かつて日々のくらしに欠かせなかった箒は、電気掃除機の普及とともに需要が低迷し、全国各地の産地は壊滅状態に陥った。ところが近年、電気に頼りすぎないライフスタイルを志向する人、地域の伝統文化や地場産業に価値を見出す人が徐々に増え、職人が手編みした昔ながらの箒への関心が高まりつつある。
なかでも、神奈川県北部の愛川町では、一度途絶えた旧中津村の箒づくりを生業として復活させる取り組みが進む。その立役者として活躍し、伝統を受け継ぎながら作家性の高い作品も手がける筆者は、美術的アプローチにより社会にコミットするという信条の持ち主。いま注目のつくり手が、仕事を通して目指す“ものづくり”と社会の姿とは――。

第2回 記録と娯楽

 武蔵野美術大学での卒業制作のタイトルは「記録と娯楽」だった。「あらゆる表現は、作者の思想を社会に残すという意味の記録、そして人を魅了する娯楽の2項に分けられる」という、いま振り返っても我ながら大胆な説を展開した。テーマは共同体。東海道を自転車で旅し、撮影した銀塩プリントを記録とする一方、大衆的なメディアとして「帰る家」をテーマとした漫画を、一冊の本として製本し、物体として、自作の藁靴や釜敷き、笠などの藁細工を加えたインスタレーション、という何ともまとまりのない展示をした。

自作した藁細工(右)と漫画「記録と娯楽 ー娯楽編ー」(左)
東海道を自転車で旅しながら、共同体の風景を写真で記録
漫画は後に「ちばてつや賞」佳作を受賞

 前回触れたコンセプチュアル・アートの先駆者ジョセフ・コスースを拗らせたような話だし、シニフィアン・シニフィエを誤用したような作品だとも思う。何でもありの学科だったとはいえ、こんなにややこしい話を理解しようとしてくれた人は一人もいなかっただろうけれど、今でもこの視点は否定しきれないでいる。作り手としてものの歴史や技術、思考を伝えていくことは見方を変えれば時代への「記録」行為とも言える。一方、伝えたいことが同じでも、表現方法の在り方によって、作品の伝わり方は大きく変わる。受け手にとってエンターテインメントにも禅問答にもなることもあるだろう。つまり表象の的確さは、内容と密接な関係にある。それは話すときの声や、身振り手振りでもそうであれば、ダンスでも、絵画でも、もちろん工芸でも同様のことが言える。

 もういまでは記録や娯楽という言い方はしないけれど後述するように、この二極を行き来することで、自分の生き方を基礎づけることができたと、思い返すこともある。何に着目し、何を伝え、何を残していくか。それらを、相手に心地よく届く形でどう表現していくかということは、追い続けなくてはいけない問題のように思う。 

人を傷つけないために

 外れの外れにいながらも、無事大学を卒業できた僕は、やはり民衆の歴史を紐解くことにこそ、社会や自身を取りまく問題の答えがあると信じていた。途方もなく大きな工場やシステムで過剰に大量生産され、オートマティックに運ばれてくる商品、それに伴う環境破壊、先の見えない消費の繰り返しと変化に基づいた都市の暮らしには不安を感じていて、沼の上に立っている心地で生きていた。もちろん、ゴミや石油、二酸化炭素、労働など、あらゆる問題は1つ1つ解決へ近づけていけることも今は知っている。けれど、当時はそんな長いスパンで考える体力も、想像力もなかったのだと思う。

 早々に、現行の資本主義や政治に希望なんてないと思っていた僕は、大学3年の頃には就活と呼ばれるものと縁を切っていた。そして、社会が少しでも安泰に近づく、せめて人を傷つけずに暮らせる方法を考えるために、大学の民俗資料室でアルバイトを続けることにした。

 人は何故、移動するために地球を汚さなくてはならないのか。何故、あらゆる食べ物をプラスチックに包まなくてはならないのか。何故、Tシャツ1枚のために、海外の労働者を酷使して、船で運んで来ないといけないのか。目の前の1杯のコーヒーのために豆を作った人の子どもは、きちんと学校に行けているだろうか。どこまでも疑問は尽きない。本来、それらのリスクを回避する選択肢はたくさんあったはずだし、おそらくそれらへの警鐘や予兆も少なくなかったはずだけれど、人はそれを選ばなかった。何故なのか。どんなメリットのため、人は多くのものを手放したのか。興味は尽きなかったし、それを知ることなしに幸せに生きられる気がしなかった。このようになる前の時代の人達は、みんな不幸だったのかと言えば、そんなはずもない。だとしたら僕達は、時代が進むごとに豊かになり、幸せになり、問題を解決し続けているのか? それも違う気がした。

