かつて日々のくらしに欠かせなかった箒は、電気掃除機の普及とともに需要が低迷し、全国各地の産地は壊滅状態に陥った。ところが近年、電気に頼りすぎないライフスタイルを志向する人、地域の伝統文化や地場産業に価値を見出す人が徐々に増え、職人が手編みした昔ながらの箒への関心が高まりつつある。
なかでも、神奈川県北部の愛川町では、一度途絶えた旧中津村の箒づくりを生業として復活させる取り組みが進む。その立役者として活躍し、伝統を受け継ぎながら作家性の高い作品も手がける筆者は、美術的アプローチにより社会にコミットするという信条の持ち主。いま注目のつくり手が、仕事を通して目指す“ものづくり”と社会の姿とは――。

第3回 未知と交錯の日々、京都①

 よれたメモを頼りに、せき立てられるように電話した。京都の市外局番を押すのは初めてだ。電話口の芳弘さんは、箒の作り方を習いたいという申し出を当然のように、淡々と受け入れてくれて、長い話はしなかったように思う。箒を教えてほしいという旨を伝えて、集合場所と時間を聞いただけ。習う期間や内容、理由も話さなかった。

 夜行バスで着いたのは朝の京都駅前。空気はひんやりとして澄んでいた。京都は3度目か4度目だったろう。9.11のテロで沖縄の修学旅行が中止になって来たときも、何故か家族と来たときも、持て余した時間を消費するために無数の観光スポットを用意しているような街に見えたけれど、目的を携えて訪れた京都は何故か冷たく、掴みどころのない恐ろしささえ感じた。煤けてレトロに佇む京都タワーすら威圧的にみえた。少し水気をはらみ、ひやりとした風を受けながら、それでも不安より、他の多くを捨ててきた清々しさが気持ちとしては勝っていた。

 上ル、下ル。聞いたことのない表記の住所のメモを頼りに、少ない荷物を持ってとぼとぼと歩く。芳弘さんには失礼ながら、どこに向かわされているのかも分かっていなかった。待ち合わせ場所は芳弘さんの弟、智史さんの家だった。

 それは広大なお寺、西本願寺のすぐそばにあった。城壁のような塀の向かいに住居があることがパッチワークのようで、強烈な違和感もあったけれど、それも京都では普通なのかも知れない。古びて情緒のある引き戸に、取ってつけたようなインターホンがついているのが妙に庶民的で、威圧されながらも親しみを感じた。入り口が土間で店舗だったように見える。そうして、同時に様々なことを想像させるような混沌としたあり方にも京都を感じた。チャイムを押すとすぐに、「おぉ、おぉ、あがり」と、智史さんに出迎えられる。

智史さんと芳弘さん

 これは後からしみじみと分かることだけれど、智史さんは本当におしゃべり好きな人だった。関東より、関西人の方が話が上手いのではないかという、あまりに大味で偏見じみたイメージを未だに持っているのだけれど、それにしても、僕は後にも先にも、あそこまでお話好きな人には会ったことがない。少ししゃがれた声で、とめどなく淡々と、川が流れるように話し続ける。おしゃべり好きと言っても、うるさくはないし、何かの不満やゴシップを話したい訳ではない。自分を誇示したい訳でも、相手を負かしたい訳でもない。ストレス発散でもない。ひたすらに、好きなもの、愛するものについて話し続けるのだ。

 ややもすると忘れがちだけれど、これは凄いことだ。一般に長い話が嫌われるのは、話者の博識や権威や教訓(らしいもの)を押し付けられるから。その伸びた鼻をさする役目を強いられるから苦痛なのであって、悪意も強制もなくて、熱を持った話を聞かされるのは、自分にとって苦痛ではない。「あそこに堀があったやろ、そこ曲がって真っ直ぐ行った先に木喰さんがあってな…」「…で、河井寛次郎の器だったんや」などなど、当時、陶芸や民藝のことを何も知らなかった僕は、「へぇ、そうなんですか」などと適当な相槌を打っていたのだけれど、ひたすらに、自分が出会った好きなものについて話し続ける人を見て、少年のようだと思っていた。

 そんな智史さんが話を突然やめ「お、来たか」と、外を見ると車が停まっており、芳弘さんが降りてきた。「ほな、また後でな」智史さんに見送られ、またも分からず、芳弘さんに車で送られていく。着いたのは、芳弘さんの家。そして、すぐ近くに使ってない家があると、宿を与えてくれた。
 その家の入ってすぐの部屋には、直径20cmほどのロールの針金が山と積んであった。赤や青、キラキラとしたビニールでコーティングされていて、1つの部屋の大半を占めている。「昔の、箒屋やってた頃の残りや」と、当然のようにいう。箒を作ったことがなくても、どれほどの規模で仕事をしていたか想像するには充分だった。京都には数多の手仕事があったはずで、箒屋なんてマイナーな部類にあったと思う。それでも、これほどたくさんの素材を備える規模で仕事をしていたことにため息がでた。そして、京都という街が抱えてきた歴史を想像して、目眩がした。荷物を置き、早々に講習が始まったけれども、弟子入りした訳でも、雇われた訳でもない。それは到底、修行や下積みとは言えない穏やかなものだった。

