かつて日々のくらしに欠かせなかった箒は、電気掃除機の普及とともに需要が低迷し、全国各地の産地は壊滅状態に陥った。ところが近年、電気に頼りすぎないライフスタイルを志向する人、地域の伝統文化や地場産業に価値を見出す人が徐々に増え、職人が手編みした昔ながらの箒への関心が高まりつつある。
なかでも、神奈川県北部の愛川町では、一度途絶えた旧中津村の箒づくりを生業として復活させる取り組みが進む。その立役者として活躍し、伝統を受け継ぎながら作家性の高い作品も手がける筆者は、美術的アプローチにより社会にコミットするという信条の持ち主。いま注目のつくり手が、仕事を通して目指す“ものづくり”と社会の姿とは――。
第1回 からっぽから根が生えるまで
光なんて、無いと思っていたはずなのに。いつからか、手を動かすことは眩いものに触れることだと信じるようになった。道の途中で、ほとんどのものは失くしてしまったけれど、1つだけ、選ばれたかのように残ったもの。そこに、箒があった。柔らかなゆらぎにおそるおそる触れるうち、その灯を繋ぎたい、という願いは確信に変わった。眩い光はやがて自分自身も強く照らしてくれるようになっていく。
元々、何かを作ったり、ましてや何かを表現する気もなかった。「覇気がない」。小学校の通知表にもそう書かれていた。家庭は恵まれていた方だと思う。生活に困ったこともなかったし、学校の成績もそこそこだった。ないものと言えば友達ぐらい。ただ、問題がないだけで、別に楽しいこともなかった。それでも年々、身体の表面はどんどん細胞分裂を繰り返し、肥大化し、分厚くなっていく。その内部には大きな空洞が渦巻いていて、日に日に闇を深くしていくようだった。
いつも闇を抱えて歩いていても、それが普通だと思っているので不安にはならなかった。ただ、誰にでも明るく振る舞う女子だったり、学校行事に前向きな成績トップランカー、クラスの注目を集める運動部のエース達は別の生物みたいだった。単純に、何を考えているのか分からなくて怖い。あそこには足を踏み入れたくない。だから、そんな人達が優秀とされる学校のシステムも好きではなかった。もちろん、それで何か困るわけではないし、突っ張るほどの気概も自己顕示欲もない。生粋の空洞だった。
そんなことをいま振り返っても、なんでからっぽだったのかは分からない。けれどおそらく、僕は真っ当な子どもだったはずだ。環境に適応するべく、カメレオンのように色を変えて社会の一部になる。それが子どもの本能。僕の育った東京西部はあまりにフラットだったのだと思う。どこまで行ってもチェーン店のスーパーで、同じような家が建っていて、個人店はほとんどない。近所の知り合いなんていない。斜め向かいのアパートにいた、いつも酔っ払っているおじさんが一度、コーヒー牛乳をくれたことがある。持ち帰ると母に、捨てたら?と渋い顔をされたことが唯一のご近所の思い出だ。気温もエアコンで均質化されて、本屋といえば某古本チェーン店になってしまっていた。
部活に打ち込んだこともなかった。本も一切読まなかった。友達もあまり作らなかった。暇だとも忙しいとも思わなかった。単純作業を繰り返すようなテレビゲームだけで夏休みを過ごした。何も取り入れないのだから、空っぽに育つのは当たり前だとも言える。
世の中をいいとも悪いとも思わず、毒も薬もなければ、純粋でプレーンな人間に育つかといえば、そうでもないらしい。世間では不景気だとか不穏な事件、不都合な真実や、バッドニュースがコップの淵から溢れ出している。風は冷たくて鋭くて、知らないうちに表皮を削り、身体も心も摩耗して、気付くと暗いものばかり見つめていた。
当時好んでいたのはビジュアル系バンドや、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のような映画。本は一冊も読んでこなかったのに、太宰治だけ全巻読破した。破滅だけに救いを求める、ある意味で王道の中2だった。
青空のマルス
自分が変わった考え方を持っていたとは今でも思っていない。今だって「世界は問題なくバラ色だ」なんて思える人はいないはずだ。闇を忘れられるだけの、現実逃避の手段を持っているか持っていないかの違いだと思っていた。
そんな折、高校生になって、何の気なしに美術部に入った。人と話すのは苦手だった。目を合わせたくないから、前髪はいつも長く顔を覆っていた頃だったけれど、一人でものを作るのはいい、と思った。何をしようと誰も言い返してこないし、そもそも放課後の美術室に入ってくる人なんていない。誰も僕を見ていないことが幸せだった。たった一人で使うには広すぎる美術室は、巨大なおもちゃ箱で、自分だけの王国だった。
