東京・杉並の住宅街にある「okatteにしおぎ」は、“食”を中心に据えた会員制のコモンスペースだ。明るく広々とした土間のキッチンとダイニング、ゴロンとくつろげる畳スペースや板の間は、メンバー同士がシェアする「自宅外キッチン&リビング」。ごはんをつくる、一緒に食べる、小商いの仕込みをするなど、思い思いに活用しながら「みんなの“お勝手”」を共に育んでいる。
メンバーの自主的な企画や運営により「まちのコモンズ(共有地)」が形成されていったプロセスをオーナーが振り返りつつ、この場所が生み出す価値を考察する。
第1話 okatteにしおぎ誕生前夜 私の家の話
私は東京都杉並区にある「食」をテーマとした会員制パブリック・コモンキッチン/スペース&シェアハウス「okatteにしおぎ(以下okatte)」のオーナーをしている。okatteになる前、ここは私が家族と暮らす家だった。
現在、ここはokatteメンバーと呼ばれる会員が使いあう家だ。okatteメンバーは「勝手に」家の鍵を開けて出入りし、広い土間のキッチンでご飯を作って食べたり、板の間や畳のスペースを自由に使うことができる。コーディネーターのサポートを受けながら自分たちで運営管理も行う。okatteは2022年の春7周年を迎え、東京の片隅にある小さなコモンズ(共有地)としてメンバーやオーナーとともに育っている。
この連載では、okatteのそもそもの成り立ちと、小さなコモンズの存在がこれからの社会で果たす役割について書いていこうと思っている。
今回は、還暦を迎えようとしていた私が、なぜokatteをつくることになったのか、そのきっかけである「家」の話。
家をどうするか
家のことについて考え始めたのはいつごろだろうか。
今はokatteにしおぎとなった家は、もともと母方の祖父母と母が終戦直後から住んでいた家だ。母は父と結婚後、徒歩10分ほどの場所に住み、私と6歳違いの妹が生まれたが、母がお出かけ好きだったこともあって、私はよく祖母に預けられていた。祖父母の家は広い玄関の横に洋間の応接間、反対側に2畳の部屋があり、8畳と6畳の2間続きの和室、茶の間が東西に並び、北東の奥にお勝手(台所)がある平屋建ての家だった。和室の南側は縁側で、その前に芝生の庭があり、祖父母が丹精込めた庭木やバラ、草花があった。
おばあちゃん子の私は、祖母がお勝手で梅干しや白菜をつけたりお彼岸のおはぎを作ったり、庭で洗い張りや障子の張り替えをしたりするのを、ほとんど邪魔しながら自分は手伝っているつもりになっていた。昭和30年代当時、親は子供を厳しくしつけるのが当たり前の時代で、私は母といるといつも顔色をみなければならず気が休まらなかったのだが、祖父母の家に行くと甘やかしてもらえるので、私にとって「おばあちゃん家」は天国だったのだ。
高校の時に祖父母の家をリフォームして三世代同居となった数年後、私は結婚して家を出た。2人の子どもが生まれ、共働きで小さなマーケティング会社を経営していた私たちは両親に子どもの世話を頼むことも多く、それなら同居のほうが都合がよいと、1997年に3世帯住宅に建て替えた。その家が今のokatteの元になる建物である。
多い時は8人で暮らしていたこの家だが、2005年に夫が亡くなり、その後祖父母も亡くなり、父は施設に入った(2020年死去)。長女は独立し、80代の母と私と次女の3人だけが暮らす家になった。次女もそのうち出ていき、母が亡くなれば私はこの家に一人になり、何度目かの相続も発生する可能性が高い。そうなったら、この家はどうなるのか。いや、そうなる前になんとかする必要があるのではないか、そう考え始めたのは2013年のことだった。
家をどうするか、ということで、まず相談に行った銀行では相続対策と土地活用ということで、家を半分壊してアパートを建てることを薦められた。住宅メーカーの高級賃貸住宅のパンフレットを渡され、土地を担保に数千万円お貸ししますという。銀行系列の不動産会社が一括借り上げ(サブリース)で家賃保証契約もするので、空き室の心配もいらないし、家賃収入と返済の差額で毎月利益が出るというのだ。なるほど、こうやって人はアパートを建てるのかと思った。
ただ、アパートは10年もすれば設備や内装が古くなり、家賃を下げないと空室が出てしまうだろう。家賃保証といっても金額が変わらないわけではなく、契約期間ごとに見直しが行われるため、空室が増えれば契約更改の際家賃が下がり全体の賃料収入が減る可能性は高い。その一方で家主が銀行に対して払う毎月の借入返済額は変わらない。たとえば35年ローンで銀行が提案しただけの借入をしてアパートを建ててしまったら、将来的には利益どころか赤字になり、資金繰りに行き詰まって土地を手放すことになるのでは?という疑問が湧いてくる。
お金の問題だけではない。アパートというのは見知らぬ人が入居しては何年かで退去、の繰り返しだ。家主と住人の間に管理会社が入るとなれば、両者の間には面倒もない代わり、貸し手と借り手という金銭関係以外ほとんどなんのつながりもない。それもなんだかおもしろくないと思った。
考えてみると、私は経済的利益のためだけに「不動産活用」をしたいわけではなかった。千坪単位の敷地があるなら「不動産活用」事業もできるだろう。近所の元農家の地主さんで小規模ながらすてきな「まちづくり」「コミュニティづくり」をしている人もいる。しかし今住んでいる自宅を「活用」といってもたかが知れている。しかも相続が発生すれば、結局売却ということにもなりかねない。家自体もある程度年数が経ったとはいえまだ健在で、夫といっしょにいろいろ考えて作った家なので思い入れもあり、壊してしまう気にはなれない。では、どうしたいのか? 私は考え込んでいた。
家を開く?