 芳弘さんの作業部屋は、不自然なほどに整頓されていた。道具や材料の類も全て棚に収められ、正面には布がかけてあったので、普通の居住部屋と言われても分からないくらいに片付いている。ただひとつ違和感があるとしたら、外へ繋がるガラス戸へ向かって、円柱状の木の杭が立っていることだと思う。それは、箒を編み込む際の糸を巻きつける、唯一部屋に固定されている道具だった。

著者近影。杭は箒を緩みなく編むために欠かせない道具。単なる糸巻きではなく、糸のテンションを保ったり、きつく締め上げたりするのに用いる。後ろに見えるのは当時の京都支店の前掛け

 記憶では、作業より話が多いくらいだったかもしれない。神奈川県中津村出身の父親が、農業から離れるために、当時地元で箒の製造卸販売を手掛けていた柳川商店の職人になったこと。やがて腕を見込まれ、柳川商店の養子となって暖簾分けされ、同商店初めての関西支店長として、京都へやってきたこと。芳弘さんが二十代の頃に箒屋はなくなり、その後、三十年経ってから別の仕事の傍ら、箒を作り始めたこと。ゆっくりと、諭すように話すのが芳弘さんだった。

「いっつも、どんな箒つくるか考えてんのや」

 裏紙を、丁寧に切りそろえて作ったメモ帳に、箒のイラストと目の数が書かれている。クリップで止めたその分厚い束が、作業道具の傍らにある。

「何十種類も考えたなぁ」

 几帳面で、勤勉そのもの。それでも柔らかな口ぶりが印象的だった。当時の関西初の支店長に任命された芳弘さんの父は、とても厳しい人だったらしい。その元で、最も産業の盛んな時期に腕を磨き、時間が経ってから余生の楽しみとして、喜びとして淡々と箒を作っていたのだと思う。本店も含め、全ての看板が降ろされた後も芳弘さんは独りで刃を研ぎ続けた。そして、本店の五代目が亡くなる少し前、作り続けていた箒を中津に送り届けた。それがあまりに美しく、六代目の心を動かしたことが中津での箒作り再興のきっかけとなった。

京都駅から徒歩約15分の位置にある西本願寺の周辺。浄土真宗本願寺派の本山である西本願寺は、「古都京都の文化財」として世界文化遺産に登録されている(京都市下京区)

「未知」なる世界

 芳弘さんは、とても箒を作ることは好きだったけれど、生活文化や技術の扱いについて、どう思っていたかは分からない。元来の職人は四の五の言わず、ただ作り続けることばかりだったろう。生業は生業でしかないし、文化保存などの制度や考えもなく、議論されなかった時代だ。

 ところが、その時代を生きた人がただ独り、喜びとして作り続けたものがあまりに美しく、何人もの人を動かしてしまう。鋭く研がれた刃物のように洗練された技術が無邪気に人を動かしてしまうさまは、暴力性すら伴うようにみえた。そこに外部の人間が触れるということは、その力と文化、歴史に介入してしまうということだ。悪意を持って受け止めれば、その文化と歴史を貶めることも出来るし、誠意を持って受け止めれば、その文化を誠実な形で外へ伝えることになる。人と関わることは、人生を試されることにもなる。触れれば、自らもその色に染まる。文化に触れるということは、抜き差しならない覚悟が必要となることは、当時も朧げながら感じていた。

 大学の民俗資料室でのワークショップでは、筒型の小箒と、扇形に開いた卓上箒を作った。どちらも手のひらに収まるようなサイズのものだったので、この時の京都滞在ではその他の作り方をいくつか教わった。教わるうちに、みるみる職人へのイメージが変容していった。

何かを分かるということは、何かについて定義できたり記述できたりすることではない。むしろ知っていたはずのものを未知なるものとして、そのリアリティにおののいてみることが、何かをもう少し深く認識することに繋がる。

( 原研哉『デザインのデザイン』、岩波書店、2003年)

 学科の違いで受講はしていないものの、原研哉氏は母校の有名教授で、彼の未知化という考え方は、学内では有名だった。

 物事は、深く知れば知るほど複雑になり、分からなくなるのが本当なのだと思う。かつて、ある細胞の研究者と話していて、「細胞のことなんて分からないことだらけですよ」と言われたことがあった。専門家ほど、その専門分野の分からなさを知っている。芳弘さんとの交流で、どんどん目の前が未知化される光景をみて、人生で初めて本当の情報に触れたのかも知れないと思った。