1年生の期間の半分は、ひたすら石膏像「マルス」の木炭デッサンをした。マルス。マルス。マルス。ギリシャ神話の軍神マルスを知らない美大生はいない。ふっくらとしてなめらかな大胸筋、太く、するりと伸びた首は少し傾き、憂鬱な瞳を美術室のビニール床にひたと落としている。来る日も来る日も、描いた。放課後の扉をガラガラと開けると、青々と広がる空を背負い、マルスはいつも窓際に待っていた。中が空洞で壊れやすいその石膏像を両腕でそっと抱きかかえて、いそいそと机の上に置く時、教室はマルスの風で満たされる。それが意外かどうかは分からないけれど、美術の関係者はあまり「美しい」なんて言葉は使わない。あるのは、弾けるくらいの情熱。止められない憧れ。絶対的な強さに触れてしまった歓喜だけだ。
当時のギリシャでは、鍛え上げられた肉体こそが美とされていて、その象徴として美しい造形を神がまとっていた。そんなことを高校生の僕が知るはずもなかったのだけれど、根っこのなかった少年が、2500年近く昔の、絶対的な美に触れてしまう。これだけでも、表現の自由や芸術を守る理由としては充分だと今でも思う。
これは40年以上アマゾンの奥地に通い続けた大学の恩師の言葉を借りているけれど、若者に必要なのは恋をすることだ。恋をすることは、自分の全霊をぶつけることで、それを拒否されることで、世界を相手に支配されることで、その他の世界すべてを知ることだ。好きなものがある場所へ行きたい。知りたい。1つになりたい。僕にとってのそれは遥か昔の彫刻家の、数え切れないほど繰り返されたコピーのコピーの量産品の石膏像だった。けれど、それは間違いなく世界に繋がる窓口だった。
ネットミームでよく語られるニーチェの言葉ではないけれど「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」とあるように、何かを見ることは、そのものから自らを問われることであり、何かを語るときには、自身が何者かを問われることになる。自らがどのような視点、位置に立って発言しているのか。これは評論でも、美術でも、あらゆる分野で必須のことだ。
マルスを描き終えて、自由に作品を作り始めた僕は、何だか暗い絵や彫刻ばかり作っていた。つまり、お前は何を考えている? 何が問題なんだ? と、自らの作品に問われ続けることになる。何者かになりたいとも思わないけれど、何かが歪んでいることぐらいは分かっていた。その根底にあるものは、自らを形づくってきた世界や環境に対する憤りだったのだと思う。
ここで問われること―What’s your concept?
”What’s your concept?”
これは、ある展示会で、実際に外国のお客さんに聞かれた言葉だ。展示物をちらりと見るなり、発せられたその言葉は、日本人からしたら無遠慮な印象を持つ人がいるかも知れない。けれど、アートへの向き合い方としてはすごく真っ当で、素朴な反応だ。
言語学者のフェルディナン・ド・ソシュールが、「シニフィアン」「シニフィエ」として、記号の表現と記号の指示する内容を区別することを提示したのが1928年。美術家のジョゼフ・コスースが、椅子と椅子の写真、椅子の説明文を展示することで、表現の表象と指し示すものの関係性を作品としたのが1965年。作品の外見と、それが示す意味、コンセプトは異なるという考え方は脈々と続いている。美術やデザインは視覚的に美しいもので、それのみが主眼だと思っているとしたらそれは間違いだ。外見を窓口としてコンセプト、つまり、表現したものが何を意味するか、どのような関係性や効果があるものかを考慮することは、もはや表現や活動に関するマナーと言ってもいいだろう。
また、美術は高尚で不変の文化、と考えるのは世間の勘違いで、近代以降の美術は常に社会や制度に問題を提起し、抗い、変化を起こし続けてきた。つまり、作品を通して自らを語ることは、社会について語り、それを変えていくことだと、僕は美術史に触れる中で知ることになる。そして、その方向性と意味を、明解な形にすることが美術に携わるということだった。
そのように、自らの陰りに向かい合うことはそれらを作り出した社会、環境に向かい合うこと。それらを形にすることは、その問題、課題に対する立ち位置を表明し、そこで何を為すかを明らかにすることでしかなかった。
お前は何者だ? 何を問題だと考える? それでどうしていきたい? これを表現者は問われ続ける。しかし実は、問題というのはやたらと広げる必要はない。例えばワンイッシューとしてジェンダーのみに焦点を当てることもあるし、個人のごく小さな原体験をモチーフにすることもある。また、彫刻の表面の問題だとか、テクスチャの問題だとか、ごく専門的な課題も作品になりうる。けれど僕は、これを表現したい!というような強い自我もない癖に、漠然とした自身の不安、社会不安に立ち向かおうとしていた。直面した道は、途方もなく長く、暗く見えた。
風呂敷は水のように
世の中にどんな問題があるだろう。我ながら馬鹿みたいな質問だと思うけれど、いくらでもあげられる。環境問題、平等、人権、政治、経済や貧困、教育、人口、食糧…風呂敷を広げれば際限はない。