 そんな揺らぎの中で幸せを探せるほど、僕は強い人間にはなれていなかった。だからこそ、暮らしの成り立ちと起源を知るために、罪滅ぼしのように埃っぽい民俗資料室に居続けることを選んだ。そこは未知なる世界が溢れていて、希望に満ちた場所でもあった。その場所にいれば、巨大な吹き抜けと天窓がある大学図書館のホールと、真っ白過ぎるほどの新しい資料室を駆使して開かれる、痺れるような民俗資料の展示に携わることができた。それらの背景や意味を仔細に学び、資料に触れ、人に伝わるよう展示までできる。言い換えれば最高の「記録」仕事がそこにあった。自然や伝承、神話と共に生きる人々の在り方は全てが必然で、あまりに美しいものだった。

 忘れられない資料もたくさんある。四国の辺りで、正月に獅子舞の代わりに恵比寿様の人形が家々に回ってくるという風習があって、その人形が展示されていた。古びた人形には何とも言えない奇怪さと、おかしみがあって、見ているだけで取り込まれるような気持ちだった。それが、人のいない道を人形回しに操られて跳ねるように歩いて行く姿を映像で見たときは、幻想的というよりは、現実の方がまやかしなのではないかと思わされてしまうほどだった。

 沖縄の焼物も忘れがたい。米軍に占領されていた頃、飯が足りんと威張り散らしていた米兵がいた。大きな素焼きのボウルを見つけるなり「いい器があるじゃないか」とご満悦で米を盛って使ったというが、実はそれは女性の生理用品洗濯専用のボウルだった、という笑い話つきだった。けれど、本当に壊滅的なまでに故郷と家族を殺された沖縄の人々にとって、それは笑い話だけで終わらせられるはずがなく、悲劇は続いていたのだと思う。

 物はあまりに饒舌で、歴史や信仰や時代背景、当時の人々の生き方、知恵と苦悩を全て集約したものであるように思えた。歴史を掘り下げることで、過去の知恵と美しい暮らしとは何かを考えることができる。物や出来事が溢れ、どんどん打ち捨てられ、軽薄になっていく世界の中で、これらに携わるだけでも、社会を少しよくできる気がした。

はじめての箒

 そうして日々、嬉々として働く中、箒の資料を集めた展示会があった。農家の農閑期の仕事として、藁細工や養蚕の研究は多くされているのだけれど、箒の研究は驚くほど少ない。そんな中、かつて神奈川県愛甲郡旧中津村で箒の卸製造を営んでいた柳川商店の後継であり、箒作りを再興しようと株式会社まちづくり山上を立ち上げた代表が、大学院の学芸員過程にいたこともあり企画されたのがその展示会だった。そこにはかつての中津の箒を始め、国内各地の箒と資料が展示されていた。資料室付属の小さなスペースでの展示だったけれど、資料室スタッフの皆さんも楽しそうにしていたのをよく覚えている。もちろん、箒の資料をまとめて見るのは、初めてだった。運命的な出会いといきたいところだけれど実は、そこで一目で恋に落ちたとか、職人になろうと決めた訳ではなかった。何か言葉にならない取っかかりを感じつつも、ただ、綺麗なもんだなぁというくらいだったかもしれない。

武蔵野美術大学民俗資料ギャラリーでの展示「箒ノ世界」(2007年6月) 提供:船川朗博
柳川直子さん(現・株式会社まちづくり山上 代表)や元職人が協力し、中津箒を中心とする展示やワークショップが行われた。提供:船川朗博
ワークショップに参加し、後に師匠となる柳川芳弘さんより手ほどきを受ける筆者。提供:船川朗博
ワークショップで初めてつくった小箒

