会や国内の勧業博覧会の中で、絵画、書画、彫刻などの線が引かれ、工芸や道具の類はその下位とされた。一方、ヨーロッパの美術工芸は貴族的で豪華絢爛な鑑賞物に重きが置かれていたのに対し、日本では、瑕疵のあるものや枯れたものにも美を見出していたことは見落とせない。(茶道において侘び寂びと呼ばれるものも、その考え方の代表的な例と言える。)
茶道を嗜んでいた智史さんや、芳弘さん達にとって箒はただの使い倒される消耗品でも食い扶持だけでもなく、歴史と生活の積み重ねによって作り上げられた美しい文化であり、味わい、考え、鑑賞に耐え、多くの言葉を持つ道具だった。そして荒物とされていた身の回りの生活用具にも、美しさがあるという眼差しを常に持っていたのではないかと思っている。
そのような視点を保守的だとか、古臭いと一蹴してしまうことは簡単だ。現在の中津箒には中津の地に伝えられてきたものだけでなく、京都の柳川兄弟のエッセンスが加えられているのだが、根本的な視点において前近代から続く美学を保っていたことで、かつての箒はただの量産品となることを免れ、中津の箒が中津箒となることができたのだとしたら、それは情報化がますます進む現代において更に尊いものだと感じる。
そういったことから、中津の箒が柳川兄弟のもとで異質ともいえる変化を起こしたのは、土壌がよかったとか環境がよかったという話ではなく、全く異なる文脈に箒が置かれることで異次元の変容を遂げたのではないかと考えている。京都にも棕櫚の箒を作る職人はいたけれど、神奈川で生まれた素朴な草箒が、芳弘さん達によって京都という異界の地に根付き、研ぎ澄まされるように変化していったことが、奇跡のように現在の中津箒を生んだのだと思った。そして僕は、そのバトンを手にとってしまった。
交錯する2つの社会
今になって、人類学者クロード・レヴィ=ストロースが提示した「冷たい社会」「熱い社会」という概念を思い返す。世界の先住民社会の構造を研究した彼は「人類学の課題」(『今日のトーテミスム』みすず書房、1970年)の中で「固有の知恵を練り、あるいは保持し」、「構造の変化に対して必死に抵抗するようにしむける」社会を「内的環境が歴史的気温において零に近いため」、「冷たい社会」と呼んでいた。
その対極として、「限定された成員数とその力学的な機能様態とによって、新石器革命の結果世界の各地に出現し、カースト、階級の分化が休みなく促されてそこから生成と精力とが抽出される」社会を「熱い社会」と呼んだ。文明化された西欧の「熱い」社会に対して、「未開」と呼ばれていた社会を「冷たい社会」に例えていたので、京都の話をしているところで引き合いに出すのはそぐわないと思われるかもしれない。けれども、雑多な道具/荒物を文化的な工芸品へ読み替えることは、地続きの発想ではなくて、「熱い」「冷たい」という対義語に近いほどに、根本的な眼差しの違いがあるように感じている。
「京都人は新しもの好き」という話をよく聞くけれど、東京のようにただただスクラップ&ビルドと拡大を繰り返す訳ではなく、むしろ伝統や習慣を多く残しつつ醸成しているのは、文化の構造が違うからだと思う。東京のように、階級と不均衡を生み出し、エネルギーを過剰に移動し続けることで動いていく社会と、京都のように自らの文化圏の中で価値を共有、循環し、文化を熟成していく社会。そうやって相対する文化に触れたことは、あまりに刺激的だった。
また、レヴィ=ストロースは、「冷たい社会」と「熱い社会」を工学的機械と熱力学的機械に例えてもいた。時計のように最初のエネルギーを内部で循環して動いていく社会と、蒸気機関のようにボイラーとコンプレッサーを用いて温度差で、大量のエネルギーを費やしながら、猛烈に動いていく機械だ。僕は、京都が機構を閉じた時計のように「固有の知恵を練り」「保持」した世界、自分の育った東京を、「力学的な機能様態とによって」「カースト、階級の分化が休みなく促されて」「生成と精力とが抽出される」蒸気機関のようにも思う。
東京の暮らしは、日本で最も強大なエントロピーとエネルギーの差を利用して、ギシギシと音を立てて軋んでいるように僕は感じていた。そんな危機感から逃げようとして、京都へ旅立ったのかもしれない。
「辛かったら万願寺唐辛子と違うからな、辛かったら八百屋に文句言いに行くで! これ万願寺ちゃうやろ言うて」
食事の時、智史さんの息子さんは、食べる前からそうやって威勢よくむしゃむしゃと食べていたこともすごく覚えている。いつも、そんな話をしながら暮らしているのだろう。
こういった人々が、京都に未だどのくらい残っているか分からないけれど、智史さん達に出会って彼らはものの良し悪し、捉え方、様々なフレームが、東京で育った僕らとは違うのだと、ひしひしと感じた。地軸が違うと感じるほど、京都の盆地には混沌が渦巻いていて、別個の歴史が育ってきたのだと思う。(ただこれは、東京人特有の個性のなさで、実はどの地域にいっても、土地土地の習慣やこだわりがあるのが普通なのかも知れない。)京都支店の開業当初にどんな苦労があったかは分からないけれど、その大きな転回のお陰で、中津の箒は時空を、構造を飛び越えることができた。その先に芳弘さんの箒があって、その上に、それに感化された現代の僕達がいる。そんな積み重ねを思った。
二人の後に遺ったものは
こんな修業のようには見えない修業時代が終わって東京に帰ってからも、しばしば京都を訪れることがあったけれど、訪れるのは決まって携帯番号を知っていて、いつでも必ず返事をくれる智史さんの方だった。取材などで箒の師匠の話をすると、どうしても芳弘さんの話題になってしまうのだけれど、京都の土地と、生粋の京都人だった智史さんの存在はすごく大きい。
芳弘さんが2014年に亡くなって、智史さんも後を追うように亡くなってしまった。芳弘さんの手紙はとても達筆で丁寧な対応をしてくれていたので、本心にあまり触れる機会はなかった。その後に僕が展示会や企画に多く参加していったことを喜んでいてくれていたようには思う。けれど、控えめで多くを語らない芳弘さんの「帰ってからはあんたの自由や」という言葉を真に受けて好き放題にやっているので、僕の現在の箒を見せたら、芳弘さんは渋い顔を顔をするかも知れない。
反面、何でも楽しんでいた智史さんは、「ええやん、ええやん」と笑ってくれる気もする。(それから、ほんでこの前な……と必ず焼物の話もついてくるのだけれど。)正直、こんな僕を見守ってくれているかは分からないのだけれど、彼らならどう作るか、どう考えるか。箒を通しての会話はずっと続いている。そんな存在を持てたことは、何よりの幸せだと今でも思う。
近代以降、手仕事の道具が工業製品に淘汰される時代が訪れ、鑑賞される工芸が行き詰まった時代、クラフトブームの去った時代を経て、僕達の手仕事はなお続いている。どこに価値をおいて、どこに重心を置き、どのように作り、誰に届けるかは、文化という大きなフレームの中で現在も、そしてこれからもずっと考え続けなくてはならない課題だ。