 固定化されたいわゆる職人のイメージでは、彼らは堅物で、技術のことばかり考えていて、がさつ、という感じがあるかも知れない。もちろん、中にはそんな職人もいるのかも知れないが、芳弘さんはそうではなかった。美しいものを作りたい。その喜びには確固たるものがあったけれど、それよりも優先することは、お客さんがどう思うかだった。

「こうなってると、お客さんが変に思うやろ?」
「お客さんに何か言われるかも知れんやろ?」

 そして、素材を無駄にしないこと、効率的に作ることも徹底していた。つまりは、商売人だった。いわゆるストイックな職人をイメージしていると、商売人と言われてがっかりするかも知れないけれど、仕事にする、プロフェッショナルである、ということは、商売であるということなので、むしろこちらが本来の姿であるようにも思う。表現したいものを任意に形にするアーティストとは違う(芳弘さんの若い頃には、アーティストという概念も近くにはなかったはずだ)。

 時代の需要と供給、材料、流通、全ての重なる点に身を置き、腕と経験を鍛え、ひたすらその仕事で食っていくのが職人だった。その頃は、文化だ伝統だなんて言っていなかっただろう。そんな話は当事者不在で、外部が後から言い始めることも少なくないんじゃなかろうか。だからこそ、芳弘さんが、文化や継承をどう考えていたかは分からない。既に箒は食い扶持ではなかったし、周りが色々と言うので「それならば」と、善意で教えてくれているだけに過ぎなかったのかも知れない。

 そして、最後に語られたこと。
「ここではこう教えとく。帰ってからどう作るかは、あんたの自由や」

再びの問い

 弟子入りでも、研修でもないのだから当然だけれど、またも突きつけられたのは「何を作るか?」「何を為すべきか?」「What’s your concept?」という問題だった。もちろん芳弘さんが語ったのは、単純な作り方の話だったろう。けれど、美術を志した者が「どう作るか?」と問われた時、それは自身と世界の関係を規定して、ある課題に1つの解答を示すことだった。

 教わったことは、幾つかの編み方のパターンだけではない。芳弘さんの仕事に対する姿勢、語ること、抱えていた背景、経緯、全てが歴史であり、貴重な情報だった。それら全てが問いとなって被さってきたのだった。そして、問題があるということは答えを半分もらったようなことでもある。解答の為の一辺に、僕はこの時、確実に手をかけていた。

 その後、芳弘さんから、智史さんから誘いがあるのでそちらへ行くよう、言付けがあった。数日休みがあり、その間は時間の許す限り京都巡りをした。これは今でも、少し出かければ何かの義務のようにやってしまうのだけれど、地域の主要な寺社仏閣や史跡を巡り、写真を撮るのが習慣となっている。「見るべき場所はたくさんあるのだから、同じ場所には二度と来ないと思って見なさい」というのは、大学の恩師の言葉だった。まさに史跡のメッカである京都には幾つもの総本山、総本社、世界遺産があり、何日あっても足りなかった。

 結局、貴船神社や下鴨神社、東福寺、哲学の道、伏見稲荷、本願寺など、ベタな観光ルートを由緒書を舐めるように見ながら回り続けることに終始した。とはいえ、やはり京都の抱えた寺社や信仰の強大さは過剰なほど蓄積されていて、圧倒された。極端なものを見ると、他の物を見るときに比較する物差しになる。「みんな遠くへ旅に出たがるが、近くの物をよくみて、ものさしを作ってから外へ出なさい」というのも大学の恩師の言葉だった。やはり、文化や歴史を考える上で京都は避けては通れない極北かつ王道で、あらゆる意味で、僕に基準を作ってくれた街だ。1000年も都が置かれていただけあって、歴史の長さも日本随一であるし、空襲にも遭わなかったために、あまりに多くの史跡がある。それでも、古い街並みを縫うようにしながら経済的に発展して、現代の都市を目指そうとする意思と、周囲の持つ歴史の街へのイメージと期待が毛細血管のように時空を交錯し、紐解く気すら失なわせる。ただ、何をしにきたか、何をすべきかも分からない身としては、混沌とした街を、異邦人として眺めるしかなかった。

 愛宕神社に登った日は台風で、後でそのことを智史さんのご家族に話すと「なんでそんな修行みたいなことしとんのや」と呆れられた。それはそれで、何かの修行の一環だったのかも知れない。やや逸れてはいたものの、強力な低気圧が吹きつける風と大粒の雨に打たれながら山を降りるとき、霞んだ視界の中で、大学の卒業制作のこと、漫画の担当さんのこと、芳弘さんの語っていたことがぐるぐると頭の中を巡っていた。

標高924mの愛宕山頂に祀られている愛宕神社(京都市右京区)

 ある意味で禊のように3日ほど歩き続け、智史さんの所に顔をだす頃には心身ともにブレンダーにかけられたようにフラットになってしまって、却ってけろっとしていた。「ようきた、ようきた。どや?」と、銀歯を見せながら迎えてくれる智史さんとの日々には、また全く違う京都を教えられた。


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第3回 未知と交錯の日々、京都①

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