 その時のワークショップに、後に師匠となる柳川芳弘さんがいた。従来の箒は荒物などといって粗野なものとして扱われることも少なくない道具だったが、かつて中津の柳川商店からのれん分けされ京都支店を任された職人の息子である芳弘さんはとても腕がよかった。中津の本店が昭和後半に看板を降ろしたあとにも独自の研究と研鑽を重ね、細やかで繊細な作り、意匠もクリエイティブで、工芸的とも言える、従来の箒と一線を画するものを作っていた。それに優しく、とてもフランクないいおじちゃんだった。手のひらサイズの箒の編みを体験するワークショップを受けながら「楽しいですねぇ」なんて話していたら、「教わりに来るか?」なんて言うので、「行きます行きます!」と、民俗調査のノリで数週間、芳弘さんの住む京都へ遊びに行ってしまった(その京都滞在の顛末は、また次回以降)。

全てを切りすて残ったものは

 そうして、あれよあれよという間に箒の技術を学び、職人の道へ…という道筋であれば、もう少し分かりやすかった。けれど、ここまで来ても決断力のなかった僕がたった1つの道を選ぶには、何となくフィットする、ではなく、その他の可能性を全て否定する必要があった。世界にある、全ての可能性を検証することは不可能に近い。けれど、選びうる可能性の極北と極北を繋げば、実現しうる世界の概観を把握できるとは考えていた。

 その1つは、研究。つまりは卒業制作の際のテーマである「記録」を突き詰めるため、民俗や文化の研究の道に進むことだ。実は、民俗の先生についていった学会での繋がりもあり、ごく短い期間だけれど民俗関係の研究所に入れてもらったことがあった。旅する巨人と呼ばれた民俗学者、宮本常一の教え子の設立した、由緒ある研究所だ。調査は素晴らしかった。曲げわっぱ、漆、野鍛冶、桶、和紙。貴重で素朴な仕事をするさまざまな作り手を訪ねることは魅力的で、土地と歴史に強く根付いた生き様は美しいものだった。目まぐるしく出会う輝きに触れ、その素晴らしさ故に、悲しくなることもあった。こんなに素晴らしいものが埋もれているとは! いつ多くの人に知ってもらえるだろう。早くしないとなくなってしまう。

 暮らしの形を考え、社会を変えていくことはとても時間がかかるとはいえ、素晴らしい資料を山ほど抱えて、それらが一部の専門家や、学会の人達の目にしか触れられない資料になってしまうことを切なく思った。本当は、社会に対して建設的で実効性の高い提案をしようとするならば、学会や政府に訴えかけて、政治的に進めていくことが確実で早道なのかも知れないけれど、自分自身に、そこまでの長いプランを考える能力も、辛抱強さもなかった。人間関係で上手く行かなかったこともあったけれど、その研究所は早々に辞めてしまった。

 「記録」の対岸にはもう一つの卒業制作のテーマである「娯楽」の道があった。例えば、個別のテーマを深く掘り下げ、専門家や研究者へ向けて厳密に伝えるやり方があるとすれば、その対極にあるのが、「娯楽」だ。メッセージは単純でも、幅広く、分かりやすく伝えることができる。幅広い人に届ける方法があり、それが「娯楽」だと考えた。

 表現に関する基本的な考え方は、今でも変わらない。複雑で難しい話を人に訴えることも大切だけれど、必ずしも高度な話をする必要はない。実は「人を傷つけてはいけない」とか「自然を大切にしなくてはいけない」などのありふれたメッセージでも、多くの人に心から理解してもらえるならば、それで充分なんじゃないか。政治や歴史のことは分からなくても「人は殴られたら痛い」ということを世界中の人が本当に知っていたら、戦争なんて起こらないはずだ。何も考えずに、ただ楽しむのが娯楽だ、という反論もあるかも知れないけれど「コンセプト」という考えに一度触れてしまった人は、表現が必ず伴う「指示内容」(シニフィエ)を、完全に忘れることはできない。何かとコミュニケーションを取る限り、それら全ての行為には社会を変える何らかの効果とメッセージがある。

 娯楽には様々なバリエーションがあるけれど、自身でコントロール可能で、恒久性が高く、環境負荷が少ない娯楽は漫画だと考えていた。これは現在もプロフィールに書いて、世間話の種に使わせてもらっているけれど、実は卒業制作で描いた漫画をダメ元で応募したところ、講談社のちばてつや賞佳作、というものを貰って、担当編集者まで付いていたのだった。