そのころ、漠然と考えていたのは「下宿の大家さん」だった。自宅を下宿屋(シェアハウス)にして、そこの大家さんになったらおもしろいかもしれない。当時、自分の会社の若い社員の一人が自宅を出てシェアハウスで暮らし始めたのだが、彼女が話すシェアハウスの生活は、それぞれのプライベートは尊重しつつ、共用のキッチンやダイニングで気軽におしゃべりをしたり、具合が悪い時に誰かが食べ物を部屋に届けてくれたりと、なかなか楽しそうだった。(その後その社員はシェアハウスの仲間の一人と結婚し、今は共有のテラスと庭のある集合住宅で他の住人家族との共同生活を楽しんでいる。)
「ひつじ不動産」というシェアハウスの情報サイトを見ると、おしゃれで住人同士のコミュニティもしっかりしているシェアハウスが紹介されていて、とても魅力的だった。もちろん管理にはそれなりに気を使いそうだが、あまり規模を大きくせず、他人とトラブルを起こさずつきあえる人に入居してもらえばよいのではないか。
もう一つ、関心を持ったのは家を近所に開くということで、これはそのころ読んだアサダワタル『住み開き 家から始めるコミュニティ』(筑摩書房 2012)という本に触発された。
「住み開き」はアサダの造語で、「自宅を代表としたプライベートな生活空間、もしくは個人事務所などを、本来の用途以外のクリエイティブな手法で、セミパブリックなスペースとして開放している活動、もしくはその拠点のこと」を指す(アサダ2009 「住み開きとは!?」)。この本には、自宅の一部をサロン、博物館、ギャラリー、劇場等として開放している例が数多く紹介されていて、アサダは本の「はじめに」でこんなことを書いている。
みな様々な理由で開いているが、基本的に共通している点がある。それは、無理せず自分のできる範囲で自分の好きなことをきっかけにちょっとだけ開いていること。これは公共施設や商売のためのお店ではなかなかできないことだ。また同時に昭和初期の地域コミュニティにあるような開きっぱなしというのともちょっと違う。とにかく「私」があらゆる条件の核になる。しかしただのエゴではない。個人宅をちょっとだけ開くことで小さなコミュニティが生まれ、自分の仕事や趣味の活動が他者へと自然にかつ確実に共有されていくのだ。そこでは無論、金の縁ではなく、血縁でもなく、もはや地縁でも会社の縁でもない、それらが有機的に絡み合う「第三の縁」が結ばれるのだ(アサダ、2012)。
この本を読むと実は自分がしてみたいと思っていたのはこんなことかもしれない、という思いがふつふつと湧き上がってきた。とはいえ、自宅そのものを街に開いてしまうのはちょっとハードルが高い。プライベートが確保できないような気もするし、そもそも私自身はそんなに社交的な方ではないし。だったら自宅ではなくシェアハウスを街に開いたらどうだろう。
東京の住宅街ではプライバシーが最重視され、家は閉じている。同じ通りに面した家同士でも、あいさつはするものの世間話をすることもあまりなく、いただきもののおすそ分けやお互いの家の訪問などほぼ皆無だ。昼間仕事で外出していると、お互いの顔もわからないありさまだ。どこかの家で頻繁に大人の怒鳴り声と子どもの泣き声が聞こえても、隣の家に救急車が来ても、基本的におたがい知らぬ顔をして、できるだけ立ち入らないのがマナーである。騒音や悪臭は直接文句を言わずに警察や区に苦情を言う。
ただ、本当に近所との付き合いがなくていいのか、ということは子どもが生まれたころからなんとなく思っており、東日本大震災によって、その思いはかなり強くなった。だからといって急に近所の人になれなれしく話しかけるわけにもいかない。もし、家を開くことができれば、近所の人とあいさつ以上の交流も少しはできるかもしれない。
私の夫は九州の出身である。結婚した次の年、親戚に結婚報告をということで、鹿児島県の志布志というところに行った。そこには夫の伯父が一人で住んでいたのだが、驚いたのは伯父が住んでいる家があまりにもあけっぴろげだったことだ。