「問題があるということは、答えが半分でているということだ」と、のちに好きになる吉本隆明もどこかで語っていた。問題を細かに検証していけば、答えへの筋道ができる。世界のことを知るために、初めて、学びたいと思った。そこで、武蔵野美術大学に入れたことは幸運だった。
実は、武蔵野美術大学は民俗学の大家、宮本常一が教鞭をとっていた学校で、9万点ほどの民俗資料があると言われている。「歴史は、これまでのことと、少し先の未来を知るためにある」というのは当時民俗学を教えていた恩師の言葉だ。例えば、車の排気ガスが問題だとしたら、歴史を紐解けばその経緯は知ることができる。ガソリンエンジンの発明、流通インフラの発達、消費やライフスタイルの変化を知りながら、現在の立ち位置を教えてくれるのが歴史だ。江戸時代はエコだったとか、懐古主義のようなことを言うのは簡単だけれど、近世、近代の過酷さ、人々がどれほど望んで現代の暮らしを獲得したかは充分に考えなくてはならない。民俗学は、国史よりも、郷土や地域の民衆の生活に重きを置いた学問。常に、現場に足を運びながら、弱い立場に立つスタンスも大きな魅力だった。
おそらく、世の中にはびこる諸問題に、全員が納得する答えを出すことは難しい。ナチュラルに暮らしたい人もいれば、都会で便利に暮らしたい人もいる。目一杯働くことに生きがいを感じる人もいれば、プライベートの時間が多いほど幸せな人もいる。問題はどこまでも広がり、掴もうとすればするする形を変えて増えていく。これも現実なのだと思う。
とにかく、人の暮らしを紐解くために地域を旅しては生業や歴史、精神史を学ぼうとした。その傍ら打ち込んだサークルでは、田舎の子どもたちと一緒に、薪で暮らしながら遊び、生活をして、近隣の人々の知恵と経験に驚かされた。また、探検家の教授からは日本だけでなく、世界の発展途上国での暮らしやその豊かさについて学ぶことができた。先人達は現代から見れば貧しく、厳しい暮らしをしていたかも知れない。けれど、ろくな動力もなしに家を建て、服を作り、食料を生産し、生き延びてきた。それらは力強く、土地の特性や歴史と必然的に結びつき、文化としか言えないものを育んできた。そういった知恵と美しさは、まだ僕らの手元にあるのだろうか?
民俗学の先生は、単線的な進化論を否定していた。機械や道具を手にするほど偉く、進歩しているわけじゃない。自然に近い暮らしには、自然に近い暮らしなりの知恵と文化がある。むしろ、コンビニで買うことしか知らない僕たちの方が遥かに世界に対して無知なことは明らかだと感じていた。
外れた先に伸びた道
入学した学科は彫刻学科だったけれど、現代美術において、彫刻卒だからといって木や石を彫るだけのアーティストばかりではない。そこでは、何を表現するかが大切で、あまり表現手法は問われなかった。中でも武蔵野美術大学は、輪をかけてその壁が薄かったように思う。彫刻学科でも絵を描くもの、音楽を作るもの、インスタレーションなど、様々な方法を模索する生徒がいたが、その中でも僕はレールを外れてしまっていた。
しかし実は、美術に限らないことだけれど、何でもアリだからといって本当に何でもアリになっては、全てのジャンルや意味が瓦解して何もなくなってしまう。自由とか、革命児とか言われている人ほどそのカテゴリのルールには敏感で、その仕組みをきちんと熟知して破壊している人の方が多い。型を知らなければ、型破りではなく、型無しだ。ただ、当時の僕は、アメリカ中心のマネーゲームをはじめとする巨大な資本そのものに対抗する意識があり、美術のルールに反発を抱いていた。
これは後に知ることだけれど、民俗と近接した領域にある民藝の考え方は、美術とは歴史的に真逆のベクトルを歩んでいる。美術に懐疑的になってしまった理由も、今となっては分からなくはない。
「美術」という概念は、明治維新以降に輸入されたもので、西洋美術、つまりは貴族文化を出発点にしている。対して民俗は一般の民衆や場合によっては貧しいものを尊重する。民衆の素朴な表現や在り方にすっかり魅入られていた僕は、美術の在り方自体に辟易するには充分な、民俗のメガネを持って大学を卒業することになった。
常識や王道を疑うことは、芸術の基本であるかも知れないし、学問でもそうかも知れない。けれど、町の外れにあるような神社や資料ばかり追いかけていた僕は、端へ端へと寄っていく。しかしどんどん世間から離れていくはずなのに、何故か核心へ近づいている実感もどこかにはあった。それはやはり、時代と抗い続けてきた民俗学者達や、偉大な探検家の先達の影が、背中を押してくれていたからだと思う。村外れの山道を一人で歩きながら初めて「一人じゃない」と、噛みしめていたのだ。
【編集部より:筆者との協議により、第1回タイトルを「からっぽから根が生えるまで①」から「からっぽから根が生えるまで」に変更いたしました。2022年10月6日修正】