 大学4年間、学科に居場所も見つけられず、追い詰められた気になっていた僕は必死でネームを描いて、担当さんへ持ち込んだ。アシスタント応募用に背景も描いた。プロアマ問わず、作画のアベレージは年々上がっていて、今ではそうでもないかも知れないけれど、当時は意外と、美大生の前提スキルであるパースや三点透視法の取れていない背景も少なくなかった。さらに、面でなく線で描写するという、他学科から一目で彫刻科だとバレてしまう彫刻学科生の悪癖のようなデッサン法はペン画と相性が悪くなかったらしい。担当さんはあっさりとアシスタントの口を紹介してくれて、面接に行くことになってしまった。就活をしたことがなかった僕にとってほとんど初めての面接で、これで人生が決まってしまうかも知れない…と、酷く緊張していたことを覚えている。民具への道を閉ざしてしまうかも知れないという未練も大きくあったので、面接の前に、一度自分の気持ちを確かめることにした。

 それは、箒をもう一度見てみることだった。明らかに道が用意されているのに未だためらっていたのは、おそらく芳弘さんの箒がトゲのように、心に刺さっていたからだと思う。そこで選んだ方法は、美しいと思った芳弘さんの箒ではなく、都内の老舗と呼ばれる箒屋へ立ち寄ることだった。ビル街にぽつんと、取り残されたようにある一角。扉をくぐると、中には重厚な梁や柱が張り巡らされていて、壁面に溢れるほどの箒が下げてあった。見て、触って、確かめる。しっかりしているけれど、やはり、芳弘さんの箒の方が美しいと思った。あの人の仕事は、後世に残すべきだ。そう思った。

 参考のために適当な箒を一本購入して、リュックに挿した。背中から箒の柄の飛び出した、何とも言えない姿で漫画家さんの面接に行き、事情を説明して、アシスタントの件は断ってしまった。失礼な対応をされたはずの漫画家さんは、若いねぇ、と笑って許してくれたけれど、面接に同席してくれた初対面の編集さんはカンカンだった。編集部の皆さんは良い人ばかりだったので、関係を悪くしてしまって本当に申し訳ないと思いつつも、鮮やかなほどに退路が絶たれた僕に迷いはなく、帰ってすぐ芳弘さんに「箒を教えてほしい」と、電話をしたのだった。いま思えば、作ったものを見せただけで人の人生を変えてしまったのだから、やはりすごい箒なんだと思う。

 当時は、賞をもらって担当がついて、仕事にまでなりそうだった話を蹴ってしまってもったいないということは周りにも言われたけれども、結果的には、漫画への道を選ばなくて良かったと思っている。表現に何かしらのメッセージを持たせるということは、芸術活動においては実は危ういと、今から思い返しても強く思う。芸術は、有名な例では戦時のプロパガンダに利用されていたり、あまりに強すぎる権力者と宗教を、より強化するためにも使われてきた。その後に民衆が勝ち取った表現の自由、思想の自由は、人類の闇の歴史の上に実った、絶対に守るべき果実。だからこそ、何かのための芸術には過敏でなくてはならない。表現の中立性を守ることは人類最後の砦なので、芸術を何かに利用してやろうという邪心は恐ろしいし、その力は、きっとろくなことにならなかっただろうと思う。芸術は毒でも薬でもあり、あまりに強い。当時の心境を考えると、そこは引き返すべき道であったと、今となっては思う。

 当時の面接現場には、キャリア何十年のベテランのアシスタントさんもいた。その人は望んでプロのアシスタントになっているのかも知れないけれど、その姿から、自分がアシスタントになって、何十年も芽が出ないことも想像した。もしデビューして、漫画が1万部売れるとしたら、デビューするまでにかかるかも知れない時間に1万本の箒を作って人に渡す方が確実だとも思った。あのとき、漫画を選んでいたら、もっと早く世の中に何かを伝えられたかも知れないと、頭をよぎることもあるけれど、迷惑をかけた皆さんを思い出すので、あまり考えないようにしている。

 そうして「記録」と「娯楽」を巡って散々遠回りした僕は、自らを「記録」の依り代にしながら人に「美しいもの」を伝えることができる作り手の道をみつけた。その後、訪れることになる芳弘さんが住んでいたのは京都。盆地ゆえに苛酷な暑さのその土地は、沸き立つ熱気の中に歴史と空想、慣習と無秩序、さまざまなものを一緒くたに煮込んでいるような街だった。二の足を踏んでいたら、立ち止まっていたかも知れないけれど、当時何も考えずに飛び込めたことは幸いだった。ろくに番号を確認もせずかけた電話先の芳弘さんは、拍子抜けするほど優しく、気さくだった。


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第2回 記録と娯楽

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