座敷のまわりをぐるりと広い縁側が取り囲み、戸は開け放たれている。私たちが座敷で伯父と話していると、近所の人が勝手に庭に入り込み、縁側に上がって碁を打ち始めるのである。どうやら伯父の家の縁側は私設の碁会所になっているらしい。伯父は「おう、これが甥っこと嫁だ」といったことを薩摩弁で言い、こちらは「はじめまして」と頭を下げる。そういうのも悪くはないと思った。杉並区は都内でも高齢化が進み、広い家に高齢者が一人で住んでいるケースも少なくない。孤独死も決して他人ごとではない今、伯父の家のように、とはいわないまでも、東京にも少し開放的な家があってよいのではないか。
もう一つ、きっかけになったのは細田守監督の人気アニメ映画『サマーウォーズ』(2009)だった。数学オタクの都会の高校生健二は、夏休みにあこがれの先輩夏希からアルバイトを頼まれ、長野県上田市の先輩の祖母宅を訪れる。そこには27人の親戚が、室町時代から続くこの家の当主である先輩の曾祖母、陣内栄(じんのうちさかえ)の90歳の誕生日を祝うため集まっていた。そこで健二はひょんなことからデジタルの世界とリアルの世界の両方を混乱に陥れるとんでもない事件に巻き込まれ、陣内家の大家族とともに世界の危機に立ち向かう……というストーリーである。
このアニメの中で披露される陣内栄の手紙(事件の最中90歳を目前に亡くなった栄が家族にあてた手紙)の一節が東日本大震災当日のツイッターで拡散されたのだ。「いちばんいけないのはおなかがすいていることと、独りでいることだから」というその一節は、交通マヒで自宅に帰れず、職場で家族との連絡はツイッターのDMだけが頼りという状態で夜を明かさざるを得なかった私の心になぜか深く刻まれた。
そして、陣内家の茶の間のように、一番大変な時にみんなが集まってご飯を食べられる場所、職業も考え方も違う人たちが喧嘩しながらいざとなれば持てるものを出し合ってそれぞれの能力の掛け算のパワーを出せる場所があったらいいのになあという思いが、祖父母の家のお勝手の記憶や、夫の伯父の開放的すぎる家の印象とともにokatteの種になったのかもしれない。
自分の家をどうするかということだけではなく、そのころ私は自分自身の生き方にもモヤモヤとしたものを抱えていた。それは自分が携わってきた仕事に対するモヤモヤである。
私は、消費者調査や社会のトレンドリサーチを行い、その結果を分析し、企業に対して商品開発コンセプトやコミュニケーション戦略の提案資料を作成する小さな会社を40年近く経営してきた。しかし、2000年代くらいから人々の求めるもの(特に食に関して)が、企業が作るマス商品や広告とは必ずしも合致しなくなってきていると感じられるようになっていた。
たとえば「ナチュラル」志向、「手作り」志向、「共食」志向がそれである。これらをクライアントへの提案書に書き込んだ時、常に疑問に感じるのは、いったいそれをどうやって企業が実現するのかということだった。結局ナチュラル「風」、手作りの「再現」、それらを広告の「イメージ」として提示するだけで終わってしまっているのではないか。もちろんそれが悪いというのではない。企業の採算や効率を考えれば、それはいたしかたないことだし、それで市場が成立するなら、それでよしとすべきなのかもしれない。
そのように自分を納得させつつも、私自身はその乖離にだんだん心の中のモヤモヤが大きくなっていくのをどうすることもできなかった。そんな状態でマーケティングの仕事を続けていてもいいものだろうか。仕事は若い人中心にまわってきているし、マーケティングの世界でもう自分の役目は終わりつつあるのかもしれない。当時少し大きな病気をしたこともあり、年齢的にも自分が元気で活動できる時間があと10年と仮定すると、何か新たなことを始めるとしたらラストチャンスかもしれない、と思うようになっていた。
自宅をなんとかしよう!と私が動き始めたのはそうした状況に動かされてだったのである。
そんな悶々とした日々のなかでふと参加したトークイベントからokatteづくりがスタートする。次回はokatteをつくることに関わった人々との出会